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哲学の科学

science of philosophy

人間はなぜ哲学をするのか(4)

2007-03-10 | 3人間はなぜ哲学をするのか

なぜかというと、人間の言葉というものは、目に見えないものを語るという仕事に適していないからです。言葉はもともと意味のない音の羅列です。人間は、仲間どうしでの言葉が繰り返し使われる場面の経験を積み重ねることから、感情を共感し、運動を共鳴することによって、意味を学習する。話し手の表情、声色、前後の状況、仲間の聞き手の反応などを繰り返して感じ、自分でも真似ることで感情を共感し、少しずつ意味がおぼろげに分かってくる。

話し手と聞き手が、目の前の物質を見ながら、触りながら、それについて話すときに限って、言葉の意味は明確になれる。つまり言葉は、複数の人間が同時に目で見えて手で触れる物質世界のことしか、正確には語れない。自分の内部でしか感じられない、他人の目には見えない、錯覚の存在について正確に語ろうとすればするほど、おかしくなっていくしかない。

人間が仲間どうし協力して、世界の法則を利用して、生存繁殖するのに役立つ仕組みだったから、言語は発達した。生存繁殖以外の目的に役立つような機能は、むしろ、言語が生まれる瞬間から切り捨てられていった。余計な機能を持たず、生存繁殖することだけに役立つ実用的な言語操作機構を持った人類だけが生き残って、世界中に伝えたものが、現在私たちが使っている言語なのですから。そうして使われて伝えられてきた言語が、哲学とか、この世の深遠な真理などを解明する機能を持っているはずがありません。こういう仕組みで作られた人間の言語を使う以上、だれが語っても、目の前の物質世界と関係がない、実用の役に立たない、深遠な哲学的真理などを正確に語ることはできない。

天才的な哲学者が現れたとしても、その才能は古い錯覚を批判し、新しい錯覚を発明して、それで人々を説得すること、つまり古い曖昧な言葉を言い換えて、新しい曖昧な言葉で世界を語りなおすことに使われるしかない。

それはそれで、時代に合わせて社会を運営するためには大事な才能です。人々が、周囲の仲間との毎日の会話を通して、自分が日々なすべき仕事をはっきりと理解し、それぞれの持ち場を懸命に守っていくようにしむけなければならない(また、そうなることが、支配体制にとってはぜひ必要なことです)。都合のよいことに、人間の脳神経系は、なにか大きな神秘的で尊厳のありそうなものにひれ伏し、つき従おうとする傾向がある。この傾向を利用すれば、偶然見つけた神秘的な現象をうまく組み立てて、神聖な物語に作り上げ、人々に受け入れさせることができる。

極端に言えば、手品でもいい。日食のときに、深刻そうな顔をして、わけの分からない呪文を唱えれば、太陽はこの世に戻ってきます。その手品を、手品師自身が心から不思議だと思ってしまうと、哲学になる。ふつう、この手品には日食のような自然現象ではなくて、言葉が使われる。言語技術による手品ですね。

「死とは何か?」、「人生の目的は何か?」などと叫んでみる。それで聴衆を集めることに成功すれば、立派な言語技術者です。人々を幻惑できれば、言語技術者は手品師ということになる。しかし、そのときに、手品師自身が自分の作った手品の不思議さに幻惑されてしまうと、本物の哲学が始まる。そして手品の種がばれなかったら、その場合、逆説的ですが、その哲学の神秘さが、社会の役に立つことになる。つまり、言語技術の手品師は職業としてなりたつ。少なくとも、支配体制から給料をもらえます。

そういう社会現象として、優秀な言語技術者たちは、あるときは神官、あるときは官僚、あるときは学者、教育者、マスコミに姿を変えて、この世の神聖な、尊厳のある、権威ある仕掛けを再生産していく。これらの優秀な人々の努力によって、時代にあわせて哲学は改訂され、新しい哲学によって改めて明瞭になった言葉を使いこなして、新しい宗教、新しい神話、新しい道徳、新しい法律が作られてきた。

しかしながら、その社会システムの根底を作っている言葉はいつの時代でも、人々の錯覚の共有にしか根拠がない。それはある時代、強い存在感を伴って、だれにも共感される。しかしある時代に機能した錯覚体系、バーチャルな意味のネットワークは、次の時代には古い神話のように、あるいは使えなくなった過去の紙幣のように、人々に違和感を与え、かび臭い匂いを発しながら存在感を失っていく。

現代の私たちが社会生活の基盤として使いこなしている言葉、人生を考えるときの基本的な言葉と思っている重要な言葉たち、たとえば、世界、命、心、私、幸福・・・。主体性を持った私たち個人の存在感を表わす言葉の体系。それらは永久に使われる言葉なのでしょうか? それらは何百年後の時代にも、しっかりと存在するものなのでしょうか? 

