哲学の科学

science of philosophy

心はなぜあるのか(2)

2007-07-28 | 8心はなぜあるのか

どうも、心の存在というものは、常識で素直に思い込んでいるよりもずっと、実は、はっきりしないものだ、というふうに思えてくるでしょう? それが、筆者の言いたいところなのです。心はあるように思えてもない、ということです。そこで次には、常識から見て逆のほうに振ってみましょう。今度は、心はないように思えてもある、ということです。ふつう心を持っていない、と思われている木石や水や気象現象など(非生物)が、ある種の心を持っているのではないか、という話をしましょう。

私たちが、動物以外の物の存在感を感じるときも、(拙稿の見解では)それが存在することが自分の身体の動きであるかのように感じることで、その存在を意識できる。つまり、自分の身体を動かす運動回路が、物の存在に共鳴して仮想運動を引き起こす。そのとき私たちは、それをその対象の存在感と感じる。たとえば、すっくと立つ大木。満々と水をたたえる池。踊り狂う激流。荒れ狂う嵐。容赦ない日差し。というような文学的な擬人法の表現がある。対象が非生物(正確には非動物)であっても、それに注意を向けるとき、私たちはそれを人体の運動として認識している。それは対象物を見ることで、私たちの脳内に、自分の身体に運動指令を出す場合の神経活動と同じ仕組みで起こる仮想運動が引き起こされる。その神経活動によって、私たちはその対象物を認識できる。それが、(拙稿の見解では)人間の言語の基底をつくっている。古来の擬人法は、仮想運動から言語が発生してくる、その根源的な仕組みをうまく表現しているのでしょう。

ちなみに、「擬人法」という言葉の形に引っ張られると、その本質を見失いますので、注意が必要です。擬人法を使うとき、話し手は人に擬して物事を表現している、と国語の先生は言う。しかし、この説明は本当でしょうか? 人でないものを人に見立てて言い方を考えようとするよりも前に、話し手の頭の中では、その物事がまるで人が動くようにいきいきと動き回っているのではないでしょうか? 

話し手は、人間でないものを面白く言い表すために、無理やり人間とみなして表現するのでしょうか? それは違うでしょう。むしろ、物事は、まず、人であろうとなかろうと、何であっても、それを見つめる人間にとっては、最初から人のように動いている。つまり、擬人法を使うときの話し方のほうが、使わないときの話し方よりも原初的だといえる。

話し手の脳内では、(拙稿の見解では)まず、注意を向けている何者かの動きの存在感が発生する。脳内で、それに共鳴する仮想運動が自動的に発生することで、その動きの存在感が発生する。はじめに存在があって、それから動きが出てくるわけではありません。まず、私たちの身体がつられて動き出してしまいそうになるような動きが感知されて、そこから、その動きを生み出す物の存在感が引き起こされる。仮想運動が引き起こされて、それでそのものが存在してくる、という順番になっている。その仮想運動が言葉を形成させる。それでセンテンスができてくる。仮想運動を誘発する外界のその動きが、実際の人間でない自然物であるとか人工物である場合に、対象が人間かどうかの理論にこだわった現代人が、それを擬人法と呼ぶようになったというだけなのでしょう。この見解が正しいとすれば、かつて、原初の言語が発生してきた太古の時代には、注目対象が実際の人間ではなくても、すべてのものはまず「心」のようなものを持っていたはずです。

面白いのは、擬人法を使われる対象が、人間個人ではなくて、人間の集団の場合です。「クラスのみんな」、「XX村」、「XX株式会社」、「暴力団XX組」、「XX県警」、「日本政府」、「世間」、「欧米人たち」などなど、世間話やマスコミなどの言葉で重要な主語になるものはほとんど、個人より人間集団です。その人間集団が、どうだこうだ、と言うとき、話し手の脳内では集団の群行動が引き起こす仮想運動が起こり、それが言葉を作り、聞き手の脳内の群行動としての仮想運動を誘発する。これも集団を個人のように表現する、擬人法の一種といえるでしょう。しかし、注意が必要なことは、これらの場合こそ、個人を主語にするときよりもさらに、人間にとって原初的な仮想運動の形成がなされているということです。仲間の空気を読む、といわれるような脳の機能です。

直感的に集団の動きを自分の仮想運動を使って読み取る。この仕組みは、言語の発生以前からあった、たぶん、霊長類に共通の古い脳機構です。私たちは、注目する集団の集合的意図や集合的感情、つまりその集団の集合的な「心」のようなものを感じ取って、かなり感情的にそれに反応する。相手は個人ではないのに、その集団全体の意図や感情を感じ取って。それをひどく恐れたり憎んだり期待したりする。これは私たちの身体が深いところで、そう作られているということでしょう。他者個人や自己という認識が作られる以前にあった仲間(群集団)の集団的運動をひとかたまりのイメージとして無意識に感知する機構です。それは古く、たぶん霊長類共通の祖先のころからある脳の機構のようです。人類の遠い祖先の時代、それは生存繁殖に重要な機能だったと思われます。これが、事物の主観的な存在感を発生し、私たちの感情と認識を発生する脳機構なのでしょう。

ちなみに現代哲学では、共感やシミュレーションによる他者解釈の理論がつくられていますが、それらの根底は、まず自己があって、その自己の心的状態の観取により他者が現れる、というものなど(一九八九年 アルヴィン・ゴールドマン『心理解釈』)です。拙稿が述べるような、他者や自己の成立以前に群集団の運動への無意識による共鳴があり、それによって引き起こされる脳内の仮想運動が(他者と自己の認知に先立って)存在認知の根底にある、という見解を取る理論はいまのところ(拙稿以外には)提起されていないようです。

 赤ちゃんが幼児にまで成長すると、自分が他人の内部に入ったように、相手の身体の動きを想像することができるようになる。他人に取り付くと言う意味で、拙稿では、この脳機能を「憑依」という。

幼児は三、四歳くらいから、こういう「憑依」の能力を獲得する。そしてすぐ上達して相手の運動の予測がだいたい成功するようになる。その成功経験から、仲間の人間が動く仕組みを予測するモデルとして自分の脳の内部に作り出したシミュレーションが、人の「心」なのです。

