哲学の科学

science of philosophy

人間は真実を知ることができるのか(12)

2013-09-14 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

拙稿のいうように、だれもが真実と思うのならばそれが真実である、と決めつけてしまえば、人間は(そのような意味での)真実を知ることができる、という答えに導かれざるを得ないでしょう。したがって拙稿の結論としては、人間は真実を知ることができる、と肯定的に言い切ってよい。しかし単純に、大声でこの結論だけを叫ぶことは遠慮します。なぜならば(拙稿本章でくどくどと述べたように)真実を知るということ自体が、私たち人間の身体が仲間の行動と共鳴する身体のつくりから来ているとすれば、真実を知ることはその身体の限界のうちでできることであって、限界を超えることはできない、という注釈が必要だからです。

その限界はどのようなものであるか?宇宙の果てが限界なのか?宇宙の始まりが限界なのか?電子顕微鏡の解像度が限界なのか?素粒子の加速エネルギーが限界なのか?生命の起源が限界なのか?人間の寿命が限界なのか?

それとも、生死、善悪、愛憎、幸不幸、自分の運命や人類の未来を知ることが限界なのか?私たちはそれを知ることができるのか? そういう疑問が出てきますね。しかし残念ながら、私たちがこの身体を持っている限り、その身体がつくる限界そのものを私たちが知ることはできません。

私たちの身体が仲間の行動と共鳴する部分については、私たちは真実を知ることができる。身体が共鳴しない部分については、私たちは真実を知ることができない。そこに限界があることもほとんど知ることはできない。直感で感じ取ることはできません。

私たちはいずれ遠くない将来、自分たちがほとんどすべての真実を知っていると思うようになるでしょうが、それはそういう限界のうちで知っていることでしかありません。

いずれにせよ、私たちは私たちの身体が(仲間の行動と)共鳴しない部分については何も知ることはできません。それらを知ることができないことも(直感としては)私たちは知ることができないでしょう。

35 人間は真実を知ることができるのか? end

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人間は真実を知ることができるのか(11)

2013-09-07 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

ガリレオの時代の多数決では、地球は回っていないということが真実。現代の多数決では、地球は回っているということが真実。そういうものが真実です。実際、ガリレオの時代の人々は身体でそう感じていたし、現代の私たちは身体でこう感じているのです。

そういうものが真実ということであるならば、人間は、当然、真実を知ることができる。多数派にとっては、すでに知っていることが真実であるからして、当然、真実を知っているわけです。そして少数派は、その数が減っていき、20%から10%、5%、2%と減っていって、ついには多数派に呑み込まれてしまう。そういうことになれば、多数派の真実が本当の真実になります。そのとき私たち全員にとって、その真実はもともと真実であった、と身体で感じられます。

昔は、地球が回っていると思わない人々がいた、という話は、それはそうだったろうなと思うけれども、それだからといって現代人の私たちが、もともとから地球は回っているのだ、と思うことには変わりがありません。それは真実であるからです。それは、つまり、私たち現代人の皆がそう思うからといえます。

グローバリゼーションが進むにつれ、生活のあらゆる面が、国境を越えて、均質化してきています。特に、科学や経済、あるいは工業、農業などの生産技術や軍事、情報、金融、医学など実務技術さらにそれらに伴ってエンターテインメントや社会習慣、社会常識、社会構造までも国境、民族を超えて均質化していきそうです。そうであるとすれば、世界的規模でますます多数派の知る真実というものの量は大きくなるでしょう。

科学が急速に真実の知識を蓄積しているように、科学ばかりでなく、いずれの人間活動においても、真実の知識は広く深くなっていきます。そうであれば、人間は時代が進むにつれ急速に真実の知識を積み重ねていき、そう遠くない将来、私たちの後輩は、あらゆる問題に関して真実を解明してしまうだろう、という気がします。

地球の表面積は有限であり、人類の数はいくら増加するとしてもやはり有限でしょうから、グローバリゼーションに見られるように、その人々がすべて均質的に同じ文化同じ文明に収束してくるとすれば、同じ問題に関しては同じような行動をとる仲間ばかりとなります。その数十億人、あるいは百数十億人が同じような行動をとることで真実は一つに収束してくる。皆が同じものを真実と思うようになる。現代文明の趨勢、グローバリゼーションはなぜ進むか、それはどうしても進むしかなさそうです。

そうであれば真実は加速度的に解明されていく。その結果、人間はだれもが、自分たちはあらゆることに関して真実を知ることができる、あるいはもう知っている、と思うようになると思われます。

さて人間は、本当に、真実を知ることができるのか? 

