どうも、心の存在というものは、常識で素直に思い込んでいるよりもずっと、実は、はっきりしないものだ、というふうに思えてくるでしょう? それが、筆者の言いたいところなのです。心はあるように思えてもない、ということです。そこで次には、常識から見て逆のほうに振ってみましょう。今度は、心はないように思えてもある、ということです。ふつう心を持っていない、と思われている木石や水や気象現象など(非生物)が、ある種の心を持っているのではないか、という話をしましょう。
私たちが、動物以外の物の存在感を感じるときも、(拙稿の見解では)それが存在することが自分の身体の動きであるかのように感じることで、その存在を意識できる。つまり、自分の身体を動かす運動回路が、物の存在に共鳴して仮想運動を引き起こす。そのとき私たちは、それをその対象の存在感と感じる。たとえば、すっくと立つ大木。満々と水をたたえる池。踊り狂う激流。荒れ狂う嵐。容赦ない日差し。というような文学的な擬人法の表現がある。対象が非生物(正確には非動物)であっても、それに注意を向けるとき、私たちはそれを人体の運動として認識している。それは対象物を見ることで、私たちの脳内に、自分の身体に運動指令を出す場合の神経活動と同じ仕組みで起こる仮想運動が引き起こされる。その神経活動によって、私たちはその対象物を認識できる。それが、(拙稿の見解では)人間の言語の基底をつくっている。古来の擬人法は、仮想運動から言語が発生してくる、その根源的な仕組みをうまく表現しているのでしょう。
ちなみに、「擬人法」という言葉の形に引っ張られると、その本質を見失いますので、注意が必要です。擬人法を使うとき、話し手は人に擬して物事を表現している、と国語の先生は言う。しかし、この説明は本当でしょうか? 人でないものを人に見立てて言い方を考えようとするよりも前に、話し手の頭の中では、その物事がまるで人が動くようにいきいきと動き回っているのではないでしょうか?
話し手は、人間でないものを面白く言い表すために、無理やり人間とみなして表現するのでしょうか? それは違うでしょう。むしろ、物事は、まず、人であろうとなかろうと、何であっても、それを見つめる人間にとっては、最初から人のように動いている。つまり、擬人法を使うときの話し方のほうが、使わないときの話し方よりも原初的だといえる。
話し手の脳内では、(拙稿の見解では)まず、注意を向けている何者かの動きの存在感が発生する。脳内で、それに共鳴する仮想運動が自動的に発生することで、その動きの存在感が発生する。はじめに存在があって、それから動きが出てくるわけではありません。まず、私たちの身体がつられて動き出してしまいそうになるような動きが感知されて、そこから、その動きを生み出す物の存在感が引き起こされる。仮想運動が引き起こされて、それでそのものが存在してくる、という順番になっている。その仮想運動が言葉を形成させる。それでセンテンスができてくる。仮想運動を誘発する外界のその動きが、実際の人間でない自然物であるとか人工物である場合に、対象が人間かどうかの理論にこだわった現代人が、それを擬人法と呼ぶようになったというだけなのでしょう。この見解が正しいとすれば、かつて、原初の言語が発生してきた太古の時代には、注目対象が実際の人間ではなくても、すべてのものはまず「心」のようなものを持っていたはずです。
面白いのは、擬人法を使われる対象が、人間個人ではなくて、人間の集団の場合です。「クラスのみんな」、「XX村」、「XX株式会社」、「暴力団XX組」、「XX県警」、「日本政府」、「世間」、「欧米人たち」などなど、世間話やマスコミなどの言葉で重要な主語になるものはほとんど、個人より人間集団です。その人間集団が、どうだこうだ、と言うとき、話し手の脳内では集団の群行動が引き起こす仮想運動が起こり、それが言葉を作り、聞き手の脳内の群行動としての仮想運動を誘発する。これも集団を個人のように表現する、擬人法の一種といえるでしょう。しかし、注意が必要なことは、これらの場合こそ、個人を主語にするときよりもさらに、人間にとって原初的な仮想運動の形成がなされているということです。仲間の空気を読む、といわれるような脳の機能です。
