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哲学の科学

science of philosophy

私はここにいる(27)

2009-05-23 | x9私はここにいる

そういうような人間の言葉の限界の中で、物事は語られる。どのような物事であろうとも、科学であろうと、哲学であろうと、言葉で語られる限り、だれもが共有するその限界の中にいる。したがって、拙稿で語ることも、もちろん、その限界の中にあります。その限りで、拙稿が言えることは、ここに限界がある、ということまでです。

実際に、言葉で言葉の限界を言うことはむずかしい。言葉は言葉の限界はないものとして作られている。言葉は言葉で語ることができるすべてについてしか語れないから、逆に言えば、すべてを語ることができる。言葉の限界の外側に何があるのかを言葉で言うことはできない。それを言おうとすることは意味がない。だから、それが限界なわけですからね。

本章の表題として、冒頭で小説から引用した「私はここにいる」という神秘的な自意識の表現は、まさに言葉の限界を超えて言葉を使おうとしている。言葉の限界を気づかずに超えてしまうことから起こる神秘感です。あるいは、もしかしたら作家は、それに気づいていながら、あえてこのような言葉の使い方をしたのでしょう。巧妙な文学技法です。しかし、このように作られた神秘感を、人間存在の神秘と思うのは間違っている。

哲学はここから間違っていく。言葉の限界を超えて言葉を使おうとするとき、言葉は意味を失う。はっきりした意味がない言葉になります。はっきりした意味がない言葉に神秘はない。言葉の限界を超えて使われる言葉に、実は、神秘はない。

拙稿では、この客観的現実も錯覚だという。錯覚というのがいやならば、(拙稿の見解では、こういう場合、あえて錯覚というあいまいな表現を使うほうがよいと思われるが)理論といってもよい。錯覚は無意識のシミュレーションに直感で存在感を感じるときにつくられ、理論は錯覚を言語化するときにつくられる。その意味で、私たちが、いつも、それについて語り合うことができるということから、この現実世界は人間だれもが共有している理論になっている、といえる。

皆で共有している、存在感が強い理論は、身体で感じることができる。私たちの身体の存在が間違いないのと同じくらい、身の回りの、この現実世界の存在は間違いない、と感じられる。それでも、それは理論でしかない。現実という理論です。この現実の客観的物質世界はだれもが客観的に存在していると感じとっている(二〇〇七年 鎌田晶子『透明性の錯覚:日本人における錯覚の生起と係留の効果』)、という理論です。それは単に真実なのではないか、と聞く人もいるでしょう。身体で感じとれるものを真実というならば、それはまさに真実でしょう。それを真実と言いたければ、そういってよい。ただし、真実というのは、いつでも、同時に一つの理論です。

この現実世界について私たちが言えることは、それだけです。言語を使う限り、私たちの言語が言えることはそこまでです。それ以外のことは言えないし、言う必要がない。

私たちの身体が感じるものだけからできているこの物質世界の中に、私たちの身体があると感じられる。私はここにいる、と感じられる。私の身体は、物質としての私の身体の存在を感じるし、物質以外のもの、たとえば、このラーメンのおいしさであるとか、私の背中の痒さとか、背中を掻きたいという私の欲望とか、人々の心に映る私の痒さでいらついた感情の存在も体感として感じられる。

だれもが共感できる物質としての私の身体と、私しか感じられないこの背中の痒さ。どこの皮膚が痒いという程度のことは言えても、それがどのように痒いのか、その痒さの存在感を言葉でうまく言い表すことはできない。私しか感じられないものはうまく言葉で言い表すことはできない。言葉で表現できるものとできないもの、その二つの存在を両方とも認めると二元論になります。

片方はだれの目にも見えるのに、もう片方は私が感じられるだけで目にみえない。片方はうまく言葉で語れるのにもう片方はうまく語れない。うまく語れないほうの物事も身体でははっきりと感じられる。そこで混乱が起こる。それを矛盾と感じたり、神秘と思ったりすると哲学になる。そのことを言葉で語ろうとすると、言葉で語れないものを語ろうとすることになる。すぐに混乱して哲学の謎に落ち込んでしまいます。

拙稿の見解では、いわゆる二元論に表れる物質と精神、身体と心、脳と意識、世界と私、などは矛盾する存在ではない。どちらかが現実に存在してどちらかは存在しない、というようなものではない。それらは、それぞれが現実の存在であるかのように身体で感じられるということは事実ですが、そうであるということは、いずれも私たちの身体がそれらの存在感をそう感じるというだけのことです。

私たちが感じられる物事のうちのある部分は、その感じ方を人間のだれとも共有していると感じられる。一方、別の部分は、自分の感じ方がほかの人と共有できないように感じられる。

物質世界の存在は、あまりにもはっきりとだれとも共有できている。それは間違いなく客観的で、しかも言葉ではっきりと言い表せる。物質は明らかな客観的存在です。科学の対象になっている。それは、私たちの身体が物質をそう感じるように進化しているからです。

一方、私の背中の痒さとか、私の自我意識とか、そういう物質でない物事は私にはむしろ物質よりはっきり感じられ、また物質よりずっと大事なことが多い。けれどもそういうことは目に見えないし、言葉でうまく言い表すことができない。その違和感が、神秘と感じられることがある。そこから二元論の問題ができてくる。

私たちは物質の存在も感じるし物質でないものの存在もそれ以上に強く感じる。私たちの身体はそう進化してきた。私たちの身体は生まれながらにして二元論の世界を感じとるようにできているらしい(二〇〇八年 ピーター・カルーサーズ『デカルト認識論‐心の自己透過性理論は生得的か?。二元論のその世界は論理的に矛盾を含んでいる錯覚の世界です。私たちは直観で「この世界ははっきりとここにあって、同時に私ははっきりとここにいる」と思っていますが、これは二元論の世界観です。もうそこから間違いがはじまっています。その間違いから違和感が生じる。それは神秘感につながっていきます。

しかし、それを言葉で言い表そうとすると、間違いはますますひどくなり、哲学の謎に落ち込んでいく。

拙稿本章では、その違和感について語りました。正面から言葉で語る以上、拙稿であろうと他の文章であろうと、言葉の限界につきあたって、その手前をうろうろとさまようしかない。ここは正面突破をあきらめて、裏に回って入り込む道を探すほうがよさそうです。言語が基礎にすえる存在とか現実とか自我とかいう概念からして、(拙稿の見解によれば)私たちの身体がどう動いていくようにできているかという人体の仕組みの一部分です。私たちの身体は、そもそも、どう動くようにできているものなのか?これより先に進むためには、そこを調べる必要があるでしょう(このテーマは次章で検討の予定)。 


(19 私はここにいる end)

→(20 私はなぜ息をするのか?)

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私はここにいる(26)

2009-05-16 | x9私はここにいる

こうして私たちが目の前に見るような客観的現実がつくられ、私たちはその中に見つけられる自分の身体の動きを予測して、それに五感の感覚と体内感覚や感情を貼り付けることで自分という動きを知る。私たちは、自分の身体のその動きを、自分が動いたと思うことで(拙稿の見解では)自分という認知対象を作っている。

こうして、その自分というものが意識をもって客観的世界を感知している、という私たちの現実感ができあがる。この現実感は、常に運動共鳴によってだれとも共有できる。逆にいえば、このようにだれとも現実感を共有できることで、私たちは、「この世界ははっきりとここにあって、同時に私もはっきりとここにいる」と思える。

このように客観的に現実世界を共有するおかげで、人間は、仲間との緊密な協力が可能となった。特に、客観的世界を土台として成立する言語を使いこなすことで、精緻な社会活動が可能となる。また互いに自他の行動を客観的現実の上で予測できることで、信頼感のある安定した社会的活動が可能となっている。

人類の進化史上、数十万年前に起こったらしい(客観的現実世界の共有という)脳のこの(第3B層の)機構変化は、(拙稿の見解では)人類の生存繁殖の能力を飛躍的に高めた。

拙稿が言えることはそこまでです。ここから、この現実世界が実在するとか、実在しないとかいう議論に進むことはできません。私たちは、お互いに、こういう現実を現実と思っている無意識の感覚を共有しながら付き合い、会話して社会を作っている。人々の行動を見れば、現実の世界がこうなっているとだれもが共感していることは自明と思えます。逆に、現実世界はこうなっている、と無意識のうちに共感しているから人々はこう行動している、といえます。