これらも錯覚の体系であるからには、次の時代には迷信や呪術のように消えていくものなのでしょう。かつて近代哲学の基礎として使われてきた深遠な響きを持つ言葉の体系は、現在ほとんど、現代科学とは整合性が取れず、すでにほころびています。

科学では説明できないものがこの世にはある、とよく言われる。そう言われれば、確かにそんな気もする。しかし、ここまで精密に物質現象を説明できるようになった現代科学がいまだに説明できない神秘的なものが、本当にこの世に存在するのでしょうか? 科学で、存在することが説明できないものは、実は、もともと存在しないから説明できないだけなのではないでしょうか? 私たちは、科学では説明できないものが、いくつもあるような気がする。しかしそれは、あるような気がするだけで、あるのとは違うのではないですか? 

天狗もそれです。長老の話を聞くと、天狗は間違いなく森の奥にいるとしか思えない。しかし科学は天狗の存在を説明できない。でも、だから、天狗はいるのだとは言えません。科学はサンタクロースの存在も説明できない。だから、科学は万能ではない、とはいえる。ただし、科学が万能でないからといって、それを理由にサンタクロースが存在することを主張するのもおかしい。

一方、現代科学は宇宙のダークマター(暗黒物質)の正体を説明できない。しかし、ダークマターは、科学者が天文観測のデータを使って力学方程式を計算し直した結果、そういうことを言い出したから問題になったのであって、一般の人々が、昔から、それがあるような気がしていたわけではない。昔から人間が、直感で、この世にあるような気がしている物事と、実際に科学が発展して現実に発見される事実とは、だいぶ違うのが歴史上の通例です。

昔から人間が、この世にあると思い込んでいる物事・・・たとえば、この世界、この現実の世界。確かに私たちは、これをはっきり感じていますが、そもそも、そんなものは、実は、存在しないかも知れません。命、心、サンタクロース・・・  そういうようなものも、存在しないのかも知れません。自分? そんなものも、実は存在しないのではありませんか?

大昔の人々は、魔物に取り付かれることを防ぐために、身体中に刺青をする必要があった。たぶん、それと同じ理由で、現代の私たちは、現実、自分、自分の人生、自分の損得、自分の幸不幸、という物事の存在感を必要とするのかもしれない。

魔物が目に見えないように、人の命、人の心、人と人との結びつき、私、私の人生あるいは私の幸福、そういうものも目に見えず物質で示すことができない。魔物や竜や天狗や精霊や霊魂や座敷わらし、そういう目に見えない存在感は、中世の人々にはしっかりと感じられたのに、現代の私たちには、まったく感じられなくなっている。中世までの人々は、眠っているときに見たでさえも、この世のどこかで実際に起こっている事実、あるいは将来起こるべき事実を見たのだと思い込んでいた。現代人は、睡眠中に見る夢が、タイムマシーンだとか、どこでもドアだとか不可思議な装置になっていて、どこかの現実の一部を自分の所へ移動させてきたものだ、などとは、まず思わないでしょう。

世界、命、生、死、心、自分、私、幸福・・・。さらに言えば、存在、認識、思考、欲望、意思、意識・・・。哲学が基礎にしている、そういうものたちは本当にあるのでしょうか? 私たちが、まじめに大事な話をするときには、必ず使われる、こういう言葉たち。こういう言葉を使って、自分たちの一番大事な思いを語り合おうとする私たち現代人。小学生のいじめとか、自殺とか殺人が報道されると、偉い人たちが競ってその大切さを説こうとする「命」や「心」や「自分」や「幸福」。そういうものたちが、実は、この世に存在しないものだとしたら、子供に聞かせる話もできない、新聞も書けない、テレビの討論会もできない。国会討論も裁判もできない。私たちはとても困ってしまいます。そういう神秘的に思えるものがなくなってしまったら、哲学者が困る。宗教家も困ります。しかしそれ以前に、私たちだれもが、真剣な議論もできず、自分の大事な思いも語れず、すっかり困ってしまうのです。

目の前に見えるこの物質世界が客観的に存在していて、その中にある人体としてが存在していて、私は私の考えで私の身体を動かしていて、言葉をしゃべり、したいことをしている。私たちはそう思い込んでいる。筆者も、もちろん、そう感じています。あまりにも自明なことだと感じられます。だれもこのことを不思議なこととは思っていない。しかし、科学者でさえも気づいていませんが、実は、こういうことは科学で得られる知識とはまったく矛盾している。

たとえば、「私は私の考えで私の身体を動かしている」ということは、私の念力が私の身体を動かしているということですが、現代科学の知識によれば、念力などというものは物質現象としては存在しない。物質世界に存在しないものが物質を動かすことはできない。これは現代科学が間違っていて、念力が正しいのでしょうか?将来、念力は科学に含まれるのでしょうか?

