哲学の科学

science of philosophy

世界という錯覚を共有する動物(3)

2007-03-31 | 4世界という錯覚を共有する動物

要するに、人間は集団として身体運動を連動・共鳴し、存在感覚を共感することで、整然とした法則に従って変化するように感じられる物質世界のモデル(共有する錯覚によるモデル)を各人の脳内に作り出している。それは、人類という動物に特有の脳の機構です。他の動物と人類との違いが際立つ特徴といえる。アリストテレスは、「人間とは、言葉を有する動物だ」と言いましたが、それをまねて、拙稿としては、「人間とは、世界という錯覚を共有する動物だ」と言いたいと思います。

たとえば、私の頭の後ろには、さっき見たがある。そのは、今は後ろ側にあるので、私の視界からは見えませんが、確かに実在すると思ってよい。それは、いつでも振り返れば、思ったとおりそのが見えるからです。こういうことは、私も含めて人間のだれもがそう思っている、ということを私は知っている。そばに来た人が、「雨が降りそうですね」といって、私の後ろのほうを見る。その人がを見ている、ということが私には分かる。それが確かだから、この世界は、見えないものも、人間が存在すると思っているように存在する、と思ってよいわけです。首相官邸の中に安部晋三氏がいる、とテレビが言っていれば、会ったことがない人だとしても、その人は存在する。神社の奥に向かって、みんなが手を合わせていれば、そこに神様がいるのです。人々が存在すると思っているものは、存在する、といえます。

こういうふうに見えないものが実は存在する、と思うことは錯覚といえば錯覚です。しかし、錯覚といっても、仲間のだれもがその錯覚を共有していれば、人間どうしはそれがあると感じて語り合い生活していくのに何の問題もない。

人間が感じるこのような世界の存在感は、人類が生存し繁殖するために役立ったから、私たちがそれをこう感じるような神経系を持つことになった。この存在感は、人間が集団として、物質世界の過去の変化を記憶し、それを使って繰り返し現れる法則を拾い出し、さらにそれを使って、これからの自分たちの運動の計画を上手に立てるための機構として自然にできてきたものです。それは、うまくできた錯覚の組み合わせです。最小限の神経系の大きさで効率よく物質環境の変化を予測し、上手な運動計画を作ることで生存上の利益を最大限に上げることが、脳の最適な設計です。世界全体の真理を正しく理解して、全部記憶する必要などはまったくない。生存に役に立つ最小限の要点だけを記憶すればよろしい。後は、必要なときに要点をつなげて全体像を描き出せればよい。それには、うまく錯覚を作ることが効率的なのでしょう。

たぶん、私たちの脳は、そういうふうにできている。世界の像を描き出す最小限の情報が記憶される。その情報から仲間と共有できる錯覚が再生される。それで集団として感じる時間と空間としての(錯覚の)世界の中で、人間は仲間と言葉で語り、生きていく。

人間が感じる世界の存在感は、まずいつも無意識に感じられていて、そのまましばらくたつと、忘れていくようです。特に印象に残った場面、あるいは感情を伴った情景を、記憶したり思い出したり言葉で語るときだけ、はっきりと意識に上ってくる。ちなみに、世界の認知に関して最近の現代哲学では、言語の働きを強調する傾向にあります。言語の学習によって脳神経細胞ネットワークの上に言語処理シミュレータが形成されることで世界の意識的認知と自我意識が生ずるという仮説(一九九五年 ダニエル・デネットダーウィンの危険な思想:進化と生命の意味』)や、世界をデータ化して計算するために言語が脳の補助計算装置として使われているという理論(一九九八年 アンディ・クラーク魔法の言葉:言語は人間の計算能力をいかに補強しているか』)、人間は言語によって思考を思考の対象にできるようになった(二〇〇三年 ホセ・ベルミュデス『言語と思考に関する思考』)など、諸説が入り乱れていますが、いずれも、世界認知のためには、言語が必要条件と考えられているようです。また最近の実験心理学の結果からは、人間は無意識に行っている数個の個別の(モジュール的な)世界の認知を言語によって統合して知的な活動を可能にしているらしい、というおもしろい仮説(二〇〇三年 エリザベス・スペルク何が人間を賢くしたか?)が唱えられています。

これら最近発表されている諸説に比較して拙稿の考え方の特徴を挙げれば、人間は系統発生的にも個体発生的にも、言語以前に仲間と共鳴共感することで世界の存在感を獲得していてそれが言語の発生を導いた、と考える点です(このテーマにはまた後で戻る)。

さて、問題は哲学に関係する存在感ですが、人間が感じる目の前の世界の存在感は錯覚からできていると思うにはあまりにも鮮烈で、紛れもなく現実と感じられる。物質世界の明快なこの存在感につい乗せられて、人間は物質に表れない存在についてまで言葉で語れると思ってしまいます。あるように感じられるものは、ある。だから、目に見えないけれどもあるように感じられる(他人の)心のようなものも、ある、と思える。

目に見えなくて、耳にも聞こえないけれども私たちに強く訴えてくるもの、たとえば感情、願望、信念、抽象概念、そういうものはたくさんある。たとえば概念といわれるものは、(拙稿の見解では)もともと動物が目の前の物質に対応して運動するときにあらわれる神経活動のパターンを記憶して想起し、それを自覚するところから来るようですが、人間の場合、多くは目の前の物質には対応しない抽象的なものになる(二〇〇四年 アンディ・クラーク 『概念を働かせる』)。

人間は、そういう目に見えないものについても、その存在感が強ければ、それが自分の外側にあるように感じてしまう。それをだれかに言葉で言いたくなって、だれにでも通じそうな言葉を作ってしまう。実際、人間どうし、相手の目を真剣に見つめて感情を込めて語れば、どんなことでも通じてしまうようなところがありますね。曖昧ではあっても何かを懸命に言おうとすれば、それなりの言葉は通じてしまいます。

