暗黒物質が発見されようがされまいが、火星に生物が発見されようがされまいが、医学で性転換できようができまいが、クローン人間が何百人生まれようが生まれまいが、寿命二百年が実現しようがしまいが、そんなことで影響されるような人生は、所詮、勘違いの人生だということでしょう。
未来科学が実現すればなくなるような神秘は、はじめから神秘ではない。科学史を語る先生が、昔は現代科学ができていないからしかじかの自然現象が神秘であったといいますが、現代科学で解明されてしまう程度の神秘は、その時代でも重要な神秘ではなかった、といえます。
たとえば地動説が聖書に矛盾しているといっても、宗教者でもないふつうの人は、もともと聖書など問題にしていなかったので、人生の足場が崩れ去るというような事ではありませんでした。その時代のほとんどの人は、むしろ、科学者などは焼き殺されても焼き殺されなくてもどちらでもよいけれども、坊さんたちが自信を失って厳かに冠婚葬祭を取り仕切れなくなっては困る、と思っていたでしょう。
もちろん、十七世紀以降、科学は飛躍的に発展しました。現代の物理学、分子生物学、脳神経科学などの進展は、軍事技術、産業技術、医療技術などの革新的発展を実現することによって、政治、経済から社会構造、個人の人生までを変化させています。これらの変化に伴って、現代の文学、芸術、社会思想、マスコミ表現さらにはモラルまでが、深く影響を受けています。現代人である私たちが享受している(というか、あるいは投げ込まれている)これらの急速な変化を過小評価することはできません。
しかしながら(拙稿が述べるように)神秘の正体は、私たち人間の身体の中に埋め込まれている神経機構が社会に適応する過程で、作られたものです。そうであるとすれば、外から与えられる科学の知識や産業社会のあり様が時代が進むことによって変遷し、その結果、神秘の対象が移り変わっていくとしても、神秘感そのものが私たちの身体の中から作りだされてくる、というその仕組みは変わらないでしょう。つまり、この世にあるといわれるあらゆる神秘は私たちの身体の中で芯が作られ、時代時代の世の中に合わせて対象を選び、それを仲間と語りやすいような理論の衣にくるまれて現れてくる、といえます。昔は墓場から蘇った幽霊が、今は、放射能に冒された廃墟からゾンビとなって現れるという具合でしょう。
神秘といわれる物事は、単に未知であるとか、曖昧、朦朧として見えにくいというだけではありません。そのあり様が私たちの身体に響いてきて恐怖や不安や希望や期待を与える力を持ったものです。ある物事が私たちの身体に深く響くとすれば、それは身体の構成に共鳴しているからといえます。そういう物事は、私たちの外側にあるというよりも、むしろ内側にあるものだ、といえるでしょう。
ここで、神秘は、私たちの外側にあるものではなくて、むしろ私たちの内側にあるものだと言い切ってみましょう。もっと強い言い方を採って、私たちの人生にとって大事な物事は私たちの外側にはない、と言い切ってもよいでしょう。そうであるとすれば、神秘は私たちの外側にはない。つまりこの世というものが完全に私たちの外側にあると思うならば(実際、私たちはふつう、現実のこの世は、私たちの内面とは関係なく、客観的に実在しているものだと思っています)、そこには人生にとって大事なものはない。したがってこの世に神秘はない、といえます。
(34 この世に神秘はない end)