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哲学の科学

science of philosophy

物事と人生の関係について(9)

2021-10-16 | yy79物事と人生の関係について


新しい資本主義といっても、バッファーの出し入れ加減が上手か下手かの問題。個人の人生としては、その流れにさおさして、時流の端っこにできるよどみやマスコミがしばしば呼び込むブラックホールに流され込まれないように、小さなさおで多少のコントロールをしていくだけです。

土曜日の神宮橋交差点で信号待ちをしていると緊急事態解除の人出なのか、以前の活気が戻ったようです。神宮側にわたると人はぐっと少ない。神社に向かう多くはベリーヤング。高齢者は我々夫婦くらい。帰ってくる若者たちは大門で振り返り礼をします。宗教が生きている図かもしれない。外国人家族も多いが、さすが礼はしないようです。一方、若者でも神社にスマホカメラを向けている人も絶えない。現代らしい混沌でもある。
警官も警備員も立っていませんが、人の列は整然と左端を進んでいます。真ん中の砂利部分がすいているのでそこを歩いてみる。意外と歩きやすい、と家内がいうので、敷砂利と下の地面の設計がいいからだろう、と神社のシステムを褒めておきました。
休憩所でソフトクリームを買ったら、レジの女性は伝票を書いて後ろのおじさんに渡す。おじさんは丁寧にクリームをカップにねじりだしてからもう一度伝票を見て、あ、コーンですね、まちがえました、と言ってそれを全部捨ててしまいました。外科医用の手袋をした手でコーンを持ち、もう一度ひねり出して渡してくれる。
しばらく意味が分かりませんでしたが、たぶん、おじさんはレジの店員から渡された伝票を読まずにソフトクリームをひねり出していたのでしょう。コーンの注文者はほとんどいないので無意識の繰り返し動作になってカップで受けようとしたと思われます。
それにしても素人っぽい店員さんでした。経営者が出ているのかもしれません。緊急事態解除直後なのでアルバイト採用が間に合わないのかもしれない。
人生はどこまでも事故が連続するようです。■





(yy79 物事と人生の関係について end)




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物事と人生の関係について(8)

2021-10-09 | yy79物事と人生の関係について


スーパー成城石井に行きましたがやはりパンドミがありません。午後五時に入荷するとのことで四時ころ行ってもまずありません。五時まで待つわけにもいかないので、隣にある・・・ベーカリーで食パンを買う。値段がかなり高いわりに味はふつう。それでも買いに来る客は結構多いらしい。ドアの外にテーブルがあるのでそこでパンを食べる人がいつもいます。
それにしても隣に安くておいしいスーパーがあるのに、なぜ高い店がやっていけるのか?不思議です。
午後五時まで待てないので高い店のほうで買う客がいるからか?
スーパーのパンドミは、朝など、昨日の売り残りがありますが、午後にはなくなります。パンドミの隣に値段が安いふつうの食パンや一割くらい値段が高い湯種食パンが並べてありますが、こちらはいつも売れ残っています。このスーパーは売れ行きをチェックしていないのか?パンドミをもっと多く仕入れればよいのではないでしょうか?それか、パンドミを少し値上げしたらどうか?
自由市場の原理はしばしば働いていません。公正取引委員会はどこまで自由市場を守ればよいのか?消費者も流通システムも市場のプレイヤーとして自由を守る責務を負っているのではないか?
消費者は市場の主権者でしょう?一票が変革力を全然持たないとすれば消費行動はむなしい。主権者が選挙のたびにニヒリズムをつのらせていくのはおかしい。
肉食動物といえども草食動物の集合離散に命がかかっている。売れなくても構わないという生産者や流通システムは市場のねじれです。後ろしか向かない公務員。会社アイデンティティを死守する大企業。ブランド権威主義のねじれかもしれない。
ねじれエネルギーは巻き戻されなければならない。巻き戻しの惰性で市場価値は振動する。振動を減衰させるバッファーが政府の介入でしょう。その介入がしばしば自己保存本能を持つ。政府が強すぎると自由が弱くなる。安全に閉じこもる家計から投資は出てこない。市場は消える。昔テレビで見たソ連のデパートのようになります。








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物事と人生の関係について(7)