この設問に関しての答えが出てきたようです。

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人間は真実を知ることができるのか(10)

2013-08-31 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

私たちの直感では、真実が多数決で決まるものだという考えは嘘だ、不正だ、と思えると同時に不快な感じもします。真実への冒涜である、と言いたくなります。その気分は、真実が真実以外のものではない、真実は決めるものではなくて、もともと真実であるものが真実である、としか思えませんね。

その通りでして、私たちが真実という言葉を使うときは、真実はそれが真実であると決めるべきものではなくて、それがもともと真実であると感じられるから真実だと言うべきものです。

しかし、私たちがそれをなぜもともと真実であると感じられるのか、を追うと、結局、拙稿の見解のように、仲間と一緒にそれが真実として行動できるから、つまりそのように身体が動いていくから、という直感に行きつく。

一目見て、それがもともと真実であるに違いない、と感じられる。あるいは、理論的に真実を積み重ねて成り立っているから結論として真実である、と分かる。あるいは計算してみると真実であると分かる。あるいは何度も実験してみていつでも同じ結果が出るからそれは真実である、と分かる。長い人生でいつでもそれが真実であったから、今度もそれが真実に違いないと確信できる。あるいは、だれに聞いてもそれが真実である、と皆が言っているからそれは真実だ。あるいは、信頼できる先生または書物、新聞、テレビがそれは真実であるというからそれは真実である。などなどのことから私たちは真実が真実であることを知ります。

最後は、自分でそれがたしかに真実だと感じられる、ということで納得できる。つまり、私の身体がそれを直感で真実として受け取っている、ということであり、そしてさらに重要なことは、仲間がほとんど皆、身体の直感でそれを真実として受け取っているということがはっきり感じられる、ということが重要です。

それは形の上で多数決をとることに近い。過半数の多数決というよりも、四分の三、あるいは五分の四の多数決、あるいは、ほとんど全員という場合はどうでしょうか?実際、百分の九十八の多数が真実だと思っていると感じられる場合、それが真実ではないと判断することは、だれにとってもなかなかむずかしいと思われます。

そうであるけれども、私たちは真実が多数決で決まると思うと不快を感じる。そういうことでしょう。

頭ではそれが真実だと思うが、身体はそれが真実だとは思えない。というような言い方があります。頭では、自民党が真実を言っていると思うが、身体では民主党が真実を言っている、と感じる。あるいは逆。というような言い方はよく聞きますね。

人間は頭と身体の感じるところが一致するとは限らない。むしろ、たいていは一致しない。認知科学で心的機能のモジュラー構造 といいます。左脳と右脳は違う真実を感じている、とか、「大丈夫」と言いながら涙が出ている、とか、口で言っていることと目の表情が違う、とかよくいわれます。

私たちは、頭では真実は多数決ではない、と思いながら、身体は多数決で認知される物事を真実だと感じてしまう。そういう身体になっているのでしょう。それで、たいていはうまく生きていかれます。過去の人類は、そうして生き残り、そう感じる身体を持つ子孫を増やしたのでしょう。

そうであれば、真実は多数決できまる、として、結果は間違うことはない。そう言い切るのは不愉快であるけれども、実際的である。皆が真実と思っていることは真実なのだろう。それを真実と思っておこう、として私たちは実生活を送ることができます。

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人間は真実を知ることができるのか(9)

2013-08-24 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

Xを真実だと思う人がXの信者、あるいはX主義者、あるいはX派などと呼ばれ、差別化されます。これは良い面もあり悪い面もある人間社会の大きな特徴です。現実社会では、しばしば、これが深刻な問題とされています。

人間は仲間と行動するためにそれに必要な真実を知ることができる。一緒に行動する仲間にとって真実であるものが、一緒に行動しない他の集団においては真実ではない、ということが起こります。仲間との行動に必要な真実は、それと違う行動をするためには必要ではなくむしろ逆の真実が必要である場合があり得るからです。

ある集団にとっての真実が他の集団にとっての真実と違う場合、両方の集団の考えを聞いている人にとってはどちらが本当の真実と思えるのでしょうか?人数が大きい集団において真実である物事は、人数が少ない集団における真実よりも、より真実である、といえるでしょうか?そう単純にはいかないようです。

