哲学の科学

science of philosophy

私を知る私(2)

2012-06-30 | xxx0私を知る私

ここで注意したいことは、アルキメデスは他人と比べて自分がどうであるかを忘れたという事態ではない、ということです。彼は自分が何をしているかを意識していなかった。アルキメデスの原理を発見したことを純粋に喜んでいるだけで、喜んでいる自分というものも意識していません。

こういう場合、日本語では「無我夢中」とか「我知らず」とかいう。逆に言えば、こういう場合以外は、私たちは我を知っている、ということです。

つまり私たちは、いつでもこう思っている。私は、私が何者であるか、私が今何をしているか、よく知っている。だれかが私を見れば、私が何者であるか、私が今何をしているか、すぐに分かる。私はいつもこういうことをよく知りながら行動しているのだ。そう思っていますね。

さてここで、拙稿の興味としては、なぜ私たちはこういうことをよく知りながら行動しているのだろうか、という問題です。人間以外の動物は、自分が何者であるか、今何をしているか、分かっているとは思えませんね。たとえば猫は「吾輩は猫である」などと思っていないでしょう。ニャーと鳴いて餌をねだっているときでも、自分は餌をねだっているとは思わないでしょう。人間でも赤ちゃんはそうです。「私は赤ちゃんである」などと思っていないでしょうし、「さてこれから泣いてミルクをねだろう」などと計画して泣いているのではないでしょう。

猫は自分自身を知らない。赤ちゃんも自分自身を知らない。人間の大人だけが、自分自身をよく知っている、自分が何者であるか、とか、自分は今何をしているか、とか、これから何をすべきか、とかを知っている。あるいは、知っているべきだ、と思っている。

こういう問題は、ふつう、自意識の存在問題とされています。人間だけが自意識を持っている。人間性の神秘だ、あるいは神の摂理だ、といわれる。しかし拙稿ではもう少し深いところを探りたいので、自意識という使いなれた言葉を避けましょう。自意識と何か、という設問はしません。もっと素朴な、私はなぜ私を知っているのか、という疑問から入っていきます。

さて、拙稿のアプローチとしては、私はなぜ私を知っているのか、と問う前に、私はなぜある人物、たとえば山田さん、を知っているのか、を問題にしたい。

私は隣の山田さんを知っている。山田さんは二年くらい前に隣に引っ越してきたらしい。道で会うとき挨拶するくらいですが、顔を見ればお互いにすぐ分かります。先日新宿駅の雑踏の中で偶然すれ違いましたが、あの山田さんだと分かりました。声をかけたら、一瞬あっと驚いた顔をしてから「あ、こんなところで」と笑顔であいさつを交わしました。

こういうふうに私は隣の山田さんを知っているが、これが六本木ヒルズにあるスターバックスの店員さんだとどうか? 一年に何回かはその店でコーヒーを飲んでいるけれども、カウンターで応対してくれた店員さんがだれだったかは全然覚えていない。だれかが応対してくれたはずであることは間違いないけれども、覚える気もなければ、実際覚えてもいない。

隣の山田さんの人格は私の心の中にあって、スターバックスの店員さんの人格はそこにない、ということなのか?隣の山田さんの人格を呼び起こすデータが私の脳神経のどこかの回路に格納されている、ということなのか?

私が隣の山田さんを知っているということは、どういうことなのか?山田さんが目の前にいないのに、私が、今自分は山田さんを知っていると確信できるのはなぜなのか?私の脳のどこかに山田さんが入り込んでいるのか?脳神経科学でもよく分かっていないようです。というよりも、科学だけで分ることでもないでしょう。

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私を知る私(1)

2012-06-23 | xxx0私を知る私

(30 私を知る私 begin

30 私を知る私

汝自身を知れ」とソクラテス が言ったということですが、自分自身を知るというのはむずかしい。年を取ると、鏡に映る自分を眺めるということもめったにしませんが、風呂場の鏡に裸が映ったりすると、ありゃこんなに太っ腹だったか、やはり食べ過ぎだな、と思います。

筑波山の四六のガマは鏡に映った自分の姿があまりに醜いので脂汗を流す。

手前もちいだしたるは、四六のガマの油だ、お立ちあい。このガマの油を取るには、四方に鏡を立て、下に金網を敷き、その中にガマを追い込む。鏡に映るおのれを見てその醜さに驚き、たらーり、たらりと、脂汗を流す。これを下の金網にてすき取り、柳の小枝をもって、三七二十一日の間、とろーり、とろりと、煮詰めたるのがこのガマの油だ」

私たちも、脂汗を流すほどではありませんが、裸の自分の姿を正視するということは、ガマでなくとも、ちょっと緊張するようなところがありませんか?

