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哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ息をするのか(20)

2009-10-10 | xx0私はなぜ息をするのか

たとえば、私の身体に対する私の愛情は、目に見えるこの現実世界の中にはない。ひいきのサッカーチームに対する私の愛情は、目に見えるこの現実世界の中にはない。ペットが死んでしまったときの私の悲しさは、目に見えるこの現実世界の中にはない。私の背中のこの痒いところからくるイライラ感は、目に見えるこの現実の物質世界にはない。こういうものは、この現実の物質世界とはあまり関係がない。この現実世界よりもずっと大きな世界にある。いや、大きな世界にある、というのは正確な言い方ではない。こういうものは、人々と共感することがむずかしい。共感できないものは世界ということもできない。

それは比喩や想像を使って人々と共感できるような架空の世界といえるものでもない。ただ、私の身体がそれをかなり強烈に感じる、というだけのことです。人と共感できないものは、言葉で語ることは不可能というしかない。言葉で語れないものを語ろうとすれば、かならずおかしな表現になる。

たとえば認知科学で、自分だけしか感じられないと思われる生々しい感覚そのものの存在を問題にする議論がある(クオリア論など、一九九五年 デイヴィッド・チャーマーズ『不在クオリア、薄れ行くクオリア、踊るクオリア』既出、一九八二年  フランク・ジャクソン随伴現象クオリア』既出)。「私が感じている赤色は、あなたが感じている赤色とは違うかもしれない」という問題などです。赤色を感じるときの感じとは何か? 私たちが人と共感できることは、赤色という色は赤い、と言葉で言えることだけです。赤色の感じについて言葉で語れることはそれしかない。赤色の感じそのものについては、私たちはうまく語れない。

語れないことを語ろうとすると、この世には科学で説明できない不思議なものが存在することになってしまう。人とは通じない感じがあるとしても、それを言葉で言うことはできない。実際、人と共有できないけれども感じられるという物事はたくさんあります。

そういうものを安易に語ってはいけない。言葉で語れないものを語れると錯覚するところから、私たちは間違ってくる。先にも繰り返し述べましたが、人生の問題、さらには哲学の難問題は、言葉で語れないものを言葉で語ろうとするところから起こっている。自分の動きを人(仲間集団)の目で見取ろうとするから、それらは起こってきます。

それでも、こういうものは、目に見える現実世界よりも重要ではないとはいえない。まして、こういうものは、語れないからという理由で無視すべきだ、などと考えてはいけない。ここらへんに気をつけないと、またさらに別の間違った哲学にはまりこむ。

現実よりも大きなものがある。現実よりも深いところで現実を作り出しているものがある。それは、すべての存在とすべての現実とそれ以外のすべてを含む。それは(拙稿の見解では)、現実を作り出している私たちの身体の動きでしょう。人(仲間の人間)の身体と共鳴して動くそれ(拙稿の用語で運動共鳴)がすべてを作り出している。そこから出発しなおすことで間違った哲学から抜け出すことができるのではないか、というのが拙稿の予想ですが、いかがでしょうか?

私はなぜ息をするのか?

私はなぜ私が息をすると思うのか?

それは、私の身体が人の身体と共鳴して息をするからである。

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(20 私はなぜ息をするのか? end

→(21 私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?)

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私はなぜ息をするのか(19)

2009-10-03 | xx0私はなぜ息をするのか

さて、最後にまた本章のテーマに戻りましょう。

私はなぜ息をするのか?

私はなぜ私が息をすると思うのか?

それは私たちの予測装置がそれを予測するからである。息をする運動を意識するから、私は私が息をすると思う。息をすることを言葉で言えるから、私は私が息をすると思う。息をする身体という物質の変化を科学で表現できるから、私は私が息をすると思う。

私は息をする。それは私が感じ取る現実である。つまり、私たちの身体に備わった(それぞれの)予測装置がうまく働くとき、その装置に乗って動き回る経験を指して、私たちは、(それぞれの)「現実」というのでしょう。

ここで重要なことは、このような現実の作られ方を私たちは直感ではまったく感じ取ることができない、ということです。複数のいろいろな現実が現れることがある、ということも直感では感じられない。それらの現実がときには矛盾することも、私たちの直感は感じ取れない拙稿19章「私はここにいる」)。むしろ私たちの直感では、現実はただ一つしかない。そして完結している、と感じられる。

私たちにとって現実は、はっきりとここにそれがある、としか感じられません。逆に言えば、そうでなければ困ったことになってしまう。現実が唯一でなければ、私たちは確信を持って身体を動かすことができませんからね。

私たちは、自分が感じる内部感覚や感情を、目の前に見える現実世界の一部であるように見える私たち自身の身体という物質に貼り付けて感じ取る。この身体という物質がそれらの内部感覚や感情を発生している、と感じる。内部感覚や感情ばかりでなく、見えるものも聞こえるものも、自分のこの身体という物質が感じている、と思っています。たしかに、感情が高ぶって涙が出るのはこの目だし、その目をつぶればものは見えない。この耳をふさげば音は聞こえない。

しかし結局、(拙稿の見解では)それはそういう理屈でそう思うのではなく、身体でそう感じる。つまりそういう運動感覚シミュレーションがうまく物事を予測できるから、私たちの直感はそう感じるように学習した。運動出力と感覚入力がうまくシミュレーションにあわせ込める。そのマッチングのシミュレーションに使える物質世界の対象物を、私たちは、自分の身体と思う。そうしてとらえた自分の身体を使いこなす感覚が身についてくる。使いこなしていく自分の身体に慣れ親しんできます。

幼児のころから慣れ親しんできたこの身体を、いつのまにか私たちは、お気に入りのゲームの主人公のように、ひいきのサッカーチームのように、愛玩するペットのように、愛するようになる。

私たちは、お気に入りのゲームの主人公の動きを、ひいきのサッカーチームの動きを、そして愛玩するペットの動きを注目する。そうすると、それが何をしようとしているかが予測できる。その予測によってそれがしようとしていることを、それの欲望と感じる。その、お気に入りのゲームの主人公の、ひいきのサッカーチームの、そして愛玩するペットの、欲望が、私たちの欲望になる。それと同じ仕組みで、私たちは私たちの身体の欲望を私たちの欲望と思い込む。そしてその身体がするであろうと予測される行為を私たちの意志と思う。

目に見える自分の身体を、ペットのように愛する。それを世界の中心と思うようになる。そうして、客観的で冷たい無機質な物質でできている身の回りの現実と生臭い自分の身体が発する感情との間のギャップに悩んだりする。それを高尚なことだと勘違いすると、間違った哲学になります。