多数決で真実が決まるのはおかしい、と思えますね。だれもがそう思うでしょう。そうであるから、戦争が起きます。多数派に真実を否定された少数派は、場合によってはテロやレジスタンスに訴えるでしょう。それは当然のことです。自分たちの真実が本当の真実であるのに、彼らは偽の真実を主張して我々の権利を侵している。そうであれば当然、報復しなければならないでしょう。

真実は数で決まるのではなく事実で決まるはずだ、という正論はもっともです。そうでなければ、地動説は多数決で否定されたままになったはずです。しかし実際は、地動説は徐々に多くの人に認められてきて、現代では圧倒的に多数の人々にとっての真実となっています。

ガリレオ が、それでも地球は回っている、と言ったから地動説が真実になったのではなくて、ガリレオ以外の人々がそう思うことによって地球は回る、という真実が解明されてきます。地球は回っていると仲間が思っていると思う人々の間で、地動説は真実になっていったのです。仲間と行動するために地動説を使うことが生活に有利であればそれは真実になっていきます。逆に言えば、そういうものが仲間にとって真実である場合、それはまさに真実なのです。結果として、だれにとっても生活に便利である物事が真実とされ、多数決をとってもそれが真実と認められるようになります。

真実が多数決で決まるものではない、という考えは直感で分ります。多数決は集団の意思を決めるもので、ある集団がそれを真実と決めたからといってそれが真実であるというのはおかしい。多数派の傲慢というか、それ以前にその集団にとって自己欺瞞でもあります。

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人間は真実を知ることができるのか(8)

2013-08-17 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

対極的に、自分だけ知ればよいという観点からはもっとも遠い地点にある真実は、科学でしょう。科学の世界では、人間であればだれもが納得せざるを得ない自然法則の真実を、はっきりと知ることができます。

たとえば、地球は丸い。船や飛行機でアメリカやヨーロッパへ渡るためには、旅行会社の人、飛行機のパイロット、あるいは旅行仲間など、関係者全員が、地球は丸いことを知っていて行動しなければ実行できないでしょう。地球は丸い、という真実をだれもが知っていなければなりません。それは現代人ならば、だれもが船や飛行機で大陸間を移動する方法があることを知っているということです。そうであれば、地球は丸い、という真実はだれもが知ることができるはずです。

科学の法則は、このように人間であればだれもが、それが真実であることを知ることができます。逆に言えば、そういう真実が科学です。

科学でないものの中には、仲間のだれにでも知ることができるというものではないものも多くあります。

たとえば、個人の内面。個人の感情とか感覚、苦痛や嗜好などは他人には理解できない場合が多い。嫌いなある歌手の演歌を聞かせられるのが苦痛である、あるいは好きな作曲家のオペラを聞くと恍惚となる。そういう個人的な感覚を真実である、というには問題があるでしょう。

個人の微妙な感情などを、仮にそれが真実である、と強弁したところで、人々の共感を得ることはできません。真実であると主張しても、その主張は意味があいまいになってしまいます。それを訴える本人にとっては切実な感覚であると思えますが、そういうものに、真実という言葉があてはまるとはいえないでしょう。

自分個人の内面と万人に通じる科学との間に位置するものが、いろいろな宗教、信条、イデオロギー、政治思想、民俗伝承、迷信、マスコミ、世論、などです。これらに関しては、かなり大きな仲間集団〈団体、国家、宗派など〉で真実である物事が、他の大きな集団では否定される、ということが起こる。あるいは一部の学者は真実と認めるけれども、多数の学者は否定する、などの事態が頻繁に起こります。

地球は丸くない、平らな円盤である、と主張する団体があります。地球平面協会 と呼ばれる。その集団の中では、地球は丸くない。それが真実です。

地球は丸くないということが真実である、ということはどういうことでしょうか?

