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哲学の科学

science of philosophy

この世に神秘はない(13)

2013-06-22 | xxx4この世に神秘はない

暗黒物質が発見されようがされまいが、火星に生物が発見されようがされまいが、医学で性転換できようができまいが、クローン人間が何百人生まれようが生まれまいが、寿命二百年が実現しようがしまいが、そんなことで影響されるような人生は、所詮、勘違いの人生だということでしょう。

未来科学が実現すればなくなるような神秘は、はじめから神秘ではない。科学史を語る先生が、昔は現代科学ができていないからしかじかの自然現象が神秘であったといいますが、現代科学で解明されてしまう程度の神秘は、その時代でも重要な神秘ではなかった、といえます。

たとえば地動説が聖書に矛盾しているといっても、宗教者でもないふつうの人は、もともと聖書など問題にしていなかったので、人生の足場が崩れ去るというような事ではありませんでした。その時代のほとんどの人は、むしろ、科学者などは焼き殺されても焼き殺されなくてもどちらでもよいけれども、坊さんたちが自信を失って厳かに冠婚葬祭を取り仕切れなくなっては困る、と思っていたでしょう。

もちろん、十七世紀以降、科学は飛躍的に発展しました。現代の物理学、分子生物学、脳神経科学などの進展は、軍事技術、産業技術、医療技術などの革新的発展を実現することによって、政治、経済から社会構造、個人の人生までを変化させています。これらの変化に伴って、現代の文学、芸術、社会思想、マスコミ表現さらにはモラルまでが、深く影響を受けています。現代人である私たちが享受している(というか、あるいは投げ込まれている)これらの急速な変化を過小評価することはできません。

しかしながら(拙稿が述べるように)神秘の正体は、私たち人間の身体の中に埋め込まれている神経機構が社会に適応する過程で、作られたものです。そうであるとすれば、外から与えられる科学の知識や産業社会のあり様が時代が進むことによって変遷し、その結果、神秘の対象が移り変わっていくとしても、神秘感そのものが私たちの身体の中から作りだされてくる、というその仕組みは変わらないでしょう。つまり、この世にあるといわれるあらゆる神秘は私たちの身体の中で芯が作られ、時代時代の世の中に合わせて対象を選び、それを仲間と語りやすいような理論の衣にくるまれて現れてくる、といえます。昔は墓場から蘇った幽霊が、今は、放射能に冒された廃墟からゾンビとなって現れるという具合でしょう。

神秘といわれる物事は、単に未知であるとか、曖昧、朦朧として見えにくいというだけではありません。そのあり様が私たちの身体に響いてきて恐怖や不安や希望や期待を与える力を持ったものです。ある物事が私たちの身体に深く響くとすれば、それは身体の構成に共鳴しているからといえます。そういう物事は、私たちの外側にあるというよりも、むしろ内側にあるものだ、といえるでしょう。

ここで、神秘は、私たちの外側にあるものではなくて、むしろ私たちの内側にあるものだと言い切ってみましょう。もっと強い言い方を採って、私たちの人生にとって大事な物事は私たちの外側にはない、と言い切ってもよいでしょう。そうであるとすれば、神秘は私たちの外側にはない。つまりこの世というものが完全に私たちの外側にあると思うならば(実際、私たちはふつう、現実のこの世は、私たちの内面とは関係なく、客観的に実在しているものだと思っています)、そこには人生にとって大事なものはない。したがってこの世に神秘はない、といえます。

(34 この世に神秘はない end

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この世に神秘はない(12)

2013-06-15 | xxx4この世に神秘はない

一方、人々の語っていないところに実は本当の神秘がある、この世のどこかにだれにも知ることができない大きな未知がある、あるいはこの世で最も大きな未知を人間は知ることができない、というような考え方(不可知論という)もあります。考え方というよりも、だれもがそう思う、といってよいでしょう。これは、むしろ当たり前の考え方といえます。

 

