goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学の科学

science of philosophy

身体の内側を語る(8)

2014-11-08 | xxxx1身体の内側を語る

人類は仲間と運動共鳴する神経機構を持っている。その機構により、人間は自分の身体を客観的に感じ取ります。そう感じ取ることによって、自分の身体の内側に入っている自分を言語で語ることができる。その仕組みの上に人間の社会は築かれています。そうであるとすれば、社会の中で生きるしかない人類は、逆に必ず、自分の内側に自分があるとしてまず自分に語ることでしか生きていかれない身体になっているはずです。

 

私たちは、自分の内側に自分があり、自分の外側に世界がある、と思っています。それで毎日の生活はうまくいっている。

しかし先に述べたように、残念ながら、言葉を正確に使おうとすると自分の内側に自分がある、とはっきり言うことはできません。残念ながらそうであるので、このことは、あまりしっかり考えてはいけない。しっかり考えてしまうと、拙稿のような、直感にはそぐわない話になってしまいます。■

 

(41 身体の内側を語る  end)

 

 

 

Banner_01

コメント

身体の内側を語る(7)

2014-11-01 | xxxx1身体の内側を語る

幸い、私は私の身体の内側を見ることができない。真暗闇ですから。私の身体のどこがどう変化して私がこうして言葉を語っているのか?まったく分かりません。自覚できません。そうであるから、私の身体の内側に私の内側があって、私がこうして身体を使って言葉を語っているのだ、としてもおかしいとは感じないですむ。

おかしさを感じないですむけれども、おかしくない根拠はない。私の身体の内側に私の内側があるという証拠はまったくありません。今世紀の終わりころ、あるいは来世紀に入って、科学の発展により脳の言語機構は詳細に解明されるでしょう。神経細胞の連結状態は完全に記述できるようになる。それを知れば知るほど、私の内側と思えるものは見つからない、と思われます。私の身体の内部のどこにも、私自身が見つからないことがはっきりするでしょう。

それにもかかわらず、私は私の身体が私だとしか思えないでしょう。しかし、その未来の科学は人間そっくりのスーパーリアルロボットをも実現しているはずです。そのロボットはバーチャルスーパーリアリティを使って遠隔操作できる。操縦している私の目にはロボットのカメラ画像が入ってくる。私の筋肉にはロボットの圧力センサーの測定する抗力が感じられる。ロボットが歩き回れば私自身が歩き回っていると感じられます。

そのロボットにつながれたまま、私は数日を過ごすとしましょう。そういう実験では、私はそのロボットの身体が私の身体だとしか感じられなくなるでしょう。

「私とはこのロボットのことだ」と私は語るに違いありません。人間そっくりのスーパーリアルロボットですから、だれもがロボットの身体を見ながら、それが私として会話してくれます。そのとき、こちらにある私の本当の身体は、いったい何なのか?

 

私たちは、自分が自由に操縦できるメカニズムを自分だと思う。そうであれば、科学がそれほど発展していない現在まで、人間が自由に操縦できる唯一のメカニズムである自分の身体を自分だと思うのは当然でしょう。

そして重要なことは、そうすることによって、私たちは互いに言葉を話すことができる。私は、私は、と言いながら語り合うことができます。これほど便利な言語システムを私たち人類が捨て去るはずはないでしょう。便利であるから、私たちは当然それを使い、それがそうであることが当然であることにする。そうして、自分が自由に操縦できるメカニズムを自分だと思う。そうであると思い込むように私たちの身体は作られてきました。

 

言語システムを使う限り、人間は、自分の身体の内側に自分が入っているとして自分を語り、実際そう思い続ける。生きるためにそれが必要だからです。

 

Banner_01

 

コメント

身体の内側を語る(6)

2014-10-25 | xxxx1身体の内側を語る

 

私の身体の内部は真暗闇です。真っ暗な洞窟の中には何者かが潜んでいるような気がする。私たち現代人は自分たちの身体の内部にそれぞれの自分というものが潜んでいる、と思っています。しかし私たちは、何を根拠にしてそう思うのか?実は根拠などはない。私たち皆がそう思うことで互いにうまく語り合うことができるから、という生活の必要性から私たちはそう思うことにしているだけでしょう。

 

人の内側は、あるかのようである必要はあるが、ある必要はない。私の身体の内側に私があるかのようであるが、実はそのようなものはありません。それは、あるかのようであればよいのであって、ある必要はない。ある必要はないから、私たちは眼でそれを見る必要はありません。ただ、あると思っていればよい。それ以上のことはつきつめようと思わない方がよい。

