哲学の科学

science of philosophy

侵略する人々(4)

2016-04-30 | yy51侵略する人々



侵略は悪であるが、侵略できる立場の人々は必ずといってよいほど、実際に侵略しています。

ただし古代から、侵略は悪だ、というモラルはあったらしく、侵略者も自分は侵略者ではない、と主張している例はよくあります。たとえばライン川を初めて越えてガリア(現フランス、ヴォージュ)を占領したゲルマン人の首領アリオウィストスは、ガリア侵略のライバルであるローマ帝国ガリア属州総督シーザーとの会見においてこう発言しています。「私はガリア側の要請にしたがってライン川を越えた。ガリアの土地はガリア人が私に譲ったものである。人質はガリア人が送って来た。戦争の勝者に敗者が貢ぐことは慣例である」(紀元前五八年 シーザー「ガリア戦記」)。
シーザーの記述によると、このゲルマン人軍団の真意はガリアの土地が肥沃で広大でありかつガリア人の武力が自分たちにかなり劣ると見たので侵略しようとしたのだ、としています。つまり弱肉強食だと非難しています。
シーザーは、ガリア人はローマの味方だから守ってあげる、という理由を掲げてゲルマンを撃退します。守ってあげることと侵略とは正反対の意味ですが、軍事活動では、それが裏表一体になるようなところもありそうです。
ローマ元老院に向かってシーザーは、ゲルマンとガリアの境界であるライン川はローマ帝国の生命線である、と言って大防衛軍を委嘱させます。この兵力が後日シーザーを帝位につかせます。シーザーの真意はどこにあったのでしょうか?
史実によると当時ピレネー山脈で採掘された大量の金がガリアに蓄積されており、それをシーザーが持ち帰ったため、ローマ帝国内の金価格は二割も下落した、とあるので、相当な上納金、戦利品、略奪による収入があったと推定されます。シーザーは、(もちろん私有財産も増やしたうえで)部下の将兵に惜しみなく報奨金や財宝を与えたので人気も士気も非常に高くなった、と自賛しています。
その後、ガリアの諸都市はローマとの交易が進み、文化的にローマ化し、商用語としてのブロークンなラテン語(Vulgar Latin)が、はじめは都市住民、数世紀後には農民に広まってガロ・ロマンス語になり現在のフランス語になりました。

興味深いことは、占領後ローマ文化が広くフランスに浸透し、ラテン語の系統がその領域の母語(古フランス語)となって今日に至っていることです。シーザー軍の武力によって服従させられた後のガリア諸部族は、母語であったケルト語を家庭内では使っていながらローマ人の軍人、商人、あるいは方言が通じない遠方のガリア人やゲルマン人と交渉するためにブロークンなラテン語を使うバイリンガルでした。
ローマ領ガリアの主要都市にはローマの貴族軍人が商人を伴って駐留し、ラテン語を操りながら富裕な文化的生活を顕示していたのでしょう。それを見た現地人の上流家庭では子女にラテン語教師をつけただろうと思われます。ローマの文化にあこがれ真似て、喜んでラテン語とローマカトリックの世界に入っていったようです。
ガリアで使われるラテン系口語はガロ・ロマンス語と呼ばれる独自の言語に変形していきました。ローマの威光を表すラテン文化とローマカトリック教への同化により都市住民は進んでガロ・ロマンス語のネイティブスピーカーになっていったと推測できます。そして何世代か過ぎると、パリ周辺の農村の住民も違和感なくガロ・ロマンス語の世界に住む人間になっていったのでしょう。もともとは武力を背景とするローマの威光が言語の同化を進めた、とみることができます。
ローマ庇護下の市場で商人から略奪すればローマ軍の武力で殺されます。武力の抑止力が市場活動を保障し商業貿易を興隆させます。商業の発展により都市市民が富裕となりローマカトリックの文化を享受する。その文化の表現としてガロ・ロマンス語が広がっていきます。
物理的な力である武力が、社会構造に埋め込まれ、経済に埋め込まれて、文化を形成し、言語環境を作り出していったといえます。












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侵略する人々(3)

