ここで注意したいことは、アルキメデスは他人と比べて自分がどうであるかを忘れたという事態ではない、ということです。彼は自分が何をしているかを意識していなかった。アルキメデスの原理を発見したことを純粋に喜んでいるだけで、喜んでいる自分というものも意識していません。
こういう場合、日本語では「無我夢中」とか「我知らず」とかいう。逆に言えば、こういう場合以外は、私たちは我を知っている、ということです。
つまり私たちは、いつでもこう思っている。私は、私が何者であるか、私が今何をしているか、よく知っている。だれかが私を見れば、私が何者であるか、私が今何をしているか、すぐに分かる。私はいつもこういうことをよく知りながら行動しているのだ。そう思っていますね。
さてここで、拙稿の興味としては、なぜ私たちはこういうことをよく知りながら行動しているのだろうか、という問題です。人間以外の動物は、自分が何者であるか、今何をしているか、分かっているとは思えませんね。たとえば猫は「吾輩は猫である」などと思っていないでしょう。ニャーと鳴いて餌をねだっているときでも、自分は餌をねだっているとは思わないでしょう。人間でも赤ちゃんはそうです。「私は赤ちゃんである」などと思っていないでしょうし、「さてこれから泣いてミルクをねだろう」などと計画して泣いているのではないでしょう。
猫は自分自身を知らない。赤ちゃんも自分自身を知らない。人間の大人だけが、自分自身をよく知っている、自分が何者であるか、とか、自分は今何をしているか、とか、これから何をすべきか、とかを知っている。あるいは、知っているべきだ、と思っている。
こういう問題は、ふつう、自意識の存在問題とされています。人間だけが自意識を持っている。人間性の神秘だ、あるいは神の摂理だ、といわれる。しかし拙稿ではもう少し深いところを探りたいので、自意識という使いなれた言葉を避けましょう。自意識と何か、という設問はしません。もっと素朴な、私はなぜ私を知っているのか、という疑問から入っていきます。
さて、拙稿のアプローチとしては、私はなぜ私を知っているのか、と問う前に、私はなぜある人物、たとえば山田さん、を知っているのか、を問題にしたい。
私は隣の山田さんを知っている。山田さんは二年くらい前に隣に引っ越してきたらしい。道で会うとき挨拶するくらいですが、顔を見ればお互いにすぐ分かります。先日新宿駅の雑踏の中で偶然すれ違いましたが、あの山田さんだと分かりました。声をかけたら、一瞬あっと驚いた顔をしてから「あ、こんなところで」と笑顔であいさつを交わしました。
こういうふうに私は隣の山田さんを知っているが、これが六本木ヒルズにあるスターバックスの店員さんだとどうか? 一年に何回かはその店でコーヒーを飲んでいるけれども、カウンターで応対してくれた店員さんがだれだったかは全然覚えていない。だれかが応対してくれたはずであることは間違いないけれども、覚える気もなければ、実際覚えてもいない。
隣の山田さんの人格は私の心の中にあって、スターバックスの店員さんの人格はそこにない、ということなのか?隣の山田さんの人格を呼び起こすデータが私の脳神経のどこかの回路に格納されている、ということなのか?
私が隣の山田さんを知っているということは、どういうことなのか?山田さんが目の前にいないのに、私が、今自分は山田さんを知っていると確信できるのはなぜなのか?私の脳のどこかに山田さんが入り込んでいるのか?脳神経科学でもよく分かっていないようです。というよりも、科学だけで分ることでもないでしょう。