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哲学の科学

science of philosophy

人間は真実を知ることができるのか(5)

2013-07-27 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

それはその通りでしょう。そして私たちの身体がそういう欲求を持つようになったのは、人類が誕生したころ、それが生活の上で必要であったから、といえます。初期の現生人類(ホモサピエンス)も、今の私たちが知りたいと感じるような諸々の物事、あるいは大人の私たちは知りたいと思わないけれども幼児や幼稚園児が知りたいと思っているらしい物事(サンタクロースや怪獣etc.)、などに好奇心あるいは探究心を持つ必要があった。あるいは正確に言えば、人類は初期のころからそのような好奇心ないし探究心を備えた身体を持つことが生存に有利であった。そういう進化の歴史があった、といえます。

動物、植物、鉱物、気象、天文など、自然のありさまに好奇心を持つことは、自然の中での狩猟採集の生活に必要だったでしょう。人間の行動、心理に興味を持つことは緊密に組織された社会の発展に必要だったでしょう。道具、機械、施設設備など人工物に興味を持つことは、技術・産業社会の発展を支える役割を果たしたと思われます。

生活技術や生産技術、軍事技術、あるいは言語技術、芸術に興味を持つ。ゲームやスポーツに興味を持つ。書籍、本、学問、科学、社会、政治、経済に興味を持つ。これらに関する真実、現実、正しい在り方、を知りたい、という気持ちは人類共通であり、数十万年前から人類の発展の土台になっていたと考えられます。

真実を知ったうえで、自分がどう動けばどうなるかを予測する。そして今どう行動すべきかを知る。そして実行する。真実を知りたいという欲求は、これからの行動の結果を予測し、より良い行動を計画するために必要です。逆に言えば、人は行動を計画するために、真実を求める、という構造が見えてきます。

人は真実を知ることでより良い行動、つまり生存に有利な行動を計画し実行する。この場合、人にとっては、生存に有利な行動を導く予測をもたらす物事が真実であるといえます。

ここで大胆な仮説を立ててみましょう。

ある物事を人が真実だと思うときは、その物事を真実として受け入れて行動することが生存に有利である場合であり、その場合に限る、と仮定する。

たとえば、天気予報を聞いて、傘を持っていこうとするとき、その人は天気予報を真実だと思っている、ということになります。傘は多少重いですが雨に濡れないほうがコストは少ない、つまり生存に有利です。生存に有利である行動を導く物事は真実である、となります。逆に、天気予報で「午後は雨になる」と言っているのを聞いても傘を持っていかない場合、その人は天気予報を真実だと思っていない、ということです。

またたとえば、ある女優の結婚生活が破綻したという記事を週刊誌で読んで、友人にその噂を「本当だよ」と伝えたとき、その人はそのゴシップを真実だと思っている。同じ記事を読んでも、友人にその噂を本当だと伝えない場合、その人はそのゴシップを真実だとは思っていない、ということです。

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人間は真実を知ることができるのか(4)

2013-07-20 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

私たち現代人はなぜこうも多くの真実を、年々、次々と解明して、しかもそれを整然と蓄積し保管していくのでしょうか? それを仕事としている人が多くいるからでしょう。それは、つまりその成果を必要とする人々が非常に多くいるからでしょう。これは現代世界の特徴です。

人間以外の動物、あるいは過去の未開人類たちと、現代の人類とは、この点で大きく違います。

たぶんこの違いは、人間以外の動物、あるいは過去の未開人類たちが必要とする情報と、現代人が必要とする情報との違いからくるものでしょう。

私たち現代人は、明日必要な食料や生活必需品は、たいてい、すでに確保してあって、明後日以降の数か月あるいは数年、数十年にわたって消費するべき財物を獲得するために現在努力を続けています。人間以外の動物や過去の未開人類たちはこうではありません。今日現在の空腹を満たすためだけにすべての努力を集中します。

現代人だけが遠い未来を予測してそれに備えて熱心に努力する。明日よりずっと先の状況を予測するためには、できるだけ多くの正確な真実を知る必要がある。この点に、私たち現代の人間が、特に多くの真実を知り得る事の理由がありそうです。

その理由は何か?

まず、現代人の身体を調べてみましょう。現代人の身体は過去数十万年、現生人類(ホモサピエンス)として大きくは変化していません。つまり現代人が必要としている真実や情報は、現代人の身体のつくりから来ているだけではなく、現代という時代の文化と歴史からきているということでしょう。

このことは、現代人だけが多くの真実を知ることができる身体を持っているのではなくて、少なくとも現生人類(ホモサピエンス)であれば、過去の未開人であっても、多くの真実を知り得る潜在的な能力を持っていたことになります。

それは未開人であっても、過去のその時代には、たぶん現代人とは別の理由によって、そのような(真実を知る)能力が必要であったからと考えられます。つまり現生人類(ホモサピエンス)が誕生した数十万年前に、すでにその能力は必要とされていた、といえます。すでにそのころ、人類はそういう身体に進化していました。これは、重要な点です。

私たち現代人だけでなく過去の人類を含めて、人間は真実を知ることができる。それは必要だから、といえます。ではなぜ、人間は真実を知る必要があるのか?

そもそもなぜ人間は真実を知ろうとするのか?

好奇心?