テレビに向かっていくら声援を送っても、それとは無関係にチームは負けてしまう。ペットをどこまでも愛したとしても、それは生物体として、自然に死んでしまう。自分の身体という物質を、私たちがどこまでも愛したとしても、やはりそれは生物体として、自然に死んでしまうのです(拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。客観的な物質世界の現実は、私たちの内部の感情とは無関係に動いているからです。そのことは、私たちはよく知っている。大人になった人間は、それを知りすぎるほど知っています。

それでも、それにもかかわらず、やはりそういうとき、私たちはやりきれないむなしさを感じることがある。目の前のこの現実が、なにかうそっぽい幻のようなものに思えてくる。こういうとき私たちはだれもが、この目の前にある客観的世界だけが唯一の現実だという間違った哲学に冒されている。

私たちの身体がその一部になっていると思えるこの客観的現実世界は、(拙稿の見解では)実は私たちの身体が作り出している。人間の身体が仲間の動きと共鳴することで映し出されてくる現実という虚構の世界です。

そのことに私たち自身は気がつくことがない。自分の身体のこの仕組みを私たちは自覚できない。しかしもしそうであるとすれば、この現実世界全体は私たちの身体の一部分としてある。それは私の仲間の運動や感覚と共鳴して私の身体が感じ取る世界の存在感です。これは私たちの身体の一部分であって、すべてではない。実際、この現実世界は、私たちの身体が感じ取る物事の小さな部分でしかない。

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私はなぜ息をするのか(18)

2009-09-26 | xx0私はなぜ息をするのか

ところが、この自然科学の対象となるごく小さくて狭い部分、つまり物質現象の世界に関する予測能力が、現代人の生活の根幹を支えている。その理由は、これら科学が対象とするものたちの状態変化が、科学を使うことによって定量的に精密にかつ正確に予測できるからです。現代の私たちが生きていくために必要な物質、食べ物、エネルギー、医療などは、すべて物質現象に関する科学の強力な予測能力のおかげで手に入るものです。

 一方、私たちの毎日の生活では、科学や物質のような無味乾燥なものよりも、生き生きとした言葉で表される人との会話や人間関係、テレビ、新聞、マスメディアが言葉で語りかけてくる事件や事故や争いや世相などニュースやイベントを大事なものとして感じ取っています。つまり、私たちにとっては、言語で表されることのほうが、物質そのものよりもずっと大事なのです。しかしそういうものの実態と変化は科学に比べてつかみにくい。精密に測定できないし、今後の変化もうまく予測できない。日本の新政権は安定するのか、今年の不景気がいつまで続くのか、だれも、まったく予想はできません。

さらに、私たちが意識的に強く感じることとして、人の表情や感情や場の雰囲気など言語で表しにくい物事はたくさんあって、それらは言葉よりもさらに重要と思われるのですが、言葉以前の直感としても、それを正確につかむことはとてもむずかしい。まして、そういうものごとの変化を正確に予測することは不可能に近い。

最後に、意識さえできないけれども私たちが身体の深いところでいつも感じているらしい直感的な気分や内部感覚、不安感、孤独感、自信のなさ、安心感、人の信頼感、不信感、敵意、連帯感などは、実は一番大事なものかもしれませんが、ぜんぜんコントロールできません。予測などできないし、それらがどう存在するのかさえ、うまく表現することがむずかしいわけです。

こういうふうに私たち人間は、いつも、いろいろな物事を感じてそれがどう変化するかを予測しながら生きている。予測が正確なほど、上手に生きられることは確かでしょう。意識も言語も科学も、(拙稿の見解では)人間の生存上重要な物事の予測を正確にするための装置として次々と出現し、進化の過程で人間の身体と社会に備わるようになった。

私たちが感覚や感情を通じて意識するこの世界も、言語で言い表す概念の世界も、科学が描き出す物質世界も、どれもその世界が実在するかどうかということが重要なのではなくて、いずれも(拙稿の見解では)人類の身体に備わった予測装置として、それらの仕組みが実用的な予測を行い、人間の身体をうまく生存させ繁殖させているという事実が重要なのです。

なぜ、この世界はこういうふうになっているのか? それは、世界をこういうふうに感じ取ることで実用的な予測ができるような身体を作り上げた結果、地球全域に繁殖することに成功した動物が私たちだからです。

私たちは生きている限り、息をしている。私たちは、ふつう無意識に息をしている。空気中の酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すということのためだけならば、無意識に呼吸していればよい。自分が息をしているかどうかを知る必要はありません。それで、動物としては生きていけます。実際、人間以外の動物が、自分が息をしていることを知っているとは思えませんね。

酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すということ以外の目的で空気を肺に入れたり出したりする場合、私たちはその吸気あるいは呼気の運動を意識する。

仲間に信号を送り仲間と運動を共鳴させるために、動物は呼吸運動を意識的に応用して声を出すことがある。多くの哺乳動物は、声を聞いた仲間の行動を予測しながら声を立てます。人類は、さらに、声に情報を載せて仲間に伝える仕組みとして言語を作りました。私たちは意識して言語を操る。その言葉によって聞き手が起こす感情と行動を予測しながら言葉を話します。

言語を使って人類は、社会を維持し、文明を作り、科学を作って、自分たちの身体の構造を解明する。科学によれば呼吸運動の動きも予測できます。神経細胞や筋細胞や赤血球の分子構造の変化のレベルから、現代科学は、呼吸という現象を詳しく説明できます。

そのように自分の身体を描き出す科学の強い存在感を感じ取り、それが描き出す物質世界を唯一の実在する現実の世界だと私たちは思う。しかし(拙稿の見解では)そこに現代人の大いなる間違いがあります。ここに哲学が大きく間違ってしまう分かれ道がある。よほど注意して見なければ、その分かれ道のところから正しい道が通じていることに気づくことはできない。しかし、見えにくいけれども、正しい道は真ん中に通っている。

それは無意識の呼吸運動のように、私たちの身体が自律的に動き続けているところからすべての現実が生まれているという事実です。自律的に動き続ける身体をうまく誘導して(食べ物を獲得するなど)生存に必要な運動を効率的に実行するために、(拙稿の見解では)私たちの身体は、現実を感じとる装置を身につけるようになった。逆に言えば、それを現実と感じ取れば生存に便利なような感じ方ができるものが現実となった。そういう現実が感じ取れるように進化した動物の子孫が私たちだからです。

哺乳動物の進化の過程で、目の前で変化する物体や運動する動物体の変形と移動の予測装置が身体に備わってくる。その予測装置が予測した状態に自分の身体を誘導するために、(拙稿の見解では)類人猿の進化の過程で、現実を感じ取るという仕組みが人類の身体に備わるようになった。その機構が、脳の内部に意識を作り出し言語を作りだし科学を作り出した。それに対応して私たちの外部には意識できる現実世界や人間社会や言語表現や科学的に説明できる物質世界が、それぞれの現実として、映し出されていくようになった。

