テレパシーで他人の内心を感じ取ることはだれもできませんから、外見で判断するしかないでしょう。たとえば、動作、表情や発声などです。何かを見るときの目つき、眼球の動きなどが重要です。目は口ほどに物を言い、と昔の人がいったとおりです。ただしこの場合、他人が私をどう予測するかを推測しているのは私自身ですから、私の感覚データが使われます。
もちろん鏡に映った私の姿、あるいはカメラで撮影した私の姿などが使えればそれを他人の目に見える私自身と推測できます。しかし多くの場合、鏡やカメラなどを使わずに私は私の姿をかなり正確に推測できる。それは直接私の感覚が感じるデータを使います。
視覚が捉える身体の周りの光景、室内であれば床、壁や天井、室外であれば地平線、地面、立ち木、道路、などが示す上下方向、身体の動きに伴うそれら光景の回転移動、身体の動きへの抵抗、などから自分の姿と動きを推定できます。また私の触覚、温度感覚とかなど体性感覚あるいは筋肉、内蔵、血管の緊張感覚とか発汗など外分泌、呼吸、心拍、震えなど自分の身体の変化を示す感覚情報から自分の外見、表情や姿勢を想像できます。これに鏡やカメラの情報を追加できれば推測の精度は上がるでしょう。どちらかといえば、直接の感覚から想像した自分の姿の方がカメラで撮った自分よりも正確に思えます。
自分がそう思っているほど他人はあなたのことを分かっているわけではない、とよく賢人が書いていますが、それはこういうことなのでしょう。ただし、自分が自分のことをよく分かっているといっても、他人が分かることよりも少しだけ詳しい、情報量が多い、というくらいのものです。私を他人が観察するときは眼や耳や鼻からの情報ぐらいですが、私が私を観察するときはそのほかに体性感覚など体内の感覚も使えます。私を観察する場合、他人よりも私のほうが感覚情報は多い、といえます。これは情報の質の違いではなく量の違いですね。
視覚や聴覚を主とするデータを使って他人は私の内部状態を予測する。体性感覚など内部感覚を主として使うことで私は私の内部状態を推測する。私はそしてそれを他人が私の内部状態を予測した像として感じ取る。その二つは似たものとなるでしょう。この二つが似たものとなるように人間の感性は、幼児のころから、毎日練習を続けているからです。鏡を見なくても私は私がどんな表情をしているか分かる。眼で見ている他人より正確に分かっている、と思えます。そして私たちは自分だけが自分の内部をよく知っていると思い込む。
その違いはしかし、情報の量的な違いであって質的な違いではないでしょう。他人は眼で私の顔を見て私の感情を推測する。私は筋肉や関節の感覚で自分の表情を推定しながら自分の感情を実感する。どちらかが本物で他方はうそなのか?
そんなことはないでしょう。どちらか一方だけが本物でもう一つはうそ、ということではないはずです。どちらも推定に過ぎない。推定結果のイメージには互換性はある。実際、互換性がなければ他人の観察は共感できなくなってしまいます。
私たちは他人を観察してその内側の感情や心情を推定する。それと質的には同様の方法で、私は私自身の身体を観察しその内側の感情や心情を推定する。そしてそれを自分だと思っている、ということです(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。
要するに、言い切ってしまえば(拙稿の見解によれば)、私たち人間が自分だけは自分の内側を語ることができると思っていることは間違いである。だれでも、他人が語ることよりも少しだけ詳しく自分の内側について語ることはできますが、少しだけ詳しいというだけです。結局は、他人が私の内側を知ることができないのと同じくらい私は私の内側を知ることはできない。
私たち人間は仲間の共感によって現実を感じ取っている(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」)。私は私自身の身体についても仲間と共有する現実の一部分としてそれを感じ取ります。そうであれば、私たちは、自分の身体を他人が見ることと質的には同じようにしか感じ取ることはできません。
他人が私の身体の内部までは見通せないのと同じように、私も私の身体の内部を見通すことはできない。私たちはだれも、自分の身体の内部状態を知ることはできない。そうであれば、自分の内側、と私たちが思っているところの状態も私たち人間は、知ることができない。つまり私たちが口癖のように言い合っている「本当の自分を知っているのは自分だけだ」という思い込みもまた間違いである、といえます。
それはそういうもの(本当の自分)があるにもかかわらず私たちが知ることができないということでさえありません。自分の身体の内側、あるいは自分の内側、あるいは本当の自分、そういうものは私たちが感じられるこの世界にはない。どこか他のところにあるのではありません。どこにもない、と言うしかないでしょう。
自分だけが感じることができる自分の内側。そういうものがあるかのように私たちはだれもが、当たり前に、感じる。そう感じることで私たちはこの世界でじょうずに生きています。実際、人と人とが通じ合い語り合うためには、それしかないでしょう。
それにこういうものがあると感じることは私たちの身体になじんでいますから楽で便利です。しかし、楽であり便利であるからといってそれらがこの世界の中にあることにはならない。存在という語を使うことはできない。自分の内側というものは、存在などしていない、というしかありません。存在するのではないそれを存在することにしておかなければ私たちは互いに語り合うことができない、というだけのことです。
このことを深くつきつめてはいけません。つきつめなければ、私たちは、うまく語り合っていられる。しかしつきつめようとすればするほど、おかしな話が出てくる。ないものをあると言い続ければ、言葉を使うことの矛盾に陥るしかない。私たち人間どうしは語り合うことができなくなります。言語で語ることができる限界を超えることはできません。
言語の限界を超えて、語り合えないことを無理に語り合おうとすれば誤謬の罠に陥る。哲学はそうして間違っていき、宗教もまた言葉で語ろうとすることによって混乱していきます。
