哲学の科学

science of philosophy

存在は理論なのか(11)

2011-05-28 | xx5存在は理論なのか

ふつう人間は死んだら消えるものです。それが、人が死ぬということの意味でしょう。しかしその人間がその話の話し手としての私である場合に限っては、死んでも消えることができない。私は消えないという前提でしか、私が死ぬという話を語ることはできない。消えてしまっては「私」という話し手が語るその表現が言語として成り立たないからです。消えられない私が消えることが「私が死ぬ」という表現である。そういう矛盾がある。これは存在の理論が含む矛盾でもあります。

おなじように国家あるいは民族は滅亡すれば消えるものです。こういう場合、その話をしている話し手は滅亡する国家あるいは民族の外側にいてそれを語っている。しかし世界全部が滅亡するという話をする場合、それを語る話し手は世界の中にいる。その話し手は世界が滅亡しても消えることはできない。世界が滅亡するという話をする話し手は世界に含まれている。世界が滅亡するという話が言語として成り立つためには、話し手の身体が生きて動いていなければなりません。つまり世界が滅亡するという話を語っている話し手は世界とともに滅んでいなくなると同時に生きて動いている。

これも存在の理論が含む矛盾ですね。

要するに私たちがある物事の存在について語るときは、私たちの身体がその物事の存在感を感じ取れることを暗黙の前提として語っている。それが、物事が存在する、という言語表現です。現在形であろうと、過去形であろうと、未来形であろうと、現実の物事の存在について語るときは、それが存在する時点でそれが存在することを感じ取っているはずの私たちの身体がそこにあるはずだ、という暗黙の前提がある。

過去のことを語るときは、過去のその時点に話し手の身体があることを暗黙のうちに想定して、その身体の動きがその過去の存在に対応して反応している、という前提のもとに語られる。六千五百万年前のティラノサウルスの生態について語る話し手はその時その場所に自分の身体があって恐竜の咆哮に反応して恐怖で鳥肌が立つ感覚を想像しながら語るでしょう。未来のことを語るときも、同じように、未来のその時点に話し手の身体があってその反応がその未来の存在を表現する、という前提のもとに語られています。

フィクションを語るときも、まったく同じように、話し手の身体は語られる物語のその内容の中にあって生き生きと反応することで、語られるその言語の内容が表現されます。こうして、その言語が表現する存在はそこに存在することになります。

フィクションは、むしろ現実よりも現実感がなければフィクションとしてなりたたない。オズの魔法使いがただの手品師であることが分かったとき、童話の話し手も聞き手も、ほっとしたような、またがっかりしたような反応が自分の身体にひろがることを感じるはずです。魔法使いオズが、私たちの身体の反応のそこに存在する、といえます。

物語の登場人物ばかりでなく、現実の人間も、動植物も、身の回りの物事も、素粒子や原子や太陽や宇宙も、記号や文字や概念や数学や音楽も、(拙稿の見解では)人間が感じ取れるすべての存在は、そのように私たちの身体がそれに反応することで存在する。またそのようにしか存在できません。

物事が現実に存在する、あるいは存在しない、という話をする場合、私たちの身体がその話の中の存在に対して一貫して反応し動き続けるという暗黙の前提がなければなりません。それが人間の言語の前提になっています。つまり(拙稿の見解では)私たちの身体が反応することが想定できないような場面の話をしようとしても、そこで語られる物事の存在は、はっきりとした現実としての意味を持つことができません。

さて話を元に戻して、存在の認知における後段プロセスの検討に入りましょう。

前段プロセスで私たちの身体がある物事の存在感を感じ取ったとしましょう。それを感じ取るということは(拙稿の見解によれば)私たちの身体の状態が変化しているということです。たとえば、リンゴの存在を感じ取って唾液腺が興奮状態になるというような例です。そのような身体の変化が(前段プロセスにおける)リンゴの存在感である、といえます。逆に、このようなプロセスが起こっていなければ、はっきりとリンゴが存在しているとはいえません。つまり存在の認知に関するこのような前段プロセスは、その物事が存在するための必要条件である、といえます。

しかしこの前段プロセスが起こっただけではその存在感には言葉が伴っていません。そこから後段プロセスがはじまって「××が存在する」という言葉が作られる。つまり存在が言語化される。それはどういう仕組みになっているのか?