裸の自分を風呂場の鏡で見るのが、自分を知ることになるのかどうか?ちょっと違うような気がしますが、しかしいずれにせよ、改めて考えてみると、自分を知るということはどういうことなのか?そもそも人間が自分を知るということはできるものなのか?などという疑問がでてきます(稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」 )。

私を知る私とは何か? 拙稿本章では、これを考えてみましょう。

孫子の兵法 にあります。

知彼知己百戰不殆不知彼而知己一勝一負不知彼不知己?

戰必殆(敵を知り己を知れば百戦して危うからず。敵を知らずして己を知れば一勝一敗となる。敵を知らずして己をも知らなければ戦うたびに危うい)。

自分を知ることは、つまり、戦いに勝つために必要です。自分の射撃命中率はどの程度か?自分は逃げ足が速いか遅いか?味方のはずの味方はいざというときに味方をしてくれるのか?

いつも自分がどういう強み弱みを持っているか、どういう立場にいるか、を自覚しておく。社会の中で人生をうまく生き抜いていくためにも、ぜひ身に着けたい習慣ですね。汝自身を知れ」という格言もソクラテス が言ったというので哲学の言葉になっていますが、実はソクラテスの前からあって、単に古代ギリシア人の処世術を教える箴言だったという説があります。ただし、現代のギリシア人が自分自身を特によく知っているのかどうか分かりません。

さてそういうことで古代ギリシア人もそうだったでしょうが、世間をうまくわたっていくために、私たち現代人もますます自分自身を知る必要がありそうです。

兵法や処世術以前の問題として、もっと重要なことですが、身体で感じる直感としても、たしかに私たちは自分がどう動くシステムであるのかを知らないと危なそうだ、とか、損しそうだ、とかいう気がします。この感覚はたぶん正しいでしょう。しかしその感覚はどこから来るのか?よく分かりません。そもそも私たちは、何のために自分を知る必要があるのか?なぜそうしなければならないという気がするのか? まずこの辺から調べていきましょう。

たとえば家から駅まで歩いていくのに五分かかるだろうとか、私たちは知っています。運動選手が全速で走れば三十秒くらいで行ってしまうでしょう。ふつうの人が走っていけば二分くらいかな。しかし坂があるし、運動不足の人は息が切れてしまうでしょう。息が切れても二分くらいなら走っていけます。しかし年寄りの筆者など、走ったりして転んで骨折したりしたら人様にも迷惑をかけてしまいます。急いでも歩くしかありません。自分の身体の能力を知っているから、急がなくて済むように時間をみて家を出ます。

こういうように私たちは自分を知る。自分の能力の限界を知る。優れた人を見て、自分も同じようにできる、などと思ってはいけない。能力の範囲内でこつこつと努力することです。

こういう文脈では、自分を知るということは、他人と比べるということを言っています。

では逆に、自分を知らないという言い方は、どういうときに使うのでしょうか?

これもまず他人と比べての場合に使います。「己の分際をわきまえず」などと言います。しかし、現代ではあまり使わないかもしれません。それよりも、自分を知らない、という言い方は「我知らず」とか「我を忘れて」とかいう場合が多い。これは「忘我」とか「無我夢中」とかいう表現にも通じて、現代でも頻繁に使われています。

アルキメデスアルキメデスの原理を発見した際、「エウリカ 」と叫びながら全裸で街に飛び出したとされていますが、これが無我夢中という状態の典型です。つまり服を着ていない状態で街を走るとストリーキングということで、おまわりさんに捕まるとか、皆に笑われたり変人と思われて評判を落としたりとか、まずいことになるので、ふつうしない。ところが、アルキメデスの場合、そういう些細なことが全く気にならないほど、夢中になっていた、ということです。