たしかに、哲学者たちがいうように、私たちが素朴に感じているこの現実の世界は論理的に統一されていない。自然法則に従って物質だけからできているこの世界に私がいて、周りの人々の心を感じながら、自分の意志で行動している。私たちはこう感じていますが、これは論理的に矛盾しています。客観的な自然法則と、主観的な私とか心とかは、論理的に共存できない。「私はここにいる」などという主観と客観が混在する言葉に意味があると感じることは、論理的にはおかしい。

私たちの身体は、この現実世界が客観的に実在すると信じて疑わない。ところが、論理的にその根拠はない。私たちの身体がそう感じているだけです。この現実は実在している必要などない。実在していると、だれもが信じ込めばそれで十分、私たちはこうして、じょうずに生存し繁殖していける。そして、この現実が実在していると思い込むような身体をもった子孫を増やし、人生を繰り返すことになる。

そういう意味で、私たち人間の直感は、論理的に破綻しています。しかし、進化によって私たちの身体がつくられるとき、哲学者にほめられるように完璧な論理性を備える必要はない。身の回りの物事や仲間の人間とだいたいうまく付き合って、そのときそのときを確かに生き抜いて、確実に子供を残していけばよい。それだけで、物事をこういうふうに感じる私たちのこういう身体は繁殖し、同じことを感じる身体を子孫として残し、人生は繰り返されていく。実際、ほとんどの人間は哲学など関係なく生きて、子を産んでいく。

本章でいいたいことはここまでですが、最後にもうひとつ、付け足しの(ちょっと長めの)文を書かせてください。これも何度か書いたが、すぐ忘れられてしまう(というより、筆者が忘れてしまう)心配があるので繰り返しておきますが、いましているような話は、ふつうの言葉で語ることではありません。ふつうの言葉を話すときは、話し手の私も聞き手のあなたも、間違いなくこの客観的物質世界の中にいるとしている。そういうことにしなければ、ふつう言葉は使えません。そういう大前提の下で、世間話も、文学も哲学も宗教も、自然科学も社会科学も、政治も経済も語られている。

しかし、いまここでの話はそれではない。ふつうの言葉が使える限界を超えそうな使い方をしています。もちろん限界はだれにも超えられない。けれども片足は限界ぎりぎりにおいているので、すぐ外に出そうになっている。もちろん足は出せませんが、つま先くらいは出ている。そのところで、ふつうの言葉ではない変わった使い方をされています。そこに気をつけて聞いてください。

片足のつま先における拙稿の見解では、この物質世界がこうなっているから私たちがそれをこう感じるのではない。逆に、この物質世界は私たちがこう感じるからこうなっている。萬力屋のラーメンはおいしいから私たちがそれをおいしいと感じるのではなくて、私たちがそれをおいしいと感じるから、そのラーメンはおいしい。それは私の舌の錯覚かもしれない。実際、錯覚とどう違うのか? 

錯覚と現実、その違いはつきつめてみれば、私ひとりがそう感じているだけなのか、それともそうでなくて、人間だれもが私と同じようにそう感じているのか、の違いでしょう。そうであるならば、その店のそのラーメンのおいしさは、人間だれもが共有する錯覚である、とも言える。つまり、拙稿の見解(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)では、ラーメンのおいしさを含めて、この現実世界のすべては私たち人類が共有する大きな錯覚である、としてもよい。

この現実が錯覚であるというならば、私たちはその中にいるはずはない。錯覚をしている私たちは錯覚の外側にいるはずです。これが錯覚であるならばこのラーメンのおいしさは本当ではない。では、私たちはどこにいるのか? このラーメンの本当の味はどうなのか? 私たちがいる本当の世界はどうなっているのか? どのラーメンもまずくて食べられないような世界はどこにあるのか? その世界では、「ラーメンはおいしい」といってもその言葉には何の意味もない。ラーメンのおいしさは存在しない。「私はここにいる」といってもその言葉には意味がない。「私」にも意味はないし、「ここ」にも「いる」にも意味はない。どんな言葉にも意味はない、となってしまう。もしそうだとすれば、本当の現実はどうなっているのか?

そういう疑問がでてきますね。

しかし、私たちが本当はどこにいるのか? ラーメンの本当の味はどうなのか? 本当の世界がどうなっているか? そういうことについては、拙稿は何もいっていない。拙稿ばかりでなく、どんな文章も、そのことについては何もいっていないはずです。

なぜならば人間の言葉は、そういうことを語るようにはできていない。あえて言えば、本当の世界という言葉に意味はない。ラーメンの本当の味という言葉にも意味はない。私たちがこう感じるこの客観的な物質世界のほかに別の世界を想像することはできないし、そうする必要もない。

たしかに優秀な詩人や小説家は巧妙な比喩を使って、読者に別の世界を想像させることができる。しかし、一語一語、その意味をよく考えてもう一度、その文を読んでください。それは比喩を使った錯覚を組み合わせて作られたバーチャルな、イマジネーションの世界です。たしかにすばらしい。美しい言葉のマジックといえる。絵の具を組み合わせて目の覚めるような美術を作り出す画家の才能と同じようです。人間精神の高みを表しています。

私たち凡庸な人間は、画家のように絵を描くことはできません。小説も書けない。しかし詩人や小説家でない私たちふつうの話し手も、かなりじょうずに比喩を使って毎日の会話をしている。人間の言葉は、目に見える物質世界の共有を土台にしながら、比喩を使いこなして、目に見えないいろいろな感覚や感情を伝えることができる。そうして私たちはいろいろな現実を共感し、共有している。

しかし、比喩によってひろげられる部分を含めても、結局は、この世界は私たちが共感できるものだけからできている。私たちがお互いに共感できる世界を経験で確かめていくと、いまこうあるような現実世界ができあがる。それ故に、人間の言葉は、この私たちだれもが同じように客観的に感じる現実世界の内側で使われるしかない。はっきりと言葉で語れる物事は、この現実世界の内側のことだけです。

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私はここにいる(25)

2009-05-09 | x9私はここにいる

ちなみに、拙稿の見解によれば、人間の行動を形成する仕組みは、大きく三層の構造からなりたっている。

一番下の第一層は、運動器官と脊髄、延髄、脳幹の神経回路によって構成される脊椎動物共通の基礎的な反復運動発生装置で、泳いだり、歩いたり、呼吸したり、食べ物を噛み砕いたりする自動的な運動の指令信号を発生する。その層の上に作られている大脳基底部、視床、辺縁系、小脳を中心とする第二層の神経回路は、哺乳動物共通の感情運動発生装置です。この層では受信した感覚情報に反応して、たとえば恐怖を感じて飛び上がる、というような感情を伴う運動を発生する。この装置には記憶学習機能が付随していて、たとえば恐怖などへの対応を繰り返すことで逃避行動がじょうずになるような機構になっている。

一番上にある第三層は、第二層を包み込んでいる大脳皮質と帯状回と小脳の神経回路を使う情報処理システムで、人間の意識的行動を形成する装置といえるが、(拙稿の見解では)この層はさらに上下の二層に分けられる。最三層の下のほうをなす下位層(仮に第3A層と呼ぶ)には群棲動物が群行動を起こす運動共鳴の装置ができていて、その上に(機能的図式として)乗っている第三層の上のほうの上位層(仮に第3B層と呼ぶ)に人間特有の意識的行動の形成装置がある。

この第三層の上下二分化は解剖学的には同定されていない。脳組織として、解剖学的に上下二層の構造になっているかどうかも定かではない。最近の脳神経科学の研究では、自制心、問題解決など人間的意識を発生する機構が、前帯状皮質、前頭葉、頭頂葉などからなる神経回路に当たるという仮説(二〇〇一年 ジョン・オールマン、アティヤ・ハキーム、ジョゼフ・アーウィン、エスシア・ニムチンスキー『前帯状皮質 感情・認知連関の進化』)などあるが、検証は不十分と思われる。いずれにせよ、脳神経系の機能と解剖学的組織構造との対応は、現状では、残念ながら技術と方法論が未成熟な段階と認めざるをえない。拙稿としても脳構造と機能との対応については、拙速に細かい構造分析を求めることはあきらめて、次世代の研究に期待することでとどめるとします。