脳科学の発展は、今世紀の末あるいは来世紀に入って、いつの日にか、言語をつくりだす脳のメカニズムを解明するでしょう。しかし、私の内側が言葉を作りだすとき、それを脳の働きと自覚することはできません。私の舌がそのように動いて言葉をしゃべっているが、それが私の脳の働きなのか、神様が操っているのか、悪魔が私の舌を運転しているのか、私には自覚できない。つまり、そういう私の脳のメカニズムとか身体の運動とかは、結局は私の内側とは関係がない、と言うしかないでしょう。

 

そうであるならば、私の内側は私の身体の内側にある、とはっきりとは言えないようです。それではそれはどこにあるのか?そもそも私の内側というものはどこかにあるというものなのか?深淵な疑問です。

私たち人間はお互いに、「私の内側」という言い方をします。それぞれの人が言う「私の内側」というものはどこにあると私たちは思っているのか?

私たちは、それがそれぞれの人間の身体の内側にあるかのごとく語り合う。お互いの身体の脳の中にそれがあると思いながら互いに語り合っています。しかし、その根拠はまったくない。それを否定する証拠ばかりあります。

脳を調べれば調べるほど、神経細胞の活動を分析すればするほど、身体を観察すれば観察するほど、否定される証拠が明らかになるばかりです(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。

科学は私たちの常識を否定するばかりですが、そのことを私たちは知りたくない。科学者もその矛盾を自覚していません。しかしそのことを認めれば、私たちはお互いがお互いの身体の中にあることを信じられなくなる。そうなれば、互いに話をすることさえできなくなってしまいます。あらゆる言語は崩壊する。それは困る。

 

 

Banner_01

 

コメント

身体の内側を語る(5)

2014-10-18 | xxxx1身体の内側を語る

テレパシーで他人の内心を感じ取ることはだれもできませんから、外見で判断するしかないでしょう。たとえば、動作、表情や発声などです。何かを見るときの目つき、眼球の動きなどが重要です。目は口ほどに物を言い、と昔の人がいったとおりです。ただしこの場合、他人が私をどう予測するかを推測しているのは私自身ですから、私の感覚データが使われます。

もちろん鏡に映った私の姿、あるいはカメラで撮影した私の姿などが使えればそれを他人の目に見える私自身と推測できます。しかし多くの場合、鏡やカメラなどを使わずに私は私の姿をかなり正確に推測できる。それは直接私の感覚が感じるデータを使います。

視覚が捉える身体の周りの光景、室内であれば床、壁や天井、室外であれば地平線、地面、立ち木、道路、などが示す上下方向、身体の動きに伴うそれら光景の回転移動、身体の動きへの抵抗、などから自分の姿と動きを推定できます。また私の触覚、温度感覚とかなど体性感覚あるいは筋肉、内蔵、血管の緊張感覚とか発汗など外分泌、呼吸、心拍、震えなど自分の身体の変化を示す感覚情報から自分の外見、表情や姿勢を想像できます。これに鏡やカメラの情報を追加できれば推測の精度は上がるでしょう。どちらかといえば、直接の感覚から想像した自分の姿の方がカメラで撮った自分よりも正確に思えます。

自分がそう思っているほど他人はあなたのことを分かっているわけではない、とよく賢人が書いていますが、それはこういうことなのでしょう。ただし、自分が自分のことをよく分かっているといっても、他人が分かることよりも少しだけ詳しい、情報量が多い、というくらいのものです。私を他人が観察するときは眼や耳や鼻からの情報ぐらいですが、私が私を観察するときはそのほかに体性感覚など体内の感覚も使えます。私を観察する場合、他人よりも私のほうが感覚情報は多い、といえます。これは情報の質の違いではなく量の違いですね。

 

視覚や聴覚を主とするデータを使って他人は私の内部状態を予測する。体性感覚など内部感覚を主として使うことで私は私の内部状態を推測する。私はそしてそれを他人が私の内部状態を予測した像として感じ取る。その二つは似たものとなるでしょう。この二つが似たものとなるように人間の感性は、幼児のころから、毎日練習を続けているからです。鏡を見なくても私は私がどんな表情をしているか分かる。眼で見ている他人より正確に分かっている、と思えます。そして私たちは自分だけが自分の内部をよく知っていると思い込む。

その違いはしかし、情報の量的な違いであって質的な違いではないでしょう。他人は眼で私の顔を見て私の感情を推測する。私は筋肉や関節の感覚で自分の表情を推定しながら自分の感情を実感する。どちらかが本物で他方はうそなのか?