直感的に集団の動きを自分の仮想運動を使って読み取る。この仕組みは、言語の発生以前からあった、たぶん、霊長類に共通の古い脳機構です。私たちは、注目する集団の集合的意図や集合的感情、つまりその集団の集合的な「心」のようなものを感じ取って、かなり感情的にそれに反応する。相手は個人ではないのに、その集団全体の意図や感情を感じ取って。それをひどく恐れたり憎んだり期待したりする。これは私たちの身体が深いところで、そう作られているということでしょう。他者個人や自己という認識が作られる以前にあった仲間(群集団)の集団的運動をひとかたまりのイメージとして無意識に感知する機構です。それは古く、たぶん霊長類共通の祖先のころからある脳の機構のようです。人類の遠い祖先の時代、それは生存繁殖に重要な機能だったと思われます。これが、事物の主観的な存在感を発生し、私たちの感情と認識を発生する脳機構なのでしょう。
ちなみに現代哲学では、共感やシミュレーションによる他者解釈の理論がつくられていますが、それらの根底は、まず自己があって、その自己の心的状態の観取により他者が現れる、というものなど(一九八九年 アルヴィン・ゴールドマン『心理解釈』)です。拙稿が述べるような、他者や自己の成立以前に群集団の運動への無意識による共鳴があり、それによって引き起こされる脳内の仮想運動が(他者と自己の認知に先立って)存在認知の根底にある、という見解を取る理論はいまのところ(拙稿以外には)提起されていないようです。
赤ちゃんが幼児にまで成長すると、自分が他人の内部に入ったように、相手の身体の動きを想像することができるようになる。他人に取り付くと言う意味で、拙稿では、この脳機能を「憑依」という。
幼児は三、四歳くらいから、こういう「憑依」の能力を獲得する。そしてすぐ上達して相手の運動の予測がだいたい成功するようになる。その成功経験から、仲間の人間が動く仕組みを予測するモデルとして自分の脳の内部に作り出したシミュレーションが、人の「心」なのです。
そうなると、人間の姿を見たとたん、自動的にその心を感じるようになる。この人はこれから何をしようとしているのか、予測できる。生きた人間の顔を見ると、その心の存在感が何よりも強く感じられる。特に、声の調子や目や手の表情で心が感じられる。これは無意識に自動的に感じるので、相当、意識して感じないようにしないと、相手をただの物質とは思えない。ちなみに、生きている人間の身体を物質としか見えない感受性を無理やり訓練したプロフェッショナルが、外科医とか、殺し屋でしょう。
幼児の脳がさらに発達すると、自分自身も周りの人間と同じような一人の人間だと思うようになる。このことに関して、拙稿の見解を、少々詳しく述べておきましょう。(拙稿の見解では)幼児は脳内でまず他人に憑依し、次にその他人から見える他人であるところの自分の身体、に再帰的に憑依することで自分という模型を作る。この過程で、はじめから自分は他人の一種として作られる。つまり周りの他人とまったく同じ内部構造をもっているはずの一人の人間、として自分のイメージが作られる。
そこで自分も他の人間と同様に「心」を持っていて、それで考えて行動しているはずだと感じるようになる(自分という模型については第12章で詳しく述べる予定)。
子供の発達心理に関する、ふつうの常識では、幼児が成長して他人の心理を理解できるようになるには、その前に自分というものを認識して、その自分自身の心理というものを理解できているはすだ、と考えられますね。しかし、(拙稿の見解では)それは間違いです。現代一般に普及している心理学理論ではこの間違いはきちんと整理されていないようですが、幼児の知的能力に関する多くの実験観察からの知見(一九九五年 P・ハリス『シミュレーションから常識心理学へ』など)によると、拙稿の見解が正しいと思われます。つまり、人間の幼児は、他人というものを認識する前に自分を認識することはなく、三歳から四歳の年齢で、他人の認識と同時に自分の認識ができるようになる。