身の回りの環境を生々しい現実と感じ取って、それに反射的に対応するように身体運動を誘導することで生存繁殖に便利な行動を作り出す。(拙稿の見解では)そういう仕組みの身体を持つように人類は進化した。科学が描くような物質のあり方が現実と感じ取れれば、道具を操作して物質をコントロールする場合にとても便利です。それで私たちはこの物質世界を生々しい現実と感じる。人の心がよく分かり、人々の作る空気を敏感に感じ取れれば、現代の社会の中を生き抜いていく場合に相当便利です。それで、そういう社会に暮らす私たちは、現代社会の人間関係を生々しい現実として感じ取るような身体を持つようになる。言語表現を生々しく感じ取れれば、会話を重んじる社会生活で有利です。それで言葉の操り方そのものをまたひとつの生々しい現実と感じて、私たちは社会を生き抜いていくようになりました。

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私はなぜ息をするのか(17)

2009-09-19 | xx0私はなぜ息をするのか

私たちが直感で感じる世界(世界A)から理論と実験観察によって科学が作られる。その科学の理論を整理して作られた方程式の解として物質から成り立つ世界(世界B)が記述される。こういう関係を、「世界Aが世界Bを含む」と言うわけですね。一方、物質世界Bの中にある物質としての人体(特に脳)の状態が科学の方程式に従って変化することで直感世界Aが現れてくる。こちらの関係からは「世界Bが世界Aを含む」と言うことができる。

どちらか一方が他方をちゃんと含み込めるなら、それで分かりやすい。しかし、世界Aと世界Bとの関係は、どうもそうではない。直感世界Aは、主体XがYをしようとしてYをするという組み合わせ(X、Y)の集合で作られているのに、科学世界Bは時間と空間をパラメーターとする数学方程式で作られている。私たちからみれば、科学世界Bは理論計算で分かるだけです。直感では感じられない。私たちが直感で感じられる物事は直感世界Aでしかない。

科学など無視してしまえば、話はすっきりする。昔の人々は、科学など知らなかった。それでも、世界についての、あるいは人生についての大事なことは、現代人の私たちと同じくらい、あるいは私たち以上に、よく分かっていた、と(拙稿の見解では)思われます。

現代人は科学に惑わされすぎている、という人は多い。拙稿の基本的な見解もこれに近い。しかし、科学を全部無視するというのは乱暴すぎるので、拙稿としては、科学は部分的に正しい、としておきましょう。

科学は、実験観測ができることだけを対象として作られている。つまり、科学は人と人が言葉を使って正確に共有できることだけを基礎にして作られている。言葉を使って正確に共有できることは、実は、私たちが感じること全体の小さな一部分でしかない。それは、結局は目に見える物質の世界、あるいは、目に見える物質から明らかに推論できる理論的物質世界だけです。それ以外のことについては、科学は何もいえない。言葉で私たちが毎日話し合っていることについてさえも、科学は何もいえないことが多い。たとえば、このラーメンはなぜおいしいのか?なぜ、このラーメンはあのラーメンよりもおいしいのか?科学は答えられません。

さらに、私たちが言葉で表せないものは実に多い。ラーメンのおいしさについて、あるいは、私の背中の痒みの微妙な不快感を表したい場合、言葉は無力です。こういう場合、科学はまったく無力です。二重に無力です。まず、科学は言葉で記述できないものには無力です。さらに科学は言葉で記述できるものについてでも物質に関する言葉で記述できないものには無力です。こういうことですから、科学が活躍できる世界は、実は、とても狭い。科学世界が直感世界を含むことなど、とてもできません(たとえば一九八六年 フランク・ジャクソン 『メリーは何を知らなかったのか』既出)

その狭い科学が、私たちの生活には不可欠になっている。私たちが毎日の生活で必要とする物質やエネルギーは、ほとんどすべて科学が生み出している。それらは科学が持つ驚異的に強力な予測能力によって可能となっている。物質をどうすれば物質がどうなるか、私たちは科学を使うことで正確に知ることができます。適用範囲は狭いけれども正確無比な予測能力。これが現代科学の特徴でしょう。

一方、私たちの直感はあらゆる物事を感じとる。人間関係、人の心、自分の気分、物事の美醜、好き嫌い、体調。きわめて広い。そのかわり、まず正確な予測はできません。いわゆるフィーリング。これらは正確な言語表現さえもできないものがほとんどでしょう。つまり逆にいえば、言語は私たちが直感で感じとるもののうちのごく一部しか表現できない。言語が言い表せるものは、(拙稿の見解では)人と人とがはっきりと運動共鳴できるものだけです。そして、言葉で言い表せないものは、科学の対象にはできない。

結局、私たちの身体が感じるもの全体は(拙稿の見解によれば)次のように分類できる。

〔全体〕感じられる物事すべて。五感、物の存在感、距離感、時間感覚、立体感、速度感、体性感覚、内臓感覚、自分の気分、快不快、物事の美醜、好き嫌い、体調、暑い寒い、恐怖、理由のない不安、不満、人間関係、人の心、人への信頼感、不信感、敵意、軽蔑、憎悪、嫉妬、愛情、仲間意識、尊敬、やる気、むなしさ、安心感、幸福感、おかしさ、楽しさ、その他のフィーリングなどもろもろ。

〔意識的なもの〕私たちが感じとれるもの全体のうちのある部分が、はっきりと意識的に感じとられていて、それらの変化に関する予測がなされる。逆に言えば、(拙稿の見解では)私たちの内部でその対象の変化に関する予測がなされるとき、そしてそのときに限って、私たちはその対象を意識的に感じているといえる。そして予測されたものは記憶され、学習される。その学習によって、私たちは、私たちがそれを意識したと思う。

〔言語的なもの〕前項のように意識的に感じられるもののうちのある部分が、人と人とが、それの変化に関して、はっきりと運動共鳴できて、その結果の予測を皆で共有できる。この場合、それは言語によって表現される。逆に、言語で語られるものすべてはこのカテゴリーに入る拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」。なお、そのうちのあるものは抽象概念になり、複雑な理論に組み上げられるが、それらはしばしば強い存在感を伴って人々に共有される。たとえば神話、伝説、学問、科学、倫理、哲学、宗教、政治理論、俗信、通説、人生訓など。

〔科学的なもの〕前項のように言語によって表現されるもののうちのある部分(物質に関する自然現象)は、科学的に実験観察できるのでその結果、科学的に理論化され実証されて科学的に予測される。これら〔科学的なもの〕に関する私たちの予測精度は、現代科学の大成功によって驚異的に正確になってきている。そのため、現代人にとっては、科学の描く物質世界、人間が完全にコントロールできる人工物、都市、機械、エレクトロニクス、マスメディア、医学、工学などが、現実のすべてであるかのように受け取られている。

