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哲学の科学

science of philosophy

苦痛はなぜあるのか(3)

2007-10-06 | x1苦痛はなぜあるのか

さて、他人が物質に何かをしている光景を見て私がはっきりと感じられるものは、その物質がその人の視覚にどう見えるか、聴覚にどう聞こえるか、触覚にどう触れるか、ということです。その物質が人間の場合、つまり、私以外の人間が、第三の人間に何かしているのを私が見て、私が感じられることは、やはり、第二の人から見て、第三の人がどう見えるか、その声がどう聞こえるか、その身体に触るとどう感じられるか、くらいなものです。第二の人が第三の人の苦痛をどう感じるか、第三の人の心をどう感じるか、ということは私には、ぼんやりと分かるような気もしますが、実ははっきりとは感じられません。

人間が人間を見て直接分かることは、こんな程度です。慧眼の士は人心の奥を見抜く、とはいわれますが、それは、いかに優れてはいても、経験と理論による推測であって直接の感覚ではないでしょう。こういう事情から、人間がこの世界で自分の身体以外のことで、直接はっきりと分かることは、基本的に視覚と聴覚と触覚で感じられる物質現象だけから作られている。自分だけでなく、だれが見てもそう見える、と思われるものごとは、物質現象だけです。そういうものが、この世、つまり現実世界だ、と私たちは思っている。

視覚と聴覚と触覚でだれもが感じられると思われるものごとだけから私たちの脳内に作られた模型が物質世界だとすると、そこに含まれるものは当然、私が感じるもの全体ではなく、その一部分でしかありません。つまり、私の感じる自分自身の、あるいは他人の、苦痛、かゆみ、物質の存在感、感情、あるいは命、心、というようなものは目に見えず、耳に聞こえず、手で触れません。視覚と聴覚と触覚で、だれもが同時に感じられて、指差せるようなものごとではない。これらは、だから、物質世界から見ると錯覚でしかない。こういうものの存在感は、主観的には、私たちはそれぞれ身体の内部でかなり強く感じられますが、客観的には、だれとも共有できる物質世界の中にはないことも明らかです。だから、苦痛やかゆみなどの主観的感覚を客観的な物質世界の中で探そうとすると、いくら科学を極めてもどうしても見つからないのです。

客観的な物質世界には、命や心が存在しないのと同じ理由で、苦痛も存在しない。本人が苦痛を感じるというときに活動している神経機構が、物質としてのその人の脳の中に存在する、ということだけが物質世界での事実です。他人の脳の神経機構が苦痛を感じているらしい化学変化を示すところを顕微鏡で見ることができたとしても、私たちは、他人の苦痛そのものを感じることはできない。

たしかに、他人の表情や声色や、傷からの出血などの具合から、直感的に他人の苦痛を感じ取る神経機構が、私たちの脳には備わっているらしいという科学的証拠はある。しかし、その神経機構の感度も個人差があるらしく、鈍感な人と敏感な人の差はかなりありそうです。

その棘が痛い、と感じたとき、本当にそこにある棘が痛いのか? 隣の人に聞いてみた場合に「そうだよ。その棘は痛いよ」と言ってくれれば、その棘は、やはり痛いのだな、と思えばよいわけです。「刺されたことがないから分からない」と言われてしまえば、もう、その棘が痛いと言っても人には通じない。その棘が痛い、という言葉の意味はないことになります。隣の人がどう言うかによって、棘は痛かったり、痛くなかったりする。このことは、痛みというものが、棘という物質のなかにあるものではないことを示している。つまり痛みは物質に含まれているものではないのです。

では、自分の手が痛い、と感じたとき、本当に手が痛いのか? 目に見えるその右手が痛いのでしょうか? 切り傷があって血が出ているし、皮膚も赤くなっている。触ってそこを押してみるとずきんと痛みを感じる。どう見ても、明らかに目に見える右手の傷が痛んでいるらしい。

でも、痛みを感じているのは右手そのものではないでしょう? その証拠に麻酔によって右手から脳に来る神経信号を遮断すると痛みは感じられなくなる。では、痛みは脳にあるのか? 脳細胞を顕微鏡で見てもはっきりと痛みを示している物質は見えない。ある種の神経伝達物質が分泌され一群の脳神経細胞が活動していることが、その手の傷の痛みだ、ということになるのでしょうか? そう言われれば、そういう気がしてきます。でも、それは、手の傷を見て、ここが痛い、と思うことと同じでしょう? 身体のその部分から痛みが発生している、といわれれば、そこから痛みが来るような気になる。それは暗示によってそう思うだけです。実際、私の肉体、私の脳、という物質のどこかに、今感じているこの痛みが、本当にあるのか? 