そんなことは、まずないでしょう。これからも科学は進歩して、物質の世界像は改訂されていくでしょうが、それは私たちの錯覚が正しいことを科学が認めてくれる方向には行きません。科学の歴史は、それをはっきり示している。(ただし、現代の科学のアプローチで、この意識・意思問題が解けることもないでしょう。それには、現代科学が一皮むける必要がある、つまり哲学の科学が必要だ、というのが拙稿のメインテーマですが、その中身はだんだんと述べていきます)

さて、その程度のことが分かってはいても、今現在の状況では、私たちの感じ方が錯覚だからといって、すぐ改めるわけにもいかない。現代科学の実態を知っている科学者も自分の日常生活では、当然のこととして、自分は目の前にある物事を認識し、それについてしっかり考えた上で意思を決定して自分の身体を動かしている、と思い込んでいる。

その思い込みの上に作られている言葉たち。世界、命、心、私、幸福・・・そして、存在、認識、思考、欲望、意思、意識・・・。

それらの言葉で表されるものたちは、現代人の私たちにはしっかりと存在しているように感じますが、この世にそういうものが本当にあるのでしょうか? あるように思えるのは本当ですが、本当にある、というのとは違う。

あるように思えるだけではないのか? そして、あるように思えるということだけが、人間の知り得るすべてではないのか? 

哲学はたぶん、ここにつまずいて間違っていった。私たち現代人はこのことに気がつき始めています(たとえば 二〇〇二年 ダニエル・ウェグナー意識的意思の幻影』)。たぶん、だから、そういう、かつては重みを持っていたはずの言葉たちも、それを頼りにする哲学も、人々から見放されていく。

(3 人間はなぜ哲学をするのか?  end

4  世界という錯覚を共有する動物

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人間はなぜ哲学をするのか(3)

2007-03-03 | 3人間はなぜ哲学をするのか

人類は、権威があり信頼性がある集団知識を蓄積し維持し、それによって周辺環境の変化の法則を知り、それを使って明日と明後日を予測して生きていく動物です。しかし、予測はやはり不確かな感じがして、頼りない。なるべくその確からしさを保証してくれる仕掛けが欲しい。一回一回の予測ではなく、予測全体に通じる基本的な保証が欲しい。つまり、世界の仕組みをしっかり教えて欲しい。そのためには、だれかが権威あるやりかたで世界の原理を解明して、人々に教えてくれなければならない。それが神話の始まりであり、後の時代の宗教と哲学の始まりです。

大昔、人類が暮らしていた自然の中には謎の現象、神秘の体験がけっこうあった。それから、もののけ、精霊、天狗などが作られた。「私はそれを見た。それはいるのだ! 信じろ! それは本当にいるんだ!」と真剣な顔で言う人がいつも何人もいたでしょう。「その通り!」と低い声で叫んで皆を感動させる長老がいたでしょう。錯覚はそうして集団的に作られ維持されてきたのです。

人間は人の心について考える。人の顔を見ると、いつもその顔の内側に心を感じる。顔を見ないときもその心を感じる。だからその人がそこにいてもいなくても、その人の心はどこかにある、その人が死んでしまってもどこかにあるのではないか、と思える。それがです。だから「魂はある」と長老が言い、皆が互いにそう言い合っていればその集団の知識としては、それがある。それで怨念を持って死んでいった人の魂、あるいは「もののけ」、が生きている自分たちに復讐しないように、に祭って鎮魂祭をする。

そういう哲学を持った人々の集団は、死者の怨念を恐れて裏切りや暗殺を控えるようになる。そうして、仲間どうしの信頼感は増し集団の団結が高まって繁栄する。「魂はある」と感じるような脳の機能を持った集団の人口は増え、その脳機能を作るDNA配列(ゲノム)を子孫に伝え、そういう哲学を伝える文化を子弟の教育によって伝承していく。そうなると、この世に魂というものが実際にあってもなくても、「魂がある」と感じる人間集団の数は増えていく。「魂がある」と教える宗教や哲学は、これまで有史以来、ずっと多くの人々を導き、生活を豊かにし、人口を増やすという実用性を持っていた。この哲学、あるいはそれが表現する魂、のように目に見えない存在をだれもが感じることによって犯罪や裏切りは抑止され、社会は安定して繁栄し、人々は安心して生活し、その結果、経済や技術が発展した。これが文明の基礎を作っている。つまり、哲学は実用的なものでした。哲学は、真理を語るかどうかではなくて、真理を語るとされることによって実用的に生活に役立ったのです。

しかし現代になって、状況は違ってきたのではないでしょうか?