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生きるという生き方(11)

2012-06-16 | xx9生きるという生き方

そうはいっても、私たちはつい、「私って何?」という疑問を口にしてしまいます。それは仕方のないことなのです。私たちの身体はそうなるように作られているのですから。

私たち人間は(拙稿の見解によれば)仲間との共鳴によってこの現実を作りだし、それを共有し、その変化を予測することでその現実の中に人が生きていると思い、自分が生きていると思う。そのように(現実を共有)することによって生存効率の高い緊密な社会を維持し、高密度の人口を維持している。そういうシステムとして人類は進化した、といえます。

このように、私たちが当たり前と思っている、現実世界の中を生きる人間の生き方というものは、人類特有の進化現象の結果としてできあがった特殊なシステムである、という見方ができます。いずれにせよ、私たち人間は、だれもがこの現実世界を生きるという生き方をしているのが事実であって、(赤ちゃんや認知症の老人を除いては)そういう生き方しかできないということもまた事実です。

29 生きるという生き方 end

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生きるという生き方(10)

2012-06-10 | xx9生きるという生き方

ちなみに、人間が作る理論はどれも恣意的な部分を含んでいます。どんな理論でも,はじめは、思いつきで、好き勝手に作られていく面がある。いい加減に思いつきで作られた仮説が、いろいろな人が使ってみているうちに、経験によって修正されて、実用的なものに変わっていきます。そうしてしっかり実用価値がでてくると、それには権威が備わってきて、変えることができなくなる。

皆がそう思い込むようになって世間に定着することに成功したそういう理論も、実は最初に理論が出来上がるときはたいした理由もなく作られてしまう根拠のない恣意的な部分が残っています。実際は、かなり多くの部分でしょう。

たとえば「むずかしい話を聞くと肩がこる」という理論があります。日本人以外の人に翻訳して言ってみても全く理解されません。医学者に聞いても根拠はない、というでしょう。しかし世間話など会話に使うと便利です。会話をつなぐのに便利であるという理由だけで、実は、筆者も使っています。

そもそもなぜキーボードの左上はQでその右はWなのか?円周率はなぜパイというのか?カッパでもいいじゃないか?私たちの算数はなぜ十進法を使うのか?三進法のほうが便利じゃないか? と言うことはできても、実際は、初めにだれかが勝手に作ったものを最後はだれもが使っている。

少数の人々の間で、はじめに思いつきで理論が作られるとき、その小集団にとって、これはそういうことにするほうが分かりやすい、とかあるいは、語り合う場合に使いやすい、あるいは単に声が大きい人のいうことにひきずられて、というようなことで広く使われるようになり、広まっていく傾向があります。

根拠もなく恣意的に、理論のその部分は出来上がります。理論全体として実用上、語り合いやすくて、それで差し障りがなければ、理論のその恣意的な部分は全体とともに継承されていきます。

ただし、理論の恣意的な部分については、それがそれだけに限られる理由は説明されませんから、本当かな、ほかにも理論がありそうだ、という感じがしてしまいます。

実際、私たちは現実を説明するどの理論についても、恣意的なものと感じる部分があり、そこは他の理論もありそうだ、と(ひそかに)感じています。宗教の教義については古来多くありますし、現代科学が説明する物質世界像に関してさえも、別の理論があるという主張(多元宇宙論、タイムスリップなど)が繰り返し出てきます。

そこで、この現実世界のほかにも別の世界がありそうだ、とか、この現実世界は私の外部であって私の内部には他の何かがある、とかいう思いがでてきます(拙稿23章「人類最大の謎」

)。実際、それら現実世界のほかの世界、精神世界、独我論、あの世、死後の世界などは、古来の宗教、哲学によってそれぞれの理論として提唱されています。

しかし私たちの身体感覚にもとづく現実世界を説明する理論としては、科学や世間常識以外の理論は、恣意的に感じられる度合が大きすぎて、誰もが納得するものになっていません。

特に、宗教や哲学の理論はどれもかなり恣意的になっています。身体感覚にもとづく目の前の現実のもっともらしさに比べると、これらの理論は納得しにくいところが多いと思われます。