言葉が通じることは、擬似的に存在感を感じられるということです。言わんとすること、言わんとしているなと感じられること、それが言葉で表わされて擬似的な存在感を仲間と共有した瞬間に、それはモノとなって人間の身体の外側にあることになる。そのモノは、物質世界にある物と同じようにある、と感じられてしまう。そうすると次には、それらの言葉を使って、そのモノについてそれがはっきりとした輪郭を持つ物質であるかのように、自信を持って語りたくなる。

とくに、職業として言葉を使いこなして文章を書いたり講義したりする人たち(拙稿では言語技術者という)は、言葉の存在感を最大化する必要を持っている。新聞やテレビのようにそれがビジネスになれば、なおさらです。人々は権威ある言葉を聞きたがっている。語る側としては当然、印象の強い新奇な、あるいは深遠な何かむずかしいことも語りたくなるものです。そうして、印象的なキーワードがつくられ、広まっていく。しかし、それが間違いのはじまりです。それをするから、間違った哲学ができてしまうのです。

「命」もまた同じようなものです。

生物学では、動物のほか、動かない植物、カビ、目に見えない微小な細菌、なども生物としている。それら自然現象に共通する生命の定義も作っている。しかし、その定義は、科学的分類のために作られた人工的な「生命」概念です。それと、私たちが日常語として使う「命」という言葉が示しているものとは別のものです。

刺激に反応し餌食を襲い、あるいは身を守るかのごとく運動する物体を見ると、人間の脳は自動的に「命」を感じる。生物学の教科書を読んで「命」を理解するわけではない。言葉を知らない幼児も「命」とは何か、はっきり分かっている(たとえば、二〇〇四年 ミッシェル・モリーナ他『幼児期における生物―非生物の区別:人間の動作に関する制約への感受性の発達)。そこにある物体の動き方を見て、無生物とは違う、神経で筋肉を動かして動いているような、あるいは、何かしようとして動いているような、動きを読み取れる場合、観察者の脳の中には、ある特有のパターン認識の感覚信号が発生する。

現代人のように都市環境で育った人間は、自然の動物を見る機会が少なく、動物といえば、人間とペットくらいしか知らない。しかし、つい最近まで、すべての人間は大自然に囲まれて育ち、その環境で作られた言葉を現代に伝えている。命も、大自然の中で作られた言葉であって、人間を含めた動物、生物に共通な特徴を感じ取る人類共通の感覚に根付いている(二〇〇一年 スコット・アトラン他『素朴生物学は素朴心理学からくるのではない:ユカタン・マヤ族の比較文化研究における形跡』)。

その物体は、何か外のものに反応して動いているらしい。何かから逃げようとしている。隠れようとしている。何かを襲おうとしている。食べようとしている。近づいて相手を調べようとしている。そう感じられるとき、観察者の脳では、特有の神経回路が活動している。脳(の扁桃体など辺縁系)は、受けた感覚信号を情報処理して、そのような特徴を抽出すると、特有な電位変化を発生する。それで言葉などを思いつく以前に身体がそれを知ってしまう。そういうものを、昔から人間は「命」と呼んできたのです。

その「命」を宿す物質が、自分よりかなり小さければ、餌食だから食いつく。大きくてこちらに向かってくれば、捕食者だから逃げる。同じくらいの大きさでエロティックな匂いがすれば、配偶者だから交尾する。動物の脳は、そういう動きが出てくる仕掛けになっている。人間の脳神経系も脳幹、大脳辺縁系基底核など無意識の深いところでそういう動きが出てくるようになっているはずです。その脳神経系の動きが引き起こす存在感、それが「命」の正体です。

人間の脳には、目や耳の情報だけから、目の前の動物らしい物体の中に「命」を感知する特有の神経回路が生まれつきできている。動物などの神経筋肉運動を、風に吹かれる無生物の動きなどと区別して感じ取り、その働きを自覚して、人間は生きているものと生きていないものを直感で区別できる。そして四歳児くらいになると、仲間の人間も、目の前のその「命」を宿す物質に遭遇したときの身振りや表情で、明らかにそれを感じているらしいことが分かります。

さらに、五歳児になると、成長するもの、植物、をも命を持つものに含めるようになる(一九九六年 稲垣佳世子、波多野誼余夫

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世界という錯覚を共有する動物(2)

2007-03-24 | 4世界という錯覚を共有する動物

存在感は、「そこに存在するかのように感じられる物質を存在するものと仮定して運動を計画し、それを実行しても危険はありませんよ。逆に無視すると危険ですよ」と身体に教える脳の仕組みです。たとえば「目の前の敷石を踏んでも、踏み抜いて地下に転落することはありませんよ。脇にある水溜りを踏むと靴が台無しになりますよ」ということが、その敷石や水溜りの存在感です。身体がうまく運動できるための実用的な脳の仕組みです。身の回りの物質の間をうまく動き回り、物質を掴んだり、ちぎったりして利用するために身体の筋肉をうまく収縮伸展させるための運動の計画を作る準備活動です。これからする運動を適切に計画するという形で、身の回りの物質の存在感が脳に取り込まれる。こういう脳の生理的反応が起こるとき、物事の存在感が感じられる。

「そこにその物質が存在する」という意味はそれだけのことです。つまり、自分の次の運動に関連して、そこのその物質がどう関わるかを計算する神経機構のシミュレーション活動の結果、脳の前部帯状回、扁桃体、海馬、側坐核などの神経細胞膜電位が変化する、ということを意味している。

