哲学の科学

science of philosophy

性的魅力の存在論(4)

2016-10-29 | yy54性的魅力の存在論


食べ物の選好のアナロジーでいえば、しょうゆ味なら何でもよい、とか、栄養満点なら何でもよい、という食性の人々も実は結構多い。それにもかかわらずテレビでは、煮魚はこれでなくては、などと語り合っています。実際、煮魚の最高料理を求めて全財産をなげうつ人が何人いるでしょうか?ある程度以上の味であればそれ以上のものを追求するコストは使わない、という態度が、何に関してもふつうの生活態度でしょう。それにもかかわらず、私たちはテレビのグルメ番組を好む。自身で追求するというよりも、仲間との話題として楽しいからでしょう。
一方、テレビではなくても、私たちは世間話で、男女二形のそれぞれに関し、その性的魅力をやはり熱心に語りあってやめない。たしかに個々人をみれば魅力の大小が存在する事実を感じる。他人の外見を評価して、上級から低級までランク付けすることにも楽しみがあります。そうであるからたまたま機会を得て自分に選択の自由がある場合、だれを選ぶかが問題になります。アンケートであろうと答えたくなってしまいます。
髪は長いほうが魅力的であるが、長ければよいというものでもない。引きずって歩くほどではかえって気持ちが悪いということになります。さらに、ショートカットも魅力がある、という見方もある。顔かたちとのバランスでしょう、とプロの美容師は言います。
江戸時代の婦人は髪を結い上げてうなじを見せていました。性的魅力のためでしょう。平安時代の姫のように超長髪によってそれを隠すほうが性的魅力は増すのか?時代によって違うのか、階級によって違うのか?
現代女性はヘアサロンで簡単に髪形を変える。変えるということで性的魅力が増す、らしい。服装は、可能ならば毎日変えるでしょう。変えるところに魅力がある。あるいは、変えたい、と思うところに性的魅力があるのかもしれません。
美しいということに性的魅力があるのか?美しさを求めるところに性的魅力があるのでしょうか?かつてフェアセックス(きれいな性―女性のこと)と呼ばれて帯やコルセットなど極度に人為的な美的容姿に閉じ込められた人々に性的魅力が集中していると信じられていたことは事実です。それを美しいと思い、美しさを追い求める。あるいは、それを美しいということにして、それを追い求めることを人生の最重要事であると思うことを楽しむ。
美的容姿の追求は、しばしば生産性あるいは効率性を犠牲にしてビジュアルな華麗さを追求する。いつの時代も王侯貴族あるいは社会の最富裕層は、生活を超越して性的魅力の追求を重視した生活を送っていたようです。その姿は、人生究極の欲望をすなおに表している、といえなくもないでしょう。








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性的魅力の存在論(3)

2016-10-23 | yy54性的魅力の存在論

言語、画像あるいは動画による表現の中に性的魅力の存在が含まれている、ということはできますが、それだけではない。むしろこれらシンボル表現に表れる性的魅力は私たちが感じ取ることのできる性的魅力のほんの一部でしょう。残りの大部分はリアルな世界にある。つまり現実の人間個々に付随していて、しかもどういう状況設定で認知が行われるかというコンテキストに依存して存在している、ということができます。
いずれにせよ、男性から見れば、スカートをはいている人はみな性的魅力がある。女から見れば、股を開いて座っている人間はみな性的魅力がある、ともいえます。
端的に言えば、二形的な差異があればよい。差異が明確であればそれが性的魅力になる、ともいえます。髪が長い短い、声が高い低いとか、赤いランドセルか黒いランドセルか、どちらのトイレに入るか?つまり性差、性的アイデンティティはどれも性的魅力になります。人類の形体は男性女性の二形分類となり人類の認知系はその分類に対応して敏感に反応する。少なくとも最近数十万年の間にそうなるような進化があったからです。
人類においても、その行動の性的非対称性は、当然、哺乳動物共通の雌雄二形身体構造にもとづく交尾行動が下敷きになっています。特に人類に顕著に表れる他人の身体運動の認知として性行動に共鳴しその神経活動をなぞる機構は、霊長類由来の進化過程で発生発展してきたと推測できます。性行動を構成する身体の二形非対称性の認知は同性の認知と同性への憑依を導き、その憑依経験は異性の認知を発生し性行動の自覚を発展させます。
比較動物学的に人類において重要なのは、男女二形の認知構造が集団行動として社会的文化的に発展し確立されていることです。二形に見いだされる差異を強調し二次的に差異を作り出す文化が歴史上、実際に発展してきました。社会の強化に役立つからでしょう。
二形の分離認知は効率的に行われる必要があり、そのために服装、言語、家族、集団、組織に反映される二次的二形構造を導きますが、それらがまた性的魅力を強化するという循環構造になっています。性的魅力はこの二形の分離認知が開始されるための必須要素となっています。
逆に、二形を効率よく分離認知できる差異を認めることができればそれ以上の性的魅力はあまり必要ない、ということもできます。逃げない女ならだれでもいい、とか、稼ぐ亭主ならだれでもいい、とかニヒルな言い方がありますが、人間の真理に近いかもしれません。