2021-10-02 | yy79物事と人生の関係について


テレビを見ていると自由民主党総裁の党内選挙が始まっていて今回は派閥投票をやめて自由投票にするとか、地方党員の人気の影響とかの推定をコメンテーターが懸命にしゃべっています。四人の候補者が横並びでのテレビ討論会なども放映しています。真剣な顔がアップになるし、数日後に結果が出るので、見ている側としては競馬と同じくらい面白い。一か月後に衆議院選挙があるので党首選びに投票する各議員も真剣だということです。
たしかに議員としての自分の人生がかかっているとなればぜひ自分の票集めにプラスになる党首の顔が欲しいでしょう。派閥の仲間や親分の力が大きくなるような投票もしなければなりません。皆さん事前にツイッターで支持候補を表明するほうがよいでしょう。それらを読んで下馬評を語るのも楽しい。
候補者の政治家たちは、自分が総理大臣になってあれこれをしたい、と政見を述べています。国家と国民への愛を語っています。
しかしこれは国民が決める選挙ではない。国民ができることは、選ばれたその党首を掲げるその政党を数十日後の総選挙で追認するかどうかだけです。
私たちは、ではなぜ、この党首選挙に関心を持っているのか?総理大臣がだれになるかによって、私たちの人生はどう推移し変遷するのか?
首相決定以降、あるいは総選挙の後、国民あるいは外国からの政府与党の信頼度はどうなるのでしょうか?まず株式市場はまっさきに動くでしょう。どの会社の景気がよくなるか?どれが買いでなにが売れるか?財政はどうなる?それで家計はどうなる?結局、社会のもろもろのシステムはどう変わっていくのでしょうか?先に読んで少しでも損を少なくしたい。だれもそう思います。
テレビでの公開討論会などを見ると、この保守党も現代的に透明化してきたなと思えます。筆者の若い頃もずっとこの党が支配政党でしたが、内部が深い闇に見えて巨大な権威というか不気味感がありました。今の首相候補者たちは身の回りも頭の中もすっかり見せましょう、という姿勢が現代では好ましいと知っているようです。全員が若い世代の活性化、未来志向などと言っていますので、これでは野党は苦しいでしょう。
与党の人々もイメージチェンジが求められていることははっきり分かっているようです。政党とマスコミはともに改革を唱えながら、種々のフェイントを交えて互いにパフォーマンスを披露せざるを得ません。結果、前後しながらも徐々に世代交代が進むでしょう。それが国全体の若返りにつながるかどうかが国民の関心事です。
うまくいってもその変遷は二年三年かかる。私たちの人生にとって三年は長い。それでも期待が持てるとすればそれが総選挙での投票に影響する。各政治家は今回もそれで行動を決めた、といえます。







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物事と人生の関係について(6)

2021-09-25 | yy79物事と人生の関係について


足元から来るようなささいな痛みはふつう無視しています。しかし地下鉄に降りる階段が長くてひざが痛くなります。乗り遅れないように急ぐとよけい痛む。左ひざが痛むようになってもう二年くらい。老化でしょうが、なぜ右はなんともないのに、左だけ痛むのか?
動物の身体は左右対称でしょう?いつも左足から踏み出しているのか?全然覚えがありません。
脊椎動物の左右非対称性は前世紀には謎でした。心臓はなぜ左にあるのか?肝臓はなぜ右にあるのか?
胎児発生時に体軸の中央に作られるあるたんぱく質(KIF3)が微小モーターとして右回りに回転するから、左右識別信号ができるという発生機構が世紀の変わり目に発見されました(二〇〇〇年 廣川信隆Hirokawa N.「Stirring up development with the heterotrimeric kinesin KIF3」)。
この分子生物学者(元東京大学医学部長)は筆者と同期で今も先端研究で成果を出し続けています。発生生物学ではこの左右軸問題は歴史的大成果ですが、筆者の人生に関しては左が右でも構わない。自動車が左ハンドルか右ハンドルかの違いくらいです。
ドライブスルーでコーヒーをもらうとき、左ハンドルでは右手が届かず店員さんが窓枠の上に乗り出してくれてやっと受け取れます。これでドライブスルーが嫌いになる、という問題があるでしょう。ひざの慢性的痛みに比べて、あまり深刻な問題とは言えませんね。








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物事と人生の関係について(5)

2021-09-18 | yy79物事と人生の関係について


子供は身体の使いこなし方、つまり自分の使い方を実証し成功体験を蓄積することが人生の目的です。むしろ、子供にとって人生はない(拙稿74章「子供にはなぜ人生がないのか」)。代わりに、怖さがあり楽しさがあります。子供時代の毎日の強烈な印象は大人には思い出すことができません。