後段の認知プロセスでは、私たちは仲間の人間と一緒に物事の客観的な存在を共有します。原始人類に言語が発生した過程では、(拙稿の見解では)実際にそばにいる仲間の動作や表情、特に視線の動き、に自分の視線コントロール(体軸の姿勢変更、顔の振り向けと動眼運動の組み合わせ運動)の運動形成を共鳴させて同じ物事を同じように見とっているという(運動共鳴による)身体感覚を感じとることで物事の存在を認知していたと思われます 拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」

Banner_01

コメント

存在は理論なのか(10)

2011-05-21 | xx5存在は理論なのか

ここでちょっとややこしいケースは、私自身が死んでしまう場合ですね

拙稿19章「私はここにいる」)。その時の私の存在はどうなるのか? 死んでしまった私は存在するのか?しないのか?

私が死んでしまうという場合はその事実を感じとる私はもういない。そうするとそのことを感じて私の身体がどう反応するかも分からない。私の身体の状態自体が存在しない。そうであると、(さきの拙稿の見解によれば)私が死んでしまうことの意味が分からなくなります。他人から見て私が死んでしまうということはよく分かる。私の身体が骸骨になってしまうという単純明快なことです。しかし私から見て私が死んでしまうということはどういうことなのか?それはさっぱり分からないはずです。私がもういないという現実に反応する私の身体がもうないからです。

世界がなくなるという言葉も似たようなむずかしさがあります。世界がなくなるとだれかがそのことを感じ取って身体を反応させることができなくなりますね。ですから、私が死ぬという言葉、あるいは世界がなくなるというような言葉は、実は(さきの拙稿の見解によれば)意味不明になる恐れを含んでいます。

私が死んでしまう。あるいは世界がなくなる。こういう言葉は、詩的な比喩としては何らかのイメージを感じることはできますが、それはほかの現実と整合しません。こういう言葉から無理やり直感で意味を感じ取ろうとすると変な幻想が作られてしまいます。かつて哲学が落ち込んでいった危ない落とし穴です。気を付ける必要がありそうです。

このことを少し離れたところから落ち着いて考えると、私や世界がなくなるという言葉ばかりでなく、もともと私が存在する、あるいは世界が存在する、というような言葉がそもそも何を意味しているかにも同じむずかしさが含まれていることが分かります。話し手がいなくなった場合を想定して語る(自己回帰的な)表現になっています。こういうような言葉から無理やり直感的な意味を感じ取ろうとすることはかなり危険だといえるでしょう。こういうような自我の存在にかかわる概念を分析の対象としようとした哲学者あるいは宗教家が混乱に陥った例は歴史上多くあるようです(

一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』既出)。

このような(自己回帰的な)言葉から、無理やり直感で意味を感じ取ろうとすることは危険です。ただし、だから意味がないとか意味不明として切り捨ててしまってよいのかというと、それはそうでもないでしょう。

そもそも物事が存在するとかしないとか言う場合、私たちはその物事から少し離れて、仲間の立ち位置に立って見ている。注目する物事が皆の目の前にあって、皆でそれを見つめている。その物事は、それに近寄って手を伸ばせば皆でいっせいに触れる、と思える。あるいはその物事のほうが動いて私たち皆に接近してくる。私たちの身体に影響を与える。そういう状況にあるとき、私たちは、その物事がそこに存在する、と仲間の皆で感じる。そういう状況で仲間と共有できる感覚として、存在感という感覚が人類に発生してきたと思われます。

物事が存在する、と私たちが思う場合、仲間とともに仲間の視点でそれを認知する、という無意識の前提に立っています。そのような身体の状態が(拙稿の見解によれば)物事の客観的存在感を作り出している。私たちはそのことにあまり気が付かない。ただそこにその物事が客観的にある、と感じます。それが存在するということです。