そういう気がする、というだけでしょう。そういう気がすると、私たちは物質に痛みがあるように感じる。バラの棘に痛みがある。自分の手の傷に痛みがある。脳の神経細胞の活動に痛みがある。どれも暗示による錯覚といえる。そういう気がするというだけです。

私は間違いなく苦痛を感じる。けれどもその苦痛は、この物質世界にはない。私が感じるものが、すべて、この世界に存在しなければならない理由などないわけです。むしろ私が感じるものの一部分だけが、この物質世界を作っている。特に視覚と触覚と聴覚で、私がそこにあると感じるものだけが、仲間の人間と一緒にそれを観察することができてその存在感を明らかに共感できることで、この物質世界を作っているのです。

バラの棘が痛い、ということで話が通じれば、棘に苦痛がある。手の傷が痛い、ということで話が通じれば、手に苦痛がある、ということです。それは苦痛が物質世界に投影された錯覚です。同じように、脳が苦痛を感じる、ということで科学者の間で話が通じるとしても、それは物質世界に投影された錯覚について、話し合っているのです。

「あの人に苦痛がある」という言い方の意味は、「私が苦痛を感じるようにあの人も苦痛を感じるのではないかと私は感じる」ということでしょう? そして、「(話し手が聞き手に向かって)あなたも私も、それぞれ自分の身体で感じられる苦痛を、お互いに理解できるということにしましょう。その上で、あの人も同じような苦痛を感じていると想像しましょう」、という暗黙の了解を求めている。もちろん、私たちがいつも、こんなふうに論理的な図式を意識して言葉を使っているわけではありませんが、無意識の直感で人の苦痛の表情を見て取り苦痛を感じ取ると同時に、こういう図式を暗黙の前提として「あの人に苦痛がある」という言葉を発するのです。聞き手も同じ前提を直感で理解していて「あの人に苦痛がある」という言い方を受け取る。このような会話をしているとき、私たちは必ずしも、この物質世界のどこかに苦痛という実体が存在する、といっているのではありません。スムーズに話を通じさせるために、言い換えれば、その苦痛が想像できるということの共感を共有するために、「苦痛がある」という便利な言い方を使うことにしているのです。

世界の捉え方と言語のあり方との関係を厳しく観察した二十世紀の哲学者たちは、苦痛をよい例題として自説の議論展開に使いました。たとえば、苦痛そのものの存在とは関係なく苦痛という言葉は使われる(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』既出)という考えや、苦痛を感じるということは、感じている人間の脳(あるいはロボットの電子回路)などの状態ときっちり対応しているのではなく、その物理的システムの具体的仕組みだけからは説明しきれない上位の機能として捉えるべきだ(一九八八年ヒラリー・パトナム 『表現と現実』既出)、という考えなどが、現代哲学の考え方を代表しています(これらの考えの筋道は拙稿の論法と似ていますが結論は違うので注意→第13章で存在について拙稿の見解を述べる予定)。

「苦痛は人体のどこに存在するか?」と聞いてしまうと、私の人体も脳も含めてこの物質世界には苦痛は存在しない、という答えになる。苦痛は、人体のどこかの部分にそれが存在するという言い方をするときには意味がなくて、ある人が(主体として)それを感じる、というときにだけ意味があるわけです(一九六九年 ダニエル・デネット『説明の個人および部分個人レベル』)。

ほかにも苦痛に関して、現代哲学では、いろいろ面白い論議がされています。たとえば、苦痛という素朴な心的表現を避けてうまく別の言葉で表現することで、苦痛を客観的に捉えようという試みが、研究されています。「苦痛」といわずに「苦痛があるようにみえる行動を起こすもの」ということにすれば、それは脳のある物質的状態を指すから、そうやって苦痛を物質現象として決め付けられる(一九八〇年 ソール・クリプキ『命名と必要』既出)とか、いやそれはだめだ、気違いとか火星人がする苦痛のような行動は脳の状態が違うだろう(一九八〇年 デイヴィッド・ルイス『狂人の苦痛と火星人の苦痛』)とか、興味深い諸説があります。ちなみに筆者の見解は、苦痛とみえる行動に対応する(脳状態など)物質現象が決め付けられるかどうかというような議論は重要ではなく、その(自分のも含む)人体の変化として観察する私たち観察者の脳機構がそれを苦痛と感じることが重要であり、それ(苦痛と思えること)が苦痛の意味だ、というものです。

