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哲学の科学

science of philosophy

身体の存在論(6)

2024-03-16 | yy94身体の存在論


夢の中でも自分の身体はあるようなので身体は存在している、といえます。それはしかし、目には見えていない。幽霊のようなものです。それは、自分が思っているだけの自分である、というべきでしょう。
そうであるとすれば、夢から覚めて現実にここにあるように思えるこの自分の身体も、もしかしたら、自分がこう思っているだけで、他人には違うように見えているのかもしれない。身体の存在というものもそういう頼りないところがあります。

 風になびく富士のけぶりの空に消えてゆくへもしらぬわが思ひかな(西行 一一八六年)
富士の噴煙が拡散して消えるように私の思っていることも消えていく。
われ思う故に我あり(ルネ・デカルト 一六三七年)、と言ってもはかないものだ、とすでに西行は言っています。いずれ身体そのものが消えていくのだから。 ■













(94 身体の存在論  end)





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身体の存在論(5)

2024-03-09 | yy94身体の存在論


外界を見ていない時、目をつぶっている時でも記憶している光景が思い浮かびます。寝ている時でも目の前に光景は浮かぶ。つまり夢を見ます。これは何だ。世界が感じられないのに世界は感じられる。夢は自分の身体が世界を作り出しているという経験です。

夏目漱石の「夢十夜」を読んでみます。

こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。
(一九〇八年 夏目漱石「夢十夜」)

こんな夢を見た。と言っているから、今はもう起きていて夢を思い出して語っている、ということでしょう。つまり、ここにこの世界があって、その中に自分の身体があって、その身体がこの夢の話を語っているのだ、と思っているのです。
夢は身体の内側だけで起きていることですから、そこで経験する物事は全部自分の身体が作り出しているのでしょう。そうであるとすれば、覚醒している時に感じ取っているこの世界も私の身体がこれを作り出している、ということもできます。
目に見えるものや五感で感じられる物事は、もちろん、身体の外側からくる光や感覚刺激からきている。外界の刺激と身体の内側からくる記憶再生や感情や気分がまじりあって、この世界が現れている、とも思えます。

夢も現実も、どちらも自分が感じているから存在するのだ、という観点でいえば、区別する必要もない、相対的なものだ、と言ってしまうこともできます。
夢で蝶々になっていれば人間として覚醒している現実も蝶の夢の中でそういうバーチャルリアリティを見ているのだ、ということもできます。
つまり:
昔者莊周夢爲胡蝶栩栩然胡蝶也自喩適志與不知周也俄然覺則蘧蘧然周也不知周之夢爲胡蝶與胡蝶之夢爲周與周與胡蝶則必有分矣此之謂物化(紀元前三世紀 荘子「胡蝶の夢」)、となります。











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身体の存在論(4)

2024-03-02 | yy94身体の存在論


ぼかしを使うテレビの顔隠し 肖像権が理由といいますが、顔を見て他人の心を識別するのも面倒だ、という視聴者の怠惰に忖度している、ともいえます。
自分の裸体を顕示して性的興奮を得るエクスヒビショニストたちが顔だけを隠す、アイデンティティーの倒錯を描いた小説(二〇〇八年 平野啓一郎「顔のない裸体たち」)。
自撮りをSNSに投稿して世界に頒布する、いまや健康的と思えるようになったスマホ趣味も、昔の人からみると病的自己顕示、非性的ではあるがエクスヒビショニストと見えるでしょう。

メタバースの中でアバターを動かす。自分の身体とどう違うか?変身願望か?しかしディスプレイのこちら側のこの身体は何なのでしょうか?
アバターがメタバース内のパソコンやデバイスでアバターを作ってメタバースをしたらどうなるでしょうか?それを繰り返したらどうか?その無限後退の神秘感が身体の存在論なのかもしれません。

私は、私の身体がここに存在している、と思っています。私が感じているこの存在感が存在の根拠である、と思っています。しかし、拙稿の見解によれば、その感覚は他人が私の身体を見て感じる存在感覚とそれほど違わない(拙稿41章「身体の内側を語る」)。もしそうであれば、私の身体の存在はあまりしっかりしたものではないかもしれません。











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身体の存在論(3)

