要するに、人間は集団として身体運動を連動・共鳴し、存在感覚を共感することで、整然とした法則に従って変化するように感じられる物質世界のモデル(共有する錯覚によるモデル)を各人の脳内に作り出している。それは、人類という動物に特有の脳の機構です。他の動物と人類との違いが際立つ特徴といえる。アリストテレスは、「人間とは、言葉を有する動物だ」と言いましたが、それをまねて、拙稿としては、「人間とは、世界という錯覚を共有する動物だ」と言いたいと思います。
たとえば、私の頭の後ろには、さっき見た窓がある。その窓は、今は後ろ側にあるので、私の視界からは見えませんが、確かに実在すると思ってよい。それは、いつでも振り返れば、思ったとおりその窓が見えるからです。こういうことは、私も含めて人間のだれもがそう思っている、ということを私は知っている。そばに来た人が、「雨が降りそうですね」といって、私の後ろのほうを見る。その人が窓を見ている、ということが私には分かる。それが確かだから、この世界は、見えないものも、人間が存在すると思っているように存在する、と思ってよいわけです。首相官邸の中に安部晋三氏がいる、とテレビが言っていれば、会ったことがない人だとしても、その人は存在する。神社の奥に向かって、みんなが手を合わせていれば、そこに神様がいるのです。人々が存在すると思っているものは、存在する、といえます。
こういうふうに見えないものが実は存在する、と思うことは錯覚といえば錯覚です。しかし、錯覚といっても、仲間のだれもがその錯覚を共有していれば、人間どうしはそれがあると感じて語り合い生活していくのに何の問題もない。
人間が感じるこのような世界の存在感は、人類が生存し繁殖するために役立ったから、私たちがそれをこう感じるような神経系を持つことになった。この存在感は、人間が集団として、物質世界の過去の変化を記憶し、それを使って繰り返し現れる法則を拾い出し、さらにそれを使って、これからの自分たちの運動の計画を上手に立てるための機構として自然にできてきたものです。それは、うまくできた錯覚の組み合わせです。最小限の神経系の大きさで効率よく物質環境の変化を予測し、上手な運動計画を作ることで生存上の利益を最大限に上げることが、脳の最適な設計です。世界全体の真理を正しく理解して、全部記憶する必要などはまったくない。生存に役に立つ最小限の要点だけを記憶すればよろしい。後は、必要なときに要点をつなげて全体像を描き出せればよい。それには、うまく錯覚を作ることが効率的なのでしょう。
たぶん、私たちの脳は、そういうふうにできている。世界の像を描き出す最小限の情報が記憶される。その情報から仲間と共有できる錯覚が再生される。それで集団として感じる時間と空間としての(錯覚の)世界の中で、人間は仲間と言葉で語り、生きていく。
人間が感じる世界の存在感は、まずいつも無意識に感じられていて、そのまましばらくたつと、忘れていくようです。特に印象に残った場面、あるいは感情を伴った情景を、記憶したり思い出したり言葉で語るときだけ、はっきりと意識に上ってくる。ちなみに、世界の認知に関して最近の現代哲学では、言語の働きを強調する傾向にあります。言語の学習によって脳神経細胞ネットワークの上に言語処理シミュレータが形成されることで世界の意識的認知と自我意識が生ずるという仮説(一九九五年 ダニエル・デネット『ダーウィンの危険な思想:進化と生命の意味』)や、世界をデータ化して計算するために言語が脳の補助計算装置として使われているという理論(一九九八年 アンディ・クラーク『魔法の言葉:言語は人間の計算能力をいかに補強しているか』)、人間は言語によって思考を思考の対象にできるようになった(二〇〇三年 ホセ・ベルミュデス『言語と思考に関する思考』)など、諸説が入り乱れていますが、いずれも、世界認知のためには、言語が必要条件と考えられているようです。また最近の実験心理学の結果からは、人間は無意識に行っている数個の個別の(モジュール的な)世界の認知を言語によって統合して知的な活動を可能にしているらしい、というおもしろい仮説(二〇〇三年 エリザベス・スペルク『何が人間を賢くしたか?』)が唱えられています。
これら最近発表されている諸説に比較して拙稿の考え方の特徴を挙げれば、人間は系統発生的にも個体発生的にも、言語以前に仲間と共鳴共感することで世界の存在感を獲得していてそれが言語の発生を導いた、と考える点です(このテーマにはまた後で戻る)。
さて、問題は哲学に関係する存在感ですが、人間が感じる目の前の世界の存在感は錯覚からできていると思うにはあまりにも鮮烈で、紛れもなく現実と感じられる。物質世界の明快なこの存在感につい乗せられて、人間は物質に表れない存在についてまで言葉で語れると思ってしまいます。あるように感じられるものは、ある。だから、目に見えないけれどもあるように感じられる(他人の)心のようなものも、ある、と思える。