そうなると、人間の姿を見たとたん、自動的にその心を感じるようになる。この人はこれから何をしようとしているのか、予測できる。生きた人間の顔を見ると、その心の存在感が何よりも強く感じられる。特に、声の調子や目や手の表情で心が感じられる。これは無意識に自動的に感じるので、相当、意識して感じないようにしないと、相手をただの物質とは思えない。ちなみに、生きている人間の身体を物質としか見えない感受性を無理やり訓練したプロフェッショナルが、外科医とか、殺し屋でしょう。

 幼児の脳がさらに発達すると、自分自身も周りの人間と同じような一人の人間だと思うようになる。このことに関して、拙稿の見解を、少々詳しく述べておきましょう。(拙稿の見解では)幼児は脳内でまず他人に憑依し、次にその他人から見える他人であるところの自分の身体、に再帰的に憑依することで自分という模型を作る。この過程で、はじめから自分は他人の一種として作られる。つまり周りの他人とまったく同じ内部構造をもっているはずの一人の人間、として自分のイメージが作られる。

そこで自分も他の人間と同様に「心」を持っていて、それで考えて行動しているはずだと感じるようになる(自分という模型については第12章で詳しく述べる予定)。

子供の発達心理に関する、ふつうの常識では、幼児が成長して他人の心理を理解できるようになるには、その前に自分というものを認識して、その自分自身の心理というものを理解できているはすだ、と考えられますね。しかし、(拙稿の見解では)それは間違いです。現代一般に普及している心理学理論ではこの間違いはきちんと整理されていないようですが、幼児の知的能力に関する多くの実験観察からの知見(一九九五年 P・ハリス『シミュレーションから常識心理学へ』など)によると、拙稿の見解が正しいと思われます。つまり、人間の幼児は、他人というものを認識する前に自分を認識することはなく、三歳から四歳の年齢で、他人の認識と同時に自分の認識ができるようになる。

Banner_01

コメント

心はなぜあるのか(1)

2007-07-21 | 8心はなぜあるのか

8  心はなぜあるのか?

 心。

「あの人の本当の心が分からない!」、少女は空を仰いでつぶやく。

「私の心は沈んでいく」、男は両手で頭を抱える。

ドラマでいつも聞くセリフです。

 心、という言葉を使わなければ、ドラマも小説もマンガも作れません。実際、私たちが話し合いたいと思うような大事な話はひとつもできません。人間が興味を持つ、人の感情を揺さぶるような話は、必ず心に関する話です。心こそ、人間にとって一番大事なものだと思えます。

しかしこの心、というものを改めてしっかり見つめようとすると、実は目に見えないし、手で触ることもできません。だから(すべての存在を疑うことにしている拙稿としては、この際仮にですが)もしかしたら心というものは存在しないのかもしれない、と疑ってみましょう。

 その場合、心というものは、それがないのにあるかのように脳で感じられる錯覚だ、ということになります。では、心というものはそういう錯覚である、と仮定して、人間の脳にはなぜそのような現象が生じるのでしょうか? 科学的に考えてみましょう。

 目の前にいる人を観察すると、心を持っているとしか思えない。その人が何を考えて手足や視線を動かしているのか、よく分かる。あたりまえですね。さらに、その人と会話をすれば、これはもう、心のないロボットが出す音波振動を聞いている、などと思い込むことは絶対にできない。

 生きている人間は、疑いようもなく、みな心を持っているように見える。逆に言えば、心を持っているように見えるものを人間と呼ぶ、といってもよいくらいです。

この世には、自分という人間と自分以外のたくさんの人間がいて、それぞれの人間はみな、その身体の中にそれぞれの心を持っている。その心が働いてお互いに気持ちを伝え合い、会話をすることができる。こういうふうにこの世はできている。それがあたりまえだ、と私たちは思っている。

死んだら心はどうなってしまうのか不思議ですが、心は消えないのではないか、とも思える。そこで、人間は霊魂というものを考え出した。死んだら霊魂はあの世へいく。あの世って何だ? まあ、そっちの話へ進むとますます謎は深まっていきますね。

また、改めて考えてみると、物質である脳のどこに心がしまってあるのか不思議ですが、心は脳のどこかにあるらしい、という気がする。たいていの人は、ふつうそう思っています。心と脳はどういう関係なの? こういう発想から最近数十年、心脳問題(心の哲学)という哲学が提起され、さかんに議論されています。これは昔から、精神と物質の心身二元論とも呼ばれていた古典的な近代哲学の問題の現代版です。現代哲学や認知科学ハードプロブレムと呼ばれる問題もこの類です。哲学者に科学者も加わって、真剣にむずかしい議論が戦わされています(たとえば一九九五年  デイヴィッド・チャーマーズ 『意識の問題に取り組む』、一九八〇年 ジョン・サール『心、脳、そしてプログラム』などすでに古典)。

そういう哲学的な謎の中心である心。それが結局は存在しない。錯覚に過ぎない。そうだとしたら、すごい錯覚です。もしそうならば、私の心に映っている目の前のこの物質世界も存在しないことになってしまいそうですね。怖い話です。

まあ、でも、怖いもの知らずの拙稿としては、そういう仮説でどんどん進んでみましょう。

 なぜ私たちは、生きている人体に心が入っていると感じるのか。

 石ころや机には心は入っていませんね。このパソコンにも入っていないらしい。人体という物質だけが、なぜ石ころや机やパソコンと違って特別に心を持っていると、私たちは感じるのか? ただの物質の中に、なぜ心があるという錯覚を感じるのでしょうか?