さて、興味深いことには、これら運動形成の重層構造は、それぞれ下の層の作動を上の層が制御しているという構造になっている。制御している、というと支配しているような語感にもなるが、この場合むしろ、支配しているというよりオプションの機能を付加している、というべきだろう。時計の機構の上に目覚し機能が付加され、さらに目覚し機能の上にオルゴールの選曲機能が付加される、というような場合に似ている。

下の層は上の層に比べると少ないインプット情報しか持たずに比較的自律的に動いている。上の層は、より広い範囲からの多様なインプット情報を受信してそれに対応する予測シミュレーションを稼動させることで下位の運動をコントロールして付加的な機能を実現している。ここで上の層が受信するインプット情報は、五感および体性感覚のほかに神経系の各所で二次的三次的に加工された情報も含む。

逆にいえば、感覚器官が直接受信した情報を神経系各所の神経回路で二次的三次的に加工する機能が進化したのは、それら加工情報が上位の運動制御に使われるようになったからでしょう。たとえば、感覚器官が受信する直接の視覚聴覚などのデータから恐怖などの感情を発生する感情機構は、その加工された感情という情報を上位の運動制御に使用するから役に立つ。つまり、牙をむく猛獣を目で見て、その視覚情報から恐怖の感情が起こるのは、その感情反応を利用して逃避運動をじょうずに実行する上位の運動制御回路があるからです。

最上位の運動制御回路である(拙稿の命名によれば)第3B層は、(拙稿の見解では)五感のほかに神経系の各回路や血液成分によって伝達される身体内外から来るインプット情報を最大限に受信して利用する。それら膨大なインプット情報を使って、それらをいわばキーワードとしてメモリからの高速の検索が行われる。その結果、メモリから、かつて学習した大量の身体運動シミュレーションが呼び出される。

このシミュレーションにより自動的に感情を伴う仮想運動が発生することで、シミュレーションが表現する物事への注目が引き起こされる。物事への注目が起こると、第3B層には、予測用の身体運動シミュレーションが形成され、下位の層を使った仮想運動が発生する。その過程で(拙稿の見解では)私たちが主観的に感じる感情変化と現実感と意識感覚が発生している。

同時にこの仮想運動は、第3A層以下の下位の層に、注目する物事の存在感を発生させる。この存在感に反応して下の層は、自律運動に加えて(加速減速など)付加的な運動を実行する。これが意識的運動を引き起こす。つまり、第3B層は身体内外から来るインプット情報から適当な現実を選択してそれを仮想運動で表現することで、身体全体をその現実に反応させて作動させる。

センセーショナルな言い方をすれば、この第3B層の神経回路は現実なるものを演出して私たちの身体をだます役割を果たしている、といえる。第3B層がこのように働くとき、(拙稿の見解では)私たちは自分が意識的に行動している、と自覚する。

第3B層のこの機能は、下位の層が行う運動に、新しい有益な機能を付加することができる。たとえば、現実世界の法則を学習して物事の変化に関する精密な予測能力を習得することで、多様な環境に適応した生存繁殖の活動ができるようになる。あるいは仲間の行動の予測とそれに伴う自他の感情変化の予測と学習が可能となり、予測されるその現実感に対応する精妙な社会的行動が学習できるようになる。

人類の場合、この第3B層によって形成される、注目する物事に関する現実感を、運動共鳴を通じて仲間と共有し、(その一部を)言語表現を使ってコミュニケーションに使用する機構が(拙稿の見解では数十万年くらい前に)進化した。そのため人類にとって、現実世界は仲間と共有できる客観的な安定した世界となり、(拙稿の見解では)だれにとっても同一の認知と記憶がなされる客観的存在である、と感じられようになった。これが、私たちにとっての、現実の起源だといえる。

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私はここにいる(24)

2009-05-02 | x9私はここにいる

最後に、目の前にある物質たち、そしてそれらでできている客観的物質世界(現実1)、が獲得される。幼児が幼稚園に入るころには、身の回りの物質がどういうものであるか、他人がそれらをどう感じているのかが分かるようになる。冷たい水は冷たい。重い荷物は重い。日が落ちると暗い。ボールは足で蹴ると飛んでいく。だれにとっても、物質は客観的に実在する。

自分が何をしようと、何を思おうと、冷たい水は冷たい、重い荷物は重い、日が落ちると暗い、ボールは足で蹴ると飛んでいく。自分とは関係なく、冷たい水は冷たい、重い荷物は重い、日が落ちると暗い、ボールは足で蹴ると飛んでいく。

私たちは、目の前にあるこの客観的物質世界が唯一の実在だと信じているが、それは現生人類特有の現実感覚にすぎない(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)。たしかに、私たちははっきりと、この物質世界を現実と感じるし、こう感じている限り、じょうずに間違いなく毎日の生活を送り、生存し繁殖できる。

つまりこういうように現実を感じる身体は、うまく生存繁殖ができる。私たちのこの身体は、生物としての人間にとって繁殖に便利なようにつくりこまれている、といえる。生存繁殖に便利な身体とその神経系は、進化の過程で維持される。その理由で、私たちはこういう身体を持ち、現実をこう感じている。世界をこう感じるような神経系を持っている。そうだから、現実は、私たちがこれこそが現実だ、と思うように、こうなっている。

科学が描く物質世界は、私たち人間だれもが直観で感じとっている目の前のこの物質世界(現実1)を理論化したものです。科学が描く物質の理論はいつでもどこでも経験できる法則に従っている。科学的方法論と呼ばれる、科学者が共同で法則を確認する仕方で、科学の理論はつくられてきた。人間がだれでもいつでもどこでも経験できる物事は、私たちに強い存在感を与える。その物事は現実だ、と私たちは感じる。私たちが持つこの現実感覚によって、科学が描く理論的な物質世界は、客観的に存在できる。

これが、すべての科学の土台になっている。つまり、科学は、私たちがふつうに物質を感知する現実感覚(現実1)に支えられている。その客観的現実(現実1)は、先に述べたように自他感知世界の現実(現実3)に支えられており、さらにその自他感知の現実(現実3)は、自己中心的現実感(現実2)に支えられている。

いずれの現実も、その存在感を感じとりそれを利用して自他の行動の結果を予測する脳の機構によって現れる、といえる。私たちのその脳の機構は、原始時代、数十万年にわたる進化の積み重ねによって人類の生活環境での生存と繁殖に便利なように、つくりこまれてきたはずです。

そうだとすれば、私たちが目の前に見ている現実は、それが本当にこうあるからこうあるように見えるというよりも、こうあるように見えるほうが、私たちが、過去数十万年における生存繁殖の場で動物として有利に生存し繁殖する機会を得られたから、こうある。つまり、私たちがいまこういう現実の中に生きている、というよりも、私たちが(正確にいえば、私たちの遺伝子が)生き残るために便利な行動をつくり出せるためには、私たちはこういう現実の中に生きている、と感じるように私たちの身体がなっていることがよかった。私たちがこの現実を感じとってその中で生きている、というよりも、私たちが生きているからこれが現実なのです。

たとえば、身体が弱っているとき、あるいは状況がひどく不利な場合、自己中心的な現実(現実2)を感じとって、世界に不信感を感じて(ひがんだり、ひねくれたりして)身体ごと縮こまるほうが、生存繁殖のためには、よかった。身体が強いときは、世界は自分の味方に決まっていると楽観して、客観的世界の現実(現実1)の中へ乗りだして、自分の身体を、客観的な物質とみなして道具のように操作して、攻撃的な行動を取ると、生存繁殖に有利だった。また、人間関係が重要な社会では、自他の気持ちを最優先の現実(現実3)と捉えて、仲間の発言や表情に敏感に反応して行動を選ぶことが、生存繁殖のためには、重要だった。つまり、私たちがおかれたそれぞれの状況に対応して、私たちの身体は、私たちの身体の生存繁殖に(かつての人類の生活環境においては)有利であった努力をしたくなるような現実が現れてくるような仕組みになっている。

ただし、私たちの身体のこの仕組みが、過去の時代の生存繁殖に有利であったからといって、現代人の私たちがいまそうすべきかどうか、は別の問題です(一七八八年 イマニュエル・カント実践理性批判』既出)。それは、私たちが自分というものを、そして人生というものを、どう考えるか、という(もうひとつのむずかしい)話になる(拙稿16章「私はなぜ幸福になれないのか」拙稿17章「私はなぜ幸福になれるのか」)。

さて、またここで、前にも述べたこと(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)をくどくど繰り返しますが、それは私たちがよほど気をつけないと、すぐ忘れてしまうことだからです(というか、筆者が年を取って忘れっぽくなったからかもしれないが)。