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性的魅力の存在論(2)

2016-10-14 | yy54性的魅力の存在論


人体を測定して、たとえばウェスト/ヒップサイズ比の統計を取ることは比較的に簡単です。また、その比の数値についての男性あるいは女性の母集団が回答する選好度を数値化することは可能で、実際調査結果がでています。最尤選好値は0.7であるとか、その理由はなぜか、などについて理論がつくられてもいます。
しかし問題は、その選好が起こる物理的な過程が科学的にはまったく解明できていない、というところにあります。人体の形状が視覚によって認知される過程において、ミクロスコピックに大脳視覚野から頭頂葉あるいは側頭葉さらに偏桃体から視床下部の各神経回路を興奮させて性的魅力の認知と観察し得る身体変化を引き起こすメカニズムは、現代科学としては全く未知の領域です。
ウェスト以外にも人体形状に関して、身長/顔長比、顔高/眼高比、額/顎幅比、髪/肌色度比、皮膚表面反射率、体脂肪比、凹凸部分曲率半径比その他測定すべき数値は無限にあります。現在流布している単純な理論では、それらすべての数値を平均化した顔型容姿が一般の美的選好にかなう、というものですが、だれもが納得しているわけではないようで、いやテレビタレントのそれらを平均化したルックスが性的魅力として妥当だろう、とか、人気度を重み付け平均しなければだめだ、などなど諸理論があります。計測しやすい人体形状に限ってもこのように実証できる理論形成ができていません。この現状で、いったい、性的魅力なるものは存在するといえるものなのでしょうか?
先例に挙げたウェストサイズ比などの物理的数値をプラトニックイデアとする存在論は認知心理学の成功例として挙げられますが、非常に限定された成果です。むしろ物理学、生物学など成功した科学一般の立場からいえば、かえって本件の数値化の限界を示している、というべきでしょう。ミロのビーナス像を三次元データに変換して解析する試みは美学が科学に還元できないという好例を表すだけでしょう。
いずれにせよ人類のゲノムは、裸体の場合はもちろん、衣服におおわれている人体形状の視覚処理だけからでも容易に女性か男性か二形択一の判定を下し、瞬時にそれぞれに対応した身体反射を出力できる認知機構を人体内に実現しています。この識別能力は非常に高性能であって、人体の一部分、顔だけ、あるいはシルエットだけあるいは緩い衣服に隠された身体の線だけの画像から容易に性別を判断します。
網膜の二次元球面に射影される三次元画像の特定の特徴がなぜ瞬時にそれだけの身体反射を引き起こすのか?そもそも芸術としての具象画はなぜ存在するのか?マンガはなぜかくも具象画で表現されるか?インターネットのカテゴリーは文字、画像、動画、イラストから成り立っていても文字以外は、ほとんど立体を射影した二次元画像データです。
私たちの視覚に入ってくる現実の光景は三次元で時間変化する立体像がカメラ画像のように網膜に射影された刺激です。対象の移動と眼球の移動とによって私たちの視覚中枢は三次元立体を復元できます。この実像の復元法を経験しているから写真、マンガ、アニメなどの二次元データから脳内では実像から得る刺激と似た反応を起こすことができる。さらに私たちの脳は、音声や文字によるシンボル認知によっても、実像から刺激を得た時と同様の反応を引き起こせるような機構を備えています。
ミロのビーナスという言葉を聞いただけで、身体は反応します。たとえば目の前の暗い部屋の中に画像など見えそうにないとしても、その言葉を聞けば、改めて目を見開いてしっかり見ようとする。瞳孔拡大その他身体反応は、多くの人には性的魅力を感じた場合の反応に近いものでしょう。さらに詳しく、ミロのビーナスのようなリアルなヌードが見えます、と言われた場合、かなり性的魅力を伴う言葉という感じがします。うす暗い画像でも瞳孔をさらに開いてしっかり見ようとします。あるいは露骨で嫌だ、と逆に顔をそむける人もいそうです。







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性的魅力の存在論(1)

2016-10-08 | yy54性的魅力の存在論

(54  性的魅力の存在論 begin)