 だれかに教えられたからでしょうか? いや人間は生まれつき、仲間の人間を見ると、それが心を持っているように感じる感覚を持っているらしい。生まれつき脳の中に、そういう機構があるようです。

 人間は、相手の人間が身体を動かしたり声を出したりすると、まるで自分自身がそういう動きをしたり声を出したりしているように感じることができる。

つまり人間の脳の運動形成神経回路は、他の人間の身体の動きを見ると、(拙稿の見解では)それに共鳴して同じような運動信号を脳の内部で発生する。こうすることで相手の身体の動きを感じ取り、次に相手がどういう運動をするか、無意識のうちに予測している。これは人間どうしが協力したり、戦ったりする場合に不可欠な能力です。

人間の脳の運動形成神経回路は、実際に自分の筋肉を動かすばかりでなく、たぶんその何十倍の計算量で、瞬間瞬間の(目に触れる、あるいは想像している)他人の運動を予測計算している。もちろん、次の瞬間の自分の運動計画もそれに連動して、猛烈な速度で計算しているのでしょう。

(拙稿の見解では)この「運動共鳴(拙稿の造語)」によって、人間は他人の脳内で作られている運動のシミュレーションを自分の運動形成回路で(無意識のうちに)読み取ることができる。自分の脳の運動形成回路の上に作られる他人のその内部運動シミュレーションによる錯覚を、人間は他人の「心」と思っている。

人間は生きている人体を見ると、いつもその中にある「心」を意識する。その人体の中に入っている心がこちらに注意を向けているかどうか、こちらの合図や話しかけに応答するかどうか、関心がその目に見えない「心の動き」に集中してしまう。

周りの人間に対しての、こういう感じ方と動きをしながら、私たちは毎日生きていく。それで人生はうまくいく。目に直接見えない他人の心を、その人体の見かけの動作と音声だけを頼りにいつも読み取りながら、その人の行動を予測し、そして時には自分自身の心も読みながら、自分の行動を決めていく。こういうことが、自分にとって、今のこの瞬間では最も重要な仕事だ、と人間は無意識に思っている。まさに人間どうしのその心の動き、という錯覚の検知と操作が、社会生活において、私たちの関心のほとんどを占めている。

その際、相手が本当に人間であるかどうかは、問題ではない。見かけが人間のように見えて人間のように動くものには、私たちは心を感じる。人間らしい動きに誘発される私たち観察者の脳神経系の自動的な運動共鳴によって、運動形成回路は動いてしまう。だから人間は、アニメーションを見て、泣いたり笑ったりすることができる。猿がアニメを見て泣いたり笑ったりするのは、ちょっと無理なようですね。

 人類の脳の運動シミュレーション機能は(拙稿の見解では)、身体を動かすことなく脳の中だけで仮想的な運動信号を発生できるように進化した、と考えられる。この仮想運動の能力は、もともとは自分の運動の準備のためのシミュレーションをするために進化したと思われますが、それが他人の運動を予想するためにも使われるようになったのでしょう。他人の身体の動き方を見ることで、その人の運動の連続的な実行を予想できる。これによって他人の心を読む。つまりその人がこれからするであろう行動を予想する。脳のこの働きの進化は、原始人類の生活能力を飛躍的に向上させることになった、と考えられる。

仲間の人間の動き方を見ることでその身体運動に共鳴する脳の仕組みは(拙稿の見解では)、赤ちゃんの頃から発達してくる。生まれつき身についている機能と学習の相互作用でしょう。赤ちゃんは、何よりも近くに寄ってくる人間(ふつうママですが)の動きを、自分の運動形成神経回路で写し取る。それで(拙稿の見解では)、相手の動きに自分の仮想運動を共鳴させる仕組みを獲得する。

動く人間の存在感を感じる感覚は、動かない物質の存在感を感じる感覚とは脳内で働く仕組みが違っているらしく、赤ちゃんは前者を早く獲得するようです。だから人間にとって一番存在感が強いものは仲間の人間であり、次に動物など動くもの、最後に動物でないものたち、食べ物、道具、役立たないガラクタなどという順番になる。動くものが目など感覚器官に信号を発生すると、(拙稿の見解では)人間は無意識に感情回路が動いて不安、興味などの感情を引き起こす。それに続いて意識的に、その物が何でどうなっているかを感じる。このときは自分の脳の運動形成神経回路が対象物の動きに共鳴して自動的に仮想運動を起こす仕組みを使っているらしい。

つまり私たちが、意識的に、他の人間あるいは動物の存在を感じるときは、(拙稿の見解では)その動きを自分の運動形成神経回路の共鳴によって写し取って、自分の動きのように感じる。さらにその人間あるいは動物の、これからの動きを自動的に予測する。つまり無意識のうちに、その観察対象に乗り移って自分が運動しているように感じる。その予測できた運動を自分の脳内の運動回路で感じて、その人間あるいは動物の心、という錯覚を脳内に作る。

さらに対象が人間の場合、私たちは、仲間の人間の動きを他の動物とは区別して、強烈な存在感をともなって感じる。つまり、人間の脳は、そこに人間が存在するという知覚に特異に反応する。

仲間の存在にするどく反応する。これは、人類だけの能力ではなく哺乳類の脳に共通の機能です。動物が同種の仲間を識別する仕組みでしょう。もともと夜行性の哺乳類には匂いが重要な情報だったと考えられます。夜行性から昼行性になった霊長類では、視覚が発達し、嗅覚の役割を果たすように置き換わっている。霊長類の脳では、視覚情報を変換した信号が古い嗅覚情報処理回路に流れ込むように改良されているらしい。たとえば、目で人間の姿を見ることで、それが仲間だと感じさせる強烈な臭いの信号が脳内(の臭い情報処理回路)に立ち現われてくるような配線になっている。それで、人間は、目の前の人間の存在を他のどの物質よりも強烈に感じる。その上、人間は仲間のする運動をみると自分の運動形成回路が共鳴する機構を持っている。それで他人の運動形成が分かる。これからその人がどう動こうとしているか、分かる。その神経機構が(拙稿の見解では)、心を感じさせる基底になっている。こうして、人間は、仲間の人間の内部に心がある、という感覚、というか理論、つまりいわゆる、心の理論、を身につける。

人間の脳のこの仕組みによって、心というものがこの世界にある。

このような脳の無意識な運動共鳴が働くことを感じて、私たちは、すべての人間は身体の中に心という目に見えない仕組みを持っていると思い込んでいる。心があるように見えることを心があると思い込む。実際、心があるように見えて心がないものなどありませんから、これで問題はないのです。SFに出てくる人と会話するロボットとか超コンピュータとか、人間の言葉を話す動物とかは実際はいませんから、問題はありません。実際、私たちが、心を持つと思っているものは生きている人間しかいない。そのため、心があるように見えるときは心がある、と思っていれば間違いない。