2016-04-16 | yy51侵略する人々



この後、中世後半からルネッサンス(十世紀から一五世紀)にかけてヨーロッパは東のモンゴル帝国、オスマントルコ帝国、西のイベリア半島アラブ王国に挟み撃ちになりますが、東西からの異教徒の侵略はかろうじてフランスまで達していません。
英国との百年戦争(一三三七年 – 一四五三年)、フランス革命(一七七八年)、ナポレオン戦争(一八〇三年~一八一五年)とパリは何度も攻防戦の舞台となり、そのたびに無数の市民が殺されていますが、異民族に侵略されることはなくなりました。
十六世紀以降、むしろフランス人がアジア・アフリカを侵略する側になりました。現在、フランス領植民地はそれぞれ独立し、アルジェリア、ギニア、スーダン、ギアナ、ベトナム、カンボジアなど新興国となっています。中世イベリアからの侵略者によるアラビア語の影響は受けなかったフランス語は、近代においてアルジェリアなど被侵略者からアラビア語単語などを外来語として取り入れています。

歴史を見ると、侵略は頻繁に起こっています。むしろ侵略できる程度の武力の格差がある場合、侵略することが当たり前である、といえるくらいです。侵略できるのに侵略しない場合、よほど特別の理由があるだろう、と思えます。
ふつう侵略する側の武力が優れていて、兵力は十分あるので、補給が続く限り行けるところまで侵略します。侵略に成功すれば、土地のほかに金銀財宝、奴隷、食糧、兵器の材料あるいはその改良技術まで手に入ります。
侵略地の投降兵を軍団に取り込める。有益な技術や情報を持つ人材が家来になる。そしてますます侵略能力が増す。侵略軍団は増殖し、被侵略地域は拡大する。成功した侵略は拡大再生産のシステムを確立しています。それぞれの時代で世界一優秀な侵略システムは、無敵で連戦連勝のモードに入るので、短期間の間に次々と周辺諸国を侵略し版図を広げていきます。
アレキサンダーの東征。漢帝国やローマ帝国の拡大。ゲルマン大移動、モンゴルの大征服など大航海時代以前にも歴史上の例は多くあります。
十五世紀から十九世紀の西洋諸国による世界侵略は史上最大の侵略といえます。現代の国際秩序を作り、いわば現代文明を作り出したという点で、世界の再構築というべきでしょう。
西洋諸国の世界侵略は、人類が犯した最大の悪事のひとつです。しかしその結果、今日の先進諸国の繁栄がある。現代の豊かな経済、社会はその西洋文明の繁栄からきていることは否定できません。










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侵略する人々(2)

2016-04-09 | yy51侵略する人々



文献が豊富なヨーロッパに関する侵略の歴史について見てみましょう。
十六世紀から十九世紀にわたって世界中を侵略したヨーロッパ人の活動はその後現在に至る欧米優位の世界構造を作り出しましたが、それ以前、十五世紀までのヨーロッパは、どちらかといえば、侵略される側でした。
たとえば、ヨーロッパの代表的都市であるパリは、繰り返し侵略されることによってでき上がってきた、といえます。同時にフランス語もまた侵略されることで形成されてきた歴史があります。

紀元前五二年、十二万のローマ重装歩兵団を率いた総督シーザー(ガイウス・ユリウス・カエサル)はガリア(現フランス)に進行し、ルテティア・パリシオルム(現パリ)に軍営を築きました。以降、この地の人々にラテン語が浸透し原フランス語(ガロ・ロマンス語)を形成していきました。
四五一年、七万の遊牧騎馬軍団を率いてアッティラ大王はライン川を渡り、ローマ帝国ガリア属州を侵略しました。パリを陥落させ、オルレアンに迫りました。この軍団はトルコ系あるいはハンガリー系の言語を話していたと推定されますが、古フランス語が影響を受けた痕跡はありません。
五〇八年、西ゴート王国を駆逐したフランク王クロヴィスはパリに入り首都と定めました。この征服者一族のゲルマン系の言語(オランダ語などの祖語となったフランク語)も(発音、単語、語順、冠詞などに影響を与えたものの)古フランス語にとって代わることはありませんでした。
七一一年ジブラルタル海峡を渡ったアラブ軍一万は、重装騎兵隊を活用して七二五年ツールーズを陥落させ、七三二年にはポワティエに達しました。しかしアラビア語はまったく古フランス語に影響を与えていません。
八四五年、デンマークのバイキング船百二十隻がセーヌ川を遡上しパリを占拠しました。続いて八八五年、バイキング船三百隻に再び包囲されたパリを守り抜いたパリ伯爵ウードはフランス王家の始祖となりました。この侵略によってもフランス語がノルマン語に取って代わられることはありませんでした。逆に、フランスのノルマンディ地方に侵略し支配したノルマン人バイキングはフランス語を話すようになりました。フランス語がノルマン語を飲み込み、海洋、航海、軍事用語などにバイキングの単語を輸入した形跡があります。