現実は、私たちが思っているように、たった一つ存在するというものではない。いくつも存在するともいえる。あるいは一つも存在しないといってもよい。現実というものは(拙稿の見解によれば)私たちの身体が、生存と繁殖に便利なように脳を使って私たちの前につくり出すものだからです。ただし、私たちの身体は、現実がただ一つだけ存在するように感じる。身体が一つだから現実は一つになっている。人間の身体はそうできている。

つまり(拙稿の見解では)、私たちから見れば、あるときには、ある一つの現実だけが存在するけれども、別のときには別の一つの現実が存在する。代わる代わる存在する、ともいえる。あるいは、現実といわれるようなものは、はっきりとは存在しない、ともいえる。

私が感じているこの現実も、現実を感じているこの私も、どれも脳がつくり出す錯覚に過ぎない、といえる。ただし、現実が確かに存在すると私たちが感じるように、しかもそれはたった一つだけ存在すると感じるように、私たちの身体ができている、ということだけは確かだといえます。

進化によって環境に適応した私たちの身体は、自分の身体が無意識のうちに感じている現実をたった一つの現実と感じることで世界を予測し、一つしかない身体をその一つしかない現実に合わせて、その中をじょうずに生き抜いていく。言い換えれば、私たちは、自分の身体が動いていくことで感じる身体運動-感覚受容‐予測のループがうまく働くことを感じとって、それを現実と感じとる。

つまり、私たち人間の身体は、いま自分の身体が直感で感じて反応しているこの現実をたった一つの現実と感じる。その現実を経験として学習し、学習した記憶を想起して現実の変化を予測する。その予測とそれに反応して身体の中に発生する感情を使って次の行動を計画し実行する。人類のこれまでの生存環境においては、このような身体の仕組みを持っていることが生存繁殖に有利だったからです。

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私はここにいる(23)

2009-04-25 | x9私はここにいる

憑依機構をつかうことによる人類のこのような客観的世界の獲得は、さらに自分の身体の観察におよび、自己身体の外観の客観的観察と内観による体性感覚、運動感覚や感情を貼り合わせることで自我概念を生成する機構に進化した。不特定な他人の視点に憑依して外側からながめる自分の身体の感知から、自分がする運動の意図、意志、欲望、目的が推測できる。

そうして憑依機構をつかうことによる自分の行動の感知から推測する意図、意志、欲望、目的、に、自分の内部感覚から感知する体性感覚、運動感覚、感情、経験、言語文脈などを貼り付けることで自我が形成されていく(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。

つまり、自分というものは、私たちがふつう感じているように、自分の肉体の中にある神秘的ななにか、ということではない。私たちが自分というものを感じているときは、五感や体性感覚などの感知信号を合成することで、この肉体から離れた他人の視点に憑依して自己の肉体を外側から客観的に見てその運動を予測するための身体運動‐感覚受容シミュレーション仮想運動として作動している。その仮想運動を再感知することで、私たちは自分というものを感じる。

自分というこのシミュレーションは、(拙稿の見解では)霊長類にもある体性感覚と視覚による空間認知の統合機構(二〇〇四年 田中美智雄他『内部行為から外部空間を描出する頭頂葉内双感覚神経細胞群』既出)を土台としている。さらにその上につくられる自他感知世界(現実3)というシミュレーション機構は、類人猿の中でも(オランウータンやゴリラやチンパンジーやボノボにはなくて)人類に特有のものでしょう。この自他感知シミュレーション機構の獲得は、精緻な社会生活と共進化して言語を生み出し、人類の生存繁殖能力を飛躍的に高めました。

自分というものは、物質のように直接視覚や触覚などの感覚で感じられるものではない。視覚聴覚触覚 体性感覚、感情の動き、イメージなどから身体運動‐感覚受容シミュレーションとして間接的に、また総合的に、捉えられる錯覚に過ぎない。自分の人体は客観的物質として感じられるが、その場合、それは客観的物質として他人の人体を感じることと変わりないから、自分自身を感じていることではない(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。私たちは、自分の人体を物質として感じると同時に、その物質感知の感覚を体性感覚や感情や自他感知シミュレーションの結果で裏打ちして、自分というものを感じとっている。

このような自我の捉え方は、近代哲学の初期(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論既出)から提起されている。特に現代の心理学、哲学において顕著になってきている(たとえば一九一三年 ジョージ・ハーバート・ミード社会的自我』既出 あるいは、一九八六年、一九九二年 ダニエル・デネット語りの重心としての自我』)。このような見方によれば、人間の人格あるいは自我と思われているものは、その人の身体の客観的な行動を理論化し、これからの動きを予測する便宜のためにつくられたフィクションであり、私たちが思っている自分という人格も、他人の人格をつくるために使ったフィクションを応用して自分の身体の行動を理論化し予測する便宜のためにつくられたもうひとつのフィクションである、とされる。

マンガにありそうな場面。宇宙から来て地球人に変装した異星人が、「私は山田太郎です」と言っている。異星人は、山田太郎というフィクションを演じています。しかも、異星人は、本気で自分が山田太郎だと思っている。異星人はそう思い込むことによって、地球でうまく生きていかれる。一人の人間を演じることでうまく生きていく。それ以外に、異星人が地球でうまく生きていく方法がありますか? 異星人ではない私たち人間も、自分が「○田×郎」あるいは「凸山凹子」として生きていくしかない。

私たちは、だれもが、自分を自分と思って生きています。自分が自分と思っている人物だと思い込むことで、うまく生きている。その自分をペットのようにかわいがり、あるいはひいきのサッカーチームのように応援し、外側からの自分の視線に映る自分のシミュレーションを感情とともに感じとって、それを主人公としたゲームを懸命にプレイする。

主人公がゲームで高い点数を取れるように毎日努力する。ペットが快適であるように世話をする。あるいは、ひいきのチームの勝敗が気になってしかたがない。

自我をどこに見るか?

私たちは、ペットやひいきのチームが自分のように思えるから、それに情が移り目をかける、と思っているがそれは逆です。私たちは、いつも身近にいるのが自分だから、それに目をかけてしまい、ペットやひいきのチームに対するのと同じように、それに情が移る。だから、私たちは自分をペットやひいきのチームのように手助けし応援する。

それは、たいていとてもうまくいく。逆にそうしないと、何もうまくいかない。私たちは、それ以外に、この社会でうまく生きていく方法を知らないからです。逆にいえば、そうするような脳の仕組みを持った私たちの集合として社会はつくられている。そうして生きていかれるように社会はつくられた、といえる。

こうして、自分というものはつくられています。人間は、だれもが、そうしている。人類は一万年以上も前から、そうしてきた。そうして人口を増やし世界中に住み着いた。つまり自分をつくり、それで社会を構成するというこの行動様式を身に着けることによって、人類は動物種として繁殖に大成功した。逆に言えば、祖先がそうして繁殖に成功したから現在生きている私たちはこうして自分をつくっている、といえる。

過去はその通りです。ただし、過去がそうだからといって、これからどうすべきかは、もちろん、まったく別の問題でしょう。近代哲学の開祖といわれる大哲学者が述べたように、物事がどうであるかによってそれをどうすべきかは決まらない(一七八八年 イマニュエル・カント実践理性批判』)。

さて、こうして他人がつくられ自分がつくられることで、私たちがいつも感じている自他感知世界(現実3)は完成する。発育上では、赤ちゃんが幼児になると、それはつくられてきます。これ(現実3)を現実と感じとってその上で他人と自分の行動を予測することで、私たちは集団行動をつくりだす。そこに、あらゆる人間関係をつくりだす。愛、憎しみ、尊敬、あるいは嫉妬、などの感情を生み出し、そうすることで社会を形成する。こうして、私たちはじょうずに生存し繁殖することができる。逆にいえば、そうして繁殖に成功した人類の子孫だから、私たちは、愛、憎しみ、尊敬、あるいは嫉妬、などの感情を持っている。

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私はここにいる(22)

2009-04-18 | x9私はここにいる

このとき、人の動作を感知することで惹き起こされる運動共鳴により自分の脳内に起こる仮想運動、それに対応する自分の身体の無意識的な自動的な反射による体性感覚の変化信号、たとえば平滑筋や自律神経系の活動による内臓や血管のかすかな変動信号を感知して、それによって私たちは観察対象人物の内面の動きや感情を知覚する。

