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哲学の科学

science of philosophy

私を知る私(8)

2012-08-11 | xxx0私を知る私

私たち人類は、言葉の世界の内部で生きています(拙稿26章「「する」とは何か?」)。

私たちは言葉で話し合う。一人で考えるときも、言葉で考える。言葉をはっきりとは使わないときでも、それを意識できて記憶できるような物事は言葉で言えるような物事です。それらは人と分かり合える物事です。つまり私たちが互いに理解し合えることは、言語あるいはその他の形で人と共有できるような表現(「言語等」ということにしましょう)として目や耳で感じられることができる物事だけです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。

言語等で表現できない私の部分(たとえば現代人の思うところの自己中心的自我)については、(もしそのようなものがあるとしても)語ることができない。私たちが語ることができる自我は、互に目に見える自分たちの身体とその動作、音声で表されることでしかないでしょう。それは自分のことであっても、他人のことであっても、基本は同じことです。私たちが自分で考えることができる私もまた、人に語ることができる私だけです。

私が知っている人間たちの中では、たしかに私はとびぬけて自分自身のことをよく知っています。しかしその知り方は、結局はほかの人間を知る知り方と変わりがない。私というものが私にとって特別なものである、という理由はこの現実世界の中には見つからない(拙稿23章「人類最大の謎」)。言い換えれば(この現実世界においては)、私というものは私にとって、もっとも親しい他人である。とても親しいけれども他人である。それ以外のものではない、ということができます。

拙稿本章をまとめてみましょう。

私が知る私とは何か?私はまず現実としての私(第一の自我)を知る。だれの目にも見える私の身体。履歴、自己紹介、過去の事実、ルーツ、社会的地位、収入、資産、家族、友人関係。だれもが知ることができる私の行動。それらはすべて現実です。私は、私を含むこの現実を知る。それは、現実を知る私を知る、ということです。

一方、この現実を知る本当の私を知っているのはこの私ただ一人しかいない、と現代人である私たちは思っています。(昔の人はこの私以外にも仲間、一族、あるいは神様が本当の私を知っていると思っていましたが)現代人の私たちにとってこれは常識になっています。そうであれば、私だけが私の自己中心的自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)を知っていることになる。

しかしそういうこと全体を、私たちは言葉(言語等)を使って語り合うしかない。ところが、言語等の限界として、現代人の思うところの自己中心的自我は直接に表現できない。ここに近代哲学、現代哲学の混乱が起きています。哲学の混乱は知識人、教師、マスコミの混乱に通じて、現代人の自我意識に複雑な影響を与えています。

私たち現代人は、言語等で直接に表現できないような自己中心的自我を自分自身だと思い込んでいる。一方、言葉で語り始めた瞬間、それはそれ自身とは違う客観的なものになってしまう。そこに現代人のフラストレーションが出てくるのはしかたがないでしょう。

言葉(言語等)で語り合う限り、言葉(言語等)で考えようとする限り、私たちが知り得る私というものは、他人から見える私と違うものではありません。私たちは他人を知る以上に自分を知ることはできない。逆に言えば、私たちにとって私とはそれだけのものです。この限界に、現代人である私たちは、なかなか気がつきません。■

(30 私を知る私 end

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私を知る私(7)

2012-08-04 | xxx0私を知る私

実際、西洋諸国などの近代社会、あるいはそれから発展した現代社会は、自由市場、民主主義などの社会システムとして自己中心的自我を社会化することに成功した社会です。つまりこれらの社会では、自己中心的自我を社会的に認知する個人主義と呼ばれる社会規範を社会機構の基礎として再生産するようになっています(西洋人は個人主義であるのに対比して日本人は集団主義である、とよくいわれますが、日本人の組織については、性根は集団主義でホンネは個人主義でタテマエは集団主義で教科書としては個人主義だ、ともいわれているように複雑な階層構造を作ることで近代化に成功した例でしょう。さように、個人主義という語はトリッキーなところがあり、いずれの国の組織でも実は同様に複雑な構造を持つと推定されます)。

この現代的な自己中心的自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)は、しかしながら、言語によってはっきりと表現しつくすことができません。人類の言語は(拙稿の見解では)、原理的に客観性を持つので、客観的対象ではない自己中心的自我を直接表現できない(詩や文学や芸術で表現できるといっても、それは比喩的な表現でしかありません)。私たちの日常言語(自然言語)にこのような自己中心性の直接的な(言葉では言い表せない本当の私を言い表せるような)表現を求めることは言語機構の構造からして矛盾です。過去数万年にわたって使われてきた人類の自然言語、つまり私たちが話す言語は、複数の人間の間で共有できるような客観的な物事を表現することしかできないものとして作られています(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。

