哲学の科学

science of philosophy

目的の起源(6)

2013-10-26 | xxx6目的の起源

意図を持つ主体が目的を追求して行動することで世界の物事が推移するという世界観は目的論と呼ばれ、アリストテレスから近代哲学に至る西欧哲学の系譜のひとつになっています(BC三三〇年頃 アリストテレス形而上学』既出、一七八一年 イマニュエル・カント純粋理性批判 』既出)。このような哲学、あるいは認知システムは、私たちが人間や動物の動き(あるいは心理現象や社会現象)を見る場合しばしばこういう見方をしているというところから来ている、といえます。

 

 

これに対して因果論と呼ばれる、物事はすべて原因から結果が引き起こされることが連鎖して推移していくのみであってどこにも目的を追求する主体などはない、という考え方も、古くから東洋にも西洋にもあります。西洋哲学ではこちらもアリストテレスから始まって近代哲学(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論』既出)において発展し、現代科学の根底(一八六四年 ジェームス・クラーク・マックスウェル電磁場の動的理論」既出)を支える思想になっています(自然主義という、哲学の科学: 世界の構造と起源(18) - 哲学はなぜ間違うのか?

 

 

 

 

人間は意志を持って自由に自分の身体を動かしている、という自由意思による人間観は生まれつき私たちの感覚に埋め込まれているようです。またこのような感覚が万物を対象に拡張された目的論的世界観は、霊長類共通の認知機構を基礎とする人類の生得的機構であるとみることができます(一九五七年 エリザベス・アンスコム『意図』既出、一九八七年  ダニエル・デネット意図的観点』既出)。拙稿の見解では、この認知機構が言語の基礎になっている(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」 )。また同時にこの機構が、次に述べるように、私という存在の基盤にもなっていると思われます。

 

 

目的論・意図的行動により世界を描写する理論(反自然主義という)を採用するならば(実際私たちは日常この理論を使って会話していますが)、私の身体が動いているのは当然それをだれかが意図を持って動かしているはずだ、ということになります(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか? 」)。そのだれかは私と呼ばれるものだ、と私たちは思います。

 

 

実際、私たちの言語の構造がそうなっているからです。言語を使うことで私というものの存在が現れてくる。言語を使う瞬間、私という存在を認めざるをえない。そうして「私が存在する」という言葉を使うことによって、自然に、私が存在すると感じられることになります(拙稿12章「私はなぜあるのか?」 )。

 

 

そうなってくると、今度は、私が存在するからには、私というものは目的を持っているはずだ、私の存在の目的は何か、人生の目的は何か、というような哲学的疑問が生まれてくるわけです。

 

ところが一方、因果論(あるいは場の理論 )による世界の描写(自然主義)を採用するならば、人間の身体といえども因果関係にしたがう物質現象によって自然に動いているわけだから、自分の思考を含めて身体の状態の現状は、そうなる直前の身体の状態とそれに影響を与える周辺環境の状態とを原因として物質の法則によって決まる結果が現れることで実現している、ということになります。

 

 

空気の分子の現在位置と運動量から次の瞬間の風速方向と風量が決定する。そうして風は、だれの意志にもかかわらずに、吹く。

 

そうだとすれば、この身体も風が吹くのと同じように、自然現象として動いていることになるから、意志を使ってそれを操縦している私という主体が存在すると言わなければならない理由はありません。(拙稿24章「世界の構造と起源(19)

 

 

因果論によるこのような考え方は当然、大昔からあって、人が物質や道具を操る場合にはもっぱら使われてきました。現代においてこれが洗練された先端に現代科学があります。人間の身体に関しても人がそれを物質としてみなす場合〈医学など〉や道具として使用する場合〈スポーツなど〉は、この考え方が使われます。

 

 

 

 

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目的の起源(5)

2013-10-19 | xxx6目的の起源

「ライオンはなぜシマウマを襲うのか?」ケニヤでシマウマを追っているライオンを見て、あるいはテレビでそれを見て、質問するのは、ふつう、大人ではなくて、子供たちでしょう。大人は、ライオンがシマウマを追うのはサラリーマンが会社に行くようなものでいまさら目的を考えるまでもない、と思う。幼稚園生は違う。ライオンの疾走を見て、彼らは「なぜ」と質問します。

幼稚園生よりも若い、言葉を覚えたばかりの三歳児は一日中、「なぜ」「どうして」と質問します。子供は「なぜ」と聞くことで、言葉で表されているこの世界の仕組みを知っていきます。