この自分の身体の無意識な反応を感知して、私たちはそれを観察対象人物の心と思う。これが、いわば、(拙稿の見解によれば)他人の心の存在感だといえます。

他人の心は、それを感じとる私の脳の感情機構の働きによって、私の身体を変化させる身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションとして表現される。この場合、感情機構は進化によって環境に適応しているから、感覚情報に対応して生存に適切な運動、筋肉、分泌腺、自律神経系の変化を引き起こし、それら(のフィードバック)を感知することで感情を引き起こす。たとえば、人間の笑い顔は、ふつう、安心の感情を引き起こします。

現生人類において、この人物感知機構は、自分の運動形成回路を利用して、感知した他人の運動を取り込み、その運動の、直後あるいは今後の行動を予測する巧緻な機能を持つ。

脳におけるこのシステムを、拙稿では憑依機構と呼ぶ。これは、身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションを使って、仲間の人間の動作、表情を見取り、音声を聞き取ることで、いわばその人に乗り移って、その身体を動かす意図、意志、欲望、目的を身体感覚として感じとり、その人の視点から世界を見直す脳の機能です。

たぶんこれは、大脳前頭葉をつかう人類に特有な機能であって、他の動物にはないと思われます。チンパンジーなど類人猿には、この機能の原型があるようですが、人類の能力には程遠い。

人間は、(拙稿の見解では)身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションを使って、仲間の内面に憑依することで、この世界を他人の視点から客観的にながめる拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)。逆にいえば、このような憑依機構が働くことで、この現実世界は、私たちがそう感じるというばかりでなく、実際に客観的に存在する、といえる。

私たちが感じる、物事の客観性という感覚は、ここから来ている。この仕組みで(拙稿の見解では)、私たちは、憑依を使って仲間と共感する身体感覚で感じることだけから、世界が客観的に存在することを直観で感じとっている。

私たちの脳神経系にあるこの憑依機構は、人類の社会生活において便利なため頻繁に使われた。頻繁に使われる生体器官は速く進化します。現生人類が旧人類から分岐する過程で、(拙稿の推測では)この機構が優れた現生人類は生存競争に勝って、世界中に繁殖したのでしょう。

その結果、この憑依機構はさらに進化して、不特定の人間の視点からの鳥瞰的な客観的世界観をつくるように発展する。ここまでくると、物質世界の客観性は、現生人類である私たちが感じているものと同様になる。

私たちにとってこの客観的物質世界は、仲間のだれでもが、同じ運動を加えて同じ感覚を受け取ることができる対象である、と感じられる。だれかに憑依して、そのだれかの身体を使ってこれらの物質を操作するシミュレーションをする。そのときその身体がどう感じるか、そのシミュレーションが私たちの体性感覚にもたらす仮想的な経験を感知することで(拙稿の見解では)その物質の客観的存在感がつくられる。

こうして私たちは、客観的物質世界を感知する。換言すれば、物質世界は、憑依機構をつかう運動共鳴シミュレーションによって、こうして客観的に存在する。物質を見る私たちの視点のこの客観性は、数千年前から始まった歴史時代から現代に至って、自然科学をつくりだしている。

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私はここにいる(21)

2009-04-11 | x9私はここにいる

まず、五感(ふつう視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚のことですが拙稿ではすべての感覚のこと)が受ける情報から自己中心世界を構成する。これはパターン抽出による受信データの分節化です。たとえば、赤ちゃんが、言葉を聞き取るとき、連続して聞こえてくるママの声を音素として切り分ける。音素の順列から音節を切り分ける。さらに音節の順列から単語を切り分けていきます。

さらに赤ちゃんは、音素、音節、単語、それぞれの生成法則を推定して同定し、脳の音声解析回路にインストールします。この回路は人間が発する音声を分節化して、文章に変換する働きを持っています。それで、(日本人の赤ちゃんの場合)日本語の生成法則が分かるようになる。ただし、ここまでで分かるのは言語の形式的な生成法則(シンタックスという)だけです。言語の意味(セマンティクスという)が分かるようになるには、次の段階で自他感知世界を獲得する必要があります。

単語の切り分けまでならば、現代の音声解析ソフトウェアを使えば、コンピュータでできる。同じようにカメラで撮った視覚情報から、犬と猫を見分ける、あるいは人の顔を見分ける、画像解析ソフトを作って、コンピュータにその仕事をさせることもできる。こうして、現代情報科学の最先端の水準では、なんとか、コンピュータでも、赤ちゃんがするような自己中心的世界認知ができるようになる。そうなれば、それは、自己中心世界の生成構造が構成的に示されたことになる。

ただ、こうして現代情報科学でコンピュータの中に作った自己中心世界は、(拙稿の見解では)受信情報を既存カテゴリーに分類する、いわば静的な辞書であって、実際の人間の脳にあるものとは違う。人間の脳の世界認知システムは、拙稿の見解では、辞書ではなくて、自分の身体運動と連結した動的な構成になっている。言葉にしろ、物事にしろ、人の顔にしろ、赤ちゃんがそれを認知するときは、脳の身体運動形成回路がそれらを表現している。その表現は、コンピュータソフトのする辞書的カテゴリー分類とはかなり違う。

たとえば、赤ちゃんが持っている犬のイメージは、(拙稿の見解では)コンピュータメモリーに格納されたような画像カテゴリーによる表現ではない。自分がそれになってワンワンとほえながら駆け回る身体運動と感情を伴う体性感覚と五感のダイナミックな身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションとして、犬のイメージは、赤ちゃんの脳内で表現されている。また、赤ちゃんが感じる身の回りの空間そのものの存在感は、コンピュータメモリーに格納されたような幾何学的三次元ベクトルによる表現ではなく、手を伸ばしたり、身体を移動させてそこに近づいたり、という身体運動‐感覚受容のシミュレーションによって、赤ちゃんの脳内では表現されていると思われます。

このような脳内機構の物質的エビデンスとしては、たとえば、猿の脳において、視覚認知空間と腕の回旋運動感覚との両方の刺激に反応する頭頂葉神経細胞群が同定されている、という実験報告がある(二〇〇四年 田中美智雄他『内部行為から外部空間を描出する頭頂葉内双感覚神経細胞群』既出)。

ちなみに、(拙稿の見解では)たとえば身体を移動することが距離の認知になっているなど、身体運動‐感覚受容の脳内シミュレーション機構が、私たちの空間知覚のもとになっている。ここから、この身体的空間知覚が科学の認知する空間と時間からなる物理的世界に関する脳内表現の基本的な構成要素になっている、といえる。

以下、拙稿では、私たちが感知する世界の存在は、このような身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションによる表現のネットワークとして脳内に格納されている、とします。このようなシミュレーション記憶は、身体運動に伴う体性感覚や感情活動および視覚聴覚など五感変化の記憶と連結して想起される。こうして私たちが感じとるこの世界のありさまは、(拙稿の見解では)これが現実にこうだから、というよりも、私たちの身体が世界をこう感じることでじょうずに運動を実行するようにできているから、こうなっている。

私たちに感覚と感情を感じさせる脳の機構は、人類の進化に伴って生存環境に適応していったので、私たちが感じる世界のありさまは、人類がその生存環境を生き抜くために身体を動かしていく装置として便利なように構成されている。

たとえば、転げ落ちそうな谷底を見おろすと、私たちは、身体が引き込まれる身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションを感じる。また、手がとどくところに生っている鮮やかな色の木の実を見ると、もぎ取る身体運動‐感覚受容シミュレーションを感じる。人のどなり声を聞くと、首をすくめたくなるような身体運動‐感覚受容シミュレーションを感じる。

こうして物事は感じとられ記憶され学習されて、私たちは成長してきた。このような学習によって成熟した私たちは、いつでもやすやすと、今しようとしている自分の運動の結果によって物事がどう変化するのかを予測することができる。逆に、予測できないと私たちは意識的には運動できない。

次に、このように構成された自己中心世界(現実2)の中に、自他感知世界(現実3)が生成できる。赤ちゃんは自分の感覚器に加わるママの動作による作用を感知する。そのパターンを読み取り、その法則性を自分の身体運動で表現する。たとえば、ママの視線を、自分の動眼神経の身体運動‐感覚受容の仮想運動シミュレーションとして、表現し記憶する。このような身体運動‐感覚受容シミュレーションが組み合わされてママのイメージがつくられる。経験が繰り返されることで、法則性が確定していく。経験からある程度に法則性が確定すると、身体反応としての人間という概念ができてくる。