にもかかわらず、自分一人を行動の基準としなければならない私たち現代人は、自分自身の自己中心性を、その同じ言語によって表現しなければなりません(拙稿19章「私はここにいる」 )。

現代人の私たちは、この現代的な自己中心的自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)を自身で体感していますから、話し手がそのことを語ろうとしている場合、詩や文学や芸術での比喩的な表現や、コンテキスト(文脈)による判断、話者の空気を読み取ること、などで漠然とは気分が理解できます。しかし、それは言語によってとらえたものではない。その空気が分からない人々には伝えることができません。そのため科学論文に書くことはできず、哲学の議論としても空回りしてしまいます。

現代人が言語で表現しなければならない自我意識と自然言語の表現能力とのこの構造的な矛盾が(拙稿の見解では)、近代哲学の間違いを引き起こし、結局は現代の哲学者、知識人、マスコミのなす議論を空転させ現代思想を不毛に陥れている根本原因といえます(一九二九年 エドモンド・フッサール「デカルト的省察既出 )。

たしかに、自己中心的自我にとっては自分だけがすべての中心であって特別な価値がある、と感じられます。私たちは、そのような自分を、私あるいは自分、という言葉で語ろうとします。ところが言葉で語れる自分は、人から見たその人のことでしかありません。言葉で自分を語ろうとすればするほど、自分が感じている本当の私(自己中心的自我)を語ることはできない。それなのに、私たちはそれが言葉で語りきれると思い込んでいる。私たち現代人のフラストレーションの多くはこのような齟齬から来ているのではないでしょうか?

たとえば就職先を探す学生に対してマスコミあるいは教師などが「自分が好きな職業をめざすべきだ」とアドバイスする。直接話法で言えば「君が好きな職業をめざすべきだ」となる。話し手がいう「君」とは聞き手のことですから、「自分が好きな・・・」というものは話し手から見てその人が好きだろうと思われているものになります。それは話し手という他人、あるいは話し手が代表している無数の仲間たちから見て、聞き手が好きだろうと思われているもの、それが「自分が好きな・・・」という言葉が指すものです。

若者は自分が変わり者だとは思いたくない。ふつうの人だと思いたいはずです。自分がふつうの人だと思う場合、自分が好きなものという言葉は、ふつうの人が好きだろうと思われているものを指すことになる。ふつうの人が好きであるはずだと思われるもの・・・それは、職業であれば花形職業になるのは当然です。アドバイスを信じた全員が花形職業に就けるはずがなく、職を求めての過当競争は敗者を増やすだけとなるでしょう。

自分が好きなものを選ぶ、ということは現代人が思うところの自己中心的自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)の自然な欲求に従うことであると考えれば、当然なすべきことである、と思われます。しかしその自然な欲求というものが「自分が好きなものを選ぶ」という言葉で表されるとき、仲間の皆が認めるはずの欲求とすり替わってしまう。そうして選んだものを、自分が好きで選んだ、と私たちは思っています。

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私を知る私(6)

2012-07-28 | xxx0私を知る私

少なくとも過去数十万年、人類の生きてきた環境では、生活を共にする仲間との緊密な協力が生存の条件であり、そのように集団の生活力を強化する方向に人類としての進化圧力がかかっていたことは間違いないでしょう。その環境の中で発生し進化してきた自然言語の上に作られている自我概念は(拙稿の見解では)、機能的に、仲間との協力を支える機構であったはずです。

そうであるとすれば、自我概念は、仲間の一人としての自分、つまり仲間と共有する客観的現実の一部としての自分を知ることがその元来の機能でしょう。

仲間の集団的観点からみて、自分という人間がどういう役割でどういう影響力を持つかを予測するための道具としての自我。それは現代でも社会感覚としての自我、つまり、他人との関係において見定めることができる自分の姿、あるいは兵法、マキャベリズム、出世哲学などいわゆる、行動戦略、処世術に描かれる自我として、第一に現れている自我概念です(これを第一の自我ということにしましょう)

