警官ごっこをする幼児は、警官という言語が意味する現実を獲得できますが、現実に警官にはなれません。幼児はそれを知っていて警官ごっこをしています。それが、そもそもの、警官という言語が意味する現実です。
ところが大人はなかなかそれを理解できない。大人にとって警官の現実というのは、給料がいくらであるとか、規則違反をすると懲戒されるとか、市民に信頼されるとかいうことが本質であって、そういうようなことは実は幼児の理解を超えることばかりです。幼児が理解する警官の現実とは何なのか?と大人は思ってしまいます。しかし、大事なことは幼児が警官という言語の現実を獲得することであって、その言語の現実とは、真実の真実かどうかではなく、(幼児が周辺の人々と話す場合に)皆が真実と思っているらしいと思えるかどうか、で決まることです。
幼稚園の先生やお友だち、ママやパパや家族など周辺の人々と(共有し共鳴することによって)通じ合う言語の現実を獲得することが幼児にとって最優先の必要であって、それが周辺にはいない遠いところ(例えば警察署内)での真実かどうかはどうでもよいことです。
真実でないものを現実と思い込んでしまうと、場合によっては、致命的な失敗に陥ることもあるでしょう。しかしそのリスクを冒してでも、とにかく今周りにいる皆と通じ合うことが、人間の生活上、最優先の課題です。そのような生活に適するように人類は進化したはずです。
ごっこ遊びを卒業する小学校低学年ころから、子供は他人の目を意識するようになる。自意識が芽生える。これは、他人と共有する現実世界の中にある自分の肉体を自分と思う(自分に憑依する)ようになるということでしょう(拙稿12章「私はなぜあるのか」)。
これを、自分というごっこ遊びを始める、ということもできますが、この自分ごっこは一生続きます。これは真正のごっこではない、現実人生ということになります。現実人生をごっこといってしまうと、先の例に挙げたサラリーマンごっこと同じような修辞法になってしまいます。これは子供がするごっこ遊びではありません。
身体の外にある現実に憑依しそれを内部に取り込む子供のごっこ遊びと違って、大人の現実人生はすでに身体の内部に埋め込まれてしまった現実世界の内部で動いていきます。正確に言えば、身体の内部に埋め込まれている現実世界の内部にある自分の身体を自分と思うことで動いていきます(拙稿24章「世界の構造と起源」)。
ちなみに、この入れ子になっている世界の構造は自覚できませんので、ごっこが自分の中でどう働くかも、私たちは自覚しにくい。内省によって自分というものを自覚しようとしてもややこしくて自覚することが嫌になります。そういう入れ子のような認知しにくい構造は自覚しないほうが社会生活はうまくいきます。
自分ごっこという表現は詩的表現としてはおもしろいところがありますが、実用上は使いにくい。混乱の危険がある修辞法です。本章のタイトルとして「自分・ごっこ」と中ポツを打ったのは、混ぜるな危険、というニュアンスです。「自分」も「ごっこ」も哲学要素を含み安易に取り扱うと危険な観念ですから注意喚起の趣旨で本章を書いてみました。■
(53 自分・ごっこ end)

幼児はバナナを耳に当てて「もしもし、はい私です」と言っています。バナナは電話機ではないから電話ごっこの最適な道具になる。バナナ電話によって、幼児は電話する大人の現実に憑依します。そうすることで現実世界を獲得する。現実の捉え方を学びます。
幼児は警官ではないから警官ごっこに夢中になれる。その幼稚園児が、仮にそのまま(身体が大人サイズになって)警察官に採用されて制服を着て交番に立つことになってしまうとすれば、すぐ嫌になって警官の真似事をやめてしまうでしょう。
警官ごっこをしたことがない幼児が、そのまま現実に警官になってしまうと、警官とはどういう現実かという現実世界を獲得することができないからです。
自分が何をしているのか分からない。だれでも、自分が何者か分からないまま、分からないことをさせられてもすぐに嫌になるものです。幼児のうちに警官ごっこをして、おもちゃのパトカーを動かしながら「わるもの、まてえ」と叫ぶことで警官という存在の現実に憑依し、その現実世界を獲得し、それを言語として獲得できます。
言葉が完全ではない幼児は、ごっこによって現実を理解する。ごっこを利用して言語を習得します。 このことから、ごっこが現実の模擬であるように言語は現実の模擬であって模擬でしかないことが分かります。
私たちは現実そのものをつかみ取ることはできないが、言語でそれを模擬することによって現実と交流することができます。逆に言えば、私たちは言語で模擬できるものを現実と思っているのであって、人間にとって、それ以外に互いに通じ合う現実というものがあるわけではありません(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」)。

(53 自分・ごっこ begin)
53 自分・ごっこ
幼稚園児の遊び。一日中、何かのごっこをして遊んでいます。警官になり、パトカーになり、地下鉄になり、切符販売機になり、ホームドアになる。ときどき幼稚園児になり先生と手をつなぎます。
言葉でいえるものは、それになりきって身体を動かしてみる(拙稿では、憑依という)必要があるからです。幼稚園ではおうちごっこをし、帰宅すると幼稚園ごっこをする。幼稚園では、おうちの経験をおうちごっこで言語化し、おうちでは、幼稚園の経験を言語化する。
それが言語システム認知(特に時制、仮定法、他者視点)の習得に必要な成長過程となっています。
小学校二年生くらいになると、ごっこ遊びをしなくなります。身の回りのことを、言葉で言い表せるようになります。つまり言語によって、子供は、現実世界を理解する、現実感覚を獲得する、といえます。身体で感じ取る経験を言語化することで現実を認知するルーティンを獲得した、といえます。
成長過程での言語習得は、単なる記憶量の増加ではなく、現実世界の認知が完成する過程と捉えることができます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 - 哲学の科学Ⅳ)。
言語を話す人間以外の動物、二歳以下の幼児、猿などは身体で感じ取った経験に直接もとづいて行動します。言語を使う人間は違います。言語化された現実世界を身体の中に保持し、その世界の内部で行動を作り出します(拙稿24章「世界の構造と起源」)。
言語による現実世界に住む大人は、もう、ごっこはしません。社会人は社会人ごっこをしているではないか、サラリーマンは実はサラリーマンごっこをしているだけだ、というような、社会批評的な、シニカルな言い方がありますが、誤解を招く表現です。まじめにごっこ遊びをすることができるのは、言語習得過程の幼児しかいません。猿もごっこ遊びはしない。人間の大人もしません。
自分はサラリーマンごっこをしていると思っているサラリーマンもいるかもしれません。その人は、サラリーマンは仮の姿であって自分の正体は違う、と思っているのでしょう。たとえば自分の正体はニートであるとかオタクであるとか思っている人かもしれません。サラリーマンは、ごっこ遊びだよ、と言いたくなるでしょう。しかしそれは幼児のする真正のごっこ遊びではありません。本音を隠すあるいは他人の前で偽装するという、必要な場合大人であればだれもがするあたりまえの行動です。
幼児がする真正のごっこ遊びは偽装ではなく、現実への憑依です。大人がする現実を真似ることで、現実に生きる大人に憑依する。そうすることで現実を獲得していくことが幼児の成長です。
