哲学の科学

science of philosophy

人類言語はなぜ万能なのか(4)

2015-06-27 | yy46人類言語はなぜ万能なのか

言葉で確認することで、絵もマンガも音楽も演劇も料理もファッションも、私たちは共有する。コミュニケーションとしてなりたつ。それでそれらの物事はこの世界を構成することができるようになります。世界の構造について理解しあうことができます。
言語以外に言語に似たようないろいろな方法で、たとえばウィンクだとか、ため息だとかで、私たちはいろいろな物事を伝え合い感覚や感情を共有するけれども、言葉でそれを確かめない限り、それらは煙のように消えてしまいます。
歩道ですれ違った高速自転車乗りに視線を投げかけながら、ふっとため息をついて片眉を下げてみせる。友人も両手を小さく広げるジェスチャーをします。それでコミュニケーションは成り立っている。しかしこのコミュニケーションを一週間後に正確に思い出せますか?ひとことふたことでも友人と言葉を交わした場合、たぶん言ったことを覚えているでしょう。しかし軽いジェスチャーだけだった場合、おそらくその動作は覚えていません。この小さな事件をツィッターにでも書き留めておかない限り、しっかりした記憶にとどめることはできませんね。
言葉でしか正確な記憶は作れません。光景は時間とともに消え去る。
人間の脳内にではなく、物質に記録した光景はしっかり残る。人間の経験も、写真や動画や科学測定データに記録しておけば永久に残るではないか、といえます。それらの記録は、その時点での現実をいつまでも語り続けることができるではないか、と思えます。
しかしそれらの記録もそのままでは、単なる物質でしかない。物質については、結局は言葉を使ってそれについて語られることでしか、私たちにとって意味があるものとして受けいれられることはできません。そうでなくてはそれらもまた煙を写真に撮ったもののように意味のない物質としてとどまるだけです。
人類言語は物質について語ることができます。科学を使って物質世界の構造を語ることもできます。しかし言語を使って語ることのできないものがあるのかないのかについては、言語では語ることができない。
言語は存在するものについて正確に語ることができますが、存在しないものについては正確には語ることができない。言語を使ってフィクションとして語るとき、あるいは詩として語るとき、存在しないものについて語ることになりますが、正確には語れません。つまり逆にいえば、言語を使って正確に語られ得るものだけが存在する、ともいえます。
もしそうであれば、言語は存在するものすべてを語ることができる。逆に言えば、言語できちんと語ることができないものは存在できない、といえます。言語が万能であるかのように思える根拠はこういうことであるのかもしれません。










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人類言語はなぜ万能なのか(3)

2015-06-21 | yy46人類言語はなぜ万能なのか

人間は、逆に言えば、言語と科学を通してだけ世界を理解している。井戸の中から空を見上げているようです。井戸の外には別の世界があるのかないのか分かりません。仮に別の世界があるとしてもそんなものは空想でしかない。見えるものだけが存在するものであるとすれば、井戸の上の空を理解し変化を予測できればそれで全知全能といえます。
私たち人間どうしが語り合っていると、あたかも、人はどんなことでも語ることができる、と思えます。言葉を適切に選べば、何事をでも語ることができる。話し合おうとする気があれば、どんなことについてでも、話し合うことができる。そう思っています。しかしそれは思い上がりなのではないでしょうか?思い上がりというよりも、見えないものはないと思い込む、カエルのような世界観ではないでしょうか?
人間はカエルよりもえらいのか?カエルにはできないけれども人間にはできることがあるのか?それとも人間も所詮は、カエルのように、井戸の底から見上げる空しか見ることはできないのでしょうか?

人類言語は万能なのか?何事をも語ることができるのか?語ることができるものだけが存在するものなのか?それとも、語ることができないものがあるのか?それは何なのでしょうか?

私は考える。何かを考える。それで何かを思いつく。その場合、それをメモ帳に書き付ける。あるいはツイッターに書く。あるいは友人に語る。そのとき言葉で語るでしょう。言語を使う。言語を使わなければ思いついたことを表現できない。
作曲家は譜面に曲想を書くかもしない。口笛を吹くかも知れない。しかし音符もまた言語でしかない。画家は絵を描く。しかし絵もまたある意味で言語でしょう。人に何かを伝えるものは、結局は、言語の一種でしょう。そう見れば、何かを思うということは、言語で語ることと同じことになります。

私たちが何かについて語り合うとき、問題は、語り始めた瞬間にどうにもならない限界の中に入り込んでしまうということです。それは、人間どうしが言葉でしか語り合うことができない、という限界です。いや、絵を描いて語り合うことができるじゃないか、とか、マンガで語り合える、とかいう人もいるでしょう。それはしかし、その絵やマンガを言葉で確認しなければ語り合ったことにならないでしょう。