私たちが苦痛と言っているものは、この客観的物質世界には存在しないという意味で、錯覚というべきものです。私たち人間は、人の表情や声色など運動の外的な表れ方と自分自身の内部感覚とを手がかりにして、それが存在しているかのごとく言葉で言い表すことで、(前述の心や欲望と同じように)その錯覚を共有し便利に使っているわけです。(存在については、次次章で拙稿の見解を述べる予定)。

11  苦痛はなぜあるのか  end

12 私はなぜあるのか?

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苦痛はなぜあるのか(2)

2007-09-29 | x1苦痛はなぜあるのか

 生老病死、つまり生まれてから死ぬまで人生は全部,苦痛だ、ともいえる。苦痛は嫌なものだ、と現代人は思っている。しかし、人間が苦痛を感じるのは、それが生存生殖に役立つからです。痛みは情報であり、それ以前に身体を強制的に動かしてくれる。

痛い棘から反射的に手を引っ込めることで、損傷を防げる。この反射は棘の視覚パターンと組になって脳の辺縁系に記憶され、棘を見ると自動的に手を引っ込めるという条件反射を学習できる。さらに、手を傷めた痛みの記憶はその前後の出来事とつながったエピソードとして大脳に記憶され、「棘のある木は嫌な木」という教訓が身につく。全部、生存生殖に役立つ仕組みです。逆に言えば、私たちの先祖の生存に役立ったから痛みを感じる神経系が私たちの身体に備わっているのです。

 「孤独に生きることは苦しい。死ぬのは恐ろしい」というような哲学的(文学的?)な痛み、というか悩み、苦しみ、というものも、一人一人の人間が、そのように悩み、苦しむことが人類の存続に役立つから、その感情を作り出す機能が人類の脳に備わった、といえる。自分の孤独、自分の死、というイメージが脳の感情回路に深くつながっているから、そういう感覚が生じる。さびしくなって異性と仲良くしたり、死にたくないので生き永らえる努力をしたりして、種族繁殖の成功率が上がる仕組みです。

 そうは言っても、本人にとっては、苦痛は嫌なものです。

苦痛が嫌な理由の一つは、それを他人と共有できないから、ということがあります。人に分かってもらえないから、余計苦しいのです。

昔の生活では、仲間と一緒にいっせいにバラをつかんでしまって、「イッターイ」と全員で叫び声をあげる、という場面がしばしばあった。現代人の生活では、だれもが同じ棘に刺されて痛くなる状況などは例外です。現代生活で数少ない例を探せば、たとえば、学校でする予防注射。集団で受ける注射が痛い、という場合の感覚は、仲間と一緒に見ている客観的物質世界の「注射」という実体に対応する。この場合、痛覚が視覚と通じる。自分が見えるものは他人も見えます。痛みが見える場合は、自分が痛いものは他人も痛い。

こういう場合はよいのですが、頭痛、腰痛など現代人が特に悩んでいる苦痛は、他人と共有できないものが多いようです。それで、現代、ますます苦痛は嫌われるようになってきているのでしょう。

筆者の場合の腰痛など、本人はすごく痛いのに、見た目では分らない。仮病のようにも見える。腰に手を当てて、「イタタタ」と顔をしかめるけれども、うそかもしれない。素直な人は「痛そう!」と同情する。それでも、他人の痛みは分からないということは、だれもよく知っている。まず自分の痛みの経験を思い出して類推するしかない、と思っています。その類推が、本人の痛みにかなり近いものなのか、ぜんぜん見当違いなのか、だれがどういう痛みを感じているのか、あるいは、どういう痛みを類推しているのか、実は、だれもさっぱり分らない、というのが実情なのではないでしょうか?