人間というものは心を持つ。自然現象や機械仕掛けと違って、心がその身体を動かしている。つまり、私たちは、人間というものは心が動くことで身体が動くものなのだ、というものの見方(というか一種の理論)を持っている。他人の動作や表情などの知覚から自分の脳の運動形成回路に運動共鳴が誘発されることを感じると、私たちはそれを、その人の心が動く、と感じる。

その見方を自分自身のイメージにも当てはめれば、自分も自分の心を動かして行動しているのだ、と思えるようになる。自分の動作、表情を自覚して、それが自分の心を表わしているのだ、と感じられるようになる。このような運動共鳴による神経活動の働きを自覚することで、私たちは(拙稿の見解では)その仮想運動(身体が動いていこうとする感覚)を感じ取って、自分の心があると思い、それが自分の意図、意志、欲望、なのだ、と思うわけです。

私は本当に私の心を持っているのだろうか? 改めて考えてみると、だんだん自信がなくなってきますね。確かに私だって、ほかの人と同じように心を持っているはずだ、とは思うものの、それを目で見ることはできません。見極めることができません。まあ、ここで拙稿得意の言い方を使えば、他人の心というものがあることはよく分かるけれども、私の心というものがあるかどうかはよく分からない、ということになってしまいます。

Banner_01

コメント

命はなぜあるのか(2)

2007-07-14 | 7命はなぜあるのか

若いころ、ナイアガラの滝を見ました。一歳前の娘を乗せた乳母車に、しぶきがかかるので、水面まで覗き込めなかった。どれほどのエネルギーが発生しているのだろうか? 自然の法則だけで、こんなすごい滝ができる。神様が創った奇跡のようです。まれにですが、自然ではこんなものもできる。地球生物の発生もまれな現象でしょう。しかし、ナイアガラへ流れ込む水は、ナイアガラに落ちるのが一番、周辺空間の状態自由度を大きくできる。つまり、この滝はできるべきものだからできた。滝の形成も生物進化もすべての物事は、エネルギー保存の法則とエントロピー増大の法則にしたがっているので、こういう形になっている(二〇〇七年 ジョン・ホイットフィールド『尤者生存?』)といえる。

科学にとって生命現象は、神秘なところはないふつうの自然現象です。そこで人間にとって残る問題は、命の存在感はどこからくるか。つまり動物を見たときの人間の脳の反応の問題です。這っている虫を棒でつつくと逃げるように動く。こういうものを見たとき、人間の脳では、無生物の物質を見るときとは違う神経回路が強く活性化される。この神経回路は、おそらく人間の祖先が魚だったころよりずっと古くからある。脊椎動物にとって、目の前で動物のような動きをするものは、餌か、仲間か、捕食者です。そのような物体は、身の回りに何が起こっているかを検知して対応した運動を作り出すシステムのはずです、身の回りに起こったそれ(状況変化)に対応して(逃げるとか襲うとか)何かの運動をしようとする。こういうような動きをするシステムは、そうでないものと簡単に区別できる。人類文明以前には、そういうものは動物だけだったでしょう。人間が人工物を作るようになってからは、シシオドシだとか、防犯センサーライトだとか、動物(=命を持つもの)とまぎらわしい動きをする機械がでてきた。いずれにせよ、そういうものに敏感に反応できないような脊椎動物では子孫繁栄は覚束かない。身の回りにいる動物の存在に反応できないような身体を作るDNA配列(ゲノム)を持つ動物は、子供を産む前に食べられてしまったか、交尾の相手を見つけられなかったか、だったので、そのようなゲノムは現在の動物には伝わっていない。

ちなみに、無脊椎動物でも昆虫やタコなどはよい眼を持っていて、動くものに敏感に反応する。こういう動物も、いわば、命を感知する神経機構がよく発達している。つまり、彼らは命の存在感を知っている、と言える。

この、少なくとも脊椎動物に共通な、命を感知する神経機構は、もちろん、人間の脳にもしっかり備わっていて、人間が身の回りの状況を感じているときにいつも感度よく働いている。特に人間にとっては、命がありそうに見えるような動きをする種々の物体のうちで、相手が仲間の人間の場合が重要です。

仲間の人間の命をどう感じるか。これに鈍いような人類が生き残っているはずはない。つまり人が死ぬところを目の前で見て、何も感じない人間は異常です。他人の命が損なわれるのを見ると、怖いとか、嫌だとか、可哀想だとか、悔しいとか、強い情緒を感じるでしょう。そのとき、脳の奥の(特定されていませんがたぶん)扁桃体にある特有な命を感知する神経回路が活動している。それは、生き物が生き物でなくなる瞬間の視覚情報などが、自分自身の警戒状態を作り出す神経回路に共鳴するからでしょう。その回路の活動信号が知覚されて、命が存在する、あるいは命が消えていく、と感じられる。

このような人間の脳の反応が、「死」、つまり「命が消えるということ」の物質的な意味です。人類の祖先が原始的な哺乳類だった頃からある脳の古い神経回路が、目の前の生き物の生き死にを検知して、不穏な感情反応を発生する。つまり特有の警戒信号を発信するのですね。感情に関与する視床、扁桃体など脳の辺縁系の活動信号は、自律神経系には直接働きますが、大脳新皮質の意識に直接は上らない。意識的には、自律神経系の反応などを介して、身体の中で漠然と不穏な感情が動くことが分かるだけです。そのとき私たちは、目の前の生き物が不意に動かなくなることを見て、同時に自分の身体が怯えているような感覚を感じる。そのとき、私たちは、目の前のその命が消えていく、と感じる。

主観的な言い方をすれば、生きている物を見るとき自分の中で何かある感情が動くと感じる。これは脊椎動物に共通な神経系の反射です。これが命の存在感、生命の神秘の正体です。こうして、人間は、この世の中には命がある、という感覚、というか理論、つまりいわば、命の理論、を身につける。

命はなぜあるのか、これがその答えです。

その命ある物のように見えるものが、本当に生き物かどうかは関係ない。生き物らしく見えれば、それで十分です。そういうものの動きに反応して、人間の脳は、命をはっきりと感じるようになっている。命に関しては、それ以外に、特に神秘的なものはない。あとは、連想という脳内のシミュレーション機構が、命という言葉が関係するいろいろな状況に対応して働くことで、命に関する人間のいろいろな反応が起こってくるだけです。脳内のシミュレーション機構は、連想によって、生き物を検知したときと同じような擬似信号を作り出し、それを命の存在感を発生する神経回路に送り込む。