「××がある」あるいは「××が存在する」という言葉を言う場合、その××は話し手から少し離れたところにあって、話し手は聞き手やその他その××を感じ取っている仲間の人間と一緒に××を感じ取りながらその言葉を言う。これが存在という言葉の使われ方の始まりでしょう。言語というものは(拙稿の見解によれば)そもそも仲間との集団的な運動共鳴によって作られています

拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」。実際には仲間がいなくても、そういう無意識の想定のもとに、私たちの言語というものは使われています。

「××が存在する」という言葉を使う場合でちょっとむずかしい例は、××が「私」である場合です。この場合も、「私」は話し手から少し離れたところにあって話し手と聞き手とその他の人間に見られているものである、という暗黙の前提のもとでその語は使われる。そういうものとして「私」は語られる。逆に、「私」が言葉で語られる場合そう語られるしかない。そういう前提のもとにこの「私は存在する(sum)」というセンテンスは語られる。

この言葉の中で語られている私は生きていても死んでいても、どちらにしても、話し手と聞き手には客観的なものとして見えていなければならない。言葉で語ることができる私は、そういうものでしかない。口に出す言葉でなく頭の中で思う言葉であっても、それが言葉である限り、言葉で語られる「私」は、他の人間と同じようにそういう離れたところにある客観的な存在になっています。

「××が存在する」という場合、その××が「世界」である場合、「世界」は話し手から少し離れたところにあって話し手と聞き手とその他の人間に見られている。そういう想定のもとに「世界は存在する」という言葉は語られる。世界が滅亡してしまうとしても、その滅亡した後の世界は話し手から離れたところに見えていなければならない。話し手と聞き手とその他の人間に見えていなければならない。そういう前提のもとにこの言葉はあります。言葉で語られる限り、滅亡する世界もふつうの物体と同じようにいつもそこに見えていなければならない。言語で語る限りこのような限界の中でしか物事の存在は表現できません。

そういう言語の限界から結論すれば、私は死んで消えることはできないし、世界も滅亡して消えていくことはできない。話し手と聞き手が共有する空間の中に見え続けていなければならない。そうであるので、その共有空間では私は死んでも消えていかないし、世界は滅亡しても消えてなくなることはない。つまり私は死んでも死なないし、世界は滅亡しても滅亡しない。直感と矛盾するパラドックスです。しかし、私たちの言語というものはそういうパラドックスを含んで成り立っています。

Banner_01

コメント

存在は理論なのか(9)

2011-05-15 | xx5存在は理論なのか

さてそもそも、ある時点に存在した物事はなぜ別の時点には存在しなくなるのでしょうか? この世界にある物事は(拙稿の見解によれば)それが私たちの生活のために必要である場合に、それを利用しやすいように私たちの身体を変化させることで、それが存在するようになる。拙稿のこの見解を採用すれば、物事に対する私たちの身体の反応を見ればどのような物事がどう存在しているのかが分かるはずです。

同じ物事でも、私たちはある場合はそれをこう利用するけれども、また別の場合は違うふうに利用する、ということがあります。そういう物事は、その時その時に必要な別々の物事として、それは存在することになります。

新聞紙などは、防寒用下着の代わりになる。爪を切って捨てるときに使う。折りたたんで入れ物にもなるようです。兜も折れる。また当然ですが新聞を読む場合に使えます。それぞれの場合、そういうものとして存在しています。

またたとえば、子供向けの本などによく載っているダマシ絵を見てみましょう。左右対称の壺の絵があります。ルビンの壺というダマシ絵です。よく見ると左右から向き合った二人の左右対称な横顔になっています。壺とみると人の横顔は見えなくなる。横顔とみると壺は見えなくなります。

壺が存在すると横顔は存在しない。横顔が存在すると壺は存在しない。壺と横顔が同時に存在することはありません。同じ絵なのに存在する物事は違う。壺が必要なときは壺が存在する。横顔が必要なときは横顔が存在する、といえます。つまり、私たちの身体がそのときどちらに反応するか?それでどちらが存在するかが決まる。どちらに身体が反応するか?それは、そのときの私たちの身体が求めている物事がどちらかで決まります。壺を求めていれば壺になる。横顔を求めていれば横顔になる。