原始時代、狩猟採集の時代は単純で良かったに違いありません。地球は平らで、毎朝、太陽が東の果ての地下から昇ってくるという哲学を信じていれば、十分実用的だった。太陽の影を測って、時計も暦もきちんと作ることができた。

しかし、それでは人工衛星は飛ばせない。

言語が発達し、農業が完成し、文明社会が発展すると、見通さなければならない世界が大きく複雑になってくる。個人の知識、経験が追いつかなくなる。複雑な人間関係や環境変化の法則が掴みにくい状況になる。

それでも分らないなりに、人間は、仲間どうしで共感できるいろいろな錯覚を見つけ出し、それらを組み合わせて物語を作り、世界を理解し、自分たちの人生を運転していった。そのために人間は世界全体、自分自身、命、心、魂、死、幸福、運命というような不思議な存在、そしてそれらの変化を支配しているかのように思える大きな神秘的存在などについて、実は何も分からないにもかかわらず、無理やりいろいろな理論(素朴心理学、素朴運命学、素朴医学、哲学など)を作り上げ、個人を超えて伝承し蓄積し、それらを集団知識として共有するようになったのです。

言葉を使って世界を説明する専門家が現れ、支配階級に認められて特権的な職業集団を作るようになる。そういう言語技術のプロ(拙稿では言語技術者という)たちは、次々と精緻な理論を組み上げて、権威を持って神を語り、人間のあり方を語り、心の理を語り、倫理を作り、法律を作り、科学を作り、哲学を書くようになった。

特に西洋文明の中に現れた言語技術者たちは論理をつめ修辞法を洗練させ、驚くべき明解さをもって世界を語った。ヨーロッパの多様な民族を相手にギリシア・ローマ文明とキリスト教を浸透させるために、相当優秀な言語技術者が抜擢された。ローマ国境周辺の蛮族たちは、文明が語る理論(法律、教義、農工技術)の緻密さに驚き恐れて、戦わずして隷従していった。

優れた言語技術者の集団は、人間関係と人間の感情を言葉で明瞭に表し、社会的な関係を言葉ではっきり言い分けていく。彼らは社会の指導者階級となり、学校を作り、教育制度を作り、啓蒙を行い、言葉の意味がはっきりだれにでも伝わっていくような社会を作っていった。言語技術者の子供たちは、学校で毎日言葉の使い方を習う。同時に世界の秩序を学んでいく。先生は偉い。教科書に書かれている言葉を作った学者は、もっと偉い。そういう権威のある立派な言葉を学習する。

アニミズムから発した感情であろうと、起源が明らかでない伝承からの抽象的な観念であろうと、明快な言葉を使って網の目のように論理の体系を張り巡らし、権威を持って若い頭脳に学習させていけばバーチャルな意味のネットワーク、つまり錯覚の使い方と文脈の語り方の体系が立派にできあがっていく。それは論理的であり、権威があり、信頼すべきものです。その中心に哲学があり、学者はそれを尊敬し、人々は学者を尊敬した。

そのあたりが西洋哲学の始まりです。宗教を普及し人民を統治するために、言語技術者たちは哲学によって教育され、聖職者になり、役人になり、学者になり、教育者になり、社会の指導階級になって法律や制度を作っていった。その人たちは「命」、「心」、「自分」、「利害得失」というようなものの存在感をしっかり感じることができました。自分の意思、自分の人生、というものをしっかりと見据えてそれらを間違いない論理で組み上げ、自分の社会的役割を意識し、ステータスを意識し、冷静に利害得失を計算し、自信をもって着々と仕事をこなす模範的な人々だった。

そういう人たちの仕事の一つとして科学が立ち上がり、目に見えて手で触れる物質についての理論体系を作ることに成功した。これは大成功でした。西洋人たちは科学を応用して、極度にエネルギー効率がよい、大きくて複雑で、あるいは極度に精密な、各種の機械装置を作り、地球を周回し、世界中にキリスト教やスペイン語や英語や銃火器や伝染病を広めた。

哲学者たちは、科学の大成功をうらやんだ。ところが哲学は、科学のように、明らかなところだけを語ってすますわけにはいかない。人々は哲学に、人間の経験する深遠な神秘を説明する理論を期待している。その期待に応えてこそ、哲学はもっとも高尚な学問としての地位を確保できる。最高の言語技術者である哲学者たちに、それが期待される。人々は天才的な頭脳を持った哲学者が現れて、この世の深遠な真理を解明してくれることを期待する。 

しかしそれは結局、無理なことを期待しているわけです。人間が自分の感じるものの全体を理解するための理論を言葉で語ろうとすると、天才であろうとなかろうと、結局は間違いを語るしかなくなる。

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人間はなぜ哲学をするのか(2)

2007-02-24 | 3人間はなぜ哲学をするのか

私たち人間は、目に見える物質そのものよりも、目には直接見えない人の心、自分と人との関係、自分の幸福、不幸などについて、むしろ強い存在感を感じる。そうして、目の前の物質そのものをどうにかすることよりも、目に見えない人間仲間との協調、協力など、自分のまわりの人間関係を優先して生きるようにできている。みんなと会食しているときに、勝手にから自分だけおいしいものを取って黙々と食べてさっさと帰ってしまう人は、あまりいませんね。ふつう、会話しながら食べ物を分け合って一緒に食べるでしょう。そういう脳の仕組みを持った人類が生き残って、私たちを産んだのです。その現生人類の祖先は、(目には直接見えない)人間関係に対応するそれら錯覚を共感し、いつのころからか、その強い存在感を共有できる錯覚に対して、命、心、自分、というような言葉を作って神経回路に定着させるようになったのでしょう。