そんなことはないでしょう。どちらか一方だけが本物でもう一つはうそ、ということではないはずです。どちらも推定に過ぎない。推定結果のイメージには互換性はある。実際、互換性がなければ他人の観察は共感できなくなってしまいます。

私たちは他人を観察してその内側の感情や心情を推定する。それと質的には同様の方法で、私は私自身の身体を観察しその内側の感情や心情を推定する。そしてそれを自分だと思っている、ということです(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。

 

要するに、言い切ってしまえば(拙稿の見解によれば)、私たち人間が自分だけは自分の内側を語ることができると思っていることは間違いである。だれでも、他人が語ることよりも少しだけ詳しく自分の内側について語ることはできますが、少しだけ詳しいというだけです。結局は、他人が私の内側を知ることができないのと同じくらい私は私の内側を知ることはできない。

私たち人間は仲間の共感によって現実を感じ取っている(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」)。私は私自身の身体についても仲間と共有する現実の一部分としてそれを感じ取ります。そうであれば、私たちは、自分の身体を他人が見ることと質的には同じようにしか感じ取ることはできません。

 

他人が私の身体の内部までは見通せないのと同じように、私も私の身体の内部を見通すことはできない。私たちはだれも、自分の身体の内部状態を知ることはできない。そうであれば、自分の内側、と私たちが思っているところの状態も私たち人間は、知ることができない。つまり私たちが口癖のように言い合っている「本当の自分を知っているのは自分だけだ」という思い込みもまた間違いである、といえます。

それはそういうもの(本当の自分)があるにもかかわらず私たちが知ることができないということでさえありません。自分の身体の内側、あるいは自分の内側、あるいは本当の自分、そういうものは私たちが感じられるこの世界にはない。どこか他のところにあるのではありません。どこにもない、と言うしかないでしょう。

自分だけが感じることができる自分の内側。そういうものがあるかのように私たちはだれもが、当たり前に、感じる。そう感じることで私たちはこの世界でじょうずに生きています。実際、人と人とが通じ合い語り合うためには、それしかないでしょう。

それにこういうものがあると感じることは私たちの身体になじんでいますから楽で便利です。しかし、楽であり便利であるからといってそれらがこの世界の中にあることにはならない。存在という語を使うことはできない。自分の内側というものは、存在などしていない、というしかありません。存在するのではないそれを存在することにしておかなければ私たちは互いに語り合うことができない、というだけのことです。

このことを深くつきつめてはいけません。つきつめなければ、私たちは、うまく語り合っていられる。しかしつきつめようとすればするほど、おかしな話が出てくる。ないものをあると言い続ければ、言葉を使うことの矛盾に陥るしかない。私たち人間どうしは語り合うことができなくなります。言語で語ることができる限界を超えることはできません。

言語の限界を超えて、語り合えないことを無理に語り合おうとすれば誤謬の罠に陥る。哲学はそうして間違っていき、宗教もまた言葉で語ろうとすることによって混乱していきます。

 

Banner_01

コメント

身体の内側を語る(4)

2014-10-04 | xxxx1身体の内側を語る

 

 

 

私たち人間は(拙稿の見解では)互いに人と語り合うために言葉を使う。互いに人と共感し動作を協調させるために物事を感じ取ります。身体の外見についても身体の内部状態についても仲間と運動を共鳴させることで、そのありようを理解します。そうであるとすれば、自分自身の身体の内部についても、仲間がそれをどう予測してこれからの動作を行えば良いのかに関わるように私自身が分かる。逆に言えば、そのように分かるものが私自身の内部である、といえます。

 

たとえば、私の仲間が「こいつは空腹だから食事を食べさせる必要があるな」と思うとき、私は空腹を感じる。仲間が「こいつは空腹だから食事を食べさせる必要があるな」と思うことを感じ取ることが、自分が空腹であると感じるということになっています。つまり仲間がそう思うであろうということが、私が空腹であるという感覚のもとになっています。

 

またたとえば、仲間が「こいつは疲労困憊だから休息させる必要があるな」と思うとき、私は疲れたと感じる。仲間がそう思うであろうということが、私が疲れたという感覚のもとになっています。

 

またたとえば、仲間が「こいつは不幸だから慰めてやる必要があるな」と思うとき、私は不幸だと感じる。仲間がそう思うであろうということが、私が不幸であるという感覚のもとになっている。