ここまでは、獲物を狩ったりする動物ならば、それなりに脳内に物質の存在感を作り出す機構を持っている、といえるでしょう。哺乳類は、この物質の存在感という神経活動を、さらに脳内に記録し、必要なときにそれを再生することができる。物事を記憶するわけです。類人猿の場合、特に人間は、さらに仲間の人間が感じる存在感を共感することができる。つまり、仲間の人間が、そこにある物質に対して身体運動を加える場面を見て、その物質の存在感を感じることができる。これは、動物に群行動を起こす古い機構から進化したと思われますが、仲間の存在と同時に仲間が運動を加える対象の存在感を捉える類人猿特有、あるいは人類特有、の脳の機構でしょう。

たとえば視線、指などで指し示す場面です。あるいは言葉でその名を言うことで指し示します。あるいはその物質を押したり引いたり、持ち上げたりして、位置や角度をずらす。あるいは変形する。何をどうしてどうするか。お菓子の箱の蓋を開けて中のお菓子をつかみ出して、包装を剥いて食べる。そういう他人の一連の運動の流れとしてお菓子と菓子箱の存在感を自分の記憶として取り込んでいく。

こうして、人間は、他人(哲学では他者ともいうが、むしろ仲間の人間、というほうがよい)が物質に加える運動を見て、自動的にそれを自分の運動形成神経回路で再現することによって、物質に加える自分の身体運動を脳内の仮想運動として行い、その神経活動が残す記憶を物質の存在感として感知し、それを記憶し経験として蓄積する。周りに人が見えない場合であっても、自分ひとりの感覚ではなく、そばに仲間がいる場合と同じように、仲間と一体となった人間集団として周りの人々の運動・感覚に共鳴する神経機構を働かすことで、そこにある物質の存在感を感知し、記憶していく仕組みが、人間には備わっている。

特に大事なことは、人間は一人でいるときでも、人間集団の中にいるときとまったく同じように、目の前に見える物質の存在感を集団で共感する神経機構を使って、その物質の存在感を感知しているようです。私たちは、そこにある物質をだれかが取り上げて一連の動作を加える場面を、無意識のうちに想像して、その物質の存在感を作り上げる。

物質の存在感は、すぐに仲間と共有できる言葉を生み出す。物にはすぐに名がつけられていく。物質は、人間に感知される(私がラーメンを見る)と同時に、脳の中でカテゴリに分けられ(ラーメンを食べ物と思う)、概念として認知されて(ラーメンをラーメンだと思う)、名がつけられて(ラーメンをラーメンと呼ぶ)いく。その結果、脳内に存在感がはっきりできあがり、その物質(ラーメン)がそこにあると思える。ちなみに、人間でない動物でも、猿などは最後の「名をつける」はできませんが、だいたい人間と同じ神経機構で概念と存在感を作れるようです。

ところで、このラーメンを、だれも食べ物と思わず、だれもラーメンと思わず、だれもラーメンと呼ばなかったら、果たして、このラーメンは存在するでしょうか? たとえば、泥だらけの地面に落ちて、踏みにじられて、泥と見分けがつかなくなってしまったラーメンは、それがちゃんと存在するというべきかどうか、自信がなくなりませんか? (猿などはラーメンと認識して食べるかもしれませんが)

このことは、私たちが感じる物質の存在感が、仲間と共鳴して集団として共感する神経機構を使って感じ取っていることの現れです。物質を指し示す言語ができてしまうと、幼児は言語を学習することで、物質の経験を固定していきます(たとえば、二〇〇四年 ヘスポス、スペルク『言語の概念的前兆』)。仲間と共鳴できる身体運動は、それを表す言葉で固定され、物質ごとのカテゴリも、またそれぞれの言葉で固定されていく。物質の存在感が仲間と共有できている場合、それは「ある」という言葉によって固定され、私たちは、「その物がそこにある」という言葉の形で存在感を共有し、それぞれの記憶に取り込む。この仕組みにより、仮想の集団運動が個々の人間の脳内で動き出して、仮想の他人の視線人指し指が目の前の物質を指し示すことで、人間にとってその物が存在することになる。私たちは毎日、目を開けている間中ずっと、視覚聴覚から送られてくる信号を脳で情報処理して、身の周りの物質を存在させるために、高速で計算をし続けている。まるで、一秒も休まないスーパーコンピュータみたいですね。

それらは、すべて脳の中の神経回路が、無意識に自動的に行う生理現象です。哲学では古来さまざまな存在論が唱えられていますが(哲学の考え方については後で少し詳しく述べます)、それとは別に、ふつうに日常会話で、「ある」、「存在する」と言うときは、右に述べたような神経活動が対応している。私たちが日常に使う存在という言葉には、それ以上の神秘的な意味などはありません。

このように(拙稿の見解では)人間の脳は、仲間の人間集団の運動に共鳴する神経回路を働かすことで、世界があるように共感する仕組みを持っている。つまり、すべての人間が目で見て手で触って、このように感じられる、物質で構成された意識できる物質世界全体が、こうして存在することになる。それがあまりにも広大で、複雑で、同時に整然とした法則にしたがっているように感じられるために、この世界は本当に実在しているように思える。だがそれも、人間の脳のこのような機構が、仲間と錯覚を共有して、世界を上手に感知できるように進化した結果です。

目の前に見えるこの世界の空間は、三次元で広大な宇宙にまで連続して広がっているように感じられる。今感じている時間は、無限の過去から無限の未来へ、一本線で続いているように感じられる。しかし、それも実は、今注目している一点のほかは、はっきり意識できるものではありませんね。私たちが感じる無限の空間と時間は、ここにいま感じられる目の前の小さな空間と時間を、想像でバーチャルに拡大したものでしょう?

私たちが、実在の時空と思っているこれ(読者諸姉諸兄がいま感じていらっしゃる身の周りの空間と時間)は、実はバーチャルなもので、あたかもインターネットで世界中の物事が見えると思い込んでいるようなものなのではないでしょうか? 