人間の身体は、石や木と違って、私たちの感覚に鋭く響く。特に、私たちは、人間の顔の表情に敏感です。人の顔、特にこちらに向けられた視線を見ると、無意識のうちに感情が湧き起こる。人の身体運動を見ると、その人が何をしようとしているかが、すぐ分かる。こういう私たち自身の感覚、感情の動きを感じて、私たちは、それを人の心の動き、と思う。脳のこの機構は、社会生活に必要不可欠です。人類が社会生活を発展させるにつれて、他人、あるいは自分という人間の内面を推測する神経回路が適応進化してきたのでしょう。

人間を見て、その身体の中に心の存在を感知するこの神経機構は、育ちや経験に関係しない人類共通性を持つ生得的な仕組みであるようです。私たちの脳は、生れつき、人間の動作を感じると、他人の場合も、自分の場合も、その動きを引き起こしている心や意志のようなものを感じるようにできている、らしい(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。ここでは仮に、それを人物感知機構と呼ぶことにしましょう。

人物感知機構の働きにより、私たちは自分の近くにいる人間の動きを予想できる。視覚あるいは聴覚で人の動作を感知することから、その人間の意図、意志、欲望のようなものを、私たちは簡単に感知できます。

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私はここにいる(20)

2009-04-04 | x9私はここにいる

そうはいってみても、いろいろな種類の現実がある、という考えはどうもすっきりこない。やはり本当の現実は一つでしょう。という気がしてしまいますね。

たとえば、私たちの目の前にあるこの客観的な物質世界は本物でしょう? と聞いてみたい。

ここにリンゴがある。これがリンゴだと思うのは私が日本人だからです。中国人なら苹果だと思う。イギリス人ならアップルとか、フランス人ならポムとか思うでしょう。食べるとおいしい。だからこれは食べ物です。

しかし科学者はこれを植物だと思う。生物体です。細胞の集合体です。細胞はたんぱく質でできている。炭素、酸素、窒素、水素の化合物です。原子の集合体です。原子は電子と陽子と中性子の集合体です。しかし、そういうものは小さすぎて目にみえない。

物理学者は、このリンゴを電子と陽子と中性子の集合体と思う。化学者は、それを炭素、酸素、窒素、水素の化合物と思う。生物学者は、それをある種のゲノムが発現した表現型だと思う。分子生物学者は、酵素の立体構造が変換するエネルギーを計算する。生態学者は、森の中でリンゴが他の生物と競合共存するプロセスを定量化する。

研究が進むほど、生物学による生物の概念も変わっていく(二〇〇七年 ジェームス・エルサー、アンドリュー・ハミルトン『化学量論と新しい生物学』)。生物現象は、いまや従来の生物学の対象というばかりでなく、化学、物理学、工学、数学などが攻め込んでくる境界領域となっている(二〇〇九年 グレゴリー・リーヴス、スコット・フレイザー『工学的観点からの生物システム』)。

科学者が現実の物質の基本と思っている細胞、分子、原子、電子などから構成されている構造は小さすぎて目にみえない。私たちは、科学的知識に頼って、目にみえないそれら微細構造があると思っているだけです。知識が現実をつくっている、といえる。正しい知識ならば正しい現実を感じとれる。しかし正しくない知識ならば、それにもとづいて感じとられる現実も正しくないでしょう。それでは科学者が持っている科学的知識は正しいのか? それは、つきつめれば、だれも証明できない。それは一種の理論にすぎない、といえば、そのとおりです。しかし科学の理論は、経験上、圧倒的なたしからしさで正しい。実際上、正しい、と言い切ってしまって困ることはありません。

そういうことで、科学が描くような物質世界はいかにも現実らしい、といってよい。しかし、現実はこれ以外にない、というとおかしくなる。

たしかに現実は一つしかない、という感覚が私たちの身体には備わっている。私の身体は一つしかないから、現実が一つしかないと感じるのは当然です。

私の身体が動くときに運動の予測に使われる周辺世界が現実ですから、それはそれ一つしかない。そうでないと困る。目の前の床は硬いように見えるが、実は、ぼろぼろになっていて踏み抜いてしまうかもしれない、ということになったら、家の中をうっかり歩き回ることもできません。硬いのも現実、ぼろぼろも現実、と感じられる場合、とても困る。現実はどちらか一つにしてくれないと、一歩も踏み出せない。

うまいことに、私たちの身体は、現実を一つしかないと感じる。それで、私たちは身体を動かせる。逆にいえば(拙稿の見解では)、私たちが身体を動かすときにつかう現実だけが現実と感じられる。

この身体感覚としての現実感、これだけが、現実は一つしかないということの根拠です。現実は一つしかない、と私たちが感じるということは事実です。けれどもそれだけを根拠に、この現実だけが本物だ、ということはできない。

たとえば、現実1と2と3は、場合によって、どれも現実と感じられる。ある瞬間に感じられる現実は一つだが、数秒後には、べつの現実が本物だ、と感じたりします(たとえばネッカーキューブ、既出)。直観ではそのときそのとき、現実がその一つしかない。しかし論理的にはいくつもの現実があるというのはおかしい。そのうちの一つだけが現実だ、という根拠はない。どれがニセモノだということもできない。ここに、私たちの直感と論理との矛盾がある。

先に述べたように、この問題に関して拙稿の見解では、現実2(自己中心的世界)の中に現実3(自他感知世界)現実1(客観的物質世界)を埋め込むことができる。逆にいえば、この埋め込みができるから、私たちはいわゆる五感をつかうだけで自己中心的世界はもちろん、客観的物質世界も、自他感知世界における社会関係も人の心も感知することができる。拙稿のこの仮説によれば、人間の現実感は、現実2の上に現実3が発展し、さらにその上に現実1が発展するという階層構造になっている。

ここでは、現実のこの階層構造を人類の進化過程にそった順序で下から構成してみましょう。動物の行動や脳の機能は化石として残らないので、数百万年にわたる人類の現実感の進化を実証的に調べることは、残念ながら不可能です。しかたがないので、ここでは赤ちゃんが成長する過程を観察することで、人類進化を類推する方法を使ってみたいと思います。「個体発生は系統発生をくりかえす」という言葉がありますが、大体そうであることが多い。そうでない場合も(確率は低いが)たまにはありますが、ここでの話題に関しては、(そうでない場合は、まずどうしようもありませんので)そうであるとして進めてみましょう。

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私はここにいる(19)

2009-03-28 | x9私はここにいる

でも、現実はひとつでしょう? 現実が二つも三つもあるのはおかしい、という疑問がでる。そう。そのとおり。一つしかないから現実は現実といえる。ネッカーキューブをみても、ある時にはある見え方が現実だ、としかみえない。というか、これは現実だ、と私たちの身体が感じるから、それは現実だ。現実と思えるものが現実だ、ということです。

私たちは、身体を動かすとき、いつも動かした結果として何がどうなるかを予測している。予測するには、現実をしっかり把握していないと、うまくできない。現実をしっかりつかんではじめて、私たちは身体を動かすことができる。現実をつかんで、現実の中で身体を動かすとどうなるのかを予測し、予測結果を身体で感じとることで、身体は無意識のうちに変化して動いていきます。

たとえば、階段を下りるときは足元を見る。その足元に視線を落とすという首の運動が下り階段の存在感をつくっている。下り階段がそこにあるという現実は、首を前傾して視線を足元にやるという運動によって、つくられています。

このような仕組みで(拙稿の見解では)、私たちは身体を動かして、現実を感じとっている。そして、ここにその現実がある、と感じる。私たちの身体運動が発生するときに、その運動に伴う予測に使われているその現実が、私たちが本物と感じている現実です。

その人が現実と思って行動している世界が、その人にとっての現実です。浦島太郎にとっては竜宮城が現実。しかし、浜に帰ってきた浦島さんにとっては、煙を浴びた後の白髪の自分が現実、となります。竜宮城というアインシュタイン的空間が日本近海の海底にあって、そこでは時間の進行が遅いのかもしれない。玉手箱の煙は老化を一気にすすめるバイオ新薬かもしれない。浦島氏の経験が現実であるとすれば、そういう珍奇な、あるいは神秘的な理論がありうる一方、私たち常識的な人間がこのおとぎ話を聞くときは、竜宮城は現実ではなくて浦島氏の幻覚でしょう、と思うわけです。

いったい、現実と幻覚とはどう違うのか? 目の前に幻覚を見るとき、それは現実としか思えない。ほっぺたをつねってみて痛ければ、これは幻覚ではなくて現実だ。まあ、それでも、痛さもまた幻覚だといってしまえば、それもそうです。どこまでも、現実と幻覚は区別がつかないということになってしまう。

浦島さんがひとりだけで竜宮城に行ったというのではなく、歌島さんや牛島さんや上島さんと一緒に団体で竜宮城に招待されたと全員が証言している場合、四人が同じ幻覚を見たのだというのは無理があるでしょう。団体の全員が証言してくれたというのが、そもそも浦島さんひとりの幻覚だった場合は考えられる。そういうことまで言い出すと、なにもかも幻覚ではないか、となってくる。

現実というものは、ひとつなのか、二つ以上あるのか、それともすべては幻覚なのでしょうか?