人間は(拙稿の見解によれば)だれも、自分が知らないことはたくさんあると思っています。その未知のものに、恐れや神秘を感じることは多いでしょう。そうであれば、この考え方が広く語られているのはもっともだと思われます。しかし広く語られているからといって間違いがないとはいえない。世間でよく語られるこのような不可知論もまた(拙稿の見解によれば)、実は間違いです。

 

そもそも未知の未知がある、という言い方はおかしい。そう言いたい気分は何となく分かりますが、よく考えると、この言い方は何も表していません。人間が知り得ない何かがあるはずだ、という言い方は、その言葉の使い方に無理があるからです(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」。「知る」とか「ある」とかの言葉の使い方が間違っています拙稿24章「世界の構造と起源」)。

 

つまり(拙稿の見解によれば)何らかの物事がある、ということは、それを仲間と一緒に見ることができる、それに関して皆が一緒に何らかの働きかけをすることができる、ということです拙稿24章「世界の構造と起源」。そうであれば、だれも知り得ない何かがある、ということが起こるはずはありません。もし、だれも知り得ない何か神秘的なものがある、と思えるような気分になったとしても、それは錯覚あるいは曖昧性というべき事柄でしょう。逆に、神秘といわれているものの多くは、このような錯覚あるいは曖昧性が絡んでいて、仲間が皆いっせいに何事かを見たような気分になっていて、しかもそれが何事かは朦朧として明らかではない、というような場面で起こるようです。

 

こういうように、世間によく言われている神秘(天変地異や幽霊や地獄や輪廻応報やゾンビや運命の女神など)は、実際にあるとはいえないし、だれも知り得ない(不可知論的な)神秘というものも、実はない、ということになると、この世のどこにも神秘はないことになります。昔の賢人はそう考えた、と思われます。

 

 

 

それにしても、悟りすました賢人といえども、だれも語らない全く未知の神秘というようなものがない、ということをなぜ言い切れたのでしょうか?私たち凡人は、とてもそう思えません。現代科学でも暗黒物質や生命の起源は神秘だと言われているではありませんか?昔の人は科学を知らなかったために未知の神秘の存在を知らなかっただけである、ともいえるのではないでしょうか?

 

調べてみると、実は、昔の賢人は未来の科学をかなり的確に予測していたようです。十七世紀に近代哲学を創始した大哲学者は、物理学から医学まであらゆる科学の法則が実験にもとづいて発見され数学を用いて整然と表現されるという現代科学の様相を的確に予見していました(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』既出)。十八紀のガリバー旅行記(一七三五年 ジェナサン・スウィフト「ガリバー旅行記」)には超長寿人種の国が出てきますが、今日の少子高齢化日本を見てきたように描写しています。昔の賢人たちは、ときどきこういう未来科学のことを書いていますが、後世の私たちが想像するほど、彼らは未来の科学によって世界が大変化するとは思わなかったようです。

 

つまり彼らは未来科学が人生観や世界観を一変するなどと思っていない。科学の発展で変わるような人生観や世界観は所詮、錯覚の上に作られている仮想の人生や仮想の世界でしかない、と思っていたのでしょう。コペルニクスの地動説が出て世界が転回したときでも、物事がよく分かっている賢人は、ローマ法王とキリスト教の坊さんたちが困るだろうと思っただけで、人生の現実は何も変わりはしないと知っていたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この世に神秘はない(11)

2013-06-09 | xxx4この世に神秘はない

さて、神秘は(拙稿の見解によれば)このような理由でこの世からなくなることはないと思われます。しかしながら拙稿がここに述べるように、あらゆる神秘は、現代科学の知識などを使って冷静にしっかり見つめれば、その実体はすべて消えてしまうものです。これは現代科学の知識が発展したからであると思えますが、実は、そうではありません。そもそもあらゆる神秘は、幽霊のようなもので、冷静に見つめられると、消えてしまうようなものである、といえます。実際、現代科学の知識を使わなくとも、あらゆる神秘が虚妄であることを見破ることはできます。