子供にとってそれは同時に、言語の仕組みを学習することです。言語において目的というものがどのように世界を作っているのかを知ることです。言語における目的というものがどのような社会的経済的意味を持っているか?人々が言葉を使って、物事の目的というものをどう扱っているのか?そうすることで人々とどう協力していけるのか?この世界でどう生きていけばよいのか?子供はそれを知る必要があるから、「なぜ」と聞いてきます。

言語は(拙稿の見解では)、世界の物事について、だれが何のためにそれを起こしているのか、という形を表す(拙稿26章「「する」とは何か?」 )。物事と行為者と変化の予測を結びつける。それはつまり物事が起きるその背景にある目的を知ることです。

アリストテレス が、物事は目的を持って存在しているとする哲学(目的論という)を唱えたのも、そもそもは子供のように素朴な、このような認知感覚から来ているのでしょう。世界の物事の変化は、だれかがある目的を持ってそれをしようと思うから起こる。物事に関してのこういう見方は、私たちの使っている言葉(人類の自然言語)の根底を作っています(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。

人類の身体に備わった認知機構がこのような見方を作り出している、と考えることができます。そうであれば、人類は言語を使用するよりもずっと以前からこのような見方で世界を理解していたと思われます(二〇〇七年 ゲルゲリ・シブラ、ギョルジ・ゲルゲリ『目的に憑かれて:人類における行為の目的論的解釈の機能と機構 』既出)。

これは人類だけでなく言語を持たない類人猿にも共有されている認知機構でしょう。仲間の動作を見て、それが自分の運動形成機構に共鳴を引き起こすことで、行動の目的を感じ取る認知神経機構が下敷きになっているようです。類人猿は仲間のサルや猛獣や人間など利害関係にある動物の行動の中に目的を感じ取れることが観察されます(二〇〇八年 ジャスティン・ウッドル、マーク・ハウザー『人類以外の霊長類における行為把握:運動シミュレーションか推測法か 』既出)。

人類ではこれがさらに強化されて、注目に値するすべての現象、すべての物事の変化の中に目的を見る、という感じ取り方をするようになっています(拙稿31章「哲学の科学: 私はなぜ、なぜと問うのか(4」)。人間は、他人、人間集団(国家、会社、部族など)、あるいは動物、あるいは気象や化学変化など非生物の自然現象、その他すべての事象に対してその目的を言語を使って表現します。「XXが○○したくて○○する」という言語様式です(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。

 

 

 

 

 

 

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目的の起源(4)

2013-10-12 | xxx6目的の起源

たとえばケニヤの草原で人間がライオンを見たとしましょう。ライオンはなぜシマウマを追って走っているのか?人間はその光景を見た瞬間、すぐにライオンの目的を察知します。

ライオンが懸命に走っている目的はシマウマを襲うためだ、と私たち人間はすぐに分かります。本当にライオンはそういう目的のために走っているのでしょうか?ライオンに言葉で質問できれば簡単ですが、そうもいかないので、ライオンが何を考えて走っているのか、その動作から推測してみましょう。

ライオンがシマウマを襲うという目的を持っているための条件は、ライオンがその行動の結果何が起こるかを予測していることです。ライオンは、シマウマを追いかけることによって、数秒後にはシマウマの背中に飛び乗ることを予測しているように思えますね。もしそうだとすれば、ライオンがシマウマを襲う目的は、シマウマの背中に飛び乗ることだ、といえる。

しかしここで注意しなければいけないことは、ライオンがシマウマの背中に飛び乗るという運動シミュレーションを使って運動目的イメージを持っているとしても、それはライオンを観察している人間が「ライオンがシマウマを襲う」という意味のことを日本語あるいはケニヤ語で、つまり人間の言語を使って言う場合に思っているライオンの行動の目的ではない、という点です。

私たち人間が目的というときは、ふつう動物が使っていると思われるような直接の身体的な運動目的イメージのことではない。むしろ、社会的な意味合いのある行動の結果を言っている。それは、人間にとって関心が深い、重要だと思えるような社会的経済的状況の変化を予測させる結果です。人間関係の利益につながるような社会的経済的な(コンテキストの上での)意味のある変化をもたらすであろう結果です。たとえば、個人的な、経済的な利益、あるいは政治的な利益につながるような変化を予測させる行動の結果をいう。

それは走るライオンを眺めている観察者(の人間)に対して「ライオンはなぜシマウマを襲うのか?」という質問を発してみれば分かる。

ふつうの答えは「シマウマを殺して食べるためだ」とか「餌食にして食欲を満たすためだ」とか「シマウマの肉を消化して栄養を取るためだ」とかになるでしょう。こういう言語表現が、ふつう、私たち人間のいうところの目的です。拙稿本章でテーマにしている目的は、まさにこの人間的な意味での目的です。