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人類言語はなぜ万能なのか(2)

2015-06-13 | yy46人類言語はなぜ万能なのか

動物の中で人類だけが知性に恵まれている、といわれます。その知性とは、つまるところ、世界の構造を認知し操作する能力、言い換えれば言語と科学ということになるでしょう。それらを駆使することで人類は地球を制覇し宇宙にまで進出しようとしています。
四十億年近い生命の歴史の最後、わずか数百万年で進化した人類が、そのまた最後の瞬間、たぶん十数万年くらいで言語能力を開発しました。地を這っていたはずの小さな生物が最近突然急に万能の認知力と活動力を身につけるようになった、とみることもできます。
しかしなぜ動物のうちで人間だけが、言語の力を利用するにしても、ほかの動物にはまったく不可能な、万能の認知力あるいは操作能力を獲得できたのでしょうか?
人間は、言語,科学、情報技術その他の能力を駆使すれば、この世のすべてを知ることができるのか?人類の言語というものはそれほどの力を持ったものなのか?素直にそれを考えるとき、なぜ人類だけが、という疑問が再び涌きます。
人間は万物の霊長であるから、当然万能である、と言えばいえるでしょう。しかし、それは言葉の反復に過ぎませんね。神様がそのようなものとして人間をお創りになった、という言い方と同じです。十九世紀の人々は素直にそう思っていましたが、二十一世紀現代人の私たちもがそう思っているのはおかしい気がしませんか?
私たちは言語を用いて物事を理解し、言語によって互いに理解を認め合うことで知識を交換し蓄積しています。私たちがいつか全知全能になれるとすれば、それは言語を使うことでそうなるのであろうといえるし、逆に言語を使わなければ到底そうなるとは思えません。いったい人類の言語にはどれほどの可能性があるのでしょうか?またその限界はどこにあるのでしょうか?
人類言語は万能であるといえるのか?もしそうであるとするならば、人類言語はなぜ万能なのか?それを拙稿本章ではちょっと調べて見ましょう。










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人類言語はなぜ万能なのか(1)

2015-06-06 | yy46人類言語はなぜ万能なのか

(46 人類言語はなぜ万能なのか? begin)



46 人類言語はなぜ万能なのか?


人は言葉を話す動物です。二歳くらいから話し始め、四歳くらいになると完璧な母語を話す。
「きょう、ほいくえんおやすみなの。だからあしたいくの」と来月四歳になる孫が言っています。発音は不完全なところがあります。ほいくえんは「huoiken」と言っているし、おやすみは「ayoshimi」と言っている。しかし日本語のシンタクスは完全にマスターしているようです。
四歳児は言語を完全に獲得している一方で生活に関することはまったくというほど無能力です。これは動物として非常に珍しい人類の特徴です。
ふつうどんな動物でも生後四年もたって自分で餌を取れないということはありません。ところが人の幼児は保護者がいなければ絶対に食糧を獲得できないでしょう。人間は生活能力の発達が極端に遅い。にもかかわらず言語は簡単に習得する。
幼児は、ある日突然、高度な文法を使うようになる。音韻は不正確だから注意して聞き取る必要があるが、聞き取れるとそのシンタクスの正確さに驚くことになります。概念把握は誤謬を多く含むが、それに比べてシンタクスは間違いがない。むしろ間違ったシンタクスは習得できないようです。
シンタクスの発達は段階的漸進的であって後戻りはないらしいと分かりますが、一段階高度なルールを使い始める飛躍が何によって起こるのかは観察できません。幼児の脳内で起きている言語獲得の過程は、現代科学における大きな謎として残っています。

幼児は欲求を満たすための道具として言語を習得しているようにも見えますが、またそれを使うこと自体が遊びでもあるようにみえます。遊びも含めて、言語はあくまで実用の道具として使っているようで、決して言語習得自体を目的とした練習などはしていないようです。言語に関して上達や取得を目指していることはなさそうです。あくまで実用に使っているうちに習得してしまうという現象でしょう。学校でゲーム機の教育を受けていない小学生がゲーム機を自在に使いこなす場合に似ています。
よく入るレストランの前を通ると三歳児の孫は「おなかすいた」と腹を押さえる。自動販売機の前にくると「のどかわいた」、立ち入り禁止の看板の前で「なにかかいてあるよ」と言う。実に実用的な言語使用法です。しかしどのような仕組みでこれらの作文が可能になるのか、謎のままです。最初は単なる模倣によるオウム話法のようにも聞こえますが、すぐに状況に適合して自由に変化形をしゃべるようになります。
ロボットや人工知能はこれができない。コンピュータによって自然言語を作り出す技術は実現されていません。つまり科学者たちは人類言語のなぞを解明できていないのが現状です(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 - 哲学の科学Ⅳ)。








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