子供は好奇心から親にいろいろな質問をします。小学校時代は、好奇心から遊びを覚え、ゲームや流行歌やタレントの芸を覚え、まねする。一部の子は好奇心から勉強を始めて、成績のよい子になったりします。大人も好奇心からテレビや新聞、インターネットからタレントのゴシップ記事を見て仲間内の世間話に使える情報を知る。

探究心?

科学者は自然への探究心から研究を進めます。ミステリーファンは探究心から犯人を知りたがる。

つまり人間は、好奇心あるいは探究心など、生まれながらにして真実を知りたいという欲求を持っている、といえるようです。

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人間は真実を知ることができるのか(3)

2013-07-13 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

そうではありますが、人類がすさまじいスピードで知識を拡大し蓄積していることは否定できませんから、私たちは日々、より多くの真実を知り得るようになっている、といわざるを得ないでしょう。

現代人は、日々、時々、あるいは秒々、より多くの真実を知り得るようになっています。私たちは祖父の時代よりも、はるかに多くの真実を知っている。それは確かです。私たちの孫は、私たちよりもはるかに、とてつもなく多くの、真実を知ることになるでしょう。そうであるとすれば、人類はいつの日にか、この世のすべての真実を知ってしまうのではないでしょうか?

ここにも疑問があります。真実というものが地球の面積のように有限で、毎日一平方メートルずつ解明していくと、いつかは全地球が解明されてしまう、といったたぐいの話なのでしょうか? 

たとえば、二十三世紀あたりには応用を除いた自然探究としての植物学というものは終わってしまっているかもしれません。すべての植物種のDNA、タンパク質、細胞、発生過程、生体構造、分布、生態などあらゆるデータが記述されてしまうと、植物研究の対象がなくなってしまうことになります。植物について知るべきことは全部調べ終わってしまった、という状態になるはずです。

もちろん植物学者はその職業特権を守るためにむずかしい理由を言って、研究室の維持に努めるでしょう。高分子光化学機構論とか、現代の私たちには想像できないような高尚な研究領域に鞍替えして研究組織は維持されて行くだろうと推測できます。

そうであるとしても、明日の世界では今日よりもはるかに多くの真実が解明されていて、真実を記述するデータがインターネットの世界、あるいは国家のデータセンターに蓄積されている。そこに保存されている科学その他の知識や技術の蓄積を使いこなせば、今日よりもはるかに広い領域の出来事をはるかに正確に予測できるようになっているはずです。

今日、精密な予測が困難な気象や地球環境、経済動向、世界中の地域住民の生活の変遷など、複雑に絡み合っている自然あるいは社会のシステム全体も、明日の未来科学あるいは未来ビッグデータを使えば、明日から明後日の世界に向かってどう変動していくのかが、精密に予測できるようになるであろうと思われます。

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人間は真実を知ることができるのか(2)

2013-07-06 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

このように物質の微細構造から大宇宙の生成と歴史までが、幾何学や方程式を用いて、定量的に解明されているということは、ようするに、現代人は科学およびその他の知識を総動員すれば、原理的には、すべての真実を知ることができる、ということではないのか? そうも思えます。宗教家からは、神を恐れぬ人間の傲慢、と叱られそうですが、実際、人類の知識は、どこまでも広く深くなっていくことができるのでしょうか?

人類は、望遠鏡や顕微鏡や粒子加速器を発明して、あらゆる自然現象を認知することができるのでしょうか?コンピュータを使って、天体の生成から生物の進化、あるいは囲碁将棋のすべての棋譜を予測計算できるのでしょうか?

どうにも腑に落ちない疑問が残ります。他の動物はどれもできないのに、なぜ人間だけが真実を知ることができるのでしょうか? それも、ついこの百年で発展した現代科学を知っている私たち現代人だけがすべての真実を知ることができるというのは、あまりにも自己中心的な見解ではないでしょうか?

現代の人類だけが、自分たちの知識を過信し、近いうちにすべての真実を知ることができる、と思いこんでいるのでしょうか? 昔の人々は、現代人に比べると、ずっと謙虚であって、人間が永久に知ることができないものはたくさんある不可知論という)

、と思っていたようです。何千年、何万年にわたって謙虚に生きてきた人類は、現代に至って、この百年足らずで突然、自分たち人類だけが真実を知り得ると思い、自己中心的で不遜になってしまったのでしょうか?

あるいはいつの時代でも、人類というものは、実は、自分たちがすべての真実を知っていると思い込めるほど自己中心的で不遜な種族なのか? あるいは私たちは特に自己中心的ではないものの、たまたま現代科学が頂点に達してしまって、実際に、この世界の重要な真実がだいたい分かってしまった時代に、私たちがいるだけなのか? どれが本当なのでしょうか?

人類という存在が自己中心的で不遜な種族である、という考えは、胸に手を当ててみれば、まあ、当たっているような気がしますね。だいたい、だれよりも栄えていて数も多く、だれよりも多くの資源を消費しているという点からも、そういうものはまず、自己中心的で不遜であるに違いありません。しかもごく最近、つい昨日くらいから、そういう大きな態度ができるようになった、という成り上がり者です。

最強で一人勝ちしたというだけでも不遜な存在です。口を開けばすぐ、真実がどうかとか、現実はどうかとか、えらそうにしゃべっている。そういう者は、実は、自身が全知全能に近いと思っているはずです。おごれるもの久しからず(平家物語) 、という警句が思い浮かびます。

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