このように、私たちの身体が感じるもの全体を四段階に切り分けていくと、どんどん小さな部分を切り出していくことになる。私たちの身体が感じるもの全体のうちで、意識できるものはごく小さな部分と思われる。その意識できるもののうちで、言語表現が可能なものは、またごく小さな部分でしょう。さらに、そのうちで科学の対象にできるものとなると、またまたさらに小さな狭い部分です。

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私はなぜ息をするのか(16)

2009-09-12 | xx0私はなぜ息をするのか

生物ではない物質現象も、この形式で、私たちは捉えていく。雨は地面を濡らそうとして降る。風は私たちの間を通り抜けようとして吹く。川の水は海に帰ろうとして流れ下る。花は咲き誇るために咲く。星は夜空を飾るために輝く。

しかし、一方、私たちは、自然が目的を持っているようには見えないことも知っている。自然はあるがままにあるように見える。自然は自然の法則にしたがって変化していくだけと思えます。自然に関して、こちらの見方を徹底していくと科学になります。

(X、Y)、つまりXがある目的を持ってYをする、というこの世界認知形式は、物質現象一般の表現にはかならずしも適していない。科学を作ろうとすると、これは使えません。たとえば現代科学にはこの(X、Y)〔Xがある目的を持ってYをする〕という認知構造はありません。

現代科学の描く物質世界は、時間空間をパラメータとする数学方程式の解ですべてが決まってくる。ある時刻の空間の各点の状態が決まれば、世界のすべてはその状態を出発点として連鎖的に変化していく自動的なプロセスに過ぎない。

物質世界は、それぞれの物質Xが何かの目的を持ってYをすることで変化するものではありません。ふつう人間は、世界の中のXに注目し、Xがある目的を持ってYをするから、Xのまわりの世界はYというシミュレーションで予測されるように変化する、と見なしている。民主党は格差を是正する。あるいは自民党は経済を発展させる。私たちはそう思っている。これは直感に従っていて素直なものの見方ですが、科学と矛盾しています。つまり、人間の直感は科学と矛盾している。

ちなみに、昔の哲学者が熱中した自由意志の問題もこの類ですね。人間の直感と科学が描く客観的物質世界との矛盾です。あるいは、現代哲学でいわれる「意図的解釈」(一九八七年  ダニエル・デネット意図的観点』既出。あるいは古典としては一九五七年 エリザベス・アンスコム『意図 など)も似た議論ですが、拙稿の見解では、これらの哲学問題も、私たちの脳に備わった予測機構が引き起こす見かけ上の問題に還元される。

それはこういうことです。

人間の直感による世界の認知は、脳の予測機構の働きで自動的に現れる。目の前に見える物事Xを見て、私たちの直感は、Yが起こることを予測する。このXはYをしようとしているな、と思う。無意識のうちに身体がそう感じる。予測機構は過去の学習によってYという動きの予測ができるようになっているからです。いま目の前で起こっているYを見る前から私たちはYがどう変化するかを知っている。人間はそうして、世の中のもろもろの事柄を理解する。そういう予測機構を身体の中に備えている。

私たち人間が感知する世界は、すべからく予測機構によって捉えられてくる。予測機構は、XがYをすると予測する。世界の変化は、すべてそういう(X、Y)からできている。

そういう私たちが、自然現象を観察していくと、それらはどう見えるか?

「月が東から西へ天空を回っている」

「リンゴが木から離れて地面をめがけて落ちる」

「リンゴの種からリンゴの木が生える」

「万物は低いところを好む(アリストテレス)」

「自然は真空を嫌う(アリストテレス)」

というように自然現象を記述していく。XがYをする。XはなぜYをするのか? XはYをしたくてYをする。私たちはそう思います。そうして、そういう(X、Y)の表現形式ですべての自然現象を羅列するやり方でいくと、天動説は作れるが、地動説は作れない。

 そこへ突然、近代物理学が登場した。ニュートンが発見した数学方程式を使うことで、地動説が完璧に表現できる(一六八七年 アイザック・ニュートン自然哲学の数学的原理』既出)。そうなると、こんどは自然について(X、Y)の形で人間が表現できるすべての記述はニュートンの方程式で描き出される世界のごく一部分を表現しているに過ぎないことが分った。それが19世紀までの近代科学です。

20世紀に入って、ニュートン物理学は拡張されて相対性理論と量子理論ができあがり現代物理学の基礎が整えられた。物質世界の記述はさらに完璧なものになった。私たちの目で見えるすべての物質現象は、これらの物理学理論による方程式で計算できるようになりました。宇宙の果ても生物の進化も、巨大な銀河系の変化も原子核の崩壊もすべての物質現象はこの現代科学で説明できる、と私たち現代人は思っています。

科学の方程式は、ふつうの人間が感知できない世界のことも、もちろん、記述できる。原子力の原理、遺伝子の原理など、ふつうの人の直感ではとても想像できない。

人間が直感で感知する(X、Y)の世界(これを世界Aとします)と科学の方程式で記述できる物質世界(こちらは世界Bとしましょう)とは、互いにどういう関係になっているのか? 人間が科学を作ったという観点からは世界Aが世界Bを含む。一方、(X、Y)という形の現象はすべて科学方程式で説明できるという原理からは、世界Bが世界Aを含む。

ここで、「含む」という言葉が問題になりそうです。

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私はなぜ息をするのか(15)

2009-09-05 | xx0私はなぜ息をするのか

ようするに、「人間はトイレに行きたくなるとトイレに行って十分くらいですまして、すっきりしてもとの活動に戻るものである」という知識が(X,トイレに行く)という物事の捉え方を裏から支えている。物事の裏にあるこの知識によってXの行為が予測できるからこの行為は認知される。

人間ならだれもが、(X,トイレに行く)というシミュレーションを、Xに成り代わって自分の身体を使って簡単に実行できる。トイレの場所が違っていても、トイレの形が違っていても、男子用でも女子用でも、このシミュレーションは実用上だいたい同じ内容を表現している、といってよいからです。

このことは、「トイレに行く」という言語表現で端的にあらわされています。しかしながらここで重要なことは、言語表現以前に(X,トイレに行く)というシミュレーションが(日本語が分かる限り)だれの身体にも共有されている、ということです。このシミュレーションは人間の意識的運動を導く世界の分節化のひとつになっている。席を立ってトイレに行く。階段を降りてトイレに行く。トイレのドアを開ける。・・・。

トイレに行くことは、人によってわずかずつ違う運動様式になるし、それもいろいろな細かい運動を連ねて実行するかなり複雑な行動ですが、人間Xがだれであっても、どのような仕方でそれらの運動を実行するにしても一かたまりのシミュレーションで表現される。人間の身体を持っていれば、(日本語が分かる限り)トイレに行くというシミュレーションの意味は、だれでも自分の身体の動き方によってよく知っている。そのシミュレーションを拙稿では(X,トイレに行く)という記号で表しています。(X、Y)という形のシミュレーションを使うことで人間のする運動はすべて表現できます。そのように人間の意識的運動が分節化されているからです。