現実世界のほかの別世界の存在を語る理論は(拙稿の見解によれば)どれも間違いというべきでしょう(拙稿第1部 哲学はなぜ間違うのか?)。拙稿の見解では、私の内部と外部などない(拙稿19章「私はここにいる )。この現実世界は私の内部でも外部でもない。現実世界がこのようにあるかのように私の身体が感じ取り、その現実世界の中に私がいるかのように私の身体が感じ取り、その私の外部に現実世界があり内部にそれとは別に私の内部があるかのように私の身体が感じ取ることは間違いありませんが、それら(現実世界、私自身、私の外部と内部)が存在する、といえる理由はありません。私たちの身体の構造がそう感じ取るようになっている、というだけでしょう。

このように考えてくると、結局、「私って何?」という疑問を持つことは間違いです。つまり哲学、とくに形而上学の問題は、実は問題ではないのに問題であるかのように見える、いわば偽問題である、といえます。私たち人間は(拙稿の見解によれば)自分たちの身体が作り出す現実世界といういわばバーチャルな環境を身にまとって生きています。哲学問題は、その現実世界を自分たちの身体と関係なく実在すると思い込んでしまうために出てくる偽問題です。

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生きるという生き方(9)

2012-06-02 | xx9生きるという生き方

その行き止まりの中で私たちは生きている。人間はだれもそうです。それはかつて哲学者たちが形而上学 と呼んだ問題ですが、(拙稿の見解では)これは実は高尚な哲学問題であるというよりも私たちの体感が(錯覚として)こう感じさせるのであって、それは私たち人間の身体が(進化により)そう作られているから、という理由以外の理由はありません。

私たち人間にとってこの現実の現れ方は、それ以外には何もないという意味で、すべてが現れている、といえます。目や耳で感じられる光景や音声が確かなものだと感じられることとまったく同じように確かに、この現実世界全体の存在を、私たちの身体はいつも感じ取っています。

それは人間の身体の物質的な構造そのものから来るからです。この身体の中に生きる私たちもまた、この身体が感じ取る現実以外に何か他のものを感じ取ることはできようがない、というべきでしょう。何か他にあるはずだ、と思うことは幻想です。

私たち人間は、身体が感じとる現実世界の存在感、あるいは実在感、という錯覚に惑わされるように進化したおかげで繁殖に大成功した動物です(拙稿第一部 哲学はなぜ間違うのか・第4章「世界という錯覚を共有する動物」 )。私たちは、身体が感じ取る身の周りの物事の存在感を手がかりにして、仲間とそれを共有することで客観的現実世界全体を感じ取り、さらにその上に言語を作り上げ、言語を使って文化を作りあげることで、皆で共有する現実世界を安定化し、そこにいろいろな理論を作って日常生活に使っています。

逆に言えば、仲間が感じ取っているはずの現実をそのまま現実として感じ取るように作られた身体を持っていることが、人類が緊密な社会を維持し生存繁殖するために大いに便利であったから、私たち現代人は、そう感じ取る身体を持っている、と考えることができます。

私たちが現実について語るとき、日常会話、世間話、仕事上の会話、政治、科学、神学その他すべてのコミュニケーションや言語表現は、このように共有する現実の上に作られた種々の理論について語り合っている、といえます。

そういう理論として、人はだれも自分だけが知っている自分の心がある(拙稿第2部8章「心はなぜあるのか?」)、とか、人にはその人だけの人生がある(拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか?」 )、とかを問題にする考えがあります。私たちはそれが当たり前だと思い、別にそれが理論であるとは思っていません。しかしこれらは皆がそう思っているというだけの理論でしょう。そのような理論の中から、私の本当の心はどこにあるか、とか、この現実に生きる私の人生の意味は何か、というような哲学的疑問がでてくる。

人はだれも自分だけが知っている自分の心がある、という理論があるから、私の本当の心はどこにあるか、という哲学的疑問が出てくる。人にはその人だけの人生がある、という理論から、現実に生きる私の人生の意味は何か、という疑問が出てくる。そういう理論ができてしまったからこういう哲学的問題が出てきてしまった。問題はこういう構造になっています。

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