ふつう人間は死んだら消えるものです。それが、人が死ぬということの意味でしょう。しかしその人間がその話の話し手としての私である場合に限っては、死んでも消えることができない。私は消えないという前提でしか、私が死ぬという話を語ることはできない。消えてしまっては「私」という話し手が語るその表現が言語として成り立たないからです。消えられない私が消えることが「私が死ぬ」という表現である。そういう矛盾がある。これは存在の理論が含む矛盾でもあります。
おなじように国家あるいは民族は滅亡すれば消えるものです。こういう場合、その話をしている話し手は滅亡する国家あるいは民族の外側にいてそれを語っている。しかし世界全部が滅亡するという話をする場合、それを語る話し手は世界の中にいる。その話し手は世界が滅亡しても消えることはできない。世界が滅亡するという話をする話し手は世界に含まれている。世界が滅亡するという話が言語として成り立つためには、話し手の身体が生きて動いていなければなりません。つまり世界が滅亡するという話を語っている話し手は世界とともに滅んでいなくなると同時に生きて動いている。
これも存在の理論が含む矛盾ですね。
要するに私たちがある物事の存在について語るときは、私たちの身体がその物事の存在感を感じ取れることを暗黙の前提として語っている。それが、物事が存在する、という言語表現です。現在形であろうと、過去形であろうと、未来形であろうと、現実の物事の存在について語るときは、それが存在する時点でそれが存在することを感じ取っているはずの私たちの身体がそこにあるはずだ、という暗黙の前提がある。
過去のことを語るときは、過去のその時点に話し手の身体があることを暗黙のうちに想定して、その身体の動きがその過去の存在に対応して反応している、という前提のもとに語られる。六千五百万年前のティラノサウルスの生態について語る話し手はその時その場所に自分の身体があって恐竜の咆哮に反応して恐怖で鳥肌が立つ感覚を想像しながら語るでしょう。未来のことを語るときも、同じように、未来のその時点に話し手の身体があってその反応がその未来の存在を表現する、という前提のもとに語られています。
フィクションを語るときも、まったく同じように、話し手の身体は語られる物語のその内容の中にあって生き生きと反応することで、語られるその言語の内容が表現されます。こうして、その言語が表現する存在はそこに存在することになります。
フィクションは、むしろ現実よりも現実感がなければフィクションとしてなりたたない。オズの魔法使いがただの手品師であることが分かったとき、童話の話し手も聞き手も、ほっとしたような、またがっかりしたような反応が自分の身体にひろがることを感じるはずです。魔法使いオズが、私たちの身体の反応のそこに存在する、といえます。
物語の登場人物ばかりでなく、現実の人間も、動植物も、身の回りの物事も、素粒子や原子や太陽や宇宙も、記号や文字や概念や数学や音楽も、(拙稿の見解では)人間が感じ取れるすべての存在は、そのように私たちの身体がそれに反応することで存在する。またそのようにしか存在できません。
物事が現実に存在する、あるいは存在しない、という話をする場合、私たちの身体がその話の中の存在に対して一貫して反応し動き続けるという暗黙の前提がなければなりません。それが人間の言語の前提になっています。つまり(拙稿の見解では)私たちの身体が反応することが想定できないような場面の話をしようとしても、そこで語られる物事の存在は、はっきりとした現実としての意味を持つことができません。
さて話を元に戻して、存在の認知における後段プロセスの検討に入りましょう。
前段プロセスで私たちの身体がある物事の存在感を感じ取ったとしましょう。それを感じ取るということは(拙稿の見解によれば)私たちの身体の状態が変化しているということです。たとえば、リンゴの存在を感じ取って唾液腺が興奮状態になるというような例です。そのような身体の変化が(前段プロセスにおける)リンゴの存在感である、といえます。逆に、このようなプロセスが起こっていなければ、はっきりとリンゴが存在しているとはいえません。つまり存在の認知に関するこのような前段プロセスは、その物事が存在するための必要条件である、といえます。
しかしこの前段プロセスが起こっただけではその存在感には言葉が伴っていません。そこから後段プロセスがはじまって「××が存在する」という言葉が作られる。つまり存在が言語化される。それはどういう仕組みになっているのか?
後段の認知プロセスでは、私たちは仲間の人間と一緒に物事の客観的な存在を共有します。原始人類に言語が発生した過程では、(拙稿の見解では)実際にそばにいる仲間の動作や表情、特に視線の動き、に自分の視線コントロール(体軸の姿勢変更、顔の振り向けと動眼運動の組み合わせ運動)の運動形成を共鳴させて同じ物事を同じように見とっているという(運動共鳴による)身体感覚を感じとることで物事の存在を認知していたと思われます (拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。