 

またたとえば、仲間が「こいつはすぐしなければならない仕事がたくさんあって、ほかのことを考えているひまなんかないから話しかけないようにする必要があるな」と思うとき、私は忙しいと感じる。仲間がそう思うであろうということが、私が多忙であるという感覚のもとになっている。

 

このように(拙稿の見解では)私たちが自分自身の身体の内部状態について感じることは、仲間が(私の身体の内部状態について)こういう状態であろうと思うであろうから私はそういう状態であるのだと認識する、といえます。つまり(拙稿の見解では)、私たち人間は、自身の状態を認知するのにそれを観察する他人の認知を推測するという回り道をたどって認識する。

 

さてそうであるとして、仲間が私の身体の何をどう観察することで内部状態を予測することになるのでしょうか?人間が他人の身体の内部状態を予測する場合、どういう方法でするのでしょうか?

 

Banner_01

コメント

身体の内側を語る(3)

2014-09-28 | xxxx1身体の内側を語る

 

私の内側というのは心の状態だ、と言いたい。しかし心はどこにあるのか? 現代人は、心は脳にある、と言いますが、昔の人は、心は心臓にある、と思っていました。だから心の臓といい、ハートという。あるいは古代人は、内的な感情や思いは神様が吹き込んでいる、と思いました。あるいは、空気の影響であるとか、気のせいである、とか考えていたようです。

 

私の心は雲の中にある、などと唱えれば、クラウドコンピューターシステムのようですね。実際、私の心は雲の上のUFOの中に置かれていてそこから電波でこの脳を遠隔操縦しているのだ、という奇妙な世界観を唱えている人もいます。ばかげていますね。

 

閑話休題、クラウドシステムはさておき、ふつう人間は自分の内的経験は脳など身体内部器官の働きだろうと感じているでしょう。しかしその根拠を直感で自覚することはできない。拙稿本章の興味はここにある。

 

私の内側は暗黒大陸のようである。いや、暗黒が存在するのかどうかも分からない。もしかしたら、何もない虚無なのではないだろうか?

 

 

 

私は、私の頭皮の下に、頭蓋骨の内部に、私の感覚、感情、私の思い、そして私の経験と知識が詰め込まれていると思っている。しかしそれは間違いであるかもしれない。私の頭皮と頭蓋骨の中には脳があり、血管がある。それらは細胞でできた単なる物質でしかない。蛋白質分子の結合組織です。そこにあるものは、そこ以外の場所のどこにでもあるような原子分子からなる単なる物質でしかない。私の感覚、感情、私の思い、そして私の経験と知識は単に物質ではないだろう。物質ではないとすれば、それらは私の身体の内側にはない。そうであるとすれば、私の皮膚の内側、身体の内側は、私自身には何も感じられないことから、私にとって虚無でしかありません。

 

 

 

私の皮膚の下につまっているものはダークマターである。暗黒の虚無である。他人の身体の内部ならば私にはよくわかる。筋肉や血管や内蔵や神経がつまっている。それらはタンパク質の分子が規則正しく結合したものです。それらの分子は水素や炭素や酸素や窒素などそこら中にあるありふれた原子が組み合わされたものです。他人から見れば、私の身体の内部もまったく同じようなものであることが分かるでしょう。

 

しかし私自身から見れば私の身体の内部は見えない。想像できるだけです。感覚では感知できない。つねったりすると痛いと感じるけれども、どこがどうなって痛いのかもさっぱり分からない。MRIで撮影すれば器官の断面のようなものが見えるけれども、他人の身体のMRIと同じようなものにしか見えない。直感でこれが私の身体だ、と感じることはできません。

 

このように私たちは自分の身体の内部はよく分かりません。それなのに私たちは自分の身体の内部をよく分かっていると思っています。特に、自分の気持ちは自分が一番よく知っていると思っている(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。それはなぜなのか?