私たちの人生にとって一番大事な、こういうものごとは、(拙稿の見解によれば)たまたま動物ホモサピエンス(ヒト科ヒト属ヒト)の脳が、この数百万年くらいの生活環境に適合する便利な錯覚の存在感を作り出すように進化したことで作られた。その共感できるようになった錯覚を(たぶん二十万年前くらいから)言葉で表現して子孫に伝承し上手に使ってきたから、私たちがそれを語りあっている。

これらの(命、心、自分、というような)錯覚を作り出す脳の神経機構は、何百万年もかかって偶然の積み重ねによりDNA配列(ゲノム)を進化させることで、自然に人類の身体に出現してきた。

偶然の積み重ねによる自然の設計ですから、論理的に完璧には作られてはいない。数学のように、論理の専門家が精密に設計した概念体系とは、違う。そのため、論理感覚に優れた哲学者のような人が真剣に研究すると、「命」とか「心」とか「自分」とかの素朴な常識概念の構造は、論理的におかしいところが見つかる。科学など物質世界の観察の経験を厳密に表現した理論と比較して分析すると、いろいろな矛盾が見えてしまう。哲学者は、それを神秘と思う。

物質である人体に、なぜ主体性のある心が入っているのか? ただの物質であるこの人体が、なぜ意識を持っているのか? 自分はなぜ、他の人と交換できない特別な「自分」なのか? とても神秘的です。

哲学者の厳密な議論が進んでいくと、精神物質主観的自我客観的世界の両方とも存在することの矛盾が発見されてくる。心身二元論独我論存在論、など、古来の哲学の諸問題もそこに見出されたのでしょう。

「命」とか、「心」とか、「自分の主体性」とか、こういう言葉が表すものは目の前の物質の現象としては、はっきり見えない。だから存在しない、と言ってみたくなるようなところがある。それなのに感情に強く響く。だから神秘的に見える。目に見えないのに神秘的に感じられるからこそ、崇拝される。物質を超越した宗教や哲学の対象、と思える。神秘的であるほどありがたがられて、ますますしっかりと人々の感情に訴えるようになる。どうも、人間の脳神経機構は、こう働くように進化してきたようです。

だから危険です。「命」とか「心」とか「自分」とか「運命」とか、これら存在感の強い神秘的なものごとを、あまりまじめに、理論的に考えるのは、どんなものでしょうか? 

これらの伝統的な常識概念は、もともと大昔の人々の単純な生活を背景として、幼児にも分かるような素朴な感覚をつなげて作られている。それだけに人間の身体に深くなじむ。逆に言えば、人間の身体になじみやすい観念だけが今までなくならずに、私たちにまで伝えられているわけですね。

しかしこれらは、数学のように、論理のプロによって注意深く矛盾を取り除きながら作られた概念体系ではない。また科学のように、物質世界との整合性を確認しながら科学者というプロの集団によって洗練されてきたものとも違う。

生物進化という、偶発性と矛盾に満ちていてあたりまえな過程を経てできた脳神経回路が、自動的に作り出す錯覚の雑多な積み重なりの結果です。何百万年という長い時間の間の、無数の偶然の積み重ねで生き残った進化の産物、というだけです。宝くじで一億円が当たった人にとって自分の運命が神秘的に感じられるように、これら錯覚の存在感は神秘的です。しかし、実は、何の不思議もない。

宝くじで、誰かが一億円を当てることは、何の不思議もない。同様に、人類がこのような脳神経系を持つようになったことも不思議ではない。人間が自分の人生を謎と感じるような脳を持っていること、その事実自体は、まったく謎ではありません。そこに落ちている小石のように、その存在自体は何の意味もありません。その小石がなぜ、そこに落ちているのか、それを神秘と思えば、確かに神秘です。ただ、それを考え続けることに意味があるとは思えませんね。その点を忘れてはいけない。

命とか、心とか、自分とか、そういう大事そうな、神秘的で感情に響くものについて、真剣に論理的に考えれば考えるほど、おかしなことになってくる。他人と違って自分の存在だけが、この世で特に重要なものであるように感じ、自分探し、など言う言葉が何か、意味深いものであるかのような錯覚にとらわれて、現実から乖離していく。

この世の現実は、物質の法則だけで動いていく。人間の念力や、神秘の魔法で動くわけではない。目には直接見えないのに感情にだけ響く、神秘的なものごとと、目に見える現実の物質世界の動きとを、無理やり結び付けて理解しようとするのは間違いです。古代の呪術のようになってしまう。