大人は、ふつう、目の前のありふれた物事には興味がない。明日からの自分の人生に影響することにだけ反応します。たとえば社会的な損得とか、確定申告書に記載できるイベントとか。その推移変遷を見通します。その推移への関与のしかたで目の前の物事の意味が定まってくる。今日中にこの申請書を送付しておけば安心だ、とかが重要ですね。
人生はたしかに、漱石の言うように、物事の推移で定まってくるには違いない。ひとつひとつの物事はたしかにそれぞれある感情を引き起こします。過去から未来にわたって物事の集積が連鎖するネットワークのように人生を囲みあげる。それが人生に与える影響は感情では測れません。
このことは人生を持たず、感情しか持たない子供には分かりません。冷静な大人には分かる。それが分かることは、感情に身を任すことよりもしばしば面白い。たとえば小説家はこの事情を上手に描写していくことができます。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。(一九〇六年夏目漱石「草枕」)

遠くで戦争が起こっているが、今ここではこの絵を完成させることを考えている。しかし結局は、戦争のために人生は決定されてしまう。かなり遠くから来る物事も、また同時にすぐ足元から来る物事も、思いがけず自分の人生に決定的に影響してくるものです。
感情では判断できない。そこが面白い、といえば人生は面白いし、それは嫌だ、と思えば人生からは逃げて隠れていたい、となります。










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物事と人生の関係について(4)

2021-09-11 | yy79物事と人生の関係について


そうであるから、つまり私の人生にとってはあまり意味がある事故ではないということになります。私の人生に関係が深い物事以外にはあまり関心がない私としては、この事故には立ち止まってじっくり観察するほどの必要はありません。私にとってこの出来事の存在感は薄い。結局ほとんど無関心に通り過ぎる、ということになるでしょう。

昼食後、孫と植物園に行きます。ゲート受付で免許証を見せると「無料です。どうぞ」といわれます。どう見ても高齢者だろう、と自慢していると孫には「小学生ですか?」と聞いて「はい」と答えると「無料です」と言ってくれました。
数百メートル四方の園内は稠密な原始林が保存されていて日が差し込まず涼しい。この森が正しいのか?外部の高層ビル群が正しいのか?小学生に分かるだろうか、と思います。
ここが大都会でなければこの小さな森の存在はほとんどないでしょう。関東のありふれた自然です。しかしここでは高価なビル群を排除してでも保存する価値があります。これをビル用地として売り払って都民税を減税しろという都民はあまりいませんね。
園内案内に見ごろと書いてあるナンバンギセルを見に行く。池を渡ると看板が出ているが花らしいものが見つかりません。あきらめて帰路に就く。帰りがけの橋のわきに紫の花があったのでそばで草刈りをしている作業服の人に「あれがナンバンギセルですか?」と聞くと「違います。ナンバンギセルはむこうにあります」「看板は見たのですがそれらしい花はありませんでした」というと「ご案内しましょう」と先に立って今きた道を歩いていく。さっきの看板に戻ると地面を指さして「これです。小さくて目立たないでしょう。ススキの根に寄生しているんです」
ナンバンギセルという植物の存在を初めて知りました。見ごろも何も、その存在を知りませんでした。
小学生にとっては、ゲートで手に入れた園内マップの道をたどってその植物の生育場所を見つけたことが重要で、地図を使いこなすという達成が目的の行動であった、といえるでしょう









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物事と人生の関係について(3)

2021-09-04 | yy79物事と人生の関係について



さて外に出て家の前の歩道を歩き始めると、前方にパトカーが止まっていてお巡りさんが数人立っています。よく見ると、そのわきにライトバンが歩道に乗り上げて街路灯を押し倒して止まっています。歩道のフェンス支柱も数本倒されています。事故車のドライバーらしい人が警官と話し込んでいます。
街路灯やフェンスの損傷具合から見て相当のスピードで乗り上げたようです。こんな道でなぜそんな事故を起こすのか?歩行者が巻き込まれたら重大事故になるでしょう。事故車のボンネットは割れてひしゃげています。つい先刻の事故のようです。
歩行者としては歩道をふさがれて通れません。20メートルほど戻って横断歩道で向こう側の歩道へ渡る。それで私としては実害はない、ということになります。
街路灯とフェンスはいずれ復旧工事がなされるでしょう。その費用はたぶん保険で賄われます。しかし毎日のようにこの歩道を通行しているものにとってこの事故はなかったことと同じということにはなりません。いつかまた起こるかもしれない、といえます。
しかしだからといって、ここで今何かできることはない。ここを通り過ぎればたぶんほとんど忘れてしまう。忘れてかまわない、という程度の出来事です。
家に帰って家族に話すとき、多少面白い話題にはなるでしょう。いずれにせよ、いつかこのような事故が起こって私が損害を受ける確率はたぶん無視すべき数値だ、と思えます(1ppmくらい、つまり百万回に一回)。