私たちは今でも、過去十数万年にわたって人類が使っていた言語形式と同じと思われる第一人称、第二人称、第三人称という形式を持つ自然言語を使っています。その言語のうえで私たちは自分というものを考えている。ふつう言葉で「私」というときの私は第一の自我です。しかしながら現代人である私たちが自分というものを強く意識するときは、自然言語が発生したと推測される十数万年前過去の人類の自我感覚とはかなり違うと考えるべきでしょう。私たちの身体が置かれている物質的な環境の違いと、さらに大きくは社会的な環境の違いによって、自我感覚が変わってきているはずです。

「私を知る私」というような言葉で自分を反省してみる(拙稿本章のような)場面においては、客観的現実としての第一の自我ばかりでなく、むしろ客観的ではない、言葉では言い表せない本当の私というような、自己中心の自我感覚が第二に来ているでしょう(これを第二の自我ということにしましょう)。第二というよりも、感じ方によっては第一かもしれません。

私たち現代人には、大なり小なり、だれにでも、自分が王様、自分が神様、自分が死んだあとはどうでもよい、というような仲間集団への依存とは逆方向の、言葉ではうまく言い表せない(言語の限界を超える独我論的な)、自己中心的な自我感覚が強くあります。この感覚(第二の自我)は、ふつう幼児的自己中心主義とされて片づけられることが多いようですが、実は、近代哲学の自我問題の出発点となった心身二元論の土台になっていると考えることができます(拙稿19章「私はここにいる」 )。

このように現代人の自我概念は、過去十数万年の人々にとって支配的であったような仲間と共有する集団的自我(第一の自我)を下敷きにしてはいても(拙稿の見解では)、文明社会の影響によって一種の幼児帰りを起こしていて、自己中心的自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)を表層に表してきていると考えられます。

逆説的ですが、この言語表現の限界を超えるような現代的な自己中心的(第二の)自我は(拙稿の見解では)、文字による言語表現の出現によって顕在化したのではないか、とみることができます。文字が発明されて、聖書経典、宣誓書、通達書 契約書、法律書、文学書(あるいは現代における書籍、新聞)などに神あるいは王など全知全能の権威者(現代のマスコミ)が発する言葉が文字化されて記述され社会的に機能するようになる。全知全能の権威者の視座から見た自己中心的感覚の記述が日常的に機能するようになる。その結果、権威者の語る言語によるこれら表現(第一の自我)の後ろにある、全能の主体、つまり幼児的自己中心自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)の存在感を呼び起こすようになった、と(拙稿の見解では)推測できます。

この現代人特有の(第二の)自我は、たしかに識字率が高くマスコミなどが普及している先進国、民主主義国、市場経済国家の人々の間に顕著に表れているようです。この二百年ほどの短期間に、このような自我感覚が、西洋諸国や日本など近代社会に急速に浸透した社会的背景としては、個人の人格の統一性と持続性が近代社会の組織化に必要であったためでしょう。逆に言えば、この自己中心的(第二の)自我を慣習化し世代を継いで再生産できるように構成された社会が近代社会として発展できた、といえます。

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私を知る私(5)

2012-07-21 | xxx0私を知る私

私が私と思っているこの私は、もちろん現実にここに存在している物質であるからして、現実の一部分です。そういうようにこの現実の一部分である私と私の周りの人たちの変化を予測すること。こういうことが(拙稿の見解によれば)、私が私を知る、ということです。

私が私を知るということがそういうように現実を知るということの一環であるとすれば、私が現実を知ることがそのまま、私が私を知るということになっている、といえます。ここまで何度も繰り返しましたが、人間が現実を知るのは仲間と協力して集団的社会的行動をする仕組み(運動共鳴)による、という考え方を拙稿は採用しています。この仕組みは人類の進化の結果、私たちの身体に埋め込まれています。逆にいえば(拙稿の見解では)、身体に備わったこの仕組みで私たちが感じ取れるものを現実と言っていることになります。 

ちなみに、古来の哲学は、私を含んでいるこの現実とは何か、を研究の対象としてきました。哲学者たちが言う現実とは、当然、私たちの目の前にあるこの現実のことですが、哲学の文脈では、これがちょっと厄介なものだということになっています(それがまた哲学者たちがちょっと厄介な人たちだと思われる原因でもあるわけですが)。それはこの現実の中にいる私だけが、結局は、この現実の存在を証明する唯一の根拠である、という議論から来ます(拙稿第二部「この世はなぜあるのか」 )。

