哲学の科学

science of philosophy

貨幣の力学(6)

2014-03-29 | xxx8貨幣の力学

拙稿の見解では、お金という概念は、通貨や、価格や、為替、利率、マクロ経済などという現代の経済現象ばかりではなく、ずっと深く人間の身体構造に埋め込まれている機構であると考えます。そこに興味がある。

お金は明らかに価値がある。価値があるからお金として使われている。その価値とは何か、それは言葉では言いにくい。言えないことはないが、言葉にすることで意味が歪んでしまいます。

人類は、通貨が発明されるよりずっと昔から価値というものに敏感だった。むしろ、通貨を知らない人々の方が物事の価値に敏感だったと思われます。狩猟採集の原始時代から、人々は生活の上で何がどれくらい大事か、ということをよく考えていた、よく知っていた、と思われます。そうでなくては厳しい自然環境を生き抜いて子孫を残すことはできません。物事の価値を、正しく、よく分かっていた、ということでしょう。

そのころの人々が感じ取っていた価値という感覚を、現代人が感じ取るお金の価値というものと同じものではないか、つまりある環境での、ある場面に決定できる金額という数値としてよいのではないか、と考えることができそうです。

価値という感覚が人間の身体の機構から生じる重要な機能であれば、お金が発明される前から重要であり毎日の生活で使われていたはずです。貨幣を知らなければ金欲とか財力とかは発生しない、と考えるのはおかしいでしょう。逆にその感覚が人間の身体の深いところから発生しているからこそ、お金が発明されてからこれほど歴史的短期間に貨幣経済、グローバリゼーション、財力、お金の支配、というものが完成したといえます。

貨幣がなかった時代、たとえばA君は熊の毛皮二十枚と石の矢尻二十個をB君に贈る。代わりに、B君は娘を嫁にやる。この場合、A君とB君とは価値の感覚を共有していたと考えることができます。貨幣があれば、たとえば五百万円の取引だということになる。貨幣というものがない時代、A君とB君とは現代人が感じる五百万円という価値を感じ取ることはできなかったでしょうか?たぶん、A君とB君は、現代人よりも鋭い感覚で、今でいう五百万円に相当する価値を感じ取っていたでしょう。

自分にとっての価値をはっきりと感じ取る感覚が人間の身体には備わっている。身体が自然にそれを感じ取る。感じてしまう。その感覚にもとづいて貨幣はその力を働かせることができる。貨幣はその力によって商品の価格を定め、物を動かし、人を動かす。と考えることができるのではないか。

裏返せば、金銭感覚といわれる感覚が人を動かす、ともいえます。

貨幣の力は、物質の重力が質量に比例するように、その額面金額に比例します。重力が質量の和に比例するように、貨幣の力は額面の合計額に比例します。逆に言えば、そうであるから貨幣は交換の対象となっている、といえます。

貨幣の力が物やサービスに及ぼす作用は、このような加算性と交換可能性によって、水が低い方へ流れるように、高い価値がある所にあるものを低い価値の所へ押しやる。つまり水面を平にするように、物の価値を平衡させる力となっています。この平衡法則が市場という場を導くことは古典経済学の基本理論です。

Banner_01

コメント

貨幣の力学(5)

2014-03-22 | xxx8貨幣の力学

ここに貯金箱がある。陶器で作られた豚の背中に縦長のスロットが開いています。このスロットからコインを入れる。毎日百円玉を一個入れることにしましょう。来年の今頃には三万六千五百円くらい貯まるはずです。

来年になってハンマーで豚を叩き割る。いくら入っているか楽しみです。叩き割らなくても取り出し用の蓋がついている貯金箱もあります。毎週土曜日にその蓋を開けてお金を数えてみるのが楽しみという人もいる。あるいは、蓋が開かなくても手で持って重さを感じるとうれしい。それがお金の価値でしょう。

お金が貯まるとなぜうれしいのか?財布が厚いとなぜ暖かい気持ちになるのか?それが、身体で感じるお金の価値というものです。

価値という概念は実はうまく定義できない。哲学者は古来あらゆる価値を議論の対象にして語ってきました。哲学者の数だけ価値の数はある。なかなか、これだ、という決め付けは出来ていません。大事なものを価値ある、という。価値とはどれだけ大事かということだ、ということがはっきりしているだけです。