 

この世とはいったい何であるのか(拙稿24章「世界の構造と起源」 )、という本質的な疑問は昔からありました。昔の賢人は、現代科学を知りませんでしたが、神秘感に惑わされずに、直感だけで世界の存在のあり様を見破っています。

 

 

この世にまことに新しいものなどはない(sub sole nihil novi est.)という古代ローマ人の格言が残されています。論語にも、神秘を語る必要などない(子不語怪力乱神、子は怪力乱神を語らず)、とあります。つまり、昔の賢人は、現代科学は知らなくても、この世に本当は神秘などない、と言い切ることができた、ということでしょう。

 

壇ノ浦に沈む平家の大将が、世界のすべては自分が見たとおりのことでしかない(見るべき程の事は全て見つ。今はただ自害せん」平家物語)というようなことを言って死んだそうです。神秘はそれが神秘と思いたい人には神秘であるが、現実を冷静にながめている人は、現実の中に神秘があろうがなかろうがたいした問題ではない、と考えるのでしょう。

 

昔の賢人は、物理学も生物学も知らなかったのに、なぜ天変地異や幽霊や地獄や輪廻応報やゾンビや運命の女神に神秘を感じなかったのでしょうか? 昔の一般人も知識人も皆そういうものを心から恐れ敬いながら生きていたはずです。

 

おそらく昔の賢人は、まず人間というものをよく見抜いていた、と思われます。人間が未知を恐れ、伝聞に惑わされて、実体のないものから神秘を作り上げてしまう、ということをよく知っていたのでしょう。

 

そうであれば、人々の語る怪力乱神、妖怪異変など神秘のたぐいはみな、それが怖そうで神秘的であればある程、実は実体がない、と思って間違いがないことになる。つまり、逆説的ですが、多くの人々が天変地異や幽霊や地獄や輪廻応報やゾンビや運命の女神に神秘を感じるということが事実であるならば、その事実がまさに、それらの神秘が実は存在しないということを示している、といえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この世に神秘はない(10)

2013-06-01 | xxx4この世に神秘はない

人類が社会を作り、狩猟採集社会から農耕牧畜社会を経て(爆発的な生産性を獲得した)現代産業社会に至る各過程で、理論は洗練され、それに伴って、同時に神秘への感受性も洗練されてきました。人類の社会を維持し生産性をさらに向上させるような理論と神秘が、(集団的に文化として)次々に作られ発展し、継承されていきます。

現代人が神秘を感じているここに挙げたような概念(宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命)も、狩猟採集時代から近代に至るまでの社会に、少しずつ変化しながら、それぞれぴったりと適応し、それぞれの社会を維持する機能を持っていたに違いありません。

これらの社会維持機能が現代社会でも働いていることを確かめるには、次のような思考実験をしてみるとよいでしょう。

これら(宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命)の神秘はすべて否定できるという拙稿の見解が、もし仮に(何かの間違いで)世の中に広く受け入れられてしまった場合、現代社会はきちんと維持できるでしょうか?

まず、宗教は崩壊します。学校教育も何を目標にしたらよいか分からなくなる。たぶん道徳も危うくなる。命を守れ、などという言葉も意味がなくなる。政治活動も何をスローガンにしたらよいか分からなくなります。自分というものがはっきりした存在でないということになると、旺盛な自己顕示や権力欲も所有財産の意味もぐらついてくるので、ビジネスも活気が保てなくなる。科学や学術の神秘性も薄れてきて、献身的な研究意欲は期待できません。

逆に、なんでもあり、ということになるので、芸術やエンターテインメントは活発になる可能性があります。しかし優雅で美しい社会が到来するかどうかは疑問です。ビジネスの衰退に伴って、防犯、防災やサービス業を支える勤労者層の勤労意欲は減退するので、富裕層も安全で快適な生活は難しいでしょう。

こう書いていくと、なにか、中世の暗黒時代のような倦怠に満ちた不活発な社会のイメージが浮かびますね。こうなってもよいのでしょうか?