こうなると今度は、現実の中に認められる私自身をいくら詳しく観察しても、その姿かたちや行動を分析し予測しても、その現実そのものの根拠がまた結局は私自身だということでは、本当に私を知ったことにならないのではないか、という疑問が出てきてしまいます。面倒なことは考えずに、私はここにいるからここにいる私が私のすべてだ、と言いたい気分になります(拙稿19章「私はここにいる」 )。しかし、それでも何か残っている、と思ってしまうと、気分はすっきりしません。この(私を知る私とは何か、という)問題が完全に解けたという気にはなれません。

現実というものと私というものは(拙稿の見解では)、どうも深く絡み合っていて、すっきり分離できないと考えるしかないでしょう。ここに気づかずに過ぎてしまうと、「私とは何か」とか「現実とは何か」、あるいは「存在とは何か」とかいう一見簡潔な問いが作られる。

それらはまさに哲学の問いであると思われている。それらはしかし、偽問題です。問うことが間違いです。論じるほど言葉に絡めとられていく。哲学者がいくら論じても答えは出ない。だから永久に哲学の問題になっている。こういうたぐいです(拙稿第一部「哲学はなぜ間違うのか」 )。

私たちは「私とは何か?」と考える。それは言葉で考えています。「私とは何か?」という疑問文の意味を考えています。

私たちは、言葉を使ってだれかに聞くときのように「私とは何か?」と考える。あるいは、だれかに聞かれたときのように、それ(「私とは何か?」という疑問)を考える。そのとき当然、言葉を使ってその疑問文の意味を考えています。だからして、この問題はまず言葉(自然言語)を土台にしていることは明らかです。

そもそも「私」という言葉(第一人称)は、話し手が聞き手に「今あなたに向かって話している人物」というものを指す場合に便利であったから作られた言葉でしょう。

たとえば、

「火があるとよいのだが」

「私が火の起こし方を知っている」

というような会話の場面で、「私」という言葉は便利です。

このように自我概念は、その起源からして、協力する人物を求めている仲間(この場合第一人称で「私」と言っている話し手の話を聞いている聞き手)の観点から見ての、話し手である人物への関心にこたえるための道具でした(拙稿12章「私はなぜあるのか?」 )。

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私を知る私(4)

2012-07-14 | xxx0私を知る私

人を知るということは、その人の目に見える姿やしぐさや行動や、行動から推測できるその性格などばかりでなく、これからどう行動するか、どういう時にどう行動するか、ということを予測できるということです。しかも、大事なことは、そういう予測ができるという自信を私が持っている、ということです。

言葉を替えていえば、それはその人が現実にどういう人であるか、ということです。つまりその人がどうであるかということを、私一人が空想したことではなく、私と一緒にその人とかかわっている人たち、あるいはこれからかかわることになりそうな人たちも皆同じように予測できるような知り方を私もしているということです。これは一言でいえば、その人が現実に存在している、その人はこの現実世界の一部分である、ということを私は知っている、ということです。

これが、(拙稿の見解では)人が人を知るということの仕組みだ、といえます。逆にそうでなければ、私がその人を知っているとはいえないでしょう。

人が人を知る仕組みがこのようなものであるとすれば、このことは、私がなぜ私自身を知っているのか、という問題に応用することができます。つまり、私が私自身を知っているという場合も、それは私一人が空想することではなくて、今私にかかわっている人々、あるいは今後、私にかかわっていくだろう人々が皆同じように予測できるような知り方でなくてはならない、ということです。

私は、山田さんにかかわる人々が山田さんの姿や行動や性格を知っているのと同じように山田さんを知っている。そして同じように私自身をも知っている。つまりそうして私は、山田さんも私も同じようにこの現実の中に人間として生きている、と感じています。つまり私自身も山田さんと同じように、この現実の一部分として存在している、ということを私は知っている。こういうことが、私が私自身を知る、ということなのではないでしょうか?

私は山田さんを知っているし、同時に私自身をも知っている。私が山田さんを知っている知り方と、私自身を知っている知り方とは、いくらか違うけれども結局は同じようなものだ、といえます。

しかし私が私自身について知っていることは、知識量として、山田さんについて知っていることよりもずっと多い。知識のデータ量(脳神経科学がもう少し進歩すれば脳のメモリとして何ギガバイトという数量で測れるはずです)が圧倒的に多い、といえます。それは、私が私について感じ取っている時間が、山田さんについて感じ取っている時間よりもずっと長いということからも当然だと思われます。私が私自身に対して注意を向けている時間は、山田さんに対して注意を向けている時間よりもはるかに多い。百倍くらいではなく千倍くらいかもしれません。