ちなみに、筆者は若い頃から腰痛もちで、数年ごとに数日間連続する激痛を繰り返し経験してきました。あそこまで痛いと錯乱寸前になって呻いているしかないわけですが、そのときでも、痛いところは自分の腰だ、ということだけは、ますますはっきり分かっています。神経がそういうふうに脳に信号を送ってくる。結局、脳の中にある物質世界のモデルの、さらにその中にある自分の腰のモデルに、間違いなくきちんと、その痛みの信号を貼り付けている。人間の脳はよくできているものだ、と鎮痛剤が効いている激痛の合間に感心したりする。

自分の身体の痛みに関しては、こういうふうに、身体から神経を伝わってくる痛みの信号を脳内にある自分の身体のモデルに貼り付けることで、痛さも痛い場所もよく分かるのですが、他人の痛みは、神経がつながっていないので痛みの信号が伝わってくるはずがありません。

結局、目や耳で感じ取るしかない。

つまり、その人の顔のしかめ方を見たり、呻き声を聞いたりすることで、他人の痛みをある程度(感受性の高い人はかなりの程度)、感じられるような気がしたり、想像したりはできるものの、自分が痛むときのように身体の芯にまで響く、という感じ方は、ふつう、できません。(双子の兄弟などは、それを感じる、という話がありますが)

理論的に言えば、他人の痛みというものは、存在するのかどうか、感覚ではその存在感がはっきりとは感じられない、ということになる。ただ、その人の身体の作りは自分と同じはずだから、自分と同じように痛みを感じているはずだ、という理論的類推がなりたつだけです。その類推から、「痛そうだな」というイメージが出てくる。しかし身体のつくりが違う場合は類推もできません。男は女の子宮の痛みは分らない、などとなってしまうわけです。

 視覚と触覚だけを基礎にして組み上げられた客観的物質世界には、苦痛は存在しません。科学の世界は視覚と触覚だけを基礎に組み上げられた物質世界をさらに理論化したものですから、当然、痛覚の表現はできない。医学は、もちろん、こういう科学的な物質世界を土台にして組み上げられている。したがって科学を深く理解している優秀な医師ほど、実は患者の苦痛を理解できない、という皮肉な現実になっています。

 私は苦痛をはっきりと感じるのに、その苦痛を他人に見せることができない。それを自分の目で見ることもできない。つまりこの物質世界には私の苦痛は存在しない、といえる。私が感じる苦痛はこの物質世界の中にある私の身体に投射されて、そこが痛む、と感じる。けれども、それを他人に感じさせることができないということは、この客観的物質世界には私の痛みは存在しない、それは私だけが脳内で感じる錯覚だ、ということになります。

別の言い方をすれば、この物質世界は私の苦痛を表現できないということは、この物質世界は私より小さい、ともいえるわけです。私の感じる苦痛、感情、心、欲望というものを含むことができないこの物質世界は、私にとってのすべてではない、ということでしょう。

しかしながら、それは、この物質世界の他に別の世界があるということにはなりません。視覚と聴覚と触覚によって、他人と共有できるものが物質世界の全体です。物質の他にも存在するものがある、などと言い出すと、存在という言葉が限りなく混乱していく。それでは間違った哲学に行ってしまいます。哲学者も科学者もよく間違える分かれ道です。

ここで、すこし慎重に考えてみましょう。まず、私の目の前に見えるこのありふれた物たち、この机とか、パソコンとか、私の手、これらが(あたりまえですが)はっきりと見えることをどう考えるか(こういうことをいう哲学を現象学という。最近の論議はたとえば二〇〇七年 ピーター・カルーサーズ、ベネディクト・ヴェイエ『現象学的概念戦略』)。

だれの目にも見えるこれらは物質ですね。さて、ここで問題は、物質以外のものごとも私たち人間は感じる。たとえば、痛みとか、かゆみとか、感情とか、物質でないものを、人間はふつう、むしろ強く感じるわけです。こういうような、ふつうに感じるものごと全体の中にふつうの物質も含まれている、といえる。つまりこの私の肉体を含んだだれの目にも見える物質世界全体、は私が感じるものの一部分でしかない、ということになる。