目に見えなくて、耳にも聞こえないけれども私たちに強く訴えてくるもの、たとえば感情、願望、信念、抽象概念、そういうものはたくさんある。たとえば概念といわれるものは、(拙稿の見解では)もともと動物が目の前の物質に対応して運動するときにあらわれる神経活動のパターンを記憶して想起し、それを自覚するところから来るようですが、人間の場合、多くは目の前の物質には対応しない抽象的なものになる(二〇〇四年 アンディ・クラーク 『概念を働かせる』)。
人間は、そういう目に見えないものについても、その存在感が強ければ、それが自分の外側にあるように感じてしまう。それをだれかに言葉で言いたくなって、だれにでも通じそうな言葉を作ってしまう。実際、人間どうし、相手の目を真剣に見つめて感情を込めて語れば、どんなことでも通じてしまうようなところがありますね。曖昧ではあっても何かを懸命に言おうとすれば、それなりの言葉は通じてしまいます。
言葉が通じることは、擬似的に存在感を感じられるということです。言わんとすること、言わんとしているなと感じられること、それが言葉で表わされて擬似的な存在感を仲間と共有した瞬間に、それはモノとなって人間の身体の外側にあることになる。そのモノは、物質世界にある物と同じようにある、と感じられてしまう。そうすると次には、それらの言葉を使って、そのモノについてそれがはっきりとした輪郭を持つ物質であるかのように、自信を持って語りたくなる。
とくに、職業として言葉を使いこなして文章を書いたり講義したりする人たち(拙稿では言語技術者という)は、言葉の存在感を最大化する必要を持っている。新聞やテレビのようにそれがビジネスになれば、なおさらです。人々は権威ある言葉を聞きたがっている。語る側としては当然、印象の強い新奇な、あるいは深遠な何かむずかしいことも語りたくなるものです。そうして、印象的なキーワードがつくられ、広まっていく。しかし、それが間違いのはじまりです。それをするから、間違った哲学ができてしまうのです。
「命」もまた同じようなものです。
生物学では、動物のほか、動かない植物、カビ、目に見えない微小な細菌、なども生物としている。それら自然現象に共通する生命の定義も作っている。しかし、その定義は、科学的分類のために作られた人工的な「生命」概念です。それと、私たちが日常語として使う「命」という言葉が示しているものとは別のものです。
刺激に反応し餌食を襲い、あるいは身を守るかのごとく運動する物体を見ると、人間の脳は自動的に「命」を感じる。生物学の教科書を読んで「命」を理解するわけではない。言葉を知らない幼児も「命」とは何か、はっきり分かっている(たとえば、二〇〇四年 ミッシェル・モリーナ他『幼児期における生物―非生物の区別:人間の動作に関する制約への感受性の発達』)。そこにある物体の動き方を見て、無生物とは違う、神経で筋肉を動かして動いているような、あるいは、何かしようとして動いているような、動きを読み取れる場合、観察者の脳の中には、ある特有のパターン認識の感覚信号が発生する。
現代人のように都市環境で育った人間は、自然の動物を見る機会が少なく、動物といえば、人間とペットくらいしか知らない。しかし、つい最近まで、すべての人間は大自然に囲まれて育ち、その環境で作られた言葉を現代に伝えている。命も、大自然の中で作られた言葉であって、人間を含めた動物、生物に共通な特徴を感じ取る人類共通の感覚に根付いている(二〇〇一年 スコット・アトラン他『素朴生物学は素朴心理学からくるのではない:ユカタン・マヤ族の比較文化研究における形跡』)。
その物体は、何か外のものに反応して動いているらしい。何かから逃げようとしている。隠れようとしている。何かを襲おうとしている。食べようとしている。近づいて相手を調べようとしている。そう感じられるとき、観察者の脳では、特有の神経回路が活動している。脳(の扁桃体など辺縁系)は、受けた感覚信号を情報処理して、そのような特徴を抽出すると、特有な電位変化を発生する。それで言葉などを思いつく以前に身体がそれを知ってしまう。そういうものを、昔から人間は「命」と呼んできたのです。
その「命」を宿す物質が、自分よりかなり小さければ、餌食だから食いつく。大きくてこちらに向かってくれば、捕食者だから逃げる。同じくらいの大きさでエロティックな匂いがすれば、配偶者だから交尾する。動物の脳は、そういう動きが出てくる仕掛けになっている。人間の脳神経系も脳幹、大脳辺縁系、基底核など無意識の深いところでそういう動きが出てくるようになっているはずです。その脳神経系の動きが引き起こす存在感、それが「命」の正体です。
人間の脳には、目や耳の情報だけから、目の前の動物らしい物体の中に「命」を感知する特有の神経回路が生まれつきできている。動物などの神経筋肉運動を、風に吹かれる無生物の動きなどと区別して感じ取り、その働きを自覚して、人間は生きているものと生きていないものを直感で区別できる。そして四歳児くらいになると、仲間の人間も、目の前のその「命」を宿す物質に遭遇したときの身振りや表情で、明らかにそれを感じているらしいことが分かります。
さらに、五歳児になると、成長するもの、植物、をも命を持つものに含めるようになる(一九九六年 稲垣佳世子、波多野誼余夫