もし、よくないというならば、神秘はなくすべきではない。現代社会の安全と快適性を維持するために神秘はなくなってはならない、と思えますね。つまり、筆者としては残念ではありますが、拙稿の理論が世の中に広く受け入れられてはならない、という結論が導けます。

現存する社会はたいてい安定しています。安定している人間の社会というものは、生物体と同様に、進化の結果、劣化を避け活性を維持するような機能を持っているはずです。そのような社会を維持する機能は、もともと私たちの身体の構造に埋め込まれている、といってよいでしょう。つまり人類の身体の構造によって維持されている現存社会は、劣化を避け活性を維持するようにできています。したがって人類の身体の構造にもとづいて現存している社会は、あらゆる神秘を否定するような考えをはびこらせることはあり得ないでしょう。

言い換えれば、この世に神秘が存在する理由は(拙稿の見解によれば)、そのような神秘を感じ取る神経機構がすべての人間の身体に埋め込まれていて、それによって人間の社会が維持されているからといえます。

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この世に神秘はない(9)

2013-05-25 | xxx4この世に神秘はない

 

私たちの目の前に見えている現実は、実は(拙稿の見解によれば)、人とそれを語り合うためにそれは見えている。人間の身体は、仲間と協力して生活するために仲間と共有できる現実を作りだしている。逆に言えば、仲間と共有できる現実を目の前に見ることができるように人間の身体は進化した、といえます。

 

そうであれば、そうして私たちが目の前に見ることができるような現実は、それを理解するための理論を私たち人間が思いつけるようにできているはずです。逆に言えば、理論で理解できるものが現実であるはずです。そういう理論のひとつとして成功したものが現代科学であり、現代科学ができあがる以前にかなり実用的であったものが、神秘を伴う占いや習わしや迷信や伝説だった、といえます。

 

このうちの科学が一人勝ちしました。つまり現代科学はほとんどの神秘を伴う占いや習わしや迷信や伝説にとって代わってしまったようです。科学では解明できないといわれてきた「命」とか「心」とか「自分」とか「運命」とかにまつわる神秘についても、先に述べたように、(拙稿の見解によれば)神秘とは言えないでしょう。

 

 

 

これらを神秘としてそれを研究すると称している哲学という学問もまた、うっかりすると、占いや習わしや迷信や伝説と同列の歴史的遺物として時代から取り残されてしまいそうです(哲学の科学: 人間はなぜ哲学をするのか(2一般公開で +1 しました 取り消す

 

古来、人類は、現実の中に神秘を見つけ、それを語り合い安逸な行為を戒めあって危険に満ちた厳しい自然の中を生き抜いてきました(二〇一二年 ジャレッド・ダイアモンド「昨日までの世界:伝統社会から何を学ぶか」)。そのような生活の中から作り上げられてきた人類の言語は、これら神秘を共有し語り継ぐためによく適した概念を発展させました。たとえば、本章で話題にした、宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命。これらの概念は神秘感を含んでいます。しかし(拙稿の見解によれば)現代人はこれらを真剣に考えすぎた、と思われます。これらの言葉を深く真剣に考えれば考えるほど、人は、言葉の限界を気づかずに超えてしまう(哲学の科学: 私はここにいる(27 )。そして深い穴に落ちる。

 

 

 

 

宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命。私たち現代人は、これらの言葉が実体を持っていると信じています。これらは、疑いもなく存在している、と思っています。しかしそう思う根拠は何でしょうか? 言葉を話しはじめた幼児のころ、私たちはこのようなもの(宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命)を知らなかった。これらの言葉が表しているものがこの世で最も大事なもので、最大の神秘であるということを、いつ、だれに教わったのでしょうか?