私たちは、明らかに人の苦痛を感じ、感情を感じ、人の心や欲望などを感じます。もちろん、自分の苦痛や感情もはっきりと感じる。しかしそれらは、この客観的な物質世界の中にあるわけではない。たしかに、この世に存在する物質としての人間の肉体は、明らかに苦痛や感情を表わしているかのように、表情を歪めたり呻いたりする。その姿や声は目に見え耳に聞こえるから、現実の物質現象です。他人も自分も、視覚や聴覚を通じて、それを観察することができる。けれども、その目に見える人体の内部の、目に見えない内面にあるとされる苦痛そのものや感情そのものを他人は見ることができない。私は他人の苦痛そのものを直接感じることができない。逆に、私が他人に乗り移ったとすると、私を外側からながめる私は、私の内面の苦痛を客観的な物質現象として見て取ることはできない。つまり、他人の苦痛と自分自身の苦痛、その両方とも、明らかに私が感じるにもかかわらず、この物質世界の中に存在しているとはいえない。それらは、感じられるだけで存在しないものですから(拙稿の見解では)錯覚です。

この物質世界は、それを他人も感じるだろうと私が感じられるものだけからできている。私と他人が共有できるものだけから、できているわけです。ということは、つまり、この物質世界は私が感じるものの全部ではなくて、一部分だけからできている、ということになる。この物質世界には存在しない多くのものをも私は感じることができる。それが事実です。

存在するとか、存在しないとかについての話を、これより先に進めるには、さらに慎重に考える必要がありそうですので、後で、改めて詳しく論じることにします(存在するものとしないものとの関係については第13章で考察予定)。

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苦痛はなぜあるのか(1)

2007-09-22 | x1苦痛はなぜあるのか

11  苦痛はなぜあるのか?

 他人の痛みが分かるようになれ、と学校の先生は教えます。つまり、ふつう他人の痛みは分からない。なぜ分からないのか?

 人間は、つねると痛みが分かるとき、つねったところを自分の身体だと思う。痛みが分からない身体を他人だと思っている。だから他人の痛みが分からないのはあたりまえ、ともいえます。

 そうは言っても、実際、自分の身体を確かめるために、いちいち他人の身体をつねって「あ、これは私じゃなかった。ごめん」などと言って確かめるやりかたをしていると、みんなに殴られてしまうでしょうね。そんなことをしなくても、この世界のどの部分をつねると痛いか、つまりどれが自分の身体を構成する物質なのか、、ヨチヨチ歩きする赤ちゃんでも知っている。

 赤ちゃんは、つねったときの痛みというよりも、それ以前に、皮膚の触感と筋肉、関節の緊張感覚など体性感覚を感じて、それを目で見える自分の身体の各部に投射することを学習する。それで脳内に自分の身体の模型を作っている。そうして、痛みをその脳内の身体模型に投射して、痛い場所を感じられるようになります。

 ところで、痛みは物質現象でしょうか? 痛いとき身体がどういう変化を起こしているか、その科学は最近かなり分かってきました。痛みの信号の伝達経路、苦痛に対応する神経伝達物質、その受容体、神経細胞膜の構造変化などが解明されてきています(二〇〇五年 ユンハイ・キウ他『ヒト非ミエリンCファイバー上昇信号の脳内処理』など)。そのおかげで麻薬より良く効く鎮痛剤も開発されてきました。さらに近い将来、苦痛や快楽に対応する脳内の信号伝達もまた、DNA,RNA、たんぱく質の分子レベルから進化を遡ることで解明できるでしょう。

 両生類や爬虫類の脳は、生まれつきの反射を繰り返すだけで、学習も記憶も、それほどしません。鳥類や哺乳類になると、運動と感覚の記憶について苦痛や快楽などでマークをつけて行動を記憶し、学習するようになる。苦痛や快楽の感覚は、哺乳類において特に発達した感情機構が発生する恐怖感、幸福感などと連結して、行動の学習に役立ったから、進化したのでしょう。

また苦痛は、人間の場合、自分の肉体の存在感とも深い関係がある。苦痛を感じるたびに、生々しい血の流れる自分の肉体、というイメージが脳の中に再構成されるわけです。それを発展させて、世界の中での自分の行動を記憶し計画する脳の機構を作るためにも、苦痛は役に立っています。

近い将来、痛みや快楽に対応する脳内の物質現象は、科学として、すっかり解明されるでしょう。

 しかし痛いときは痛い。嫌なものです。自分の体内で起きる一種の物質現象が、苦しかったり嫌だったりする感覚に対応している。他人が同じ状態のとき、いくら詳しく観察しても、どれほど痛いのかは、よく分からない。想像や類推はできますが、直接、感じることはできない。それなのに、自分のときは嫌になるほど感じる。つくづく、人間が分かることは自分の肉体の感覚だけだ、と思い知ることができます。