猫にとっては金よりもカツオブシのほうが価値がある。

紀伊国屋文左衛門にとっては金よりも粋のほうが価値がある。

世之介にとっては金よりも女の肌の方が価値がある。

価値がある、とは、好きだということだろう、というだけです。

経済学の場でも、古典経済学 では価値を経済活動の基準と考え、種々の理論を作り出してこれを定義しようとしましたが、あまりうまくいかなかった。

通貨というものが価値を表す指標であることはだれもが認めるが、通貨と価値は同一ではない。そこで現代経済学では価値に関するこの不毛のように見える議論は避けて、現実の通貨そのものを基準として為替レート、金利、物価、成長率その他の数値的関係を理論化するようになりました。しかしそうなると、実務的には便利な予測ができるようになったが、そもそも人間にとってお金とは何か、という根本的なところがよく分からなくなる。よく分からないが、現代的に割り切ってしまえば、実体経済がうまく予測できるならばそれでよしとしよう、となっていきました。

Banner_01

コメント

貨幣の力学(4)

2014-03-15 | xxx8貨幣の力学

効用あるいは価値という概念が脳の状態パラメーターである、という神経経済学の仮説は一応の説得力がありますが、脳状態のそのパラメーターを、たとえば神経細胞の活動電位などとして定量的に測定し、種々の条件におけるその現象を予測する理論を構築できるところにまでは至っていません。将来、この新領域の経済学が定量的測定値に基づく精密科学になれるのかどうか、それが可能であるとしても現在の私たちにはその様相を想像することができません。

お金の価値というものを、私たちは直感で、はっきりと感知できるにもかかわらず、それを物理的な観測装置で測定することができない。言語であれば、発語を録音したり文字に書き取ったりして身体活動の結果としての言語現象を記録することができます。お金の価値はそういうことができません。身体の外部に数字と貨幣単位で表すことはできても、価値を身体が感知したことで起きる身体現象は記録できないでしょう。

一万円札をもらったときの私の身体の変化を、瞳孔の拡張比とか血圧とか脳波であるとか、客観的変動値として各種測定装置で測定して、状態ベクトルとして記録する。それから二万円(一万円札二枚)をもらった時のそれにあたる状態ベクトルを測定して記録する。それらの測定値を方程式で計算して、どうすればお金が二倍になっていることを算出できるのか?

まあ、無理でしょうね。そんなことができるくらいなら、警察庁がとっくに収賄罪摘発の証拠作成に使っているはずですが、そういう話はなさそうです。

ではどうしたら、お金の価値というものを客観的に表現できるのか?

一時間、音もしない真っ暗な部屋で待っていた人には千円をあげます、という実験をする。たぶんかなりの人が参加する。まあ、筆者のような暇人は参加するでしょう。では、五時間待っていなさい、トイレはありません、という実験条件でどうか?参加する人はだいぶ少なくなる。うっかり参加した人も途中で逃げ出す。筆者もやめます。何時間待たせると参加者が半分になるか? 半分の人が待つことをやめた時間数でお金の価値を表現したらいかがか?

こういう測定法で良いのか?

労働価値 という概念があって、一日ないし一時間働いた価値は、誰がどう働いても同じだ、という経済学理論もありますが、ちょっと直感には合わない。まず一日の労働時間といっても、個人的事情によるし、労働内容にもよる。雇用形態、会社の知名度、職場の人間関係にもよる。一万円札の価値を時間給で割っても、それが価値を表すとは思えません。

一万円を使えばコーヒーが何杯飲めるとか、タクシーで何キロ行けるとか聞いても、それこそ、その価値は、その時の事情によるでしょう。そういうことで私たちがお金の価値を感じ取っていると言えるでしょうか? ちょっと違いますね。

つまり一万円札の価値というものを私たちは直感で分かるのに、それを客観的な数値で表すことができません。私たちが身体で感じることができるお金の価値というものは物質的なもので表現することができない、ということでしょう。

Banner_01

コメント

貨幣の力学(3)

2014-03-08 | xxx8貨幣の力学

むしろ現代では昔よりもお金で解決できる事柄が多くなってきている。たとえば個人的な不運や不幸の多くは事後的にも金銭的に解決できる場合がありますが、むしろ保険や年金あるいは資産蓄積という形で事前に金銭的な積立を行うことで防止することができます。

このように直接的と間接的と両方を合わせれば、お金が現代人におよぼす影響力、あるいは支配力は過去最大になっているといえます。

古代から現代まで歴史が進むほど、ますますお金は支配力を増している。人を動かす力がある。それもとても強く人を動かす力があるようです。なぜでしょうか?