 

Banner_01

コメント

身体の内側を語る(2)

2014-09-20 | xxxx1身体の内側を語る

 

結局、私たち生きている人間は、目に見える自分の皮膚の下に何があるのか、自身の感覚では認識することはできない、と言うしかありません。私たちは他人の身体の内側ならば、解剖したりすれば見ることもできる。しかし、自分の身体を解剖して観察することはできませんから自分の内側を自分の感覚で知ることはできない。

 

私たち人間は、自分自身に関しては、内部が空洞の石膏像のように、薄い外皮だけで出来ているようなものです。私たちは自分の皮膚の内側を知ることができない。感覚にだけ正直に語るとすれば、私たちの内側は暗黒、あるいは虚無です。

 

 

 

本当にそうなのか?人間は自分の内側を知ることができないのか、それともできるのか、というテーマについて拙稿本章では少しくわしく調べてみることにしましょう。

 

この話は、私の心は私が一番よく知っている、という言い方の問題とよく似ています。拙稿の見解(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちがわかるのか?」)によれば、これは間違いである。私は他人の心が分かる以上に自分の心を理解することはできません。これと同じように、私たち人間は、自分の身体の内側をうまく語ることはできない。つまり自分の感覚で感知することはできません。

 

 

 

私は私の内側を知らない。そういうと、そんなはずはない、私は自分の内側をよく知っている、むしろ外側よりも内側のほうをずっとよく知っている、という反論がありそうです。

 

私は自分の腹具合をよく知っている。空腹の時は腹がぺちゃんこになるような感覚が分かる。怖い時は心臓がドキドキして胸から飛び出しそうなのが分かります。懐具合が心配な時は身体の中を風が通り抜ける。焦ったときは頭の中が真っ白になる。私はいつも私の内側がどうなっているか、よく知っている、という人は多い。

 

私がいま何を感じているか、私は知っている。私がいま何を考えているか、私は知っている。私が何を知っているか、私は知っている。と、私たちは思っています。それらは私の内側のことである。私の身体の内部で起こっていることである、と私たちは思っています。

 

身体の内部のどの部分がどういう状態になって、私が感じるのか、私が考えるのか、私が知っているのか、そこはよくは分からないけれどもそれらは私の内側のことだということは間違いない、と思えます。科学の知識によればそれは脳のそれぞれの部署で神経細胞のネットワークが活動していることであろう、と思われます。しかしそういうことは、私たち自身ではもちろん、自覚できません。直感でもよく分からない。

 

 

 

Banner_01

 

 

コメント

身体の内側を語る(1)

2014-09-14 | xxxx1身体の内側を語る

(41 身体の内側を語る begin

 

 

 

41 身体の内側を語る

 

 

 

今の高校でもあるのでしょうか?筆者など昔の高校生は美術の実習で石膏像のデッサンをさせられました。ギリシア・ローマの彫刻のコピーだったのでしょうが、白い石膏の人体を何人かで持ち上げて移動したりしました。

 

意外と軽い。内部が空洞だからです。メス型に石膏を流し込んでコピーを作るとき、なるべく材料を少なく使う製法が取られるのでしょう。薄い外壁の形を支える網のような支持材が入っているらしい。

 

石膏の外壁というより、人体の形ですから厚めの皮膚とも言えますね。最近の技術ではエポキシレジンなど樹脂で薄く作るのでしょうか?そうなると皮膚の厚さで形が保てるのでしょう。着色技術もエキスパートがすると、非常にリアルにできるようです。現代美術では抽象画と逆のハイパーリアルアートと称するジャンルが人気だとのことです。

 

アーティストの技術が極限に達すれば生身の人体と見分けられないリアルな外見の人体像を作ることができるようです。これらの人体像というか人形、と生身の人体とはどう違うか?拙稿本章ではここに興味を集中してみましょう。

 

生きているか生きていないか、といえば全然違いますが、あくまで瞬間の外観ということに限れば、基本的には仕上げがどこまでリアルかという技術的問題が残るだけと思われます。簡単にいって区別できない程度の技術が実際にある。

 

外観は区別がつかない。ただし皮膚の一ミリ下はぜんぜん違います。塗料で仕上げてあれば百分の1ミリ内部はもうまったくちがう色合いでしょう。外見は全く違わない。身体の内部だけの違いです。

 

私たち本物の人体は、中身がある。私の皮膚の下には筋肉や骨や内蔵があります。神経や脳もあるはずです。

 

そうですか?本当ですか?と聞かれたら、何をばかなことを聞くのだ、と思いますね。解剖してみれば分かるでしょう。切れば血が出る。切られるのは嫌だが、MRIで身体の内部を撮影してご覧にいれることはできますよ。

 

まあ、皮膚を指で押して見るくらいでも、身体の中に筋肉や骨が入っているのは分かる。脳は、と聞かれると頭蓋骨は固くて押しても中身は分かりません。重そうだからずっしりしたものが入っているのではないかな、と思うだけです。胸や腹も深いところはよく分からない、というのが正直な答えでしょう。

 

 

 

 

Banner_01

コメント

文献