 筆者は、たまたま歯が痛いときに、分析哲学者が「苦痛は脳内状態か?」について論じている論文(一九八八年 ヒラリー・パトナム 『表現と現実』)を読んでいたのですが、英文をずっと読んでいくほど歯痛はひどくなっていくばかりで、とうとう歯医者に行きました。その論文では、「脳のことなど何も知らないときでも歯は痛いから、苦痛は脳内状態とは一致しない」などと書いてありました(こういう議論を心理ー物理同一性問題などという)。そこは「なるほど、そうですね」と納得しましたが、痛みは和らぎませんでした。

筆者が赤ちゃんのころ、痛いときは「ウエーン」と泣いていたはずですが覚えていません。そのころは言葉も知らなかったけれども痛いときは泣くべきだ、ということは(覚えていないけれど)知っていたでしょう。痛みは言葉以前の感覚のようです。それでも赤ちゃんのころでも、「ウエーン」と泣いて周りの人の共感を誘っていたわけですから、言語の代わりのものとして使用していた、といえる。言語活動の下敷きになっている集団行動としての神経回路を、実用的に使っていたわけです。隣の赤ちゃんが泣くのを聞くと、もっと声を張り上げて泣いたりするわけですから、赤ちゃんたちも、ちゃんと集団生活をしている、と言えますね。こういう観察から考えると(拙稿の見解では)人間が言うところの苦痛は、他の言葉のもとになる神経活動と同じように、群集団共鳴運動として脳内で発生し、それから言語に表わされるようになった現象だと思えます。

 私たち人間は、五感や痛覚など、自分の肉体を通じた感覚しか感じることはできない。逆に言えば、感覚を伝えてくる肉体のことだけを自分だと思っている。そしてそれらの感覚を総合して、自分以外の物の存在も感じている。他人の存在も感じ取る。さらに理論や想像を使って物質世界の仕組みを感じ取る。最後に、その理論で分かる物質世界の一部分として、改めて自分の肉体の存在感を感じるのです。

 人間の場合、自分の身体の外の物質世界を感じ取るときに、痛覚や味覚はほとんど使われていない。主に視覚と触覚、それに加えて聴覚で、空間と時間とその中にある物質の状態、つまり世界全体を感じる。嗅覚はあまり使いません。特に痛覚は、ふつう、対応する空間や物質を表わさないで、身体の内部の感覚としてだけ感じる。

 「手を刺すからこの棘が痛い」と言うか、それとも「この棘に刺されて私の手が痛い」と言うか? 前者の言い方のように、痛みが棘の属性と感じるならば、それは他人と共有できる。「この棘はほんとに痛いよね」という話で、痛みの話が通じる。昔の人は、こういう話し方が多かったようです。現代人は、後の言い方が多くなっている。「この棘に刺されて私の手が痛い」と言ってしまえば、もう他人と関係ない話になってしまう。

 たとえば、集団で予防注射を受けます。皆が注射をされた後で、「あの注射、ほんと痛いね」といえば、「そうだね」ということで、話が通じる。この場合は、痛みはその注射の属性になって、物質世界の中に存在できることになるわけです。

ひとりだけ、だれも経験したことがないような特殊な注射を受けた場合などは、そうはいきません。しかもお医者さんが「この注射は全然痛くないものだよ」などと言っている場合、困ったことになる。注射を受けた腕の部分が確かにひどく痛い場合、その痛みは絶対に存在している、と叫びたくなる。それでもそのことをお医者さんは信じてくれないし、ましてそのほかの他人には通じませんから、自分の痛みが本当に存在しているのかどうか、自分でもちょっと自信がなくなったりするのです。そのとき、脳活動部位測定装置で測れば、自分の脳の断面図として痛みの感覚受容神経が興奮している画像を観察できる。こういう測定の経験を多くの人がしていれば、「ああ、こういう画像が出る時は、本当に痛いんだよね」と皆に言ってもらえます。そうなると、この痛みは物質世界の中に存在しているような感じが強くなってくる。

それでも、痛みというものは、目の前のこのパソコンのようにはっきり目で見えて触れるものに比べると、物質現象としての存在感は弱い。どうも、かなりの曖昧さが残ってしまうのです。

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