インターネットで感じられる物事の物理的実体は、非常に多数の、通信回線で連結されたコンピュータ群から送られてくるビット信号です。端末のパソコンに呼び出された瞬間に、どこかのサーバーが必要な情報を私たちの目の前のパソコンへ送ってくるわけです。この経験から私たちは、パソコンを通して世界中の文献や写真やビデオを見ているように感じるわけです。しかしその実体は電子部品の荷電・磁化状態でしかありませんね。

同様に、私たちは、脳神経系と物質世界とのすばやい情報のやり取りのおかげで、空間、時間のどこでも、いつでも、注目する一点の情報を呼び出せる。この経験から、私たちは、自分の身体の周りに無限の時間と空間と物質が広がっていると感じる。言い換えれば、世界は目を開けたときに見える部分だけ、あるいは脳の認知神経回路が活動した瞬間、認知した情報の分だけ存在する、ともいえる。そういうことだとしても、私たちが感じる世界は何の変わりもないわけです。

薄くなった私たちの後頭部は存在しない。ズボンの中の脚も存在しない。スカートから見える部分だけ脚は存在する、といってもよいのです。

私たちの身体が置かれているこの物質世界は、無限の連続空間として四方八方へ広がっていて、時間は無限の過去から未来へ連続している、かのように感じられます。この目の前に生き生きと見える世界は、このまま私たちの身体の外に無限に広がって連続して実在している、と直感では感じる。いつも私たちの脳は、この空間と時間の存在を取り込んで直感で感じているのだろう、と思えるわけです。

しかし、それは錯覚です。人間の脳が一瞬一瞬に取り込んでいる情報は、視野の真ん中にある小さな空間の映像など、少量の情報だけです。車のヘッドライトが照らすのは、前方のごく狭い空間だけですが、ドライバーはいつも明るい道路を見て運転しています。現在の一瞬に、視線の先にある、つまり動作の対象にするその一点の情報が十分あれば、空間全体が見えているように感じられるわけです。

時間についても同じ。私たちは、自分が過去の出来事すべてを把握しているつもりでいますが、その瞬間に思い出しているのは過去の一時点だけです。思い出せることはいつでも思い出せますから、私たちは自分がすべてを見通していると感じられる。逆に言えば、視線の運動や、注意の動きに対応して適切な情報が得られるとき、私たちは、大きな連続した全体を見ていると感じるわけです。

なぜ、自動車の外部照明灯は前方にしかついていないのか、横も斜めも後ろも強力に照らせばよいじゃないか。そうしないのは、無駄な装置をつけるコストを省くためであり、バッテリの容量とエネルギー消費率を必要最小限にするためです。人間の脳という情報処理系でも、脳の容量とエネルギー消費率は、生きていくのに必要な情報処理にとって最小限になっているでしょう。そのように脳を進化させた人類の種族が生き残ってきたはずです。その理由で、人間の脳は注目している一点以外の世界の情報はほとんど保持しない。

つまり、目の前のこの物質世界は、今の瞬間に感覚器官で感じられる小部分から取り込める感覚情報を私たちの脳に送り込んでくれますが、世界のそれ以外の部分については、存在していないのと同じように、何の情報も私たちの脳には送ってくれない。そして、過去の記憶は急速に減っていく。今しばらくの間で見えている部分以外の世界の部分があるといっても、ないといっても、脳内にある情報としてはどちらもまったく同じことになる。それでも、身の回りのことは全部見えているという感じがします。私たちは、見えるものは全部見える。いま見えないものは見えないのがあたりまえ、と思っていますから、何の不思議も感じずに、この世界全体はこのように実在している、と思い込んでいる。

人間の脳は、全体を見渡して行動を計画しているのではない。私たちがそう思いこんでいるのは錯覚です。一瞬一瞬に感知した小さな情報だけに対応して、動物は運動している。人間も基本は同じ。そうであれば、世界のデータが全部脳内に入ってきて、情報でパンクしてしまう心配(フレーム問題という)はありません。

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世界という錯覚を共有する動物(1)

2007-03-17 | 4世界という錯覚を共有する動物

     4 世界という錯覚を共有する動物

人間は、なぜ、ここに世界があるように思うのでしょうか?

不思議です。筆者は、これが不思議だと思っています。でも、家族には言いません。みなさんも、こんな疑問を、家族に言いますか?

しかし、だれにも言わなくても、ここに世界があるようにしか思えない。

考えてみれば、世界があるのはあたりまえのことです。世界があるから私たちがいて、「世界がある」と思っているわけですから。でもなぜ、人間は、自分がその中にいるこの世界があると思うのでしょうか? 他の動物は、ふつうそんなことは思わないでしょう?

人間という動物は、世界がこういうふうにあると思っている。しかも仲間の人間のだれもが同じように、世界がこういうふうにあることを知っている、とお互いに知っている。人類はこういうように世界の認識を共有する動物なのです。他にこんな動物はいませんね。

どこの店のラーメンが美味しい、と聞けば、唾が出てくる。ラーメン屋の位置だけでなく、美味しさまでを共感してしまう。ラーメン好きの友達どうしの共感だから、ということばかりではありません。歩道に水溜りがあれば、通行人は避けて通る。前を歩いている人が避けて通るのを不思議という感じはまったくしない。ロボットがそれをしたら不思議だと思うでしょう?

人間は、どの人間でも、世界を自分と同じように知っている。それが人間だ、と私たちは深いところで思いこんでいるのです。なぜでしょうか?