お金という概念の上に作られた貨幣や商業や金融は、たしかに歴史時代になって文明化された都市で開発され、各国の経済の発展とともに世界中に普及した社会システムです。現代人と同一の身体構造を持った現世人類の十数万年にわたる狩猟採集生活において貨幣の機能を持つ人工物は存在せず、農耕牧畜が普及した最後の一万年以降になって、貨幣の機能を持つ貴重人工物が出現し使用されたことが考古学研究から推定されています。

しかし現在これほどまでに普及し私たちの人生目的の根源にまで影響するものとなっている貨幣システムは(拙稿の見解では)、もともと人類の生得的な身体の中にそれを支える機構があってそれの表現(拡張表現型)が歴史時代に至って実現したものだと見なすことが自然ではないかと思われます。

お金の起源は、物々交換の対象であった金属などのうち、保管や携帯に便利なものが通貨となり、国家によって刻印された貨幣になっていったとされますが、そのとおりでしょう。お金というものの興味深い点は、歴史上どの時代のどの国家でも金銀の貨幣などの形で発行され、ほとんど同じような形態で流通使用されていることです。この現象は、世界中の言語が数千種類も使用されていて、しかもどの言語も同じように物事を表現している現象とよく似ています。お金はこうして考えると、言語と同じように人類共通の行動様式であるといってよいでしょう。

もしそうであるとすれば、言語を使いこなす人類の行動様式が脳神経系の言語獲得機構という身体的特徴を基盤として生得的に成り立つものであることと同様に、お金を使いこなす人類の行動様式も脳神経系など身体の上に基盤を持つ人類の生得的現象である、としてよいことになります。

お金を支えるその神経学的基盤はどこにあるのか?つい最近、前世紀末ころから 神経経済学 という研究領域が開拓されてきました。消費や投資など経済行動を行う場面での脳神経系各部位の活動を測定して種々の理論仮説を作っています。たとえば古典経済学の基本概念である効用とは、神経経済学では、前頭葉新皮質の状態パラメーターの一つである、となります。

Banner_01

コメント

貨幣の力学(2)

2014-03-01 | xxx8貨幣の力学

一万年以上前と推定される人類の貨幣使用の始めの頃は、貨幣そのものが使用価値を持っていました。金銀は装身具あるいは装飾材として美しい金属であったから価値があった。その時代、お金が人を動かすという力は薄かったでしょう。お金に直接的な支配力はなかった、と推測できます。

近代の資本主義社会ではお金は人を動かす直接的な力を発揮しましたが、現代に至ってグローバリゼーション、情報技術の普及などが進んだ結果、お金の力は人々を動かすことに関して安定的な場を作り出している、ということがいえます。これはお金による間接的な支配といえるでしょう。

古代には、お金は人々に対して、それほど強い支配力はなかった。産業と商業の発展にしたがって、一六世紀頃から、貨幣経済は人々の生活全般にわたって支配力を強め、二〇世紀前半頃には世界のすみずみに至るまで強力な支配力を行き渡らせるようになった、といえます。さらに二〇世紀から二一世紀にかけては、科学と経済が個々人の人生までを決定する影響力を持つようになり、それらの影響はお金を通じて及ぼされることから貨幣経済の支配力は過去最大になっている、ということでしょう。

しかし一方、現代の科学と経済は、産業や生活のインフラストラクチャとして深く埋め込まれているため、直接お金のやりとりを通じて現れる面ばかりでなく、むしろ多くは間接的に、人々の生活あるいは人生に支配的な影響を与えるようになってきています。これもお金の支配力の一種ではありますが、目に見えにくいものに変わってきているといえます。

さらに昨今は、お金そのものも見えにくくなっている。小切手やクレジットカード、ローンの普及で、現金として目に見える形以外のお金が、日常生活でも主役になってきています。いまや携帯機器による電子決済、仮想電子マネーが現金に取って代わりつつある、といえるでしょう。

現代、お金は硬貨や紙幣の形ばかりではなくなり、またお金で買いたい対象物も穀物や装身具に代表されるとはいえなくなっています。現代人がお金で買いたいものは、海外旅行、携帯通信機器やインターネットを通じた情報、エンターテインメント、あるいは子どもの教育、あるいは老後の介護サービスなどでしょう。それらは、百年前にはほとんど需要がなかったものです。

形態も交換対象も、昔から見るとすっかり様変わりしているお金の有様のように思えますが、それでも私たちの生活で、直接的あるいは間接的に、お金がなによりも大事であろう、という点において、人間とお金の関係は基本的には同じでしょう。

Banner_01

コメント

文献