哲学の科学

science of philosophy

貨幣の力学(1)

2014-02-22 | xxx8貨幣の力学

(38 貨幣の力学 begin

38 貨幣の力学―お金はなぜ力なのか?

金の力には逆らえない。地獄の沙汰も金次第。金さえあれば何とでもなる。世の中、金だけじゃないですか? とよく言われます。まことにその通りなのでしょう。

東京都知事が、選挙の前に理由不明の現金を受け取って公表していなかったことが判明して辞任に追い込まれた。お金は重要なものであるからそれに関する不正は許されません。

金より大事なものがある、と若い頃は威勢の良いことを言ったりしていても、年をとって家族ができてくると、そうも言っていられなくなる。なんとなく品が良くない感じがするから、お金が大事だ、と声を大にして叫ぶことはしませんが、大事ということは間違いなさそうです。結局まず金が欲しい、金さえあればなあ、となります。

さて、金の力を金力という。まさに力そのものという感じがします。しかし、まさかこれは物理学で習った力学の力と同じものではないでしょう。しかしながら非常に似ているところがある。まず、人を引っ張る。力学の力、例えば重力は坂道を歩いている人を下の方に引っ張ります。時に落とし穴に落とす。金も、人を引っ張り引きつける。時に落とし穴に落とす。

就職するときは給料が高い会社に学生は集まる。生涯賃金にはっきり差があれば就活は、もう決まりです。婚活だって、旦那の生涯収入で決まるという説は説得力がある。金の引力、というような感じです。

うっかりするとお金の話は、なにか身も蓋もない、味気ない話になってしまいますね。

しかし一方、カール・マルクスが言ったように、インフラストラクチャがスーパーストラクチャを決する(一八六七年 カール・マルクス『資本論 』既出)。つまり人が物事の理屈を考えるときは、そう考える方が自分にお金が手に入りやすいような理屈を考える。そう考える方が正しいのだというふうに考える。

皆がそうするからモラルも法律もそういう理屈でできている。だから金の力はうまく理屈に隠されてもっともらしい常識に埋め込まれていく。うまくそうなっていけば、世の中が世知辛いということはあまり感じられなくなって、人に感謝される人は当然尊敬を集める、とかいうもっともな話になっていきます。

かように直接的にあるいは間接的に、お金の力はすべての人を支配していく。

お金持ちにとってはお金が力を持つ世の中はとても心地良い。お金がない人々にとっては不快です。しかし今お金がなくても近いうちにお金をたくさん持てるようになるならば、まあいいか、となる。現代は、だいたい、そうなっています。だれもがお金を手に入れることができそうな社会は不満が少なくなる。そして社会は安定する。

社会はそのように進化するのでしょう。現代社会は昔の社会よりも暴力や殺人が少ない。いろいろ不満があっても人を殺したくなるほどではない。というところにも、お金(経済学では通貨という)の力は働いています。

お金が力を持つ時代は案外いい時代なのではないか?お金に支配されるほうが、他のもの、たとえば暴力団とか独裁者とか秘密警察とか教条主義集団とかに支配されるよりましなのではないか、と思われます。

お金に支配される場合、それが直接的な支配ではいささか(というか時に熾烈に)世知辛いが、間接的な支配になってくれば、けっこう心地よいのではないか?税金は嫌がられるけれども新聞、雑誌、テレビの広告やインターネットなどの間接的集金システムがそれほど嫌がれていないところをみると、そんな感じがします。

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物質の人間的基礎(7)

2014-02-15 | xxx7物質の人間的基礎

私たちは、こうしてこのように物質世界があるから、そこで身体をこう動かそうと思い、こう動かしているのだ、と思い込んでいます。しかしそれは、そう思い込んでいるだけで、実は先に無意識のうちに身体が動いてそれによって物質の存在が感じられ世界が感じられて、それからその感じられた物質世界の中でこう身体を動かそうと自分は思ったのだと思い込んでいるのではないでしょうか?