目の前にある物体(たとえば、このパソコン)は目で見えるし、身体を動かしていろいろな角度から見ると立体的な形が分かる。手でなでたり触ったりすると、その物質がそこに存在するに違いないと感じるからですね。視線を向けるとその物は視野の中心に来る。顔を近づけると、その分だけクローズアップできる。顔を左右に振ると、立体感が分かる。触ると硬い。つまり私たち人間は、自分の身体の位置や運動と、その物質から目や耳や触覚などの感覚器官が受け取る感覚信号との相互関係で、それ(たとえば、このパソコン)がたしかに存在していることを感じる。物質表面が反射する光が網膜に映ることで生じる視覚、顔を動かすと網膜上の映像がずれることで分かる立体感、触ると身体を押し返す物質表面の触覚、などから、その物質がそこに確かに存在するということが分かるからです。こういうことは考えて分かるのではなくて、自動的に無意識のうちに分かってしまう。直感で、確かな存在感が感じられるわけです。

物が存在するという感覚、すなわち、存在感という感覚が、脳神経系のどこでどのように生じているのか? 現代の神経科学者たちは脳画像装置を使って実験観察を繰り返していますが、まだ、はっきりした結果は得られていない。大脳の辺縁系基底核、特に扁桃体前部帯状回などに病変があると、物事の現実感や自己感覚が損なわれると報告されている。(現状の脳科学で、存在感の観察がうまく行かない理由は脳測定装置の精度の不足ともいえますが、それとともに、筆者の見解では、意識が神秘だという先入観にこだわって科学者たちがかまえすぎているという問題があります。詳細は後述予定)

私たちの身体の外にある物質から感覚器官を通して入ってくる感覚入力信号は、抹消神経系から求心神経経路を伝わって中枢神経系へとさかのぼり、視床と大脳皮質を経由して扁桃体、前部帯状回の神経細胞群の膜電位を変化させる。この神経細胞群の電位変化は側坐核と大脳側頭葉の神経回路を活性化して運動神経に指令を出して筋肉を動かし、その結果、身体の形と位置を変化させる。身体運動の結果、身体によって動かされた物質の位置や状態の変化を反映して、物質から感覚器官に入ってくる信号は変化する。その入力信号がまた脳に入って来る。たぶん、その繰り返しが、身体外の物質の存在感を、はっきり意識するまでに強化する仕組みなのでしょう。これは全部、脳内で無意識に進む信号処理らしく、その過程は意識できません。

脳と身体と、身体が作用する目の前の物質との間の相互作用と、それによる頻繁な運動信号と感覚信号の出入りで、その物質の存在感はどんどん強くなっていく。その間、脳は、物質に関してどのような身体運動ができるか(シミュレーション)を無意識に計算し続けている。時間にして一秒の数分の一くらいの短い一瞬です。このくらい脳の計算が速くなくては、キャッチボールはできません。

目の前のその注目する物質の存在感ができ上がると同時に、脳は物質に関しての自分の身体が次の瞬間に動くための運動計画を作り上げる。つまり側坐核とそれに連動する大脳、小脳の運動形成回路は、目の前に存在するらしいその物質を取り込んだ運動シミュレーションを、瞬時に、自動的に展開する。それがさらに再帰的にその物質の存在感を強化し、運動を実行すると同時に、その経験を脳に記憶していく。これで、そこに何が存在しているか、という認識を私たちは持つ。これが存在と言う現象のメカニズムです。逆に言えば、私たちがうまく運動を計画して実行し、それを記憶するために、身体の周りに物質世界というものがはっきりと存在する。

赤ちゃんが、生まれつき、身の回りの物体の運動を予測する能力を持っていることを調べる実験の結果などが、それを示しています(たとえば一九九八年 ウィルコックスベイラジオン 幼児期における物体の個別認識・隠蔽実験に関する判断における特徴情報の利用。生後三ヶ月の赤ちゃんは、もうきちんと存在感の発生機構を持っているらしく、物陰に隠れたおもちゃの位置を正しく予測できる。赤ちゃんは、イナイイナイバアが大好きですが、こうして遊びながら、世界の法則を学び、同時に、存在感のつかみ方を身につけていく。たとえば、存在感のあるひとかたまりの感覚信号源(たとえば、猫)は、速度をゆっくり変えながら空間を移動していくこと。その形状はふつう、ゆっくりとしか変化しないこと(猫は爆発したり蒸発したりしないこと)。世界には、似たように見えるものがいくつかずつあること(動物の動きはみんな似ている)。似たように見えるものは似たような動き方をすること。似たように見えるものは私たちが同じ操作を加えるべきものであること(カテゴリと運動様式の対応)、などなど、です。逆に言えば、私たちが身につけている存在感覚は、世界にありふれたこういう物たちに対して、強く感じるようにできている。

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人間はなぜ哲学をするのか(4)

2007-03-10 | 3人間はなぜ哲学をするのか

なぜかというと、人間の言葉というものは、目に見えないものを語るという仕事に適していないからです。言葉はもともと意味のない音の羅列です。人間は、仲間どうしでの言葉が繰り返し使われる場面の経験を積み重ねることから、感情を共感し、運動を共鳴することによって、意味を学習する。話し手の表情、声色、前後の状況、仲間の聞き手の反応などを繰り返して感じ、自分でも真似ることで感情を共感し、少しずつ意味がおぼろげに分かってくる。

話し手と聞き手が、目の前の物質を見ながら、触りながら、それについて話すときに限って、言葉の意味は明確になれる。つまり言葉は、複数の人間が同時に目で見えて手で触れる物質世界のことしか、正確には語れない。自分の内部でしか感じられない、他人の目には見えない、錯覚の存在について正確に語ろうとすればするほど、おかしくなっていくしかない。

人間が仲間どうし協力して、世界の法則を利用して、生存繁殖するのに役立つ仕組みだったから、言語は発達した。生存繁殖以外の目的に役立つような機能は、むしろ、言語が生まれる瞬間から切り捨てられていった。余計な機能を持たず、生存繁殖することだけに役立つ実用的な言語操作機構を持った人類だけが生き残って、世界中に伝えたものが、現在私たちが使っている言語なのですから。そうして使われて伝えられてきた言語が、哲学とか、この世の深遠な真理などを解明する機能を持っているはずがありません。こういう仕組みで作られた人間の言語を使う以上、だれが語っても、目の前の物質世界と関係がない、実用の役に立たない、深遠な哲学的真理などを正確に語ることはできない。