こういう言い方でのライオンの目的は、実際にケニヤでシマウマを追っているライオンとは何の関係もない。それを観察する人間が勝手に想像しているライオンの目的でしょう。私たちが使う目的という概念は、人間どうしの会話でよく使う言い方になってしまっています。つまり人間どうしが関心を持っていること、たとえば「殺す」とか「食欲を満たす」とか「栄養を取る」とか、人間にとって重要だと思えるような社会的経済的状況の予測を言葉で表したもの、といえます。

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目的の起源(3)

2013-10-06 | xxx6目的の起源

 

 

目的を定めてそれを保持するという人類の持つ能力は(拙稿の見解によれば)、仲間との協力のために必要だから、人類の身体に備わったものでしょう。

 

家族で生活するために食料を保存する。つまみ食いしない。その目的を共有する必要があります。狩りの仲間と獲物を包囲する。皆で獲物を担いで運ぶ。言語で目的を表現し共有する必要があります。つまり狩猟採集生活の中で、仲間と一緒に活動する、社会のようなものを形成するためには、言葉で表現される目的を共有していなければなりません。

 

原始人が仲間と協力して落とし穴を掘る場合、ウサギを捕まえる目的なのか、イノシシを捕まえる目的なのかで穴の場所も大きさも深さも違う。どんな動物を捕まえようとしているのか、行動の途中で目的がぶれてしまうとうまく協力できません。ウサギとかイノシシとかいう言葉を使わないとまったく不便です。仲間と協力するために、まずは目的を共有して行動の過程でその目的を変わらないように維持する。目的を言語表現してその言葉を仲間で共有する。現代社会では、契約とか、計画とか、スローガンとか、校訓とか、憲法とかの形を取ったりもします。

 

目的を言語化し仲間と共有する。そういう仕組みが人類の身体に備わるようになったのでしょう(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(6」)。

 

 

 

人類は(拙稿の見解によれば)仲間と緊密な連携行動をする必要から、目的というものを使うようになった。次の段階として、目的を使うことに習熟してくると、これをいろいろな別の用途に使うことができるようになります。

 

まず、人間は、他人、他の集団、あるいは動物、あるいは気象や化学変化など非生物の自然現象、その他すべての事象に対して、その目的を問うことができるようになる。幼児が「なぜ」「どうして」と親に質問する段階ですね。「象さんはなぜお鼻が長いの?」とかです。

 

人類の進化過程で、物事の目的を問うことで、その物事がこれからどのように変化していくのかを予測することができるようになったと思われます。目的を推定することが予測することになるという認知機構が人類の身体に備わったといえます。

 

「象さんはなぜお鼻が長いの?」と子供が聞けば、大人が「お手々の代わりに食べ物をお口に運べるようにお鼻が長いのよ」と答えてくれるでしょう。すると子供は「じゃあ、象さんはお鼻でお箸を持つの?」と言ったりします。

 

この場合、子供は象の鼻の目的を知ることでその鼻の用途を予測しています。子供は、象の鼻を、人間が手を使ってする仕事をすることを目的として存在しているものであると理解し、そうであればどのような予測が可能なのかを考えることができます。こうして子供は象の鼻がどう動くものであるかを推定する能力を身につけることになります。

 

人類の認知機構は(拙稿の見解では)、物事が変化推移する過程の予測を(その物事が内包する)目的を推定するという方法で実行します。人類はそのような物事の予測を仲間と共同して行う。そこから(拙稿の見解では)人類の言語が発生しました(拙稿26章「「する」とは何か?」 )。

 

 

人間は、仲間の動作、表情あるいは音声表現と共鳴することで物事の予測を共有します。私たちの身体が無意識のうちに働くその結果を、私たちは物事の現実として身体で実感していると感じます。私たちが、物事が当然そうなると感じるとき(拙稿の見解によれば)、それは仲間がそう感じていることを感じ取っていることからくる感覚である、つまり現実である、ということになります。

 

こういう現実認識をしている私たち人間は、物事を予測しなければならないと感じるとき、その物事が起きる目的(物事が内包する目的)を知ろうとする。そうすることで仲間とともに現実であるその物事に対応して連携行動を取ることができます。

 

そのために物事の動きの目的を知りたい。それを問う言葉として「なぜ」という疑問詞ができた、といえます(拙稿31章「私はなぜ、なぜと問うのか(6」)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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