いずれの場合も、命の存在感を感知するその神経回路は、辺縁系など無意識の古い脳にあるので、大脳新皮質の意識にはその活動信号がはっきりと伝わらない。命という言葉を考えたときに、意識的には、漠然とした神秘感が感じられるだけなのはそのためでしょう。そういう事情から、大脳新皮質を使う情報計算処理に頼る科学としては、なぜ命が大事なのか、実は理解できないはずです。

 私たちが直感で感じる「命」は、物質としては存在しない。命を感じる神経機構が、人間の脳の奥深くに存在するだけです。つまり命があるように感じられるものには、命がある。

それを敏感に感じるように、人間の脳は作られている。命あるものを命あると感じ、その動きを自分の脳の奥深く取り込んで感情とともに感じ取り、次にそれがどう動いて、自分の運動にどう影響を及ぼすのか、感情とともに予測する。そういう機能が、人間の脳には古くからある。命が動くところを見ると、人間は必ず心が揺すぶられる。動眼神経が働いて視線がひきつけられ、それを注目してしまう。自律神経が興奮し、心臓がどきどきし、顔や手足の運動神経が自然に動いてしまう。人間はそう作られている。この仕組みによって、人類の祖先は、自然の環境を生き抜いてきた。命あるものは、命がないものに比べて、人間の生活にとって格段に大事なものです。それに敏感でなくては、人間は生きていけない。

目の前のその命が生きていることは、それを見ている自分の感情が動くことで分かる。人間がそれを感知してすばやく対応できるように、脳のこの感知機構はできている。それが、生きていること、つまり命、ということの意味です。命の意味は、それしかない。それは生物学を勉強して分かるものではない。言葉で言われて分かるものではありません。目でそれを見ると、自分の感情が動き、同時に身体が、無意識に自然に動いていく。それでその物に命があると分かる。

死ぬこと。生きていることが止まること。それも、それを見ている私たちの身体が直感で感じることです。それが死といわれるものです。生き物の命、生と死、そういうものは客観的物質世界の中にはない。概念で捉えて考えたり、言葉で言い表して理解したり、科学の対象として分析したりするものではなくて、無意識にただ感じるだけのものです。

それは観察されるものの中にあるのではなくて、観察者の無意識の感情の中にしかない。観察者としての人間はそれを感じ、感情を揺すぶられることから逃れられない。それが命。それを感じるものが人間です。

「命が一番大事って、どういうこと?」

小学生にこう聞かれて、大人は答えられない。

「なぜ人を殺してはいけないの?」 

 小学生のこういう質問に、安易に答えてはいけません。「命は一番大事なものだからだよ」などと答えると、かしこい子供は、「命が一番大事って、どういうこと? だれがいつ、決めたの?」と来る。そうなったら、大人に勝ち目はありません。

小学生はこういう質問を持ち出して、大人が困るのを楽しみたい、という気持ちもあるでしょう。もちろん大人は答えられない。これは哲学的な質問だからです。つまり、答がない。なぜなら、それを言葉で質問することが間違いだからです。しかし、小学生に向かって、哲学はなぜ間違えるのか(筆者の持論;既出)を語り始めるのも大人気ない。まあ、筆者なら愚問をもって愚問を制する戦略で応戦する。つまり「じゃあ、なぜ君はパンツをはいているの?なぜパンツを脱いで全裸で道路を歩いてはいけないの?」とか、「なぜ、道路でうんこしてはいけないの?」などと聞き返す作戦を取りますね。もっとも、古代ギリシアのある哲学者は、公共の劇場でうんこすることで、犬のように生きることを理想とする哲学を教えたといいますから、うんこも哲学的とは言える。

 閑話休題、小学生対策はさておき、話を戻しましょう。

ふつう私たちはどう思っているか。人は死ぬ。人が死ぬと命はなくなる。赤ん坊が生まれると、それは新しく命を作り出す。人の命は流れの中の泡のように現れ消えていく。生まれ、育ち、子を産み育てて、死んでいく。親から子へ綿々と受け継がれるものとしての命。そういう命の流れの存在を感じ、神秘と感じ、大事に守ってきたのが人類です。

そういう命が自分の身体の中にもある。自分はいつか死んでしまうだろうけれども、それまでの間、ずっと自分のものとして命は、ある。そういう考えを、人は持つようになった。

しかし、もう一度考えてみましょう。私たちはなぜ、命は一番大事なものだと思っているのか。「自分の命」と話し手が言うとき、もともとの言葉の働きとしては、それは聞き手が感じる話し手の人体の外見的な動き(息をしているとか)に対応するものを指している。もともとこの言葉は、それしか表わしていない。それは聞き手の無意識な脳の機構の活動としてある。話し手は「自分の命」と言うことで、聞き手の脳内のその活動を期待する。もともとはそういう単純なことです。話し手の中に、なにか立派な神秘的なものがあるわけではありません。独り言で言うときも、日記に書くときも、哲学論文に書くときも、同じ。話し手(または書き手)は、聞き手を想像して、聞き手が見ているはずの、物質としての話し手の身体の状態を言っているだけのことです。

つまり、私の命は、実は私の中にはない。それを思っている他の人間の中にある。それを思っている他の人間の中の私の中にある、と私が思うものなのです。

胸に手を当てて、心臓の鼓動を感じながら、深く考えて見ましょう。心臓は脈動しているけれども、エアコンのモータだって回転し続けている。私には命があって、エアコンにはないのか? 自分の命って何だ? 他人に命があることはよく分かる。でも、自分に命があるかどうか、自分が生きているのかどうか、目をつぶって、正直に言えば、よく分からないでしょう? 自分の命、それは自分の外観が他人から見てどう見えるか、他人の視線を感じることから想像して自分の姿を思い描いているところから来る錯覚に過ぎない。頭に手を当てて思い出してみましょう。ずっと幼いころ、だれかに教えられて、自分は生きているんだ、と思うようになったのではないですか。思い出せないでしょうけれど、それはだれかに繰り返し教えられて、そう思うようになった、という気がしませんか? だから、自分が生きている、ということは、(他人にとっては事実でしょうが)自分にとっては錯覚かもしれない。素直にいえば、それはまったく錯覚のように思えますね。実際、それは存在しない錯覚のことではないでしょうか。