天才的な哲学者が現れたとしても、その才能は古い錯覚を批判し、新しい錯覚を発明して、それで人々を説得すること、つまり古い曖昧な言葉を言い換えて、新しい曖昧な言葉で世界を語りなおすことに使われるしかない。

それはそれで、時代に合わせて社会を運営するためには大事な才能です。人々が、周囲の仲間との毎日の会話を通して、自分が日々なすべき仕事をはっきりと理解し、それぞれの持ち場を懸命に守っていくようにしむけなければならない(また、そうなることが、支配体制にとってはぜひ必要なことです)。都合のよいことに、人間の脳神経系は、なにか大きな神秘的で尊厳のありそうなものにひれ伏し、つき従おうとする傾向がある。この傾向を利用すれば、偶然見つけた神秘的な現象をうまく組み立てて、神聖な物語に作り上げ、人々に受け入れさせることができる。

極端に言えば、手品でもいい。日食のときに、深刻そうな顔をして、わけの分からない呪文を唱えれば、太陽はこの世に戻ってきます。その手品を、手品師自身が心から不思議だと思ってしまうと、哲学になる。ふつう、この手品には日食のような自然現象ではなくて、言葉が使われる。言語技術による手品ですね。

「死とは何か?」、「人生の目的は何か?」などと叫んでみる。それで聴衆を集めることに成功すれば、立派な言語技術者です。人々を幻惑できれば、言語技術者は手品師ということになる。しかし、そのときに、手品師自身が自分の作った手品の不思議さに幻惑されてしまうと、本物の哲学が始まる。そして手品の種がばれなかったら、その場合、逆説的ですが、その哲学の神秘さが、社会の役に立つことになる。つまり、言語技術の手品師は職業としてなりたつ。少なくとも、支配体制から給料をもらえます。

そういう社会現象として、優秀な言語技術者たちは、あるときは神官、あるときは官僚、あるときは学者、教育者、マスコミに姿を変えて、この世の神聖な、尊厳のある、権威ある仕掛けを再生産していく。これらの優秀な人々の努力によって、時代にあわせて哲学は改訂され、新しい哲学によって改めて明瞭になった言葉を使いこなして、新しい宗教、新しい神話、新しい道徳、新しい法律が作られてきた。

しかしながら、その社会システムの根底を作っている言葉はいつの時代でも、人々の錯覚の共有にしか根拠がない。それはある時代、強い存在感を伴って、だれにも共感される。しかしある時代に機能した錯覚体系、バーチャルな意味のネットワークは、次の時代には古い神話のように、あるいは使えなくなった過去の紙幣のように、人々に違和感を与え、かび臭い匂いを発しながら存在感を失っていく。

現代の私たちが社会生活の基盤として使いこなしている言葉、人生を考えるときの基本的な言葉と思っている重要な言葉たち、たとえば、世界、命、心、私、幸福・・・。主体性を持った私たち個人の存在感を表わす言葉の体系。それらは永久に使われる言葉なのでしょうか? それらは何百年後の時代にも、しっかりと存在するものなのでしょうか? 

これらも錯覚の体系であるからには、次の時代には迷信や呪術のように消えていくものなのでしょう。かつて近代哲学の基礎として使われてきた深遠な響きを持つ言葉の体系は、現在ほとんど、現代科学とは整合性が取れず、すでにほころびています。

科学では説明できないものがこの世にはある、とよく言われる。そう言われれば、確かにそんな気もする。しかし、ここまで精密に物質現象を説明できるようになった現代科学がいまだに説明できない神秘的なものが、本当にこの世に存在するのでしょうか? 科学で、存在することが説明できないものは、実は、もともと存在しないから説明できないだけなのではないでしょうか? 私たちは、科学では説明できないものが、いくつもあるような気がする。しかしそれは、あるような気がするだけで、あるのとは違うのではないですか? 

天狗もそれです。長老の話を聞くと、天狗は間違いなく森の奥にいるとしか思えない。しかし科学は天狗の存在を説明できない。でも、だから、天狗はいるのだとは言えません。科学はサンタクロースの存在も説明できない。だから、科学は万能ではない、とはいえる。ただし、科学が万能でないからといって、それを理由にサンタクロースが存在することを主張するのもおかしい。

一方、現代科学は宇宙のダークマター(暗黒物質)の正体を説明できない。しかし、ダークマターは、科学者が天文観測のデータを使って力学方程式を計算し直した結果、そういうことを言い出したから問題になったのであって、一般の人々が、昔から、それがあるような気がしていたわけではない。昔から人間が、直感で、この世にあるような気がしている物事と、実際に科学が発展して現実に発見される事実とは、だいぶ違うのが歴史上の通例です。

昔から人間が、この世にあると思い込んでいる物事・・・たとえば、この世界、この現実の世界。確かに私たちは、これをはっきり感じていますが、そもそも、そんなものは、実は、存在しないかも知れません。命、心、サンタクロース・・・  そういうようなものも、存在しないのかも知れません。自分? そんなものも、実は存在しないのではありませんか?