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物事と人生の関係について(2)

2021-08-29 | yy79物事と人生の関係について


たとえば、今年七十五歳になりとっくに隠居生活というべき筆者の人生ですが、三食を食べて散歩してあるいはテレビを見て夜になれば寝ることで一日が過ぎていきます。朝起きて空腹を感じる、というか、習慣で朝食を食べる。トースターに食パンを一切れ入れてスイッチを押します。
トースターがあるから私はトーストを食べるのか?コーヒーメーカーがあるから私はコーヒーを沸かしているのか?
いや、私がトーストを食べるためにトースターがある。あるいはコーヒーを沸かすためにコーヒーメーカーがある。と私は実は思っています。
これらを使うことで無事に朝食が済み、次に靴を履いて散歩に出かけることができます。この靴はだいぶ前に買って毎日履いているので少々くたびれていますがまだ使える。むしろ足になじんで履き心地がよろしい。
この靴を履いて(去年からはマスクもつけて)外出することが私の人生を作っている、というよりも、今日外出するという私の人生の一日がこの靴の存在を作っている、ともいえます。
私はなぜ靴を履いて外出するのか?裸足で外をスタスタあるいていると救急車が来て認知症病院に入れられてしまうからです。あるいは人が見ていないうちに道を散歩できたとしても足の裏が痛くなって毎日は続けられないからです。
まあ、人に聞かれればそう答えるものの、実際に玄関で靴を履くときにそんなことは考えていないようです。何も考えずにいつの間にか靴を履いている。あるいはこの靴にしようと選ぶ時も、なぜ履き物を履かなければいけないか、という問題は頭に浮かんでいません。
この場合、靴一般が存在しているのではなくて、いま履こうとしているその具体的な靴が存在しています。







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物事と人生の関係について(1)

2021-08-21 | yy79物事と人生の関係について


(79  物事と人生の関係について  begin)




79  物事と人生の関係について


この世にある物事と自分の人生とは何の関係があるのか?
だれでも一度は考えることがあるでしょう。
明治の賢人も三〇歳のころ、宇宙と人生の構造についての独自の形而上学的な考察から自分の思想を形成したようです。

空を劃して居る之を物といひ、時に沿うて起る之を事といふ、事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、故に事物の変遷推移を名づけて人生といふ(一八九六年 夏目漱石「人生」)

民法第八五条 この法律において「物」とは、有体物をいう。
「有体物」の意味は法律で、物理的に空間の一部を占めて有形的存在をもつ物のことです。たしかに漱石の言うように、空を劃していれば有体物です。
漱石の著作本は有体物ですが著作品の内容は無体物で所有権の対象ではなく著作権の対象である、となっています。小説家の人生にとって著作権は有体物である本よりも重要でしょう。宇宙の星々は有体物ですが天文学者でない普通の人の人生にとってはそれほど重要なものではありません。
自然科学の立場でいえば天体を構成する水素とヘリウムの核融合はこの宇宙の根源である、となりますが、私たち毎日の人生との関係でいえば核融合などより、ここにあって手に触れ目に見えるランチのおいしさや財布に入っているお札の数のほうが重要です。
今ここにあるものだけが私たちにとって重要であって、その重要さそのものが存在感を作りそれがこの世界を作り私たちの人生を作っている、といえます。たとえば次のような考え方です。

すなはち現実界の「物」は、かやうに何かの点で人間との聞に接点をもってゐるのであって、この接点において物が「物」として生きるのであり、ここに生活世界の物の本質があるのである。それと同時にまた、人聞の行為の本質的なものが、物との交渉を通じてこの接点において覗きみられるのである。(一九七一年 結城錦一「物とは何か : 物の人間学的粗描」)

あるいは拙稿の見解:この世界にある物事は、結局は、私たちの生活にその物事が必要だから存在している。その物事がそのように存在すると思うことによって私たちの身体がうまく動いてじょうずに生きていくために、それは存在している。その物事がそのように存在すると思うことによって私たちが仲間と通じ合い協力しあってうまく生活していくために、その物事はだれにとっても同じように客観的に存在している。(拙稿25章「存在は理論なのか」)

こういう考え方をすれば、物事が人生を作っているというよりも、人生が物事を作っている、とみることができます。






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