つまり、人間の意識的運動は、分節化された物事ごとに分類されていて、それぞれのシミュレーションが私たちの身体の中に作られている。物事の動きは、そのシミュレーションによって表現され、その変化の予測がなされる。こうして世界にあるもろもろの物事の変化の仕方が、人々に共有されて身体の中に予測機構の構造として(拙稿の見解では、脳の運動形成回路の最上層=言語回路の基礎になっている部分として)作りこまれています。

それらのシミュレーションに対応して、言語が作られていく。私たちの身体に作りこまれているYというシミュレーションをYという言葉で表現する。「トイレに行く」というシミュレーションを「トイレに行く」という言葉で表現する。「食べる」というシミュレーションを「食べる」という言葉で表現する。あるいは、この場合は「お食事をする」と言ってもよい。だいたいは同じシミュレーションを表現しています。

こういう動作を表す言葉で人間の運動は分節化されている。それは言葉が作られる以前に、その運動のシミュレーションが作られているからです。それはその運動の結果を予測するシミュレーションです。人間がする運動は、他人がする場合であっても自分がする場合であっても、どんな場合でもいずれかのシミュレーションによって予測できる。それは「Yをする」という言葉に結びついている。

逆にいえば、「Yをする」という言葉があるとき、その運動の結果が何を引き起こすかが、その言葉に付随するシミュレーションによって予測できる。それでその言葉の意味が分かる。換言すれば、私たちは、自分たち人間の運動をこういうふうに分節化して予測することで捉えていくような身体機構を持っている。この予測機構が人類の生存繁殖に有利に働いたから、私たちの身体はこう進化した、といえます。

この(X、Y)。XがYをする、という表現形式。Xがある目的を持ってYをするという言語の構造は、しごくあたりまえのように見えます。世の中は、すべからく(X、Y)からできている。あたりまえではないか、と思える。しかし、拙稿の見解では、これはあたりまえではない。

これは(拙稿の見解では)哺乳動物特有の生活形態に適応して進化した脳神経機構が作り出す認知構造です。哺乳動物が運動する物体を視認するときに脳の運動形成回路が共鳴する仕組みから来ている。Xがある目的を持ってYをする、という物事の捉え方は、(拙稿の見解では)獲物を追ったり捕食動物に追われたり仲間に追従したりする哺乳動物が相手の動物の動き方を予測するために便利だったから哺乳動物の神経回路の中に定着した予測計算手法です。それがさらに進化して人類の言語活動に特有な世界認知の仕組みになった拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」

言語は、(拙稿の見解では)仲間の動きと共鳴する人体の無意識なシミュレーション機構を発音運動に連携させて作られた人類特有の認知システムです。原始人類の狩猟採集生活に便利だったから進化した神経活動です。仲間の人間や獲物や猛獣の動きを捉えるのにとても便利な仕組みになっている。

Xがある目的を持ってYをする。人間や動物が動くのはそれで何かを得ようとするからだ。Yという動きをするのは、その動きの結果によってある目的を果たすためだ。Yという動きにはその目的が何かということまで現われている。と、私たちは感じる。つまり、XがYをする、と思うと同時に、私たちは、XがYをする目的を知っている。

このように目的を志向する運動とその運動を起こす主体との組み合わせとして世界の変化をとらえていく認知の仕組みは(拙稿の見解では)、人間が仲間の人間や獲物や猛獣の動きを捉えるのにとても便利だから、進化によって身体に備わった神経機構です。これは自然世界の原理原則を理解するために発達した認知方法ではありません。ただ、生存繁殖に便利だったから人間の身体に備わった便宜的な認知方法です。

私たちは、仲間の人間や獲物や猛獣の動きばかりでなく、世界の物事の変化をすべて、この形式で予測し理解する。仲間の人間との仮想運動の共鳴によって、物事の変化についての予測を共有し記憶を共有する。私たちが関心を持つあらゆる物事について、その物事が何を目的として動いていくか、その結果はどうなるか、についてだれとでも共有できる予測機構を私たちの身体は備えています。それが(拙稿の見解では)この世界をつくり、それを意識してその中で行動していく自分というものを作っています。より正確に言えば、(拙稿の見解では)私たちが、物事の変化を予測しそれを共有して行動することで、この現実世界が意識される、といえます。

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私はなぜ息をするのか(14)

2009-08-29 | xx0私はなぜ息をするのか

XがYをする。(X、Y)と書ける。このとき、Xはだれでもよくて、他人でもよいし自分でもよい。ただしこのときYはどんな行為でもよい、ということではない。Xとは、Yという行為をするようなものであってXと分かるような特徴を持っているものである。

XとYとは互いに制限しあう。「A君が息をする」とは言えても、「コップが息をする」とは言えない。「息をする」という行為をするものとしないものとがある。「Xが息をする」と言えるようなXは、私たちがそれに憑依して、運動共鳴によって息をするという行為のシミュレーションができるようなものでなくてはなりません。

こういうことは言葉をしゃべる前から、無意識に分かっている。身体で分かっている。言葉を理解し始めた幼児は、言葉の使い方と同時にこのことが分かってきます。何が息をしていて、何が息をしていないか? 幼児はしつこく親に聞く。

「ママ、ママ、コップは息しているの? コップは、息してるの? ねえ、ねえ、ママ?」と質問を繰り返しながら、「息をする」というシミュレーションを学習しているのです。息をしているものは体内に空気を出し入れしている。だから、そのものを水中に沈めてしまえば、息ができなくなる。息苦しいだろう。息ができないと生きていけない。幼児はそういうことが分かってきます。

いろいろな(X、Y)を覚えていくと、世界が分節化してくる。たとえば、世界のものは、息をするものと息をしないものに分けられる。つまり、私たちが憑依して「息をする」というシミュレーションをできるものとできないものとに分けていく。こういう知識を蓄えていくことで、私たちは世界を探索し、物事を実用的に仕分けることができる。そしてこれらの知識が言語を支えている。

私たちは、私たちの知っているシミュレーションを使って物事の予測ができる。今から世界がどう変わっていくのかを予測できる。世界の分節化は、運動共鳴と言語の使用によって仲間と共有できていきますから、私たちは物事に対応して協力しながら集団的な予測をして将来のために計画を立てることができる。こうして私たちは、分節化された世界の中で、仲間と協力しながら、変化する物事を予測し、危険を避け、有益なものを拾い集めることで生活に必要な計画をつねに更新しながら暮らしています。