世の中で自分の命が一番大事、と思い込んでいる人がたくさんいますが、それは存在しない神様を拝んでいる素朴な信者と変わらないのではないでしょうか。その神様に誉められたくて善行をすれば、社会はうまく動いていく。実用上は、それはとても役に立つ。しかし実のところ、自分の命というものは、すくなくとも自分にとっては存在しない、と言うほうが、理屈としてはもっとも正しい。つまり、自分にとっては、他人の命があるだけです。私の命は、私の目に見える物質としての私の身体の中にはないけれども、私の身体を見ている他人の身体(脳)の中にある。私にとっては、仲間の人間のだれもがそれがあると感じていると感じられるから、それはある

目に見える物質ではないけれども、だれの脳の中にも物質の感知よりもずっと深いところにある錯覚の存在感として、生き物の命というものはある。そういうものは、人間にとって、目に見える物質よりもずっと大事なものです。

だから人の命は、どの物質よりも大事なものなのです。

(7 命はなぜあるのか end

8  心はなぜあるのか?

Banner_01

コメント (1)

命はなぜあるのか(1)

2007-07-12 | 7命はなぜあるのか

7  命はなぜあるのか?

「言うことを聞かないと、命がないぞ」と、ピストルを構えたギャングが脅します。そうなったら私たちは、ギャングの言うことを聞くしかないでしょう。命がなくなるのは、とてもいやですからね。つまり命は、だれにとっても一番大事なものです。それはまさにその通りなのですが、ここではそのことは置いておいて、ちょっとちがう観点から話をはじめましょう。

拙稿では、その命というものが実は存在しないのではないか、という話をしてみます。「あなたが言っているその命とかいうものは、この世には存在しませんよ」とギャングに言ってみましょう。まあたぶん、ギャングは怒り狂って、ズドンとあなたの心臓を撃ちぬくでしょう。

そのとき、あなたの命はなくなるはずです。では、そのなくなったものは何でしょうか? 身体ですか? 死んでも身体は残っているでしょう? あなたの身体の物質は、弾丸の運動エネルギーを受け取ってすこし変形しますが、大体残っているでしょう。

弾丸が当たらなかったのに、あなたの心臓が弱くて発作を起こして停止してしまうこともありそうです。その場合など、心臓が止まる以外、身体のどこも破壊されていません。それでも命はなくなってしまうわけです。

では、なくなった命とは何でしょうか?

命とは何か? 生きているものが持っていて、それ以外の無生物や死んだものが持っていないものを「命」という。しかし、こういう言い方は国語辞典のようですね。同意語反復ですから、内容がない。実はこの場合、辞典など必要ない。言葉など要りません。実際、言葉などしゃべれない幼児でも、「命」あるいは「生きていること」、とは何かを知っている。

道端に転がっている虫を指差して、幼稚園児に聞いて見ましょう。「これ、いきてるかなあ?」 棒でつついてみる。虫がもぞっと動く。「あ、いきてるう」 幼稚園児は、目を輝かせて叫ぶ。

このように、人間はだれでも、目の前にある物質が生きているのか、いないのか、一目で分かる。刺激に反応し、身を守るかのごとく運動する物体を見ると、人間の脳は自動的に「命」を感知する。脳の辺縁系扁桃体が自動的に、命の検出信号を出します。人間の脳に、生まれつきできている仕組みです。

この脳の知覚反応を自覚して、人間は、命とか、生きているとかいう言葉を作って使ってきた。それをさらに抽象化して、生物という概念を作った。そこから生物学を作り、生物の特徴として、科学用語としての生命現象が再定義された。

現代人の言う「命」はふつうこれを指す。直感としての「命」、それが抽象化されたいわゆる「いきもの」、それと科学用語として厳密に定義された「生命現象」。新聞雑誌などにあるふつうの文章では、これらが全部ごっちゃにされて、「命は何よりも大切だ」とか書かれているのが実情です。

「命ってナーニ?」という小学生の質問に答えて、生物学者がやさしい理科の解説を書く。それはそれで教育としてはとても良いことですが、こういうことが哲学の混乱にも一役買っている。

新聞記者は、生命の神秘について生物学の権威に質問する。しかしそれでは実は答えは得られない。科学者に神秘について聞いても無駄です。生命の神秘について知りたければ、生物の先生に聞くよりも、幼稚園児に聞くことが正しい。そこにある虫が命を持っているかいないか、子供はすぐ答えてくれる。科学者は駄目です。神秘について分かりやすい答えはできない。科学者は、科学的事実についてだけ分かりやすく答えられる。でもそれは、命の神秘とは関係ない話なのです。

科学の話は単純です。古来畏敬の念で見られていた生命現象は、現代科学によって、ほぼ完全に理解された。二十一世紀に入って生命科学の研究は加速されている。人のDNA配列(ゲノム)は完全に解読された。今後まもなく、科学の進展によって、細胞内でのDNA―RNA―たんぱく質の分子レベルの生成機構など、構成的で詳細な知識が蓄積されてくるでしょう。それらの知識は遠くない将来、多様な生物の発生、進化、形態、行動の完全な物理化学的理解を導くに違いありません。

科学の観点から見ると、すべての地球生物はひとつながりの物理化学現象です。つまり、三十数億年前の地球上で、たまたまそこらへんに多量にあった炭素、窒素、酸素、水素などありふれた原子が何億、何兆個と絡まって巨大な化合物が無数にできて、そのうちの一つがたまたま自己複製構造になって増殖進化してしまったものです。

三十数億年の間に、千億回くらい自己複製により世代交代した。世代交代のたびに、突然変異でわずかずつデザインを改善して、各回、数万の試作品を作り、一番できの良いものを生き残らせ、残りを捨てる。そういう大量試作大量廃棄により千億回くらい試行錯誤を繰り返した結果、奇跡的としか思えないすばらしい設計になったものが、現代の生物です。

