なぜかというと、人間の言葉というものは、目に見えないものを語るという仕事に適していないからです。言葉はもともと意味のない音の羅列です。人間は、仲間どうしでの言葉が繰り返し使われる場面の経験を積み重ねることから、感情を共感し、運動を共鳴することによって、意味を学習する。話し手の表情、声色、前後の状況、仲間の聞き手の反応などを繰り返して感じ、自分でも真似ることで感情を共感し、少しずつ意味がおぼろげに分かってくる。
話し手と聞き手が、目の前の物質を見ながら、触りながら、それについて話すときに限って、言葉の意味は明確になれる。つまり言葉は、複数の人間が同時に目で見えて手で触れる物質世界のことしか、正確には語れない。自分の内部でしか感じられない、他人の目には見えない、錯覚の存在について正確に語ろうとすればするほど、おかしくなっていくしかない。
人間が仲間どうし協力して、世界の法則を利用して、生存繁殖するのに役立つ仕組みだったから、言語は発達した。生存繁殖以外の目的に役立つような機能は、むしろ、言語が生まれる瞬間から切り捨てられていった。余計な機能を持たず、生存繁殖することだけに役立つ実用的な言語操作機構を持った人類だけが生き残って、世界中に伝えたものが、現在私たちが使っている言語なのですから。そうして使われて伝えられてきた言語が、哲学とか、この世の深遠な真理などを解明する機能を持っているはずがありません。こういう仕組みで作られた人間の言語を使う以上、だれが語っても、目の前の物質世界と関係がない、実用の役に立たない、深遠な哲学的真理などを正確に語ることはできない。
天才的な哲学者が現れたとしても、その才能は古い錯覚を批判し、新しい錯覚を発明して、それで人々を説得すること、つまり古い曖昧な言葉を言い換えて、新しい曖昧な言葉で世界を語りなおすことに使われるしかない。
それはそれで、時代に合わせて社会を運営するためには大事な才能です。人々が、周囲の仲間との毎日の会話を通して、自分が日々なすべき仕事をはっきりと理解し、それぞれの持ち場を懸命に守っていくようにしむけなければならない(また、そうなることが、支配体制にとってはぜひ必要なことです)。都合のよいことに、人間の脳神経系は、なにか大きな神秘的で尊厳のありそうなものにひれ伏し、つき従おうとする傾向がある。この傾向を利用すれば、偶然見つけた神秘的な現象をうまく組み立てて、神聖な物語に作り上げ、人々に受け入れさせることができる。
極端に言えば、手品でもいい。日食のときに、深刻そうな顔をして、わけの分からない呪文を唱えれば、太陽はこの世に戻ってきます。その手品を、手品師自身が心から不思議だと思ってしまうと、哲学になる。ふつう、この手品には日食のような自然現象ではなくて、言葉が使われる。言語技術による手品ですね。
「死とは何か?」、「人生の目的は何か?」などと叫んでみる。それで聴衆を集めることに成功すれば、立派な言語技術者です。人々を幻惑できれば、言語技術者は手品師ということになる。しかし、そのときに、手品師自身が自分の作った手品の不思議さに幻惑されてしまうと、本物の哲学が始まる。そして手品の種がばれなかったら、その場合、逆説的ですが、その哲学の神秘さが、社会の役に立つことになる。つまり、言語技術の手品師は職業としてなりたつ。少なくとも、支配体制から給料をもらえます。
そういう社会現象として、優秀な言語技術者たちは、あるときは神官、あるときは官僚、あるときは学者、教育者、マスコミに姿を変えて、この世の神聖な、尊厳のある、権威ある仕掛けを再生産していく。これらの優秀な人々の努力によって、時代にあわせて哲学は改訂され、新しい哲学によって改めて明瞭になった言葉を使いこなして、新しい宗教、新しい神話、新しい道徳、新しい法律が作られてきた。
しかしながら、その社会システムの根底を作っている言葉はいつの時代でも、人々の錯覚の共有にしか根拠がない。それはある時代、強い存在感を伴って、だれにも共感される。しかしある時代に機能した錯覚体系、バーチャルな意味のネットワークは、次の時代には古い神話のように、あるいは使えなくなった過去の紙幣のように、人々に違和感を与え、かび臭い匂いを発しながら存在感を失っていく。
現代の私たちが社会生活の基盤として使いこなしている言葉、人生を考えるときの基本的な言葉と思っている重要な言葉たち、たとえば、世界、命、心、私、幸福・・・。主体性を持った私たち個人の存在感を表わす言葉の体系。それらは永久に使われる言葉なのでしょうか? それらは何百年後の時代にも、しっかりと存在するものなのでしょうか?
これらも錯覚の体系であるからには、次の時代には迷信や呪術のように消えていくものなのでしょう。かつて近代哲学の基礎として使われてきた深遠な響きを持つ言葉の体系は、現在ほとんど、現代科学とは整合性が取れず、すでにほころびています。
科学では説明できないものがこの世にはある、とよく言われる。そう言われれば、確かにそんな気もする。しかし、ここまで精密に物質現象を説明できるようになった現代科学がいまだに説明できない神秘的なものが、本当にこの世に存在するのでしょうか? 科学で、存在することが説明できないものは、実は、もともと存在しないから説明できないだけなのではないでしょうか? 私たちは、科学では説明できないものが、いくつもあるような気がする。しかしそれは、あるような気がするだけで、あるのとは違うのではないですか?