どちらが本当なのか?確かめる方法はあるのでしょうか?

物質が存在するから私たちはそれを感じることができるのか?それとも私たちがそれが存在すると感じるから物質は存在する、ということなのか?

確かめる方法は、ありません。

確かめる方法はありませんが、どちらかが本当という気がしますね。どちらが本当という気がしますか?

筆者ですか?筆者は、この問題は本当の問題ではない、偽問題だ、と思っていますから、どちらが本当と思っても構わない、と思っています。要は、言葉を使いやすいように使えば良い。そうすると、皆さんがふつうに使っている言い方、つまり物質の存在と世界の存在をまず前提とした言葉遣いが分かりやすくてよい。そういう言い方を使わない理由はない。いや、素直に言えば、そういう言い方を使う方が便利だ、ということになります。

これで一安心。ふつうに物質世界は存在していることになります。私たちたちは身の回りにいろいろな物質が存在していることを感じ取って、いつもそれをどうにかしようとしています。自分の身体と物質の変化の仕方を予測して、よいように身体を動かして物質を操作します。たとえばアクセルを踏んで車を走らせる。コップを持ち上げて水を飲む。風呂敷を広げて一千万円の札束を包む。などなど。何も不思議はありません。

しかし一方、このようになっているこの世界は、私たち人間が身体を動かして感覚器官で変化を感知し、同じ人間の仲間と協力して仕事をし、言葉を語り合って生きていくために、こうなっていることが必要だからこうなっている。世界がこうであることによって私たち人間はうまく仲間どうし協力することができる。協力し合ってうまく栄養供給システムにつながることができる。あるいはそうすることで子孫を残すことができる。そうすることでその子孫が物質の存在を語り合うことができる。逆に、そうできるように世界はこうなっている、ということができます。

物質世界はこのようにして存在している。人間の身体の仕組みによってこのように存在している、といえます。そうであれば、そのように存在するこの世界で、私たち人類は生活し、歴史を作り、科学を作ってきた、ということになります。歴史といっても科学といっても、そうであれば、人間の身体の仕組みの上に作られている、ともいえる。

繰り返せない出来事は歴史となって残り、繰り返せることは科学となっていきます。

原始時代の石器作りであれば、人間が石と石を打ち合わせると石が割れることで石器の科学が作られる。現代の先端科学であれば、火星探査機が送ってくるスペクトルデータで火星の科学が作られ、リニア加速器で衝突させた素粒子のエネルギー測定値で、素粒子の科学が作られます。これらの科学はいずれも、人間がどう動くと物質世界はどうなるかという予測として作られています。

歴史上、人間の経験を慎重に整理することで正確な科学が作られてきました。科学が正確になった結果として、現代科学は驚異的な精度で物質世界の変化を予測できます。たしかに直感で見ると科学の精密さは驚異的ですが、それは私たち人間の身体が、もともと、それ(科学の精密さ)を可能とする程度に精密な予測能力を持っているからだといえます。

人間の身体は物質が作る複雑な空間の構造を(かなり精密に)推測し、物質が変化する場合の時間の推移を(かなり精密に)予測できます。また物質の間に働く力や、変形や振動や波動を(かなり精密に)感知できます。それらを記憶し、繰り返される法則として、言葉や図や数学で表現できます。人類が使う言語や図式や数学は(数学に典型的に見られるように)無限の階層構造を表現できますから、物質の空間的時間的構造をいくらでも精密に記述できます。

歴史も科学もこのような人類の身体能力の上に作られていることは明らかでしょう。歴史も科学も私たちの毎日の生活も、物質の上にできあがっていて、それらの物質は(拙稿の見解では)人間の身体の上に作られている。そうであれば、歴史、科学その他、私たちがこうであると思っているすべては、私たちの身体が作り出している。それ以外のものは何もない、といえます。