たとえば、

「えーと。A君はどこ?」

「A君は、向こうのほうへ歩いていきました」

「何しにいったのかな?」

「さあ、トイレじゃないですか」

「ああそう。じゃあ戻るまで待とう」

こういう場合、この場にいる私たちは、(A君、トイレに行く)というシミュレーションを全員が共有している。それによって私たちは、A君がトイレに行ってしまった、という新しい事態に対応する計画更新を行って大過なく集団生活を続けることができる。

ここで重要なことは、私たち全員が、A君がこれからどのような行動をするかについて予測ができている、ということです。(A君、トイレに行く)という事態を把握すれば、この後、A君は何をするか予測できる。つまり、A君は、(大か小か、という多少の違いはあっても)いずれにしろ十分くらいでトイレを済ませてここへ戻ってくるだろう、という予測ができる。こういうことを予測できることが(A君、トイレに行く)という事態を認知することの本質です。

もちろん、予測はコンテキストに依存する。特殊なコンテキストでは、事態は違ってきます。たとえば、食中毒が疑われている場合、(A君、トイレに行く)という事態は深刻な予測につながります。まあ、ここでは、そういう特殊なコンテキストではなく、ふつうの場面を想像してください。

(A君、トイレに行く)という事態に際して、ふつう私たち全員が、A君は十分くらいでトイレを済ませてここへ戻ってくるだろう、という予測をする。私たちはなぜそういう予測をするのでしょうか?

(A君、トイレに行く)という場合、A君は人間です。ロボットではありません。仮にロボットの場合、(ロボットのA君、トイレに行く)となりますが、こうなるとこの後どういうことになるのか、予測はむずかしい。特殊なロボットなら別ですが、ふつうロボットはトイレには用がない。ロボットが何をしにトイレに行ったのか? だれもが首をひねってしまうでしょう。つまりこの場合、予測を共有することができない。

では話を元に戻して、やはりA君は人間であるとする。そうすると、(A君、トイレに行く)という事態のその後の予測は簡単になる。私たちのだれもが、A君は何をしにトイレに行くのか、よく分かる。そしてA君は十分くらいでトイレを済ませてここへ戻ってくるだろう、となりますね。しかし、A君がロボットなのか人間なのかで、なぜ予測が違ってくるのでしょうか?

それは私たちがロボットの身体を持っていなくて、人間の身体を持っているからです。

人間に関しては、(人間のA君、トイレに行く) という行為一般について私たちだれもが共通の知識を持っている。つまり、「人間はトイレに行きたくなるとトイレに行って十分くらいですまして、すっきりしてもとの活動に戻るものである」という知識です。

ロボットに関しては、私たちにこういう共通の知識はない。私たちはロボットではないから、ロボットがトイレに行くとするとどういう気持ちなのか、何をしたくてトイレへ行く気になるのか、さっぱり分からない。それは私たちがロボットの身体を持っていないからです。だから、(X,トイレに行く)という表現はXがロボットの場合には使えない。意味がある表現になっていない。

(ロボットのA君、トイレに行く)。

この表現は、私たちだれもが共通に分かるような意味を持っていないからです。

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私はなぜ息をするのか(13)

2009-08-22 | xx0私はなぜ息をするのか

こうして、憑依と運動共鳴を使う予測によって、私たちはこの世界を感知する。これによって客観的な物質世界(「現実1」―拙稿19章「私はここにいる」)が構成される。

また、擬人化を使って、憑依できるようなXと、運動共鳴によって予測できる行為Yの組み合わせ(X、Y)を音節列に対応させて人々が共有すれば、言語が構成されます拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」

また、私たちは、コンテキストとともに(X、Y)で表される物事を記憶する。つまり、いつ、どこで、どういう周辺状況(あるいは社会状況)でXがYをして、どうなると予測されて実際どうなったか、を記憶する。感情をともなって、それを記憶し学習する。そういう物事で構成される世界を仲間と共有し、現実として記憶する。

実際、私たち人間はこのようにだれもが同じように現実を記憶し学習する能力を持っている。そのおかげで、人間は言語を習得し社会を維持し、その中で生存と繁殖を持続する動物となっている。逆にいえば、そうして人間だれもが同じように感じとれるものを、私たちは現実と言っている。

ちなみに、途中から拙稿をお読みになっている読者のためにご案内すると、ここで使われている憑依という語は拙稿特有の用語です。もともとは「狐が憑依する」というような文例につかう語ですね。これを援用して、拙稿では、他人の身体に乗り移ったように自分の身体が動きそうになることでその人の身体の動かし方が無意識のうちに分かるというごくありふれた現象を、「その人に憑依する」という言い方でいうことにしました。

あまりうまい造語ではないような気もしますが、表現を簡潔にするには便利なので導入したしだいです。筆者は言葉使いに関しても不調法な上に単純な便宜主義者でして、しかも語感に鈍いので、とりあえず思いついたこの語を安直に使っています。この用語に特に執着があるとか、この語を使って(神秘主義的なものとか)ある種の文学的な雰囲気を出したいとかいうような気はいっさいございません。ましてこの語を普及させたいなどという大それた野心は、筆者にはまったくありません。どなたか、もっとよい用語を思いついたら教えてください。すぐ取り替えます。また、たぶんないでしょうが、この語をこのように使うことで万一どなたかに失礼となっているようならば、言っていただければお詫びの上改めます。

さて、拙稿で使う憑依という語は、語感からは神秘主義の用語あるいは形而上学的表現、または心理学的表現、のようにも聞こえますが、筆者としてはそういう含意はまったく意図していません。単純に、科学の対象となる脳神経回路の物質機構を指して使っています。もちろん、現代の脳神経科学では、拙稿のいう憑依機構に相当する神経細胞組織を解剖学的な意味では同定してはいません。他人の運動を視認する場合に活動する大脳頭頂葉上部、上側頭溝および前頭葉下部皮質の一部神経細胞の集合(ミラーニューロンと呼ばれる細胞群など)が構成する神経機構が関係ありそうですが(二〇〇七年 ヴィンセント・ライト、ゲルゲリ・シブラ、ジェイ・ベルスキー、マーク・ジョンソン『幼児の目的指向行為感知の神経系対応現象』)、詳細は分かっていません。また他人の顔の認知、識別などについての神経学的研究は盛んですが、これが拙稿のいう憑依現象をどのように表現しているかについては、現在の脳神経科学ではほとんど分かっていません。将来は、こういうマクロな認知現象をミクロな神経細胞の活動レベルで同定する科学が可能と思われますが、現代の神経科学の(脳神経画像化などの)測定技術では、とてもミクロな細胞レベルの精密測定は不可能なため、心理学や認知科学の対象であるマクロな認知現象は、神経細胞回路の機構にまで還元できていません。