「命」とか、「心」とか、「自分」とか、強い存在感があるのに目には見えず神秘的でつかみどころのないもの、宗教家や哲学者は、そういうものを、直感を頼りに考えぬくことでこの世の謎を解こうとする。いつかは真理に到達できる、と思う。そうすると、どうしても錯覚と格闘することになってしまう。間違いに間違いを重ね、神秘感に落ちいり、言葉の罠に落ち込み、堂々巡りになってしまうのです。

物質で示すことのできない錯覚は、人間どうし、よほどツーカーの間柄でないとなかなか伝わりません。言葉で懸命に語っているのに、相手は理解してくれない。それで人間の間に、反目と対立が起きてくる。分かってくれない相手に対して、警戒、蔑み、憎しみのような感情が起こる。異なる神を信仰する者たちを憎み恐れるのは、当然です。それで育ちが違う人間の間、違う宗教の間、異文化、異文明の間、の相互理解はむずかしくなる。現代に至って、ますます、人類共通の哲学は作れそうになくなってきた。相互理解の限界、言語の限界、哲学の限界が頻繁に語られる一方、希望はちっとも見えてこない。空転する議論に疲れて、哲学者もニヒリズムに陥っていく。

それなのに、人間はなぜ哲学をするのか? なぜ神秘を追い求めようとするのか? なぜそんな難しいものにこだわり続け、考え、語ろうとするのか?

それはたぶん、かつてそうすることが人類の生存に有利だったからでしょう。全然哲学しない人類は何万年も前に滅びたのではないでしょうか。私たちの祖先は、哲学、あるいは宗教をすることで生き残った。もちろん、人間は(拙稿の見解によれば)間違った哲学しかできない。それでも、間違った哲学でも、哲学するほうが、しないよりも生き残りやすかったに違いありません。

あまり哲学しない現代人は、昔の人に比べて、生き生きとたくましく生きているでしょうか? 何ものをも信じないニヒルな現代人は、幸せそうですか?

そうではないようです。たとえ錯覚であっても、しっかりした自分の信念やゆるぎない物の見方を持っている人々のほうが、着実に仕事をこなし、周りの人々としっかりした人間関係を保ち、立派な子孫を残し、人生をたくましく、幸せに生き抜いていくようにみえる。そして、そういう信念や物の見方は個人のものではなく、宗教や文化を同じくする大きな集団の中に共有されて、強固に維持されてきた。

かつては宗教が、そして少し前の時代には学校や書籍やマスコミが、集団の信念や、物の見方を教えた。正しい文化を伝える権威を代表していた。しかし現代、それらの権威は揺らでいる。さらに悪いことには遠い国の異なる考え方が浸透してくる。かつては、モザイクのように宗教や文化が分断され、情報の交換もなく、境界での接触も少なかった。そういう時代は平和でした。しかし、現代は、どうしても遠くの地域の思想がしみ込んできてしまう。グローバリゼーションの現代、文明と文明、文化と文化が接触し、互いに浸透しようとし、衝突していく。その結果、これまで宗教や文化を同じくした伝統的な共同体や文化を共有する集団の内部でもまた多様な価値観が表れ、価値観は個人個人に分断され、個人と個人はお互いに相互理解がむずかしくなっていくようですね。

そんな現代の状況で哲学をすることは、とても危険です。安全で安心な生活がしにくくなる。それなのに現代の若い人の中からもまだ、哲学をしようとする人が出てくる。危ない話です。

たぶん人類の脳は、進化の結果、哲学する傾向を持つようになった。

私たち人間は、他の動物と違って自分の身体が客観的な物質世界の中に置かれていることを知っている。自分の周りに世界がある。自分は世界の中にいる。ということを知っている。というか、少なくとも、そう思い込んでいる。まあ、みなさん、そう思い込んでいるでしょう? 筆者も実はそうです(脳のこの興味深い仕組みについては後の話題にします)。自分という身体が置かれているこの世界はどういうふうに動くものなのか? どう変化してこれからどうなるのか? その中にある自分の肉体は、これからどういう影響を受けるのか? そういうことを、いつも知ろうとするように、人間の身体はできている。

人間の脳は、世界が変化する原理を知りたがり、仲間の多数派の考え方を知りたがり、権威ある教えを身につけ、それを自分の行動に織り込んでいくようにできている。人間の脳は、たぶん、権威を持った尊厳のある大きなものにひれ伏し、それを信じ、それに導かれ、それに追従する、という神経機構を持っている。その神経機構の集団的な働きにより、人類は権威を作り、権威のある錯覚を作り、言い伝えを作り、ついには経典や法律を作って、そこに集団としての経験を集約し、実用的な知識を蓄積してきた。人間は、権威を持った集団知識の集積を作り、その教えにしたがって集団として生活していく(たとえば一九八九年 マーガレット・ギルバート『社会的事実について』)。これは確かに、安全で効率的な生活様式です。そうすることで有利に生き抜いてきた動物の子孫が私たちなのでしょう。そして人類は、文明社会を作った。技術や知識を蓄積して権威付け、それを継承していく。そのような社会活動をするような脳を作るDNA配列(ゲノム)を獲得して進化した人類が、他の旧人類たちとの生存競争に勝って、今のように世界中に増殖した私たち現生人類、ホモサピエンスサピエンス、になったわけですね。