54  性的魅力の存在論

気まぐれに論が飛躍する拙稿としては、恣意的にたとえばここで、美の存在論、自由意志の存在論、ポケモンの存在論などと並行して、性的魅力の存在論という理論を述べることができます。いずれも物理的世界の存在を超越する話なので、科学の対象ではありません。しかし哲学の科学あるいはメタメタフィジカを提唱する拙稿としては、科学的思想を援用してそのオントロジーを試行する格好のテーマでもあります。
毎日のように私たちが、それがあるとかないとか語り合い、しかも抽象ではなく物理的実体である個々の人体に関してそれを語る生活を送っている以上、拙稿も立場上、存在論の実習課題として、なるべくていねいに考察を進めておくことに意義がないとはいえないでしょう。
さて男は女のどこがよくて近寄っていくのか?あるいは女のほうとしてはそこをどう感じているのか?ホモセクシャルの人はどうなのか?いわゆる性的魅力は、どこにどのように存在するのか?というところが拙稿本章の話題です。
これはまさに、人類究極の疑問の一つであって、古今東西、神話伝説の時代からあらゆる美術、文学の深淵なテーマとなっています。しかしその男女間のアトラクションがいかに生じ、いかなる実体をもつものであるのか、現代科学といえども正確に語れる範囲はまことに断片的でしかありません。
両性間のこの引力のようなものは、ニュートンのいう万有引力というよりも双極性の磁力あるいは静電引力のようなものであるか?プラスとマイナスは引き合い、プラスとプラスは反発し、マイナスとマイナスも排斥しあう。プラスが男性でマイナスが女性であるのか、はたまた逆であるか、など俗説、陰陽学、文芸詩歌で盛んに語られますが、それこそ、私たちがそれ以上の科学的理論を持っていない証拠といえます。
その科学の基礎を築くためには、まず計量化、そして数学化が必要です。しかしながらこの両性間引力を量的に表現する指標は存在するのか、性的魅力は計測できるのか、数値化できるのか、というところから難題が待ち構えています。







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自分・ごっこ(3)

2016-10-01 | yy53自分・ごっこ


警官ごっこをする幼児は、警官という言語が意味する現実を獲得できますが、現実に警官にはなれません。幼児はそれを知っていて警官ごっこをしています。それが、そもそもの、警官という言語が意味する現実です。
ところが大人はなかなかそれを理解できない。大人にとって警官の現実というのは、給料がいくらであるとか、規則違反をすると懲戒されるとか、市民に信頼されるとかいうことが本質であって、そういうようなことは実は幼児の理解を超えることばかりです。幼児が理解する警官の現実とは何なのか?と大人は思ってしまいます。しかし、大事なことは幼児が警官という言語の現実を獲得することであって、その言語の現実とは、真実の真実かどうかではなく、(幼児が周辺の人々と話す場合に)皆が真実と思っているらしいと思えるかどうか、で決まることです。
幼稚園の先生やお友だち、ママやパパや家族など周辺の人々と(共有し共鳴することによって)通じ合う言語の現実を獲得することが幼児にとって最優先の必要であって、それが周辺にはいない遠いところ(例えば警察署内)での真実かどうかはどうでもよいことです。
真実でないものを現実と思い込んでしまうと、場合によっては、致命的な失敗に陥ることもあるでしょう。しかしそのリスクを冒してでも、とにかく今周りにいる皆と通じ合うことが、人間の生活上、最優先の課題です。そのような生活に適するように人類は進化したはずです。

ごっこ遊びを卒業する小学校低学年ころから、子供は他人の目を意識するようになる。自意識が芽生える。これは、他人と共有する現実世界の中にある自分の肉体を自分と思う(自分に憑依する)ようになるということでしょう(拙稿12章「私はなぜあるのか」)。
これを、自分というごっこ遊びを始める、ということもできますが、この自分ごっこは一生続きます。これは真正のごっこではない、現実人生ということになります。現実人生をごっこといってしまうと、先の例に挙げたサラリーマンごっこと同じような修辞法になってしまいます。これは子供がするごっこ遊びではありません。
身体の外にある現実に憑依しそれを内部に取り込む子供のごっこ遊びと違って、大人の現実人生はすでに身体の内部に埋め込まれてしまった現実世界の内部で動いていきます。正確に言えば、身体の内部に埋め込まれている現実世界の内部にある自分の身体を自分と思うことで動いていきます(拙稿24章「世界の構造と起源」)。
ちなみに、この入れ子になっている世界の構造は自覚できませんので、ごっこが自分の中でどう働くかも、私たちは自覚しにくい。内省によって自分というものを自覚しようとしてもややこしくて自覚することが嫌になります。そういう入れ子のような認知しにくい構造は自覚しないほうが社会生活はうまくいきます。
自分ごっこという表現は詩的表現としてはおもしろいところがありますが、実用上は使いにくい。混乱の危険がある修辞法です。本章のタイトルとして「自分・ごっこ」と中ポツを打ったのは、混ぜるな危険、というニュアンスです。「自分」も「ごっこ」も哲学要素を含み安易に取り扱うと危険な観念ですから注意喚起の趣旨で本章を書いてみました。■










(53 自分・ごっこ end)











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