 

身の回りの現実について仲間と語り合い、現実の移り変わりを予測し合い、予測のために理論を語り合って、私たちはこれらの神秘を感じ取れるようになりました。

 

私たちは、仲間(家族、友人、同僚、マスコミ、先生、あるいは説教師など)と、次のようなものについていつも語り合っています。

 

宇宙はこうであるという理論とその神秘。

 

命はこうであるという理論とその神秘。

 

心はこうであるという理論とその神秘。

 

内面はこうであるという理論とその神秘。

 

自分はこうであるという理論とその神秘。

 

意識はこうであるという理論とその神秘。

 

運命はこうであるという理論とその神秘。

 

これらの理論(拙稿では理論という語を 少し広い意味に使っています。科学理論のように学問的に作られたものばかりではなく、子供ころから周りの人々の影響で私たちが身に付けた知識や信念を理論といいます)と神秘はすべて(拙稿の見解によれば)人によって(集団的に文化として)作られたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この世に神秘はない(8)

2013-05-18 | xxx4この世に神秘はない

私たちは現実を予測するために理論を作ります。科学理論ばかりでなく、予測あるところに必ず理論はある。企業経営にも、株式市場にも、競馬にも、処世術にも、それぞれ立派な理論がある。しかし理論による予測は完全ではない。予測しきれないところに未知が残る。神秘が残ります。

未知を神秘と感じることで私たちは理論の予測結果に関心を持つ。理論は繰り返し実践によって検証され、修正され、改良されることになる。つまり(拙稿の見解によれば)予測理論を改良するために必要だから、私たちは未知を神秘と感じ取るような身体になっている、といえます。

そういうことであれば、未来を予測しようとするときはいつも神秘を感じる。競馬の予想ではいつも運命の神秘を感じる。人生は神秘の連続からできている、と思いたくなります。

私たちはいろいろな理論を駆使して未来を予測しながら生きています。しかし理論では予測しきれない未知が必ず残る。予測される複数の未来の中でどれが現実になるのかは分かりません。未来が現実になるとき、理由もなくどれかの未来が実現する。

結局、予測される未来の中から理由もなく一つ一つの結果を投げ与えられることで私たちの人生は展開していく。私たちは、自然の法則に従って推移する現実の中で、理由もなく、今、ここにこの身体を与えられて、いつの間にか生きているとも思えます。

いずれにせよ、私たちはある一つのこの人生を与えられている。予測不可能な何らかの理由によってそれが与えられたと考えると、その未知の理由をもって神秘と感じられます。

しかしこの人生も、結局は決定的な理由もなく、このように与えられているという事実だけからすべてが始まると考えれば、神秘はない。

予測する人間にとって現実は(拙稿の見解によれば)予測できる可能性の一つが理由もなく実現することによって存在する。

私たちはふつう、すべての現象にはそれが起こるにふさわしい理由があるはずだという理論に慣れきってはいますが、よくよく考えてみればそういう理論に固執する理由はない。現実に起こることは、何者かがそうなるように操作しているのでもなければ、何かの間違いや恩寵でそうなるわけでもない、というべき場合がほとんどでしょう。何の理由もなく、現実はそうなっている、というだけ、といえます。

そうであれば、現実とは、やはり、私たちが知り得る可能性の一つが理由もなく実現することによって存在するものだとしてかまわないのではないか?実際、現実とはそういうものだと素直に考えれば、すべては納得できます。つまり、そう考えてよいとすれば、今ここにこの現実が実現していることに神秘はありません。

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この世に神秘はない(7)

2013-05-11 | xxx4この世に神秘はない

要するに、人間は予測をするから運不運という問題が生じる。

人生における予測は、将棋の読みのように、頭の中で状況の変化を想像する。未来の変化を計算することです。自分という将棋の駒を現実という将棋盤で動かしてみるシミュレーションです。