大昔の人々は、魔物に取り付かれることを防ぐために、身体中に刺青をする必要があった。たぶん、それと同じ理由で、現代の私たちは、現実、自分、自分の人生、自分の損得、自分の幸不幸、という物事の存在感を必要とするのかもしれない。

魔物が目に見えないように、人の命、人の心、人と人との結びつき、私、私の人生あるいは私の幸福、そういうものも目に見えず物質で示すことができない。魔物や竜や天狗や精霊や霊魂や座敷わらし、そういう目に見えない存在感は、中世の人々にはしっかりと感じられたのに、現代の私たちには、まったく感じられなくなっている。中世までの人々は、眠っているときに見たでさえも、この世のどこかで実際に起こっている事実、あるいは将来起こるべき事実を見たのだと思い込んでいた。現代人は、睡眠中に見る夢が、タイムマシーンだとか、どこでもドアだとか不可思議な装置になっていて、どこかの現実の一部を自分の所へ移動させてきたものだ、などとは、まず思わないでしょう。

世界、命、生、死、心、自分、私、幸福・・・。さらに言えば、存在、認識、思考、欲望、意思、意識・・・。哲学が基礎にしている、そういうものたちは本当にあるのでしょうか? 私たちが、まじめに大事な話をするときには、必ず使われる、こういう言葉たち。こういう言葉を使って、自分たちの一番大事な思いを語り合おうとする私たち現代人。小学生のいじめとか、自殺とか殺人が報道されると、偉い人たちが競ってその大切さを説こうとする「命」や「心」や「自分」や「幸福」。そういうものたちが、実は、この世に存在しないものだとしたら、子供に聞かせる話もできない、新聞も書けない、テレビの討論会もできない。国会討論も裁判もできない。私たちはとても困ってしまいます。そういう神秘的に思えるものがなくなってしまったら、哲学者が困る。宗教家も困ります。しかしそれ以前に、私たちだれもが、真剣な議論もできず、自分の大事な思いも語れず、すっかり困ってしまうのです。

目の前に見えるこの物質世界が客観的に存在していて、その中にある人体としてが存在していて、私は私の考えで私の身体を動かしていて、言葉をしゃべり、したいことをしている。私たちはそう思い込んでいる。筆者も、もちろん、そう感じています。あまりにも自明なことだと感じられます。だれもこのことを不思議なこととは思っていない。しかし、科学者でさえも気づいていませんが、実は、こういうことは科学で得られる知識とはまったく矛盾している。

たとえば、「私は私の考えで私の身体を動かしている」ということは、私の念力が私の身体を動かしているということですが、現代科学の知識によれば、念力などというものは物質現象としては存在しない。物質世界に存在しないものが物質を動かすことはできない。これは現代科学が間違っていて、念力が正しいのでしょうか?将来、念力は科学に含まれるのでしょうか?

そんなことは、まずないでしょう。これからも科学は進歩して、物質の世界像は改訂されていくでしょうが、それは私たちの錯覚が正しいことを科学が認めてくれる方向には行きません。科学の歴史は、それをはっきり示している。(ただし、現代の科学のアプローチで、この意識・意思問題が解けることもないでしょう。それには、現代科学が一皮むける必要がある、つまり哲学の科学が必要だ、というのが拙稿のメインテーマですが、その中身はだんだんと述べていきます)

さて、その程度のことが分かってはいても、今現在の状況では、私たちの感じ方が錯覚だからといって、すぐ改めるわけにもいかない。現代科学の実態を知っている科学者も自分の日常生活では、当然のこととして、自分は目の前にある物事を認識し、それについてしっかり考えた上で意思を決定して自分の身体を動かしている、と思い込んでいる。

その思い込みの上に作られている言葉たち。世界、命、心、私、幸福・・・そして、存在、認識、思考、欲望、意思、意識・・・。

それらの言葉で表されるものたちは、現代人の私たちにはしっかりと存在しているように感じますが、この世にそういうものが本当にあるのでしょうか? あるように思えるのは本当ですが、本当にある、というのとは違う。

あるように思えるだけではないのか? そして、あるように思えるということだけが、人間の知り得るすべてではないのか? 

哲学はたぶん、ここにつまずいて間違っていった。私たち現代人はこのことに気がつき始めています(たとえば 二〇〇二年 ダニエル・ウェグナー意識的意思の幻影』)。たぶん、だから、そういう、かつては重みを持っていたはずの言葉たちも、それを頼りにする哲学も、人々から見放されていく。

(3 人間はなぜ哲学をするのか?  end

4  世界という錯覚を共有する動物

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人間はなぜ哲学をするのか(3)

2007-03-03 | 3人間はなぜ哲学をするのか

人類は、権威があり信頼性がある集団知識を蓄積し維持し、それによって周辺環境の変化の法則を知り、それを使って明日と明後日を予測して生きていく動物です。しかし、予測はやはり不確かな感じがして、頼りない。なるべくその確からしさを保証してくれる仕掛けが欲しい。一回一回の予測ではなく、予測全体に通じる基本的な保証が欲しい。つまり、世界の仕組みをしっかり教えて欲しい。そのためには、だれかが権威あるやりかたで世界の原理を解明して、人々に教えてくれなければならない。それが神話の始まりであり、後の時代の宗教と哲学の始まりです。

大昔、人類が暮らしていた自然の中には謎の現象、神秘の体験がけっこうあった。それから、もののけ、精霊、天狗などが作られた。「私はそれを見た。それはいるのだ! 信じろ! それは本当にいるんだ!」と真剣な顔で言う人がいつも何人もいたでしょう。「その通り!」と低い声で叫んで皆を感動させる長老がいたでしょう。錯覚はそうして集団的に作られ維持されてきたのです。

人間は人の心について考える。人の顔を見ると、いつもその顔の内側に心を感じる。顔を見ないときもその心を感じる。だからその人がそこにいてもいなくても、その人の心はどこかにある、その人が死んでしまってもどこかにあるのではないか、と思える。それがです。だから「魂はある」と長老が言い、皆が互いにそう言い合っていればその集団の知識としては、それがある。それで怨念を持って死んでいった人の魂、あるいは「もののけ」、が生きている自分たちに復讐しないように、に祭って鎮魂祭をする。