天狗もそれです。長老の話を聞くと、天狗は間違いなく森の奥にいるとしか思えない。しかし科学は天狗の存在を説明できない。でも、だから、天狗はいるのだとは言えません。科学はサンタクロースの存在も説明できない。だから、科学は万能ではない、とはいえる。ただし、科学が万能でないからといって、それを理由にサンタクロースが存在することを主張するのもおかしい。
一方、現代科学は宇宙のダークマター(暗黒物質)の正体を説明できない。しかし、ダークマターは、科学者が天文観測のデータを使って力学方程式を計算し直した結果、そういうことを言い出したから問題になったのであって、一般の人々が、昔から、それがあるような気がしていたわけではない。昔から人間が、直感で、この世にあるような気がしている物事と、実際に科学が発展して現実に発見される事実とは、だいぶ違うのが歴史上の通例です。
昔から人間が、この世にあると思い込んでいる物事・・・たとえば、この世界、この現実の世界。確かに私たちは、これをはっきり感じていますが、そもそも、そんなものは、実は、存在しないかも知れません。命、心、サンタクロース・・・ そういうようなものも、存在しないのかも知れません。自分? そんなものも、実は存在しないのではありませんか?
大昔の人々は、魔物に取り付かれることを防ぐために、身体中に刺青をする必要があった。たぶん、それと同じ理由で、現代の私たちは、現実、自分、自分の人生、自分の損得、自分の幸不幸、という物事の存在感を必要とするのかもしれない。
魔物が目に見えないように、人の命、人の心、人と人との結びつき、私、私の人生あるいは私の幸福、そういうものも目に見えず物質で示すことができない。魔物や竜や天狗や精霊や霊魂や座敷わらし、そういう目に見えない存在感は、中世の人々にはしっかりと感じられたのに、現代の私たちには、まったく感じられなくなっている。中世までの人々は、眠っているときに見た夢でさえも、この世のどこかで実際に起こっている事実、あるいは将来起こるべき事実を見たのだと思い込んでいた。現代人は、睡眠中に見る夢が、タイムマシーンだとか、どこでもドアだとか不可思議な装置になっていて、どこかの現実の一部を自分の所へ移動させてきたものだ、などとは、まず思わないでしょう。
世界、命、生、死、心、自分、私、幸福・・・。さらに言えば、存在、認識、思考、欲望、意思、意識・・・。哲学が基礎にしている、そういうものたちは本当にあるのでしょうか? 私たちが、まじめに大事な話をするときには、必ず使われる、こういう言葉たち。こういう言葉を使って、自分たちの一番大事な思いを語り合おうとする私たち現代人。小学生のいじめとか、自殺とか殺人が報道されると、偉い人たちが競ってその大切さを説こうとする「命」や「心」や「自分」や「幸福」。そういうものたちが、実は、この世に存在しないものだとしたら、子供に聞かせる話もできない、新聞も書けない、テレビの討論会もできない。国会討論も裁判もできない。私たちはとても困ってしまいます。そういう神秘的に思えるものがなくなってしまったら、哲学者が困る。宗教家も困ります。しかしそれ以前に、私たちだれもが、真剣な議論もできず、自分の大事な思いも語れず、すっかり困ってしまうのです。
目の前に見えるこの物質世界が客観的に存在していて、その中にある人体として私が存在していて、私は私の考えで私の身体を動かしていて、言葉をしゃべり、したいことをしている。私たちはそう思い込んでいる。筆者も、もちろん、そう感じています。あまりにも自明なことだと感じられます。だれもこのことを不思議なこととは思っていない。しかし、科学者でさえも気づいていませんが、実は、こういうことは科学で得られる知識とはまったく矛盾している。
たとえば、「私は私の考えで私の身体を動かしている」ということは、私の念力が私の身体を動かしているということですが、現代科学の知識によれば、念力などというものは物質現象としては存在しない。物質世界に存在しないものが物質を動かすことはできない。これは現代科学が間違っていて、念力が正しいのでしょうか?将来、念力は科学に含まれるのでしょうか?
そんなことは、まずないでしょう。これからも科学は進歩して、物質の世界像は改訂されていくでしょうが、それは私たちの錯覚が正しいことを科学が認めてくれる方向には行きません。科学の歴史は、それをはっきり示している。(ただし、現代の科学のアプローチで、この意識・意思問題が解けることもないでしょう。それには、現代科学が一皮むける必要がある、つまり哲学の科学が必要だ、というのが拙稿のメインテーマですが、その中身はだんだんと述べていきます)
さて、その程度のことが分かってはいても、今現在の状況では、私たちの感じ方が錯覚だからといって、すぐ改めるわけにもいかない。現代科学の実態を知っている科学者も自分の日常生活では、当然のこととして、自分は目の前にある物事を認識し、それについてしっかり考えた上で意思を決定して自分の身体を動かしている、と思い込んでいる。
その思い込みの上に作られている言葉たち。世界、命、心、私、幸福・・・そして、存在、認識、思考、欲望、意思、意識・・・。
それらの言葉で表されるものたちは、現代人の私たちにはしっかりと存在しているように感じますが、この世にそういうものが本当にあるのでしょうか? あるように思えるのは本当ですが、本当にある、というのとは違う。
あるように思えるだけではないのか? そして、あるように思えるということだけが、人間の知り得るすべてではないのか?
哲学はたぶん、ここにつまずいて間違っていった。私たち現代人はこのことに気がつき始めています(たとえば 二〇〇二年 ダニエル・ウェグナー『意識的意思の幻影』)。たぶん、だから、そういう、かつては重みを持っていたはずの言葉たちも、それを頼りにする哲学も、人々から見放されていく。
(3 人間はなぜ哲学をするのか? end)