将棋の予測の場合、棋士の頭の中の将棋盤は現実の将棋盤ではありません。将棋の場合、シミュレーションの将棋盤はどれも抽象的な空間でその構造は同一です。先手後手、縦横九行九列の升目と持ち駒台に金銀とか飛車角とか、どの駒がどこに置かれているかという抽象的事項だけですべての状況が決まっています。コンピュータの中で数値として表現できます。

現実の将棋盤は木製であるとか表面に木目が見えるとか、一つ一つ違う。駒も木製であるとか木目であるとか、表面の字も手描きや機械彫りのばらつきがあります。

つまり予測は抽象的で記号的ですが、現実はあらゆる要素が観察されます。

なぜ予測は抽象的記号的なのか?予測では、予測者にとって関心がある情報だけが抽象的に表現されればよい。それ以外は煩雑で予測計算の邪魔になるだけですから切り捨てます。将棋の予測の場合は勝ち負けだけに関心がある。将棋盤が美しいかとか、高価そうだとかは、勝負に関係ないでしょう。

人生における予測も、同じ理由で抽象的かつ記号的になります。予測する将来の自分という人間も抽象的な人物にしかなりません。将来の自分がおかれるであろう立場を予測するという場合でも、抽象的な言葉で書かれた物語のようになる。自分の気持ちを想像するとしても、それは他人の気持ちを想像することと同じになります。予測する自分はドラマの観客のようです。小説やマンガの読者のようです。逆にいえば、私たちが将来の自分を想像することと同じことをできるように作られているシミュレーション装置がドラマやマンガや小説である、といえます。

予測される未来は様々な可能性を持っています。未来が現実になるときには可能性の一つだけが現れる。なぜ多くの可能性の中からその一つの可能性だけが選ばれたのか?そこに神秘が感じられます。

たとえば私の人生はいくつもの分かれ道があった。それぞれの可能性があった。現実にはそのうちのひと筋の道だけを私は通って現在に至っています。何故この道だけが実現したのか?神秘を感じます。運命と言えば運命なのでしょう。

予測というものはいくら正確を目指しても可能性を絞りきれないものです。予測しきれない未知の部分はかならず残る。その未知は神秘感を呼びます。つまり人間は、予測できない未知に神秘を感じるが故に、人生そのものに神秘を感じる。

さて未知はなぜ神秘なのか?知り得ないことがなぜ神秘なのか?犯人が分からないとなぜミステリーなのか?

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この世に神秘はない(6)

2013-05-04 | xxx4この世に神秘はない

さて、世界の存在というような大きすぎる話はこれくらいにして、ここらで話題をぐっと小さくしてみましょう。身近な私たちの卑近な日常生活で出会う大いなる神秘というと、ラッキー、アンラッキー、つまり生活上の運不運、という話でしょう。

 

この現実世界と、その中にいる自分というものを、自分の人生という立場から考えると、私たちは、しばしば運、運勢、運命、というような神秘的なものを感じます。毎日の生活で、運という言葉には、まさに強烈な神秘感があります。私がレストランを予約しようと思うのは一年に二回くらいしかないのですが、目当ての店に電話すると、いつもその日に限って結婚パーティで貸し切りになっている。運命の女神に見放されているに違いありません(拙稿16章「私はなぜ幸福になれないのか?」html )。

 

 

運命の女神は、何を基準にして私の運勢をきめているのでしょうか?神秘です。運命の女神は、私にだけいじわるであるとはいえないにしても、無慈悲でときには冷酷であることは間違いありません。

 

ふつう私たちはしばしば自分が人よりも不運だとは思いますが、人よりもラッキーだとはなかなか思えません。それで、たいていの人は運命の女神を好きになれない。この女神は嫌だ、怖い、目を合わせたくない、と思っています。それがまた、神秘感を増しているのでしょう。

 

この神秘感もまた、拙稿の見解では、実は神秘ではない。神秘感は強いけれども、神秘ということはない、といえます。

 