現存の生物のデザインは、どれをとってもすばらしい傑作です。生き延びて子孫を残したい、という強烈な目的意識を持って、その身体が作られているようにしか見えない。現在の地球の生命圏は、天才芸術家の傑作だけを陳列している、最高級の美術館です。

千億回も試行錯誤しながら、毎回、数万に一つの最良品を選んで改良を続ければ、だれだって天才的な作品を創れる。たしかに、最後の完成品である現存の生物体だけを見ると、神様が創った、としか思えないすばらしさです。

宝くじの一等に当たった人にとっては、幸運の女神は間違いなくいる。一等に当たった人たちだけが住んでいる町が、現在の地球です。われわれ人間はもちろん、地球上に現存する他のどの生物も、宝くじで六億円当たるより何百万倍も幸運だったから、こういうすばらしい身体を持っている。

生きていること、命、はなぜ神秘的なのか? 自分が宝くじに当たった人にとっては、その幸運は神秘的としか思えないでしょう。それと同じ話です。

だから科学としてみると、神秘的な命などはどこにも存在しない。

命、という言葉が強い印象を持っているのは、なぜでしょうか? それは、(拙稿の見解では)刺激に反応し身を守るかのごとく運動する動物を見るとき、私たち人間の脳に、その場合に特有のはっきりとした感覚(仮に命の存在感と呼ぶことにします)が生じることからきている。このような認知活動の仕組みの解明については、現在の神経科学では、残念ながらよい研究アプローチの手法がみつかっていない。

命について、私たち現代人が会話したり意見表明したりする場合にも、その根底には命の存在感に対する無意識の神経反応の学習が働いているわけですが、それに加えて、近年の生物学、医学が語る生命現象の巧緻な設計に関する私たちの知識が、生命についての神秘的な印象を強めている。細胞内分子構造、DNA、RNA、たんぱく質、生殖、分化、進化、適応、など近年の科学が明らかにした生物体の仕組みを詳しく知れば知るほど、このようなものがこの世に存在していること自体がまさに自然の驚異だ、と思いたくなる。しかしこちらのほうは、科学知識ですから、むずかしいことは何もない。これら生物に関する最近発見された種々の事実は、よく調べてみると、地球誕生以来、四十数億年にわたって続いてきた地表物質の変遷の結果であり、科学で理解できるふつうの物質現象の組み合わせです。地球全体に関する自然現象ですから、地球が太陽の周りを回っているように、大規模な現象ではありますが、神秘なことはない。最近の生命科学の発展によって、生殖や遺伝や病気や老化など、かつては神秘的に感じられた種々の生命現象も、今日では、物理化学的に詳しい仕組みが分かってきている。命に関する個々の現象は、近い将来、科学知識を持つ人々にとっては、特に神秘でも不思議でもなくなるでしょう。

地球表面の分子の塊に物質の法則が働いて自己複製の仕組みができ、複製のたびに少しずつ変化が蓄積し、三十数億年後に今のような種々の生物になった。このことは地球のような物質世界では、数十億年かければいかにも起こりそうな、ありふれたふつうの物質変化の一種です。地球ができてから四十六億年のうちの最初の数億年の間に、最初の生命ができてしまった事実から見れば、地球に似た惑星の表面では、いずれにしろ起こってしまう自然現象とみてよいでしょう。

現在、目に見える生命現象の巧緻な仕組みに驚嘆するのは素直な反応ですが、これは千億回の試行錯誤の結果です。むしろ驚嘆すべきは三十数億年にわたって、温暖で恒常的な環境を維持してきた地球という惑星の特異性でしょう。太陽は非常に安定した恒星で、その放射エネルギーは0・1%の範囲でしか変動しない。また地球は特に強い磁場と適当な気圧の大気を持っているために、有害な宇宙線と紫外線が地表面に達しない。

現在までの天文観測では、宇宙でこのように温和で安定した環境は地球にしか見つかっていない。しかしこれもたぶん、確率の問題でしょう。銀河系に地球型の惑星は数千万個以上あると推定される。近い将来、遠くのいくつもの惑星系に地球そっくりの環境を持った惑星が発見されるに違いない。そこに地球のように多種多様な生物が進化していても、まったく不思議はない。

Banner_01

コメント

この世はなぜあるのか(5)

2007-07-06 | 6この世はなぜあるのか

この世界が存在することと、この世界が存在するかのように感じられることとは、論理的には一応別のことと言うべきでしょう。しかし、世界がこのように存在するから世界がこのように存在するように感じられるのか、世界はこのようには存在しないのに世界がこのように存在するかのように感じられるのか(偽現実など)、区別はつかない。世界がこのように存在するかのごとく感じられるかどうかは見極められますが、世界がこのように存在するかどうかは見極めることはできない。

たとえば、世界がこのように存在するように感じられるように高速の電気信号を私の脳にインプットする超高性能のコンピュータ上にインストールされた超高性能の現実そっくりなデータを作り出すシミュレーションのような機構があれば、私は世界がこのように存在すると感じる。あるいは私が私の脳の働きだと思っている私が今感じている記憶や感情や思考も、その機構の一部としてのソフトウェアが算出した数値データかも知れません。たとえば、ニック・ボストロムという若い哲学者が提唱している偽現実は、こういうアイデアの一種です。どこかの銀河系のどこかの惑星系で繁栄した技術文明の高度なコンピュータ技術がこういう偽現実シミュレーションを作り出さないという証明はできません。もしそうなら、いま私が感じているこの現実世界がそれかもしれない。そうでないということは確かめようがありません。実際には直感でそうでないような気がするだけです。つまり世界がこのように存在すると私が感じるとしても、実際にどういう機構で私にそう感じさせることができるのかは、いくらでもおかしな可能性が考えられます。たとえばそれは、ふつうに考えられる物質世界の構造なのかもしれないし、あるいは高度なコンピュータシミュレーションかもしれないし、その他魔法のような超技術の仕掛けかもしれない。ようするに無限の可能性がありうる。