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侵略する人々(1)

2016-04-02 | yy51侵略する人々

(51 侵略する人々 begin)





51 侵略する人々 


一五三二年というと、ポルトガル人が種子島に漂着する十一年も前ですが、スペインのコンキスタドール(職業征服者)フランシスコ・ピサロがインカ帝国の皇帝アタワルパを捕獲幽閉した年です。
ペルーのカハマルカの広場で行われたこの戦いは、戦いというより待ち伏せだまし討ちによる大量虐殺というべきでしょう。皇帝の側近である数千人のインカの神官や貴族に相対しているピサロ軍の兵力は歩兵百六、騎兵六十二、大砲四門、火縄銃十二丁という少人数であり、インカ側はその攻撃力などまったく警戒せず、外国人に皇帝の威信を知らしめる壮大な儀式を行うつもりだったようです。
儀式の扮装をした八千人の家来が皇帝を取り巻いていましたが、突然鉄砲が轟音を発しながら火を噴き、見たこともない動物にまたがった騎兵隊がきらきら光る鋼鉄の剣を抜いて切りかかってくると、恐怖に駆られて集団パニックを起こしてしまいました。混乱のうちに二千人が殺され、五千人が捕虜になったということです。皇帝を人質に取った侵略軍は、莫大な身代金を奪ったうえ、援軍が来て兵力で勝るとみると人質を殺し、皇帝の弟を傀儡として即位させて現地軍を支配し、植民地政策を進めました。
結果的にヨーロッパから持ち込まれた天然痘ウイルスが現地人口を激減させることで、スペインの新世界征服は完結しました。
インカの文明は消滅しました。インカを含む新世界の原住民居住地はすべてスペイン、ポルトガル、イギリス、フランスの植民地となり、南北アメリカの諸国が独立後もヨーロッパからの移民の子孫が政治経済を支配しています。

現代人である私たちの常識で歴史を見ると、ヨーロッパ人は武力に勝っていたから現地人を圧倒して侵略できたのだ、ということになります。それにしてもヨーロッパの世界侵略は圧倒的です。地理上発見時代と呼ばれる十六世紀から十九世紀にかけて欧米列強に侵略されなかった非欧米の国は、極東の日本くらいでしょう。
武力において弱い国は強い国に侵略される、という見方をすれば、ヨーロッパ列強は圧倒的に武力が強かったということになります。武力の背景には技術力、経済力、人口、知識、宗教など種々の要素があるといえますが、まずは兵器や軍隊の性能と量でしょう。その武力は、結局は敵個人の身体を損傷し、死や痛みや機能喪失を与える機能を持つがゆえに物理的突破力、抑止力、強制力、威嚇力を持ちます。
武力が敵の身体に物理的変形を与える力であるとすれば、それが種々の条件と組み合わされた場合、なぜ侵略を可能にするのでしょうか?また歴史を見ると、武力の強さと侵略の大きさとの量的関係に疑問を抱かせる例が非常に多いのはなぜでしょうか?
武力が小さいにもかかわらず大きな侵略が実行されたり、逆に武力が大きくても侵略がほとんどできなかったりした例がいくらでもあります。歴史の文献にはその理由を分析したものもありますが、ほとんど具体的な歴史的事実を確認することに観点が置かれていて、武力の効果について一般化を追求している研究は見当たりません。
たしかに歴史の事実を調べるほど、その時代のその環境でその事実が成立した過程は納得できてしまいます。その時代その武力は現実であったであろう、と思えます。そしてそのような現実は現実的な感じがします。しかし、私たちはなぜ、そう感じるのでしょうか?
武力は侵略の原動力であるというあたりまえの事実が成り立つ仕組みを、もうすこし、ミクロに具体的に、その物理的、身体的な突破力、抑止力、強制力、威嚇力、あるいはそれらを背景とする異民族の支配力など種々の力の働き方から調べることはできないでしょうか?
拙稿本章では、侵略において武力が個人や集団の行動に与える影響についてどこまで理論化がなりたつのか、ためしに、すこし調べてみましょう。







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