自分は運が良いと思う人は、用心が足りなくなりがちでしょう。木の根っこにつまづいたり、穴に落ちたりして、時には大けがをします。逆に自分はたいてい運が悪いと思う人は、用心深くなって、警戒おこたりなく、何かをするときは準備おこたりなく、不具合の場合の対策も計画に入れてから行動します。

 

したがって成功率が高い。失敗率が小さい。

 

パラドックスですが、いつも自分は運がよくないと思い、運命の女神を神秘と思い、おそれ敬う気持ちを持てる人々が生き残って、その性質を子孫に伝えていきます。そういう人々の子孫である私たちは、当然、運命を神秘と思うでしょう(拙稿16章「私はなぜ幸福になれないのか?」pdf )。

 

 

 

 

私たちはだれもが、明日のことは分からない、あるいは明日はとにかく、来月または来年のことは分からない。病気になっているかもしれないし、事故、災害にあっているかもしれません。死んでいるかもしれない。宝くじに当たって大金持ちになっているかもしれません。まあ、最後の可能性はないと思いますが。

 

そういう私たちの思いは、私たちが将来の予測をするからだと言えます。人間は明日や来週や来月や来年の自分の姿を予測する動物です。これほど長期の予測をする動物は人類以外にいません。明日のことも分からないのに長期の予測をする。

 

そうすると、ほとんど外れます。長期の予測はよく外れます。当たれば運がよい。外れれば運が悪い。外れが多いから、私たちは自分の運は悪い、と思います。運が悪いと思うと、安全側の行動を取る。将来は悲観的に予測しておくことだ、と思う。それで世の中にはペシミストが多い。

 

地震学者やエコノミストなどは、ほとんどペスミスティックな予測をします。それがジャーナリストに受けるので、そういう地震予測あるいは経済予測を書くことがビジネスになっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この世に神秘はない(5)

2013-04-27 | xxx4この世に神秘はない

私の内面の感覚感情とは無関係に存在する現実世界と、その中にある私だけにしか感じられない自分の内面。私たちが感じ取る物事のこの二面性は、この世の神秘の極みともいえます(拙稿24章「世界の構造と起源」 )。

 

 

だれもが現実として感じ取ることができない自分の内面は本当に存在しているのか、それとも幻影なのか、あるいは目の前の現実は本当に存在しているのか、それともそれが幻影なのか? 

 

自分の内面が嘘なのか、あるいは目の前の現実が嘘なのか、どちらかが嘘でないとおかしいのか、おかしくないのか、その矛盾さえも私たちははっきり自覚できない。それを混乱というか神秘というか? 話せば話すほど、分かりにくくなってしまう。この話はなぜこうなってしまうのでしょうか?

 

 

 

古来、この神秘は、哲学者を悩ませ、また科学者をも悩ませてきましたが、拙稿の見解では、これも人類特有の身体のつくりが引き起こす神秘感のひとつであって、それ自体が神秘ということにはならない、といえます。

 

人類共通の神経機構が(拙稿の見解では)集団的に共鳴を起こすことで現実が現れ、また同時に自分の内面というものが作られてくる、というべきでしょう(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」 )。つまり現実も内面も、物質も精神も、私たち人間の身体のつくりがそれらを存在させている、と考えれば、神秘はありません。

 

 

現実世界全体は私が感じることの一部分であり、私の内面もまた私が感じることの一部分である。つまり(拙稿の見解では)どちらにしても私の身体が感じるもろもろの(かゆいとか暑いとか暑苦しいとか息苦しいとか見苦しいとかいう雑多な)事柄の一部分であって、決してすべてではない、と考えられます。

 

現実ではない内面を感じることがおかしい、という必要もないし、私が感じるものしか現実には存在しないという必要もないでしょう。

 