さて、このような科学の現状でも、拙稿の見解では、マクロな物質現象としての憑依機構の働きは、ある程度、科学的に記述できると思われます。

拙稿ではまず、哺乳動物の脳の運動形成回路には運動感覚シミュレーションのための神経機構が付随しているという仮説を使います。この仮説によれば、対象物を視認しながら身体を動かしている場合、動物の脳神経系では、シミュレーションを伴った運動形成が行われている。そのシミュレーションには、動物の身体運動がモデルとして埋め込まれている。

拙稿の予想仮説によれば、哺乳動物が脳内に保持している身体運動モデルは運動形成回路の最上層で(X、Y)という二項状態変数によって表現されている。Xは注目する運動体を表現する状態変数で、Yは運動の予測結果を表現する状態変数です。

その身体運動モデルは、群棲動物の場合、仲間集団の群運動を表現している。群棲動物の神経系では、仲間の群れが運動すると、それに誘発されて自分の身体が自動的に動いて追従する仕組みになっている。この仕組みのための神経回路が脳にあるはずです。人類では、その回路が発展して憑依機構に進化したと(拙稿の見解では)考えられます。

憑依機構の働きによって、まず仲間の行為と自分の行為とは、同じものと感じられる。そもそも最初から区別されていない。自分の行為を感知する私たちの感覚神経系は、そもそも、(拙稿の見解では)仲間の行為を認知する神経回路と、たぶん同一のものだろうと思われる。前を歩いている人が走り出すと、まず、自分が走り出したと感じる。それから、体性感覚など意識的に点検した後で、その走る人は自分ではなくて自分は走ってはいない、と私たちは気がつくのです。

仲間のだれかが、ある行為Yをしている。それはYという結果になることが予測されます。私たちは無意識のうちにその結果を予測している。そういう場合、まず、私たちはYが起こっていることを感じる。それは自分かもしれないが、自分ではないだれかかもしれない。いずれにしろ、それはYという行為をするようなだれかです。つまり、そういうだれかがYをしている、ということがまず感じられる。

これは、たぶん、群棲動物共通の運動共鳴機構により私たちの身体が共鳴運動を開始するからでしょう。人間の場合、ふつうこの共鳴運動は脳内の仮想運動の段階で抑制されるので筋肉は動きません。しかし、行為Yは、仮想運動の予測シミュレーションとして感知される。

それから次の瞬間に、その行為YをしているものがXであると分かります。そこで、いま起こっていることを(X、Y)で表すことができる。XがYをしている。Yの結果はシミュレーションで予測できている。こういう場合、脳の憑依機構はYをしているXへの憑依を起こしているので、Xの気持ちがよく分かるわけです。Xが何をしたくてYをしているのか、その目的が分かる。逆にいえば、この場合のXとは、Yという行為をするような私たちの仲間であってXと分かるような特徴を持っているものである。

Yという行為をするような仲間は、ふつう複数あります。それらはX1、X2、X3・・・などと区別できる。X1がYをしたことが分かったとすると、その経験は(X1、Y)と表現することで記憶できます。次に同じような状況になったときには学習記憶した(X1、Y)を思い出すことで、ふたたび(X1、Y)が起こるだろうと予測できる。こうして、今後のX1の行動を予測できることで生活が便利になる。この便宜のために、(X1、Y)のような自他感知世界での憑依機構をつかう予測学習のシステムが進化して私たちの身体に備わった、と(拙稿の見解では)考えられます。

同じように、X2がYをすれば(X2、Y)と表現することで、X2の動きが分かる。

特別の場合としては、このXが自分と分かるような特徴を持っていれば、それは自分ということになる。この場合、(X、Y)は(私、Y)となって、自分の行動を表現し記憶し、予測します。

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私はなぜ息をするのか(12)

2009-08-15 | xx0私はなぜ息をするのか

それではそもそも、自分という人間を客観的な観察対象にする以前の問題として、私たちは人間の動きというものをどのように読みとっているのでしょうか? それを考えて見ましょう。

人が人の動きを感知するときは、自然に、その運動の動機を読み取る。あいつは、何のためにああしているのか? 私たちは人が動くのを見ると、すぐに、無意識のうちに、他人の行動の目的、動機、意図、意志を読み取っていきます。それで、それを言葉に表すことができる。

「A君はどこ?」「A君は、向こうのほうへ歩いていきました」「何しにいったのかな?」「さあ、トイレじゃないですか」とか、いつも、人は人の行動の意味を感じとっている。A君は、トイレに行きたいという欲望を感じたからトイレに行ったのだと思うわけです拙稿11章「欲望はなぜあるのか?」。それで、(A君、トイレに行く)という表現が思い浮かぶ。

(X、Y)。XがYをする。そもそも、私たちが使う言語は、どこの国の言葉でも、この図式で作られている。人間の動きをこうして感じとる私たちの脳神経機構の働きから、言語は作られている拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」。A君という人間が、トイレに行く、という行為をしたくてその行為をする。Xという人間がYという行為をしたくてYをする。この図式で、(X、Y)、つまり(主語、述語)、という言語の骨組みが作られている。Xが人間以外の動物の場合も同じ。さらに、Xが植物や非生物の場合も擬人法によって同じ言語形式で表現される。主語が「世界不況」や「地球温暖化」のような抽象概念の場合も比喩をつかうことで、同じ擬人化形式で表現されます。

XがYをする。この形で、人間は世界のすべてを感知する。

(A君、トイレに行く)という表現は二つの記号列「A君」と「トイレに行く」が並ぶことで作られる。このように二種類の記号(あるいは記号列)XとYの組み合わせであらゆる物事は表現される。つまり、私たち人間が認める物事は、(X、Y)というペアで成り立っている。Xはなにか人のようなものであって、Yは人がするような行為です。

私たちは、Xがそこにあると、Xがそこにある、と分かる。私たちは、XがYをすることがあると知っている。そして、XがYをすると、XがYをした、と分かる。そして、ここが重要なところですが、XはXがYをすると何が起こるかを予測してYをしようとしてYをする、と私たちは思っている。つまり、XがYをするとき、XがYをすると何が起こるかを私たちが予測してXがYをすると見なすのと同時に、XがYをすると何が起こるかをX自身が予測してYをしようとしてYをする、と私たちは思っている。

それは必ずしも、予測したとおりになるということではありません。むしろ、予測は外れることが多い。けれども、XがYをすると何が起こるかをX自身が予測してYをしようとしてYをする、と私たちは思う。そう思うとき、「XがYをする」と言葉で言うのです。

私たちは、物事をこう捉える。Xが、自分がYをすることの結果を予測してYをする。A君が、自分がトイレに行くことの結果を予測してトイレに行く。世界不況が、自分が深刻化することの結果を予測して深刻化する。