もしかしたら、私たちが目の前に見える(自分を含む)人間という存在だと思い込んでいるものは、それぞれがコンピュータの中で実行されているゲームソフトのキャラクター(アバター?)のようなもので、お互いにディスプレイ画面の裏にあるデータを交換しながら同期しているだけなのかもしれない。目の前に見える現実である世界全体も、実は超大容量メモリつきの超高速コンピュータの中にある大きなコンピュータシミュレーションで、それぞれの人間をあらわすソフトとデータ交換している。それら全部のソフトやデータは、ひとつの巨大なコンピュータの中で実行されているシミュレーションプログラムなのかもしれない。とも言える。

このたとえ話のように、人間は、自分が感じているこの世界が本当に存在するかどうか、決して見極めることができない。存在すると仮定しても、この世界がさらに大きなどんな超世界の部分空間になっているのかいないのか、まったく確かめる手段はありません。どんなことでも想像できてしまうだけです。

見極められないものについて、存在するとかしないとか言っていてもしかたがないことです。そういう存在感は錯覚だ、意味がない、と言い切ることもできる。どうしても区別ができないものを区別しようとしてもしかたがない。区別するということ自体、意味が不明になるのです。

だんだん、取り留めのない話になってきそうなので、このへんで、話をこれ以上おもしろおかしく発散させることはやめて、すこし整理することにしましょう。とりあえず話を単純にするために、「完璧に存在するかのように存在感をもって私たちが感じられるものは存在する」としてしまいましょう。存在する、という言葉の使い方はそういうことだ、としてしまっても一向に不都合はない。いくらでも複雑に考えられる場合は、一番簡潔な考え方でいくのがよい(こういう決め付け方を哲学では「オッカムの剃刀」という)。だからこの世界は、ややこしいバーチャルリアリティなどではなくて、直感で単純に感じられる通りにリアルなのだ、とする。「私たちが感じる通りこのように世界は存在するということにしよう」と私たちが言いきってしまえば、何の問題もない。

この物質世界が存在することを認めるためにはそうすればよいし、そうするしかない。

ここのところは重要です。日常生活では、この世界が物質として明らかに実在して、その中に物質として私の身体があって、その身体の中に私がいる、というふつうの感覚で生きていればまったく問題はない。そこに人生の苦しみも喜びもすべてがあり、それを力いっぱい生きることにしか人生の意味はない。

けれども、私とは何かとか、死んだらどうなるか、というような(自己遡及的な)哲学のようなことを考えはじめたら、そのまま素朴な世界の実在を前提に考えてはいけない。それをしたら過去の哲学の間違いにはまり込んでしまう。

目の前の物質世界は存在しているように感じられるけれども、実際に存在しているかどうかは確かめようがない。私たちは、ただそれを便宜的に存在するものとして扱っているだけだ。そこから出発しなおすしかない。

その不確かな物質世界の中に私らしい人体が、ひとかたまりの物質としてここにあるように感じられる。けれども物質としてあるらしいこの人体はただの物質だから、私の主体とか、意志とか意識とか、私の心とか、私とは何かとか、死んだらどうなる、とかいうこととは、もともと関係ない。そういう場合の私のこととはちょっと違う。全然違うといってもよい。目に見える物質世界の中の私は、物質としての人体としか見えない。それが私そのものであると感じればそのようにも思えるけれども、所詮は物質です。その物質の中には原子や分子、つまり物質しかない。 その私らしい人体の中に、私が今感じている不安、恐れ、苦痛、神秘感、幸福、愛、誇り、思い出、そしてこのバラの美しさ、そしてそれを語っている私の主体、などを見つけようとしていくらその脳細胞を解剖したところで、あるいは分子構造を解析したところで、それは見つからない。

今ここに確実に存在しているように見えるこの物質世界は、人間の脳の機構によってこのように見えるけれども、それ以上の意味で存在しているということではない。私たち人間のだれもが、これを存在する、と感じるから、それが存在すると感じられるだけなのです。

世界の存在感は、時代とともに変わる。人類の経験と知恵の蓄積によって世界の見え方は違ってくる。たとえば、中世以前の昔、睡眠中ので経験した出来事は、現実の世界で起こることと深い関係があると思われていた。つまり昔の人々にとって、夢は(過去、現在あるいは未来の)現実世界の一部だった。夢に関して、現代人の感覚は全然違う。私たちは、夢の中で起こったことは現実には何の影響も及ぼさない、と知っている。現代人は、客観的に存在していると感じられるこの物質世界が唯一の現実の世界だ、と思っている。このように人間が感じる世界の存在感は、時代の常識に影響されている。

この物質世界は、このようにその存在の基盤が絶対のものではないという欠点のほかにも、重大な欠点を持っている。つまり何とか世界は存在はしているらしいといってもよい、とは言えるものの、この世界はその内部に大事な物を含んでいない。

この世界は、私の感じる大事なものたちを含んでいない。この不確かな物質世界の中に存在しているかのように見える私らしいこの人体はその内部に、私たちが一番大事だと感じている感覚と感情、不安、恐れ、苦痛、神秘感、幸福、愛、誇り、思い出、恨み、後悔、欲望、意志、意図、そしてこのバラの美しさを持ってはいない。人体は、私の脳は、ただの物質です。私が確かに感じる大事な感覚、感情たち。不安、恐れ、幸福、主体性・・・それらは、物質である脳の中にあるものではない。つまり、この物質世界にあるものではない。では、それらは一体何者なのか? この物質世界とは違う世界があるのか? だんだん、そう思いたくなってしまいます。

こういうことは、考えても仕方がない、と割り切れれば問題はない。考えなくても人生は無事に過ごしていけます。しかし、これが割り切れずに、なまじひっかかってしまうと、困ったことになる。あの世とか、精神世界とか、宗教とか偽科学とか、神秘感を利用するいろいろな話が作れてしまいます。もちろん、そういう考えは全部間違いです。この世に神秘など、どこにもあるはずがない。けれども、なまじ考える人たちにとっては、ここは危ないところです。ここらへんから、今までの哲学は間違えていった。このわけの分らないところを、神秘感の落とし穴に陥らずに、なんとかうまく乗り切ることはできないか? 拙稿としては、このことについて、読者の皆さんと一緒に、この後詳しく調べていくことにしましょう。

(6 この世はなぜあるのか end

7  命はなぜあるのか?

Banner_01

コメント (1)

文献