私たちが、現実1と現実2と現実3の区別がつかずに全部ひとつのものだと思い込んでいれば、私たちの日常生活では、まったく問題はない。また、三つとも、ひとつの現実をちがう角度から見ただけだ、と思えれば、それでも問題はない。

しかし、残念ながら、そういう便宜的な考えは間違いであることを、拙稿は述べてみました(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」12章「私はなぜあるのか?」)。

(以下、拙稿の見解によれば)客観的物質世界(現実1)には、たとえば、物質としての私の身体はあるが、私が私と思っているような特別の私はいない。したがって、自分が死ぬということは意味がない。同時に、生きているということも意味はない、となってしまう。また、私中心の世界(現実2)には、客観的な存在はないから、客観的な物質もなく、自分というものも他人というものもない。心を持った人間はいない。さらに、他人に乗り移ってその目で見た世界(現実3)には、人間の一人としての自分はあるが、それはどの人間とも交換できるような単なる一人の人間であって、特別な自分というものはいない。

このように現実を詳しく調べていくと、複数の現実があって、それぞれの現実は互いに矛盾する。私たちのふつうの常識では、複数の現実を混同して一つのものと思い込んでいる。それでも毎日の生活には困らない。ふつうは矛盾を感じないで過ごしていけるが、たまに混乱が起こる。

たとえば、私とはなにか、と考え込むと混乱が起こる。どの現実の中にも、その一つの現実に徹すれば、私が私と感じられるような私はいない。複数の現実にまたがった私がいると思うときだけ、私はいる。ところが、それぞれの現実は矛盾している。現実がひとつではなくいくつもある、というのもおかしい。そこに、私が私を感じるときの違和感が生じる。

またたとえば、古来、宗教や哲学が得意とする死の問題なども、自分と世界の表れ方に関する複数の現実を混同するところからくる混乱です。死に関する神秘は哲学的な問題のように見えるけれども、実は一種の擬似問題です(拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。脳神経科学や心理学や哲学で問題とされる意識の問題も(拙稿の見解では)その類の擬似問題です(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。また、物理学の基礎論に関して提起される宇宙の起源や時間の果て、宇宙の果てなど時間空間の存在問題も現実や存在に関する混乱から生まれる擬似問題とみなせます(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。

「ある」、「存在する」という言葉の響きに神秘感を伴うような表現で表される哲学の問題は、皆、この類の擬似問題といってよいでしょう(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。ふつうの言葉の語感で「ある」とか「いる」とかいっているうちはまだよいのですが、むずかしそうに「存在」とか「実在」とか「現実」とか「真実」とかいいだすとあぶない。存在か不存在か、生か死か、悩み始めると偽問題の世界にどんどん落ち込んでいく。宗教も西洋哲学も東洋哲学も、むずかしそうな話は全部、ここに突っ込んで落とし穴へ落ちていきます。

まあ、この落とし穴は、(筆者に言わせれば)哲学のブラックホールです。哲学という以前に、言葉をつかう理論の落とし穴ですね。人類の言語が持つ破れ目、クレバスのようなものです。それだけ人を引きずりこみやすい形をしている。こわい裂け目ですね。

私たちの身体は、現実をしっかりつかんでから、それに対応して行為をなしていくようにつくられている。エアコンが室温を感知するのと同じです。エアコンに向かって、「室温といっても一つじゃなくて、測る場所や近くの発熱体や検知器の性能によって値がちがってくる。 だから室温といっても複数あるものなのだよ」といってみても、いうことを聞いてはくれない。

エアコンは決まった検知器で決まった場所の気温を測定して、その情報を現実として、モーターを駆動する。逆にいえば、コンプレッサーのモーターを駆動する情報をもたらすものが、エアコンにとっての室温という現実です。本当の室温とはなにか、などという問題は、エアコンにとっては意味がない。モーターを駆動する信号を作っているものが現実の室温ということになる。

たとえば変な設計のエアコンがあって、温度検知器が三個付いているとする。一個は床、一個は天井、残りの一個は冷蔵庫の裏に取り付けられています。信号切替え器がランダムに三個の検知器データを切り替えてしまうとします。エアコンは与えられた、あやしげな室温信号にしたがってモーターを駆動するでしょう。でもそれが、エアコンにとっての現実の世界です。

私たちの身体が、それを現実と感じとって行為の結果を予測しながら行為を実行していく場合、感じとっているそれを現実ということができる。無意識のうちに身体が予測する運動結果に引きずられて、私たちの身体は変化する。そのような予測結果をもたらす世界を(拙稿の見解では)、私たちは現実世界と感じる。

事前に行為の結果を予測し、事後に行為の結果を実測して、私たちの身体は学習していく。その予測の通りに身体が動いて予測の通りの結果が現れてくる場合、私たちの身体はその予測を現実と感じて、それを学習する。逆にいえば、私たちが学習したことが現実となる。

そういう言い方をつかうとすれば、実験をしている科学者にとっては、実験装置の中で起こっている酸化現象が現実(現実1)です。また、伝い歩きをしていて転んでしまった一歳児にとっては、目の前の床が跳ね上がっておでこに当たってくる衝撃が現実(現実2)です。また近所の奥さんと世間話をしている学生にとっては、自分の態度を行儀悪いと思ったかもしれない奥さんの感情の動き方が現実(現実3)でしょう。

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私はここにいる(18)

2009-03-21 | x9私はここにいる

「世界は、はっきりとここにあって、同時に私もはっきりとここにいる」というとき、私たちは、現実1と現実2と現実3を同じものと勘違いしている。現実は一つしかないという錯覚におちいっている。そうなると、私たちは、ネッカーキューブのような錯視に引きずり込まれて、混乱する。それが拙稿の指摘する哲学の間違いです。

ちなみに、ネッカーキューブとは、斜めから見下ろした立方体を十二本の稜線だけで表現した線図です。立方体を右斜め前方から見下ろした図に見えるが、しばらく凝視していると、突然、左斜め前方から見上げた図に見えてくる(二〇〇〇年 谷部好子、藤波努『3次元物体の認知過程における主体的操作の特徴について-ネッ カーキューブ操作行動に見られた共通点』)。網膜に映っている画像信号はまったく変化していないのに、脳内の現実感だけが変換してしまう。つまり、世界は変化してしまうのです。現実が一つしかないならば、これはありえないことです。どちらが錯覚でどちらが真実なのでしょうか?

ここで現実が二つあるということにすれば、問題はなくなる。二つの現実が交互に表れているということになります。私たちは好きなほうをとればよい。生きていくのに都合がよいほうをとればよい。たとえば、現実1をとれば、うまく生きていけるなら、そうする。現実2を取るほうが生きやすいならば、それをとる。どちらも同じならば、気まぐれに、どちらかをとって、それに応じて行動すればよい。はなはだ、節操がない。厳格な哲学者には叱られてしまうでしょう。しかし、こういう生き方はどこかで聞いたような話ではありませんか?