意識的運動という言葉を使えば、Xは意識的にYという運動をする。私たちがそう思うとき、(X、Y)というペアの図式で、そのことを認知する。

つまり、私たちとXとは、同時に、XがYをすると何が起こるのかを予測していて、XがYをしたときは、私たちもXも同じように、XがYをしたと分かる。その何か、はXがYをする動機、あるいは目的だといえる。私たちとXとは、ともに、Xがその目的を持ってYという行為をすることを知っている。こういう場合、「XがYをする」という言葉を使える。

「A君がトイレに行く」あるいは「世界不況が深刻化する」。どちらの文も、XがYをする結果として起こる変化を予測してその結果を起こそうという目的を持ってYという行為をすることを表しています。世界不況が深刻化するとどういう状況になるのか、不況が不況を招くようになるだろうと私たちは知っている。そして世界不況はいまやそういう状況を目指して深刻化しつつあるのです。私たちがそう思うとき、私たちは「世界不況が深刻化する」という。

私たちは、私たちがXの代わりにXに成り代わってYをするとしたら、そのとき何が起こるかが予測できる。Xに成り代わった私たちは、Yをすることで起こることを予測してそれを目的としてYをする。それを予測してそれを目的としてYをしようとするXの気持ちが私たちには分かる。

逆に、Xが私たちに成り代わってYをするとしても、Xがそうすることで何が起こるかが私たちは予測できる。つまり、私たちとXとは、互いに成り代わってYをして、そうすることでどうなるかが互いに予測できるのです。

このことは、私はXに憑依できる、またXは私たちに憑依できる、ということです。これを敷衍すれば、私というものは、だれにも憑依できるし、だれからも憑依され得るようなものである、ということになる。(拙稿の見解では)この構造が、人間の自他感知世界という現実(「現実3」―拙稿19章「私はここにいる」 を作っている。

ここで、Xを私たちが憑依できるようなものであるとして,Yを私たちがその行為の結果を予測することができるような行為であるとする。このとき(拙稿の見解では)、XとYの組み合わせ(X、Y)によって、すべての物事を分節化することができる。逆にいえば、私たちが認めることができる物事は、私たちが憑依できるようなものXと、私たちがその行為の結果を予測できるような行為Yとの組み合わせ(X、Y)として私たちは認知している。

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私はなぜ息をするのか(11)

2009-08-08 | xx0私はなぜ息をするのか

コンサート会場で鼻をかむ場面でも、身体の動きを、私たちは(拙稿の見解によれば)意思決定論で決めているのではなく、衝動的に、ヤイヤッ、と決めています。いや、決めているというよりも、身体がさきに動いて、鼻をかんでしまってから、「ああ、私はもう我慢できなかったのよね」と後から決意した理由となる感情を追認する。実際、(拙稿の見解では)意思決定はまず身体が動くことでなされる。感情も意識も後からついてくる。

後から追認しているだけなら、意識は何をしているのでしょうか? 

つまり、こういうことではないでしょうか?

コンサート会場で、いい気持ちで演奏を聴いていると、近くの席の人が突然、チーンと鼻をかむ。「ああ、この人はもう我慢できなかったのよね。でもはた迷惑な自己中心的な人だわ」と思いますね。だから、(拙稿の見解では)自分が鼻をかんだ場合もまったく同様に、鼻をかんだ人である自分自身という人間に関して「ああ、この人はもう我慢できなかったのよね。でもはた迷惑な自己中心的な人だわ」と思う。そして周りの人がそう思うのをはっきり感じるから自分が恥ずかしくなる。

私は、鼻をかんだ私を近くの席でながめている人に成り代わって、私の動作を感じとっている。私は、近くの席の人に(拙稿の用語をつかうと)憑依している。逆にいえば、私の脳の中にある(バーチャルな)その他人の観察眼が私の動作をどう感じとっているかが、私の意識というものになっているのではないか?

もしそうだとするならば、意識というものの役割は、他人(仲間集団)の目で自分自身の行動を観察し予測することだ、といえる。たしかに、こういう働きを持った意識という機構を脳内に保持していれば、いつでも客観的に自分を観察できる。これは社会生活の上でとても便利なことは明らかですね。特に、先に述べたように勝って残るか負けて消えるかのサバイバルゲームをしている競争的社会の場合、自分の動きが周りの人の感受性に及ぼす効果を客観的に読みとる機構は重要な武器です。そうであれば、類人猿の中でも特に緻密な社会をつくる人類において、意識を作りだす神経機構が進化した理由も分かりやすい。

前述したように、意識は、予測して行動をする場合に伴う。それも、人が見ていると意識は鮮明になる。つまり意識というものは(拙稿の見解によれば)、他人あるいは自分の行動の結果を、第三者(仲間集団)の視座から予測するシミュレーションとその感情評価である。人(仲間集団)が見ていると感じることで、その人に憑依して他人あるいは自分の運動シミュレーションの予測を評価する。感情が伴うので記憶は鮮明になる。

私たちが、一人でひそかになにかを考えているときも、同じです。仮想的な人(仲間集団)の視座に憑依して自分の行動を予測し評価している。深夜、一人でブログを書いているときも同じ。人生の越し方、行く末を思い起こし、案じているときも同じ。人(仲間集団)の視座から自分を見て、その自分の行動を客観的に予測するから、自分が何をしているのかが分かる。そもそも、自分という観念そのものが、このような意識の産物そのものですね(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。

また、こうすることで、自分が何をしているのかを、言葉を使って話すことができる。他人と自分とを、それぞれの人間として客観的に見ることで、言葉ができてくる拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」。人と会話するときはまさにこれですが、独り言の場合も同じです。声に出さずに頭の中で独り言をしゃべっているときもまったく同じ。

言葉を使うときはいつも、私たちは自分を他人(仲間集団)の目で見ている。そうしなければ、言葉というものは使えない。

ふつうに無意識に呼吸をしているときは、「いま私は無意識に息をしている」と言葉で言えません。言う気持ちにならないはずです。言おうと思ったとたんに、それは意識して息をしていることになってしまう。

「いま私は無意識で息をしている」と言葉で言ったとたんに、私は他人(仲間集団)の視座に憑依して自分の身体の動きを予測し評価している。声に出さずに頭の中でそういう独り言を考えただけでも同じです。

言葉を使うことによって他人の目に成り代わって自分の身体の動きを見れば、いま私は息をしている。何かを予期して息をしている。何かを予期して生きている。何を予期しているのか? 何を目的にして生きているのか? 私は何のために生きているのか? 私の人生の目的は何か? 人生とは何か? こうして、哲学の大問題ができてくる、ともいえます。

人生の問題、さらには哲学の大問題は(拙稿の見解によれば)、このように、言葉を使うことによって、自分の動きを人(仲間集団)の目で見取ろうとするから起こってくる。ここは重要です。このあたりの事情をじっくり考えてみる必要がありそうです。

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