最近の健康志向ブームに便乗して、「○○は身体によい」などと教えるニセ科学が、テレビなどを通じて、はびこっているようですが、これなども、権威がありそうな集団知識に乗り遅れたくないという人間の神経構造を利用した商売でしょう。

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人間はなぜ哲学をするのか(1)

2007-02-17 | 3人間はなぜ哲学をするのか

     3 人間はなぜ哲学をするのか?

筆者は気が短いのか、一時間以上も続くテレビドラマはあまり好きではありません。それでも妻がテレビを見ていると、横のほうから、ちらちらと見てしまいます。テレビドラマには、たいてい定番のような悲劇が作り込まれているようですね。恋人どうしや家族の死に別れの場面など、見るとなく見てしまうと、涙がにじんできそうになります。冷静で知的なはずの筆者が、そんな表情を妻に見られてはなりません。さっと横を向いてごまかす。そして、なぜこんな安直な芝居を見て涙ぐんでしまうのか、我ながら首をひねりたくなるのです。無意識のうちに心が共鳴する。それはこういう自動的な現象のことをいうのでしょう。

しかし冷静で知的な筆者としては、このように無意識のうちに感情を揺さぶる命、そして心、という存在は錯覚だということも知っています。たとえば、詳しくは後で述べようと思いますが、命とか心とかいうものは物質として存在するものではありません。だから大事でないと言うつもりはありませんが、手に取って目に見せることができない。はっきりと感じるものであるにもかかわらず、物質として捉えられるものではない。人間どうしの交流のうちに、そのときどきの状況の経験から直感して、共感する。それで分かったような気持ちになるしかありません。

そうではあっても、よくできたテレビドラマは、なるほど、本当に心に響く。身体が勝手に反応してしまう。身体が理解してしまう。涙が出そうになったり、手に汗を握ったりしてしまう。見ているこちらの身体に、テレビの中の主人公の心が乗り移ってきて、いつのまにか身体を動かして心を揺さぶる。次はどうなる、次はどうなる、と場面を進ませようとするのです。いいところでコマーシャルがはさまれる。実にうまく作られている。そういう連続ドラマを見ると毎回、(妻には内緒ですが)ぜひ次回を見ようと思ってしまう。

優秀なディレクターたちがそういう効果を狙って作ってあるのですから、あたりまえなのでしょう。同じように昔の人たちは、囲炉裏を囲んで長老が物語る伝説の動物、竜とか天狗などの怖い話を聞いて、本当に身体が震えて後ずさりしたくなった。それでも、その話をもっと聞きたくなる。それもこれも、同じ脳の働きです。

人間の内部には、心というものがある、森の奥には、天狗というものがいる、と言われれば、そういうものが確かにあるような気がする。でもだれも、現実の物質として、それを見たことはない。

日常生活では、それでも十分です。話し手がそれを言うときの表情、身振り、声の調子、そして前後の状況、そういうものを感じ取って聞き手は話し手の感情を共感し、相手が感じている錯覚を想像し、その錯覚の存在感を自分の経験として記憶していく。そうして、その錯覚は言葉で名づけられ、存在感という感情を伴って想起することができるようになる。さらにその言葉で錯覚を思い出し、それに想起される感情を声や表情で表現したときの相手の反応を観察して、その錯覚がだれとでも共有されていることを確認していく。こうして一連の錯覚を確実に共感できるようになり、仲間どうしは通じ合った気になって会話がはずみ、共同生活がうまくいく。

「天狗にさらわれるから子供から目を離すな」とか、「滝つぼには竜がいるから、子供は深いところで泳ぐな」とか言い合っていれば、その部族の幼児死亡率が低くなって人口は増加した。そういう便利な錯覚を共感し、それを言語で表現する人間の集団は結束が高まり、繁殖率が高まり、大いに繁栄して、錯覚を共感し言語を伝える能力をもつ子孫を増やしていく。いわば、人類の繁殖機構に埋め込まれることで、言語もまた繁殖していく。

しかし結局は「天狗」とか、「命」とか「心」とか「自分」とか、感情に訴える存在感の強い直感的な錯覚と、目に見える現実の物質世界の構造とは、もともと整合が取れてはいない。

私たちが直感で強くその存在感を感じ、人生でもっとも大事だと思っているものごとたち。命、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・。こういうものは錯覚です。物質として目で見ることはできない(たとえば、あなたが直感的に「自分」だと思っているその肉体は、目で見える限りでは、分子の集合であるただの物質でしょう?)。