地球は、本当は丸いのにこの集団の中では丸くない、ということではなくて、地球は真実として本当に丸くないのです。真実とはそういうものです。

Xであるということが真実であって同時にXではないということが真実であるということはあり得ない。これはアリストテレス以来、論理学の初歩で教えられるいわゆる無矛盾律 ですね。しかし、拙稿本章でいう真実という言葉の使い方によれば、この論理学は正確ではありません。

Xであることを真実だと思う人々の中ではXであるということが真実であるが、しかし同時に、Xではないということが真実であると思う人々の中ではXではないということが真実である。これが拙稿本章でいうところの真実の法則でしょう。

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人間は真実を知ることができるのか(7)

2013-08-10 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

さて、この見解に従うとすれば、拙稿本章のテーマである「人間は真実を知ることができるのか?」という質問に関しては、「その物事を真実として受け入れて仲間と行動することが生存に有利である場合、人間はその真実を知ることができる」と答えることができます。逆に言えば、そうでない場合は、人間は真実を知ることができない、ということになります。

たとえば、火星人がいるかどうか、という真実を、人間は知ることができるか? 火星人がいるならば、テレビに映して視聴率を稼ぐことができる。映すだけではなく、火星人にインタビューする画像が欲しいところです。キャスターを含めたテレビ撮影班が火星に行こうと計画するでしょう。

こうなると、テレビ業界(の一部の人々)の本格的な仕事になる。仕事というのは生計のためにする行動です。つまり本人および家族の生活がかかってくる。仲間と一緒に生活のために行動する、といえる。こういう場合、火星人に関しては拙稿で設定した真実であるための条件は満たされていますから、拙稿の見解では、火星人はいるかいないか、という真実を私たちは知ることができる、といえます。今すぐ知ることはできないにしても、人類は、いつか遠くない将来に、その真実を知ることができるはずです。

またたとえば、原子炉は安全なのか危険なのか、癌は征圧できるのかできないのか、中国経済は世界一になれるのかなれないのか、民主主義は最終の政治形態なのか?これらの真実を人間は知ることができるのか? もし、私たちが仲間と行動するためにその真実を知りたいのならば、その真実は知ることができる。逆に、ただ目的もなく自分が知るためだけで行動が伴わないのならば、その真実は知ることができないでしょう。

自分が知るためだけに知りたい真実の例を挙げてみましょう。来月、私は第一志望校に合格するのか?来週、私の買った宝くじは当たるのか?明日、バーゲン会場に行けば格安で気に入ったドレスが買えるのか?これらの真実を私は今日中に知ることができるのか?たぶん、だめでしょう。結果が出るまでは知ることはできないと思われます。なぜならば、ただ自分が知るためだけで仲間と一緒の行動が伴わないことであるからです。 

もし、私が仲間と行動するためにその真実を知りたいのならば、その真実は知ることができるかもしれません。逆に、ただ自分が知るためだけで仲間と一緒の行動が伴わないのならば、その真実は知ることができないでしょう。

私たちは自分自身に関して、なかなか真実を知ることができない。それは自分だけに関係するそういう物事を知ることが、仲間と一緒に行動することにつながらないからです。自分の内面のこと、むしろ自分ひとりだけで知りたくて他人には知ってほしくないこと、そういうことはまず真実を知ることはできません。

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人間は真実を知ることができるのか(6)

2013-08-03 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

科学者がある癌の遺伝子を発見したと学会誌に発表したとき、その科学者はその遺伝子の機能を真実だと思っている、ということです。

逆に、その情報を知っても、何もしないとか、だれにも言わないし伝えない、という場合は、その人はそれを真実と思ってはいない、ということになります。別に嘘だと思ってはいないにしても、真実として知っている、ということにならないということです。

拙稿のこの仮説にしたがって真実というものを再定義することができます。つまりある物事を人が真実だと思うということは、その物事を真実として受け入れて行動することが生存に有利であるということである。

この定義を使うとすれば、私たちがある物事を、単に知識として知っている、あるいは教養として知っている、あるいは本に書いている事として知っている、あるいはある人たちがそう言っているということを知っている、というような知り方では、真実として知っている、とはいえない。

たとえば小学校の理科で「地球は丸い」と習いますが、小学生は(たとえば地球を一周するとかの)行動の上でその知識を使うことができません。小学生にとっては、テストで点を取るとか、大人との会話で言ってみて、「おりこうね」と言われることがその知識の利用法でしょう。それでは科学として真実を知っているとはいえないでしょうね。

やはり真実というものは、自分だけで個人的に利用するものではなくて、仲間と組んで行動を起こすときに使える知識でなくてはならないようです。仲間のだれにも通じる真実が、まさに真実である、といえるでしょう。

先の仮説をカッコにくくってみましょう。

仮説「ある物事を人が真実だと思うときは、その物事を真実として受け入れて、仲間とともに行動することが生存に有利である場合であり、その場合に限る」

この仮説が、だれにでも当てはまるとすれば、人間にとって真実とは、そのようなものだ、ということです。

もしそうであるならば、人間は仲間と行動する場合に生存に有利になるような物事を真実と思い込むものである、といえます。

あらためてQ&Aの形式に書いてみましょう。

Q なぜ私たちは真実を知ろうとするのか?