そうです。これは私たちふつうの人間が、意識せずに毎日こうして生きている生き方そのものです。私たちはいつも、二つも三つも、互いに異なった現実を使いこなしている。それなのに、私たちは、現実は一つしかないと思い込んでいる。それは、そう思い込むほうが(拙稿の見解では)、生活に便利だからです。現実は一つで、それがどう変化するかは簡単に予想できる。そう信じている人は、自信を持って世界を渡っていける。そうでなくて、現実を信頼できず、予想もできず、自分の行動はいつも現実に裏切られるのではないか、といつもおどおどしている人は、自信を持って行動できない結果、競争に負けて生きていけなくなる。そういう人たちは子孫を残せない。現実は一つと思い、自信を持って将来を予想できる人たちの方が現実にはずっと強い。実際、現実が一つだろうが、三つだろうが、本人が現実は一つだと思い込んでいるほうが生き残る。そうして生き残った人々の子孫である私たちは、当然、そう思うような神経系を持っているわけです。

私たちは(拙稿の見解では)、現実は一つしかないと思いながら、意識せずにいくつもの現実を渡り歩いて暮らしている。

「私は首尾一貫した現実主義者だ」と言いながら、あるときは著名な経済学者の理論を信奉する。あるときは、マスコミの言いなりになる。またあるときは官僚のお膳だてを利用する。それを反省もしない、意識もしない。節操がない政治家のようです。

私たちの身体は、進化の結果、そうなっている。現実は一つしかないとしか感じられない。そうであるならば、(拙稿の見解では)実際には現実は一つであってもよいし、二つであってもよい。三つでも四つでも、百八個でもよいし、零でもよい。つまり、現実というものは、一つだけあるように私たちに感じられればよいのであって、それが実際にはいくつあっても、あるいは一つもなくてもかまわないのです。私たちのだれもが、これが現実だ、と思えるものがあれば、それを現実だとすれば、何も問題はありません。

閑話休題、さて、話し手が「私はここにいる」というセンテンスを発声するとき、私たちは現実1から3まで、あるいはその他の現実感覚、を持ち込んでその言葉を感じ取る。たとえば、客観的物質世界の現実(現実1)を感じながら考えれば、このセンテンスは「話し手の身体という物質が話し手の身体がある場所にある」という当たり前のことを言っている。一方、自己中心的な現実(現実2)を感じながら考えれば、この言葉は話し手が聞き手の注意を引きつけて、こちらに注目させるための行為です。つまり話し手から世界へ向かって働きかける行為の一種となる。また、自他の関係を操作する現実(現実3)を感じながら考えれば、このセンテンスは、聞き手を話し手に憑依させて話し手の位置を自分の立ち位置として感知させる働きを持った他人操作である、ということになる。

このように、私たちの会話は、「私はここにいる」など、簡単そうに見える一つの言葉をやり取りする場合でも、話し手の(そのときの)現実感覚の違いによって意味合いが違う。聞き手がそれを聞き取る場合も、聞き手の(そのときの)現実感覚の違いで意味が違ってくる。いわゆる文脈(コンテキスト)による解釈の違いともいえるが、そこには、話し手も聞き手も無意識のうちに起こしている現実の認知に関する混乱、が混じりこんでいる。

人類の言語は、どの言語でも代名詞をよく使う。私、あなた、彼、彼女、それ、これ、ここ、などです。代名詞は、普通名詞や固有名詞のように客観的物質世界(現実1)に準拠して対象を指示するのではなく、話し手を中心とした自己中心空間に準拠して対象を指示する。そのため、代名詞を使うと自己中心的現実(現実2)が言語システムに入り込んでくる。(今、という語は代名詞ではないが、自己中心的に時間を表わすとき使われるので拙稿では、代名詞と同様に扱う)

たぶん(拙稿の見解では)、人類は客観的物質世界(現実1)を共有できるようになってすぐ、言語を使うようになった。はじめ、言語は客観的物質世界(現実1)だけを表現していた。普通名詞はあったが、代名詞はなかった。言語を使うようになった後も、人間は、自己中心的世界(現実2)を忘れたわけではなく、両方の現実にまたがって生きていたわけです。そのうち、言語を使って自己中心的世界(現実2)を言い表せるようになった。その仕掛けが、代名詞を使う自己中心的な空間表現でしょう。

代名詞は便利です。客観的空間で表現するように作られている言語システムの中で、自己中心空間での表現を使うことができる。代名詞によって、話し手は聞き手を、確実に話し手の自己中心的空間に乗り移らせることができる。代名詞が使われると(拙稿の見解では)、聞き手は、話し手の身体の位置に乗り移って、そこを原点として世界を見渡さなければならない。こうして、話し手と聞き手は、相互に相手の身体に乗り移りながら、共有する客観的世界について語り合う。互いの気持ちがよく分かる。自分を、うまく表現できる。これは便利です。

話し手が「それ、それ、それだよ」と言う。聞き手は、話し手の視線方向を見取って、それらしきものを取り上げ「どれ?どれ?これ?」と聞き返さなければなりません。つまり、聞き手は、話し手の身体に乗り移って、その目の位置から世界を眺めなおさなければならないのです。こうして、会話する人どうしは、互いの自己中心世界を感じ合う。それによって、自己中心世界(現実2)を、人間のだれもが、同じように持っていて、交換可能であることを確認できることになります。このことを知った上で聞き手は、本来自分の身体に固着しているはずの自分中心空間を、自分から取り外し、話し手の身体のところまで自由に移動させて、その身体に仮に取り付けて、その空間の視座から世界を眺めなおすことができる。これが代名詞の重要な機能です。

代名詞は、かなり早くから開発されたでしょう。そしていったん使われるようになると、たちまち普及しただろう、と(拙稿の見解では)推測できる。しかし、この語法には欠陥があった。私、ここ、今、と言っているうちに、世界と私の関係に疑問が出てきてしまいます。

「私はここにいる」というセンテンスのように、人称代名詞一人称(私)、あるいは指示代名詞(ここ)が主語、述語の中心に使われる場合、種々の現実が入り乱れることで理論的な混乱や違和感を引き起こす。客観的空間表現と自己中心的空間表現が入り乱れる。私たちは「渋谷駅ハチ公前」と言ったり、「私の右のほう。そっちじゃない。あっちのほう」と言ったりする。それでも、私たち人間は、皆が同じように混乱したり勘違いしたりしても、うまく話をあわせてしまう能力を持っている。それで、ふつう会話は支障ないかのように続いていく。ただ、ときどき、哲学者など論理に敏感な人たちが現れて、論理的矛盾を指摘し、混乱を露呈させる。哲学者は、「あなたが言っている私は、私が言っている私ではなくて、私が言っているあなただから、私とは違う」などと言い出すわけです。

客観的世界の現実、あるいは自己中心的世界の現実。それら異なる仕組みで働く複数の現実を、私たちが違和感を持たずに単一のものとみなして言語で表現していくことは、哲学者たちが指摘するように、おかしいといえばおかしい。しかし実用的にはあまり困らない。むしろいろいろな場面で、いろいろな現実を適当に使いこなしていくことは(拙稿の見解では)、人間の生存繁殖に有利に働く。

猛獣に襲われたときなど緊急の反射運動を起こすには、現実2(自己中心的世界)を使うと便利。しかし、自己中心的観点だけでは、他人の動きの意味が分からないので社会行動がうまくできない。また、他人と自分の関係というものもないので、他人から見た自分の行動というものの評価や学習、記憶ができない。したがって、将来の自分という予想もできない。人間以外の非言語動物や、人間だと赤ちゃんの世界は、これですね。

ほかの霊長類に比べても、特に視力に優れていて手が器用な人類は、道具製作や、狩猟採集や戦争などの実務において物質操作を精密に実行するのに都合がよい身体をもっている。この視力や手指を使いこなすには現実1(客観的物質世界)を使うと便利です。また、仲間と運動を協調させて協力するには、自分の身体を客観的な物質とみなして、道具のように操作することができるとよい。そのためには自分の身体が客観的物質世界(現実1)の一部分であることを把握する必要がある。

さらに言葉を使って人々と付き合い、人間関係を操作していくには、人の心、つまり自他の内面を感知し操作することができる現実3が有利でしょう。結局、私たちは、現実1、現実2、あるいは現実3のどれをも使いこなす必要がある。

実際、実生活ではいろいろな場面が次々に来る。どの現実が本物か、などと考えずにうまく現実を使い分けていくほうが、生きやすいはずです。その場その場で便利な道具として、それぞれの現実を使ってやりすごせばよいわけです。それでは人間存在として矛盾している、現実が統一されてない、存在が確立していない、などと哲学者が文句を言っても、気にする必要はない。私たちが毎日使っている現実感覚、つまり複数の現実の使いまわし、が一番うまくいく。

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