人間の脳は、これらの錯覚を、現実の物質現象とはきちんと対応しないにもかかわらず、自分の脳内で作り出し、それを感情回路に連結して強い存在感を持って感じ取り、仲間と共感することで、行動に結びつけるような働きを持っている。こういう脳の機能を持つように、人類は進化した。人類は、群れを作り、群れの中で仲間どうし感情を共感し、共鳴して集団行動ができるように脳機構を進化させた。さらにその機構を下敷きにして、高度な社会生活とそれへ適応する上位の脳機構を共進化させた。それが、生物としての人類の生存と繁殖に有利だったからでしょう。

命、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む・・・こういう言葉で引き起こされる強い感情を集団で共感し、共有することで、人間は団結して上手に生活することができるようになった。上手に生活できた人間集団だけが現代まで生き残り、そのDNA配列(ゲノム)を受け継いだ子孫が私たちです。だから当然、私たちは、こういうものごとが人生でもっとも大事なものだ、と感じる。

私たち人間は、命や心の存在やその動きなど、これらの錯覚を物質現象として(自分の)脳の外の物質世界に直接見つけることはできない(たとえば、自分以外の人間は明らかに心を持っているらしく見えますが、その身体や脳をいくら詳しく調べても、これが心だといえる物質は見つかりませんね)。それにもかかわらず、人間は、仲間の人間の身体の動き方を見たときに自分の中に自動的に引き起こされる感情として、その人の命や心の存在感を、直感によって、瞬間的に、簡単に、はっきりと感じ分けることができる。

群れの仲間と感情を共感して、集団行動をとる機能は、群れをなす哺乳動物によく発達している。古くからある脳のこの機能を基にして、人間の共感共鳴機能も進化したのでしょう。

群棲動物は、仲間が恐怖を感じて逃走を始めると、その恐怖感情を共感して逃走する仲間に全力で追従する。人間の幼児も、動物と同じように、隣の子が泣き出すと泣き出す。しかし成長した人間はそれと同時に、仲間が感じる恐怖の対象、たとえば加害者の悪意、などの存在感を共有してそれに反応する。人間は、直接の感情を共感すると同時に、仲間が感じるその感情の対象である錯覚(たとえば加害者の悪意)の存在感を推測し共感するからです。「加害者の悪意」などというものが、それを感じる人の脳の外には物質として存在しないとしても、その錯覚の存在感を脳の中で感情に結び付けて感じ、仲間の人間とその存在感を共感できれば、その脳機能は人類の生存に有利に働く。そうして、結果的に子孫が増える。つまり、その錯覚を作る機能は人類全体に遺伝していく。

動物の中で人類だけが、仲間と共感する存在感を錯覚として固定できるように、脳の神経回路を進化させた。ヒト科に属するチンパンジーゴリラには原初的な形で似たような神経回路があるかもしれませんが、たぶんは、人類の進化史上、せいぜい数百万年くらい前(チンパンジーと別れた頃)以降に起こった人類特有の脳の進化でしょう(後で論じるようにヒト科の中からヒト属が出現した二百万年前かもしれない)。人類は、脳内で作り出される錯覚を、存在感を伴って感じとり仲間と共感することで、共有できる世界のモデルを脳内に作り出し、それにもとづいて仲間との連携行動を調整するようになった。その結果、連携行動を活用する採食繁殖行動パターンの獲得に成功して、この数百万年間、どんどん繁殖してきたのです。

この機能が、脳のどこの神経回路で、どのような生理的現象として起こるのかは、現在の脳科学ではまだよく分かっていない。たぶん、扁桃体前部帯状回、前頭葉内側など、辺縁系の神経回路が側頭葉、頂頭葉など運動・感覚系の大脳皮質と連携して機能しているらしい、としか分かりません。いずれにせよ、明らかに人間の脳神経回路では、人の命、人の心の動き、自分自身に対する意識、などに関する錯覚の共感が感情回路に強く連結して、強い反応を起こしている。その神経回路の反応は、視線による注目など、決まった表情や声色や動作で表わされるようになり、人間どうし互いに視覚聴覚のみで(テレパシーなど使わずに)共鳴し 認識できるようになり、人間集団の中で安定し定着する。仲間のその表情や動作を感知して、人間は、仲間の内部で起こっているらしいその錯覚とそれに伴う仮想運動と感情を共感できて、それらにはっきりした存在感を感じることができる。

仲間の人間の脳内で感じられている錯覚は、その人体の運動となって外部に表現される。つまり、表情、動作、発声となって、それを観察している人間の目や耳で感知できる。その視覚聴覚の受信信号は、観察者側の脳内で自動的に運動形成回路を共鳴させ、その運動信号は記憶にある共有の錯覚の再生を誘発する。そうして、人間から人間へと、共有された錯覚が伝わる仕組みなのでしょう。

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