A それは、(意識しないとしても)仲間とともに生存に有利な行動を実行するためである。

私たち人間は、仲間と通じ合い、語り合って、一緒に行動する。そのために、私たちは真実を知りたいのです。そうであれば、ある物事を人が真実だと思うときは、その物事を真実として受け入れて仲間と行動することが生存に有利である場合である、といえます。拙稿としては、まずは、この見解を採用して、先へ進むこととしましょう。

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人間は真実を知ることができるのか(5)

2013-07-27 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

それはその通りでしょう。そして私たちの身体がそういう欲求を持つようになったのは、人類が誕生したころ、それが生活の上で必要であったから、といえます。初期の現生人類(ホモサピエンス)も、今の私たちが知りたいと感じるような諸々の物事、あるいは大人の私たちは知りたいと思わないけれども幼児や幼稚園児が知りたいと思っているらしい物事(サンタクロースや怪獣etc.)、などに好奇心あるいは探究心を持つ必要があった。あるいは正確に言えば、人類は初期のころからそのような好奇心ないし探究心を備えた身体を持つことが生存に有利であった。そういう進化の歴史があった、といえます。

動物、植物、鉱物、気象、天文など、自然のありさまに好奇心を持つことは、自然の中での狩猟採集の生活に必要だったでしょう。人間の行動、心理に興味を持つことは緊密に組織された社会の発展に必要だったでしょう。道具、機械、施設設備など人工物に興味を持つことは、技術・産業社会の発展を支える役割を果たしたと思われます。

生活技術や生産技術、軍事技術、あるいは言語技術、芸術に興味を持つ。ゲームやスポーツに興味を持つ。書籍、本、学問、科学、社会、政治、経済に興味を持つ。これらに関する真実、現実、正しい在り方、を知りたい、という気持ちは人類共通であり、数十万年前から人類の発展の土台になっていたと考えられます。

真実を知ったうえで、自分がどう動けばどうなるかを予測する。そして今どう行動すべきかを知る。そして実行する。真実を知りたいという欲求は、これからの行動の結果を予測し、より良い行動を計画するために必要です。逆に言えば、人は行動を計画するために、真実を求める、という構造が見えてきます。

人は真実を知ることでより良い行動、つまり生存に有利な行動を計画し実行する。この場合、人にとっては、生存に有利な行動を導く予測をもたらす物事が真実であるといえます。

ここで大胆な仮説を立ててみましょう。

ある物事を人が真実だと思うときは、その物事を真実として受け入れて行動することが生存に有利である場合であり、その場合に限る、と仮定する。

たとえば、天気予報を聞いて、傘を持っていこうとするとき、その人は天気予報を真実だと思っている、ということになります。傘は多少重いですが雨に濡れないほうがコストは少ない、つまり生存に有利です。生存に有利である行動を導く物事は真実である、となります。逆に、天気予報で「午後は雨になる」と言っているのを聞いても傘を持っていかない場合、その人は天気予報を真実だと思っていない、ということです。

またたとえば、ある女優の結婚生活が破綻したという記事を週刊誌で読んで、友人にその噂を「本当だよ」と伝えたとき、その人はそのゴシップを真実だと思っている。同じ記事を読んでも、友人にその噂を本当だと伝えない場合、その人はそのゴシップを真実だとは思っていない、ということです。

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人間は真実を知ることができるのか(4)

2013-07-20 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

私たち現代人はなぜこうも多くの真実を、年々、次々と解明して、しかもそれを整然と蓄積し保管していくのでしょうか? それを仕事としている人が多くいるからでしょう。それは、つまりその成果を必要とする人々が非常に多くいるからでしょう。これは現代世界の特徴です。

人間以外の動物、あるいは過去の未開人類たちと、現代の人類とは、この点で大きく違います。

たぶんこの違いは、人間以外の動物、あるいは過去の未開人類たちが必要とする情報と、現代人が必要とする情報との違いからくるものでしょう。

私たち現代人は、明日必要な食料や生活必需品は、たいてい、すでに確保してあって、明後日以降の数か月あるいは数年、数十年にわたって消費するべき財物を獲得するために現在努力を続けています。人間以外の動物や過去の未開人類たちはこうではありません。今日現在の空腹を満たすためだけにすべての努力を集中します。

現代人だけが遠い未来を予測してそれに備えて熱心に努力する。明日よりずっと先の状況を予測するためには、できるだけ多くの正確な真実を知る必要がある。この点に、私たち現代の人間が、特に多くの真実を知り得る事の理由がありそうです。

その理由は何か?