2024-02-24 | yy94身体の存在論

明治の文人は心身の実体を存在論的に洞察しています。明治二九年、第五高等学校教授夏目金之助、のちの漱石、三〇歳の文章。
三陸のつなみ濃尾の地震之を称して天災といふ、天災とは人意のいかんともすべからざるもの、人間の行為は良心の制裁を受け、意思の主宰に従ふ、一挙一動皆責任あり、固り洪水飢饉と日を同じうして論ずべきにあらねど、良心は不断の主権者にあらず、四肢必ずしも吾意思の欲する所に従はず、一朝の変俄然として己霊の光輝を失して、奈落に陥落し、闇中に跳躍する事なきにあらず、このときにあたつて、わが身心には秩序なく、系統なく、思慮なく、分別なく、只一気の盲動するに任ずるのみ、若しつなみ地震を以て人意にあらずとせば、此盲動的動作亦必ず人意にあらじ、人を殺すものは死すとは天下の定法なり、されども自ら死を決して人を殺すものはすくなし、呼息せまり白刃閃く此刹那、既に身あるを知らず、いづくんぞ敵あるを知らんや、電光影裡に春風をきるものは、人意かはた天意か(一八九六年 夏目漱石「人生」)
ちなみに、句点なし読点のみの文。明治の文章家が苦心して試行錯誤したおかげで今日の日本語がある、と分かります。

さて昭和日本の最盛期、森進一が「襟裳の春は何もない春です」と歌う「襟裳岬」(一九七四年 岡本おさみ作詞 吉田拓郎作曲)。西行が愛でる日本の春を逆説として、当時の人々の心底を語る春の歌になっています。
襟裳岬の平凡な農村風景。背後に迫る虚無。それを見渡している作詞者の身体がはっきりと見えます。

現代日本人は目の前の風景に自分の身体が置かれていることを痛いほど知っています。 

テレビや動画に映る人の姿が、現代人にとっては、人間の典型でしょう。そのテレビセレブ、タレント、キャスターたちはモニター上の自分の身体に関心を集中して生きている。そのことを視聴者はよく知っています。

コロナはとっくに終わっているのにマスクは多い。マスク依存症と揶揄されます。イスラムの女性はなぜ顔を隠すのか?身体を見せることの安心と見せないことの安心。身体の内と外。無意識に自分の身体の存在感を意識している姿勢が見えます。











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身体の存在論(2)

2024-02-17 | yy94身体の存在論

枕草子(一一〇〇年ころ 清少納言)を読んでみる。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、 ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。 
清少納言の感覚は研ぎ澄まされている。自然を的確にとらえています。しかしそれを感じている彼女の身体はどこにあるのか?その語りを聞く人には語る人の存在が分かるけれども、それを語る彼女自身は、自分のその身体の存在をほとんど感じていないであろう、と思われます。

少し下った時代の先端の歌人は、自分の身体の存在をしっかり見ることができます。
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (一一一八~一一九〇年 西行)
たしかに自分の死を語っていますが、実は、いま生きている自分の身体を語っています。
 
さらに時代が下ると作者の身体が中心に見えてくる記述もあります。
徒然草
命あるものを見るに人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにもこよなうのどけしや飽かず惜しと思はば千年を過すとも一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそめやすかるべけれ。(一三四九年頃 吉田兼好「徒然草」七段)
人間は、意外と、なかなか死なないのが困ったものだ。自分の身体がいつまでも生きているのが問題だ、と兼好は書いています。










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身体の存在論(1)

2024-02-11 | yy94身体の存在論


(94 身体の存在論  begin)




94 身体の存在論

爪を切ってやすりで丸く削る。すぐ長くなるので、いつも削らないと気になってしまいます。いくら年をとっても爪は成長するらしい。
七七年使って、あちこち壊れてきてはいるが、まだ全体の機能停止には至っていません。壊れたところも、ある程度は、自動的に回復したりする。
人体など数種の大型動物は数十年を超える長寿命です。これらの動物種に近いほど長寿命の人工自律機械はありません。人工衛星はメンテナンスなしで十年以上稼働する長寿命機械ですが、自動回復はできません。 
年を取ると癌になるからいやだ、と気にする人は多い。これも、生物は細胞が分裂するから癌になる。しかしそもそも、細胞分裂、のおかげで生物の身体は更新され維持されています。
死ぬから生きる。生きるから死ぬ。といえます。
生物の身体は複雑で驚くほど高機能。こういうものがなぜあるのか?(拙稿58章「生物学の中心教義について」、拙稿77章「いのちの美しさについて」、拙稿91章「川は生きているか?」)
完全に健康で、身体があることを気にしなくてよければ何も問題がない、ともいえます。身体がなければよほど気が楽になるでしょう。病気になることなど気にならない。容姿を気にすることもなくなるでしょう。
透明人間になれば人に見られることもない。ついでに音もたてなければ悪いことをしても捕まりません。幽霊と同じです。
しかしなぜここに、自分の身体というものがあるのか?自分の身体は存在するのか?それは、どう存在するのか?人は自分の身体が、どう存在すると思っているのか?つまり問題は、身体の存在論です。

昔の人は自分の身体の存在を、どう思っていたのでしょうか?









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