似たような効果を持つダマシ絵には「アヒルかウサギか?」というものもあります。同じ絵がアヒルに見えたり、ウサギに見えたりする。アヒルのくちばしに見えたところがウサギの耳に見えたりする。この現象を、拙稿の見解で理解すれば、身体がアヒルを求めていればアヒルが現れる、身体がウサギを求めていればウサギが現れる、ということです。そういうものが現実である。私たちは本当にこの絵を見ているのか?私たちが見ているのはアヒルであるかウサギであるかであって、この絵ではないだろう(一九五三年 ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン哲学探究』既出)ということになる。私たちの身体はそういうふうに現実を感じるようにできている。そういうものが現実である、ということができます。物事が存在するということは、そういうことである、ということができます。

ダマシ絵はそれくらいにして、実物で見てみましょう。

目の前にリンゴがある場合と、そのリンゴがリンゴでなくなった場合とでは、私の身体の反応が違います。私たちの身体の内部状態が違う。少なくとも脳神経系の状態は違う。おそらく自律神経系や心臓血管系や分泌腺や筋肉の緊張度合も微妙に違うでしょう。たとえばリンゴがある場合は唾液腺が興奮していたりします。

無機的なものではなく、有機的なもの、生きているもの、特に身体があり顔がある動物や人間の存在は、より強く私たちの身体を変化させます。だれか人が私たちのそばにいる場合、私たちの身体は誰も人がいない時とは明らかに違う反応をしています。

よく知っている人の存在の影響はさらに強い。自律神経系などは、嫌いな人が近寄ってくれば緊張するし、親しい人と一緒にいるときは緊張がほぐれます。テレビを見ていても嫌いなアナウンサーやタレントがしゃべっているときはリラックスできない。好きな俳優の顔が出ると気分がよくなります。人のことを想像するだけでも違う。人が生きている場合と死んでしまった場合とではその人を思う時の私たちの身体の状態が違います。その物事が存在するということは、そういう私たちの身体の状態のことである、と(拙稿の見解によれば)言えます。

たしかに目に入ってくる光が網膜に映す映像を感じて、私たちの身体がそういう変化を起こすのですが、私たちとしては、身体が変化した結果を感じることで自分が映像を見ていることを知る。(拙稿の見解によれば)映像が先ではなくて身体の変化が先です。身体が変化することでその物事の存在が分かる。そしてその存在を見ている自分に気が付く。それと同時に自分の目がその映像を見ているという自覚が湧き上がってきます。

物事が存在しているか存在していないか。それは私たちの身体がその物事が存在しているとして反応するか、それとも、存在していないとして反応するか、によって決まる、と(拙稿の見解によれば)いえます。

目の前にその物事が見える場合ばかりでなく、それを想像する場合も同じことです。想像する物事が存在するかしないかは、それを想像するときに私たちの身体がどう反応するかで決まる。お化けの話を聞いて、身体が硬くなって膝ががくがくして舌が乾いてきて逃げ出したくなったら、そのお化けは、身体をそういうふうに変化させるものとして、存在しているのです。

Banner_01

コメント

存在は理論なのか(8)

2011-05-07 | xx5存在は理論なのか

さてここで後段プロセスの話を始める前にしっかり確認しておかなければいけないことは、前段プロセスでの言葉にならない無意識の認知があってはじめて、後段プロセスの言葉が浮かんでくることです。

この

言葉にならない無意識の前段プロセスを進める脳神経系のメカニズムは、現代の脳神経科学ではまだ解明されていません。現代の脳機能画像化技術だけでこれを解明することはむずかしそうです。このメカニズムの解明は、神経細胞単位の微小かつシステム的な観察技術の開発がなされるであろう次世代の脳神経科学における最大の課題のひとつとなるでしょう。いずれにせよ、現在の科学知識で私たちが分かることは、人間の脳神経系の状態が認知プロセスの始まる前と前段が完了した時点と後段が完了した時点と三つの時点でそれぞれ別の状態になっているということです。そして後段プロセスは前段プロセスが完了した後でないとはじまらない、ということです。