まず、現代人の身体を調べてみましょう。現代人の身体は過去数十万年、現生人類(ホモサピエンス)として大きくは変化していません。つまり現代人が必要としている真実や情報は、現代人の身体のつくりから来ているだけではなく、現代という時代の文化と歴史からきているということでしょう。

このことは、現代人だけが多くの真実を知ることができる身体を持っているのではなくて、少なくとも現生人類(ホモサピエンス)であれば、過去の未開人であっても、多くの真実を知り得る潜在的な能力を持っていたことになります。

それは未開人であっても、過去のその時代には、たぶん現代人とは別の理由によって、そのような(真実を知る)能力が必要であったからと考えられます。つまり現生人類(ホモサピエンス)が誕生した数十万年前に、すでにその能力は必要とされていた、といえます。すでにそのころ、人類はそういう身体に進化していました。これは、重要な点です。

私たち現代人だけでなく過去の人類を含めて、人間は真実を知ることができる。それは必要だから、といえます。ではなぜ、人間は真実を知る必要があるのか?

そもそもなぜ人間は真実を知ろうとするのか?

好奇心?

子供は好奇心から親にいろいろな質問をします。小学校時代は、好奇心から遊びを覚え、ゲームや流行歌やタレントの芸を覚え、まねする。一部の子は好奇心から勉強を始めて、成績のよい子になったりします。大人も好奇心からテレビや新聞、インターネットからタレントのゴシップ記事を見て仲間内の世間話に使える情報を知る。

探究心?

科学者は自然への探究心から研究を進めます。ミステリーファンは探究心から犯人を知りたがる。

つまり人間は、好奇心あるいは探究心など、生まれながらにして真実を知りたいという欲求を持っている、といえるようです。

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人間は真実を知ることができるのか(3)

2013-07-13 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

そうではありますが、人類がすさまじいスピードで知識を拡大し蓄積していることは否定できませんから、私たちは日々、より多くの真実を知り得るようになっている、といわざるを得ないでしょう。

現代人は、日々、時々、あるいは秒々、より多くの真実を知り得るようになっています。私たちは祖父の時代よりも、はるかに多くの真実を知っている。それは確かです。私たちの孫は、私たちよりもはるかに、とてつもなく多くの、真実を知ることになるでしょう。そうであるとすれば、人類はいつの日にか、この世のすべての真実を知ってしまうのではないでしょうか?

ここにも疑問があります。真実というものが地球の面積のように有限で、毎日一平方メートルずつ解明していくと、いつかは全地球が解明されてしまう、といったたぐいの話なのでしょうか? 

たとえば、二十三世紀あたりには応用を除いた自然探究としての植物学というものは終わってしまっているかもしれません。すべての植物種のDNA、タンパク質、細胞、発生過程、生体構造、分布、生態などあらゆるデータが記述されてしまうと、植物研究の対象がなくなってしまうことになります。植物について知るべきことは全部調べ終わってしまった、という状態になるはずです。

もちろん植物学者はその職業特権を守るためにむずかしい理由を言って、研究室の維持に努めるでしょう。高分子光化学機構論とか、現代の私たちには想像できないような高尚な研究領域に鞍替えして研究組織は維持されて行くだろうと推測できます。

そうであるとしても、明日の世界では今日よりもはるかに多くの真実が解明されていて、真実を記述するデータがインターネットの世界、あるいは国家のデータセンターに蓄積されている。そこに保存されている科学その他の知識や技術の蓄積を使いこなせば、今日よりもはるかに広い領域の出来事をはるかに正確に予測できるようになっているはずです。

今日、精密な予測が困難な気象や地球環境、経済動向、世界中の地域住民の生活の変遷など、複雑に絡み合っている自然あるいは社会のシステム全体も、明日の未来科学あるいは未来ビッグデータを使えば、明日から明後日の世界に向かってどう変動していくのかが、精密に予測できるようになるであろうと思われます。

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