そういう哲学を持った人々の集団は、死者の怨念を恐れて裏切りや暗殺を控えるようになる。そうして、仲間どうしの信頼感は増し集団の団結が高まって繁栄する。「魂はある」と感じるような脳の機能を持った集団の人口は増え、その脳機能を作るDNA配列(ゲノム)を子孫に伝え、そういう哲学を伝える文化を子弟の教育によって伝承していく。そうなると、この世に魂というものが実際にあってもなくても、「魂がある」と感じる人間集団の数は増えていく。「魂がある」と教える宗教や哲学は、これまで有史以来、ずっと多くの人々を導き、生活を豊かにし、人口を増やすという実用性を持っていた。この哲学、あるいはそれが表現する魂、のように目に見えない存在をだれもが感じることによって犯罪や裏切りは抑止され、社会は安定して繁栄し、人々は安心して生活し、その結果、経済や技術が発展した。これが文明の基礎を作っている。つまり、哲学は実用的なものでした。哲学は、真理を語るかどうかではなくて、真理を語るとされることによって実用的に生活に役立ったのです。

しかし現代になって、状況は違ってきたのではないでしょうか?

原始時代、狩猟採集の時代は単純で良かったに違いありません。地球は平らで、毎朝、太陽が東の果ての地下から昇ってくるという哲学を信じていれば、十分実用的だった。太陽の影を測って、時計も暦もきちんと作ることができた。

しかし、それでは人工衛星は飛ばせない。

言語が発達し、農業が完成し、文明社会が発展すると、見通さなければならない世界が大きく複雑になってくる。個人の知識、経験が追いつかなくなる。複雑な人間関係や環境変化の法則が掴みにくい状況になる。

それでも分らないなりに、人間は、仲間どうしで共感できるいろいろな錯覚を見つけ出し、それらを組み合わせて物語を作り、世界を理解し、自分たちの人生を運転していった。そのために人間は世界全体、自分自身、命、心、魂、死、幸福、運命というような不思議な存在、そしてそれらの変化を支配しているかのように思える大きな神秘的存在などについて、実は何も分からないにもかかわらず、無理やりいろいろな理論(素朴心理学、素朴運命学、素朴医学、哲学など)を作り上げ、個人を超えて伝承し蓄積し、それらを集団知識として共有するようになったのです。

言葉を使って世界を説明する専門家が現れ、支配階級に認められて特権的な職業集団を作るようになる。そういう言語技術のプロ(拙稿では言語技術者という)たちは、次々と精緻な理論を組み上げて、権威を持って神を語り、人間のあり方を語り、心の理を語り、倫理を作り、法律を作り、科学を作り、哲学を書くようになった。

特に西洋文明の中に現れた言語技術者たちは論理をつめ修辞法を洗練させ、驚くべき明解さをもって世界を語った。ヨーロッパの多様な民族を相手にギリシア・ローマ文明とキリスト教を浸透させるために、相当優秀な言語技術者が抜擢された。ローマ国境周辺の蛮族たちは、文明が語る理論(法律、教義、農工技術)の緻密さに驚き恐れて、戦わずして隷従していった。

優れた言語技術者の集団は、人間関係と人間の感情を言葉で明瞭に表し、社会的な関係を言葉ではっきり言い分けていく。彼らは社会の指導者階級となり、学校を作り、教育制度を作り、啓蒙を行い、言葉の意味がはっきりだれにでも伝わっていくような社会を作っていった。言語技術者の子供たちは、学校で毎日言葉の使い方を習う。同時に世界の秩序を学んでいく。先生は偉い。教科書に書かれている言葉を作った学者は、もっと偉い。そういう権威のある立派な言葉を学習する。

アニミズムから発した感情であろうと、起源が明らかでない伝承からの抽象的な観念であろうと、明快な言葉を使って網の目のように論理の体系を張り巡らし、権威を持って若い頭脳に学習させていけばバーチャルな意味のネットワーク、つまり錯覚の使い方と文脈の語り方の体系が立派にできあがっていく。それは論理的であり、権威があり、信頼すべきものです。その中心に哲学があり、学者はそれを尊敬し、人々は学者を尊敬した。

そのあたりが西洋哲学の始まりです。宗教を普及し人民を統治するために、言語技術者たちは哲学によって教育され、聖職者になり、役人になり、学者になり、教育者になり、社会の指導階級になって法律や制度を作っていった。その人たちは「命」、「心」、「自分」、「利害得失」というようなものの存在感をしっかり感じることができました。自分の意思、自分の人生、というものをしっかりと見据えてそれらを間違いない論理で組み上げ、自分の社会的役割を意識し、ステータスを意識し、冷静に利害得失を計算し、自信をもって着々と仕事をこなす模範的な人々だった。

そういう人たちの仕事の一つとして科学が立ち上がり、目に見えて手で触れる物質についての理論体系を作ることに成功した。これは大成功でした。西洋人たちは科学を応用して、極度にエネルギー効率がよい、大きくて複雑で、あるいは極度に精密な、各種の機械装置を作り、地球を周回し、世界中にキリスト教やスペイン語や英語や銃火器や伝染病を広めた。

哲学者たちは、科学の大成功をうらやんだ。ところが哲学は、科学のように、明らかなところだけを語ってすますわけにはいかない。人々は哲学に、人間の経験する深遠な神秘を説明する理論を期待している。その期待に応えてこそ、哲学はもっとも高尚な学問としての地位を確保できる。最高の言語技術者である哲学者たちに、それが期待される。人々は天才的な頭脳を持った哲学者が現れて、この世の深遠な真理を解明してくれることを期待する。 

しかしそれは結局、無理なことを期待しているわけです。人間が自分の感じるものの全体を理解するための理論を言葉で語ろうとすると、天才であろうとなかろうと、結局は間違いを語るしかなくなる。

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