私がここにあると感じているような物質世界は、人間の身体を持つものならばだれもが同じようにこれがあると感じている。逆に、人間の身体を持たない動物、あるいはロボット、あるいは異星人がいたとしても、彼らにとっては、私がここにあると感じているような世界はない。また逆に言えば、このようにあるものだけが私の感じているこの物質世界であって、そうでない世界はありえない、といえます。私の感じているこの物質世界と違う世界が存在する、と言いたくても、そのような存在の意味は成り立ちません。

人間の身体を持たない動物、あるいはロボット、あるいは異星人が感じるような別の世界がある、ということはできない。人間が感じられない別の世界がある、という言い方は意味がありません(一九七四年 トマス・ネーゲルコウモリであるとはどういうことか既出 )。また、私たちの身体とは関係なく物質世界が存在する、という言い方も意味はありません。なぜならば、私が今ここにこの身体でこのように感じているものだけから成り立っている物事を、私たちは物質という言葉で語り合っているだけだからです。

物質で成り立っている世界の他に別の世界がある、と言っても、それは深く語れば語るほど、矛盾した理論になり、間違った哲学に行き着いてしまうだけです( 拙稿24章「世界の構造と起源」 )。私たちの身体はここに見えるような物質世界しか語り合うことはできないし、逆に物質とはそのような私たちが語り合えることだけから作られている、といえます。■

(37  物質の人間的基礎 end

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物質の人間的基礎(6)

2014-02-01 | xxx7物質の人間的基礎

人類においてはさらに(拙稿の見解では)、仲間との運動感覚の共鳴によって、物質の変化を感知しその存在感を共有します。人類は身振りや表情を使って、また言語を使って、仲間と物質の存在について語り合います。そうすることで(拙稿の見解では)私たち人類は、物質の存在を確定することができます。

 

そうであれば、私たちの身体はこのような身体機構が働くことで、そこに物質があるがごとく動いていきます。逆に、このように物質があるとしなければ動くことができません。そうであるから身体が動くと同時に、あるいは動いた直後に、(拙稿の見解では)私たちは、このようにそこに物質がある、世界が存在すると感じ取る。ここでさきのような拙稿本章の表現法を用いるとすれば、すべての物質はこのような仕組みで存在する、かくして世界は存在する、ということがいえる(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物 」)。

 

 

もちろん、物理学など科学の理論を使って説明すれば、身の回りの物質の有様は詳しく正確に分かります。物質が次にどう変化するかは科学理論で高精度に予測できます。変化が予測どおりであればそれらの物質は現実に存在している、と思えます。科学理論が予測するように変化する物質はたしかに存在している、といえます。

 

そういうことから、科学理論による自然法則を満たすように物質世界は存在している、と理解できます。しかし科学以前に物質の存在感はある。

 

身体で感じる存在感がまずあって、その上に科学理論は(拙稿の見解では)成りたっています(拙稿14章「それでも科学は存在するのか? 」)。つまり物質がこのように存在するように身体で感じられることから、その存在の有様を予測するための理論として(帰納的に)自然法則を記述したものが科学理論である、といえます。

 

 

 

 

それでは、私たちが身体で感じられる物質の存在感はどこから来るのでしょうか?直感では、単に物質が存在するからそれが存在すると感じられるのだ、と思えます。たしかに古来、人々の会話も物語も理論も、宗教も哲学も、単純にそういう直感を下敷きにして物事を語っています。

 

しかしそうでないという仮定を立てた場合どうか?

 

「物質は、私たちが身体を使って、あるいは言語を使って、それをどうにかしようとするとき以外、はっきりと存在するとはいえない」という仮定を立てた場合、どうなるか?この場合、私たちが身体で感じられる物質の存在感はどこから来るのでしょうか?

 

身体で感じる物質の存在感は(拙稿の見解では)、それを感じる直前に身体が無意識に動いているからそれをそう感じる。つまりその物質がある、と感じる。そうであるとすれば、私たちの身体がいつの間にかこう動いている場合に限り、身体がこう動くように物質世界はある、といえます。

 

 

 

 

 

 

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