ですから、この現実世界があるということが神秘だ(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』既出、拙稿25章「存在は理論なのか?」17)というのも間違いであるし、私は考えるがゆえに私が存在するということが神秘だ(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説 』既出)、ということも間違いです。つまりこの世の中にも私の中にも、どこにも神秘はない、といえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この世に神秘はない(4)

2013-04-20 | xxx4この世に神秘はない

このいわゆる心脳問題、ハードプロブレム 。これが別の形を取ると、いわゆる存在感、リアリティ、あるいはクオリア、といわれる感覚に関する神秘が現れます。私たちの目に見えるものはすべて物質です。私たちの目の前に広がっている物質の風景、リンゴ、机、パソコン、猫、隣の奥さん、太陽、というような目に見える物質のかたまりは、もちろん、明らかに存在している、と思われます。しかし、それらは単に存在しているばかりでなく、私たちの身体は、その存在感をはっきりと感じ取っています。

 

 

この存在感はどこから来るのか? たとえば、このリンゴの赤さ、この赤々とした鮮明な色彩は、いったい何を意味しているのか?赤色波長帯の光を反射していることは明らかに分かりますが、この鮮やかな赤の存在感は光の波長分布をいくら精密に測定しても分からないではないか(二〇〇六年 ニコラス・ハンフリー赤を見る:意識の研究[邦訳: ニコラスハンフリー (著) 赤を見る?感覚の進化と意識の存在理由] 』既出)、という問題です。

 

 

あるいは、隣の奥さん。その人はあまりにも生き生きと存在していると感じられるので、急いでいるときでも、きちんと挨拶しないわけにはいきません。話しかけられたりしたら電車に間に合わなくなりそうで、いやだなと思ってしまったりします。

 

このように目の前の現実は、単に物質として存在しているばかりでなく、私たちの心に働きかけ、その存在感をはっきりとあらわしています。リンゴはリンゴらしく、パソコンはパソコンらしく、猫は猫らしく存在している。それぞれに特有な存在感を持って存在しています。

 

それは私たちに意識があるからだ、といわれれば、そうだろうな、と思えます。リンゴのこの赤を感じ取っている私の感覚器官もまた物質である分子原子でできているけれども、この赤のこの赤い感じ、このあざやかさは目の感覚細胞や脳の神経細胞、それらを構成している分子原子などの物質そのものとは別にこの世に存在しているはずだ、と思えます。物質でできているこの世界に物質でなさそうな存在感、その感覚経験というものがある、としか思えません。

 

感覚経験から心に突き刺さる現実のこの神秘的な存在感(クオリアという)を語れば人は分かってくれるのではないか? 人々とそれを共感することでこの現実世界の真実をさらにしっかり捕まえてみたい(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)、という思いが私たちにこの世の神秘を語らせています。

 

この現実がここにある不思議、私の心がこの現実を感じ取っている不思議、その神秘。この現実はなぜこのようであり、なぜここにあるのか、この現実を感じ取る私がなぜここにいるのか、その神秘を私たちは人に語りたくなります(拙稿25章「存在は理論なのか?」)。

 

しかし私たちはそれを語ることができない。私たちが何かを語ろうとすれば、それは現実について語るしかありません。人類の言語はだれもが目で見て手で触ることができる現実についてしか語ることができない。もしそうである(だれもが目で見て手で触ることができる現実についてしか語ることができない人類の言語で私たちは語り合うことしかできない)とすれば、私たちは結局、自分の内面を語ることはできない拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」

 

あなたの身体が私の身体であるとしたら、あなたは私の内面の気持ちを感じることができるだろう。しかし現実にはあなたの身体は私の身体ではないのだから、私の気持ちを感じ取ることはできない。この当たり前の事実に気づかないふりをして、私たちは心を通じ合おうとします。しかし、無理でしょう。私たちは言葉を使ってしか通じ合うことはできない。言語の限界が、通じ合いの限界となっています。人間の言語は(拙稿の見解によれば)目に見える現実しか語ることはできない。言語によって人間の内面を語ることはできません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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