たとえば、リンゴがそこに見えるとしても、前段プロセスで身体がその存在感を認知しなければリンゴは存在できません。前段プロセスでリンゴの存在感が成り立たない例をあげてみましょう。

まず私がこのリンゴを見ないうちに、だれかが来てリンゴを粉砕してしまうことを考えてみましょう。その人はリンゴをミキサーに放り込んでこなごなに粉砕してしまいました。そのジュースに庭から拾ってきた泥をまぜてよくかきまぜています。さらに、台所から粉せっけんを持ってきてまぜています。さらに冷蔵庫から卵を出して割って殻ごとぐちゃぐちゃにかきまぜています。さらに押入れから古いパソコンを持ちだしてきて金槌で粉々に粉砕して破片を先の混合物にまぜあわせて練り合わせています。ついでに細かくちぎった紙くずとセメントも少しまぜてしまいました。もう何が入っているか分からないぐちゃぐちゃの混合物ができました。さあ、これは何でしょう? 

まさにゴミですね。生ゴミかな?いやプラスチックも入っている。金属も入っている。分別しないゴミですから、清掃局に叱られてしまいます。

さて、私はこの混合物の作り方を見ていなかった。私は目の前にある不規則な形をしたぐちゃぐちゃのかたまりを見ています。たしかにリンゴが粉砕されてこの混合物の中身に含まれています。しかし私にとって、ここにリンゴは存在していない。なぜならば、リンゴの匂いはほとんどしないし、おいしそうなリンゴの片鱗もないし、食べられるものはまったくないし、目で見ても何があるのかさっぱり見分けがつかない。

つまりここにある何かは、ゴミですね。

ふつうゴミは一目見てそれがゴミだと分かる。ゴミ置き場にそれらしく置いてあるからです。そして見るからに役に立ちそうにない。

役に立たないものはゴミである。ゴミというのは、それが存在することを人間が必要としないもののことである。そうであるから、ふつうゴミは存在していないことが多い。自分の受け持ち空間を清潔に維持しなければならない場合だけ、そこにゴミは存在している。きたないのがいやなところにだけゴミは存在している。ゴミが存在していると私が思わないとそこがどの程度清潔でないのか分らなくなってしまって困るから、そういう場面でゴミは存在している。

今私にはゴミは見えるけれどもリンゴは見えない。リンゴは粉砕され、ほかの物質と混じって分からなくなった。こうしてリンゴはなくなった。リンゴがリンゴでなくなりました。存在しなくなりました。

私が死んでしまうと私はいなくなる。私の身体が骸骨になってしまう。その骸骨もいずれ塵になってしまう。私の身体であった物質は塵や灰になってしまう。私は私ではなくなる。私がいなくなってしまう。私は存在しなくなる。災害で町は破壊されてなくなってしまった。町だった場所が一面瓦礫の山に覆われてしまった。町が町でなくなってしまった。町は存在しなくなった。数十億年後には太陽は燃え尽きて膨張し地球も巻き込まれる。地球は地球でなくなる。地上の世界は消えてしまう。

こうして、物事は存在しなくなる。物事が存在しなくなる場合はいつもこうです。逆に言えば、存在しなくなるということはこのようなことを言っている。

破壊されると存在しなくなる。死ぬと存在しなくなる。破壊、死、なくなること。たとえば死ぬことを亡くなる、という。このように言葉を言い換えることができる、といえます。

そうであるとすれば、世界がなくなるということは、世界が破壊されること、世界が世界でなくなること、と言い換えることができるはずです。実際、直感でこの感じは分かりますね。

リンゴが破壊されても植物細胞は残る。細胞が破壊されてもDNA分子は残る。分子が破壊されても原子は残る。原子が破壊されても素粒子は残る。素粒子が消滅してもエネルギーは保存される。しかしリンゴはもうない、というべきでしょう( 二〇〇五年 クロフォード・エルダー本当の自然とよくある物体たち』既出)。

Banner_01

コメント

文献