私はまた私の内面に関して直接、知っているが、山田さんの内面については外面の観察から推測するしかない。したがって私が私のことを山田さんのことよりも正確に多くを知っていることは当然と思われます。

それはその通りなのですが、私だけが私の内面を知っているといっても、それは(拙稿の見解では)結局、外面を知っていることと基本的な違いはありません(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」 )。つまり、人間が人間を知るということに関しては、私が山田さんを知っている知り方と、私自身を知っている知り方とは、データ量的に桁が違うかもしれないが、その仕組みは基本的に同じだ、ということが重要です。

ただ、ここで問題は、私が私をよく知っていると思うのはなぜか、ということです。

私は私が山田さんを知っていると同じように私自身を知っている。私が山田さんを知っているということは、山田さんがどのような人で、どういうときにどういう行動をするか、そしてほかの人たちが山田さんにどういう行動をするか、ということを知っている、ということです。それと同じように私が私自身を知っているということは、私がどういう人で、どういうときにどういう行動をするか、そしてほかの人たちが私にどういう行動をするか、ということを知っている、ということでしょう。つまり、そういうことを予測できる、ということです。

逆にいえば、私は、山田さんがどう動いて山田さんに関して皆がどう動くか、を予測するために山田さんを知る。また同じように、私自身がこれからどう動いて私に関して皆がどう動くかを予測するために私自身を知る、といえます。このような知り方は、皆さんが山田さんあるいは私を知る仕方と同じです。皆さんは、一人の人間である私がこれからどう動くかを予測しておくために私を知る。私が私を知る場合も、基本的にはこれと同じことです。

そういうことであるとすれば、私が私を知るということは、私という人物に関して私自身や私の周りの人たちがどう動くか、つまり私に関してこの現実がどう変化するか、を私として予測しておくことだ、といってよいでしょう。

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私を知る私(3)

2012-07-07 | xxx0私を知る私

私が山田さんを知っているということは、私の脳に山田さんのデータが記憶されているということばかりでなく、現実にこの世にその山田さんが生きているということであり、かつ何人かの人がその山田さんを知っているという事実の全体からできていることです。

たとえば、うちの近所の小泉さんや上山さんは明らかに山田さんを知っていて、山田というその名前はもちろん知っているし、四角いその顔を見ればすぐその人だと分かるはずです。後姿だけでも背格好と歩き方ですぐ分かります。

私は小泉さんや上山さんと会うときに、山田さんの話をすることができる。私が山田さんを知っているのと同じように小泉さんも上山さんも山田さんを知っていると確信できます。小泉さんや上山さんが山田さんを話題にしてきた場合にも、私はすぐにうまく応答できます。

このように仲間と何かするときに、山田さんのことを知っているとうまく動ける。山田さんと会うときは、もちろんそうです。山田さん以外の人と会うときも、山田さんを知っている方がよい。もしかすると、最初はそういう理由で、私は山田さんの名前や顔かたちを覚えようとしたのかもしれない。

実際、私がいつから山田さんをこのように知るようになったのかは思い出せません。私は人の顔を覚えるのが苦手で、すれ違う程度の人の顔は覚えられません。二年くらい前に山田さんが隣に越してきた後しばらくは顔も覚えなかったと思います。ところが今は皆さんと同じ程度に山田さんを知っているという自信がある。

挨拶を交わす程度のつきあいですが、なぜちゃんとこの人を知るようになったのでしょうか?思うに、よく話をする小泉さんや上山さんが山田さんを話題にしてくるからでしょう。それで私も山田さんの姿を見ると、「あ、この人が山田さんだ」と思う。そのうち顔も姿も、表情やしぐさの癖までも知ってしまったのだ、と推測できます。

逆に、私が近所の小泉さんたちと会うときに、山田さんのことを思い出したり、山田さんの話題が出ると、すぐに、なるほど山田さんはそういうふうに行動する人だと思ったりする、ということが、山田さんを知っているということだ、ともいえます。つまり私も小泉さんたちも皆、山田さんがどういう時にどういうことをする人かを予測することができて、しかもその予測は皆ほとんど同じように当たるという場合、私たちは山田さんをよく知っている、といえます。

実は、このように私ばかりでなく皆が同じように山田さんの姿、表情、しぐさ、行動などを予測できる場合に、「私は山田さんを知っている」という言い方が使われていることに注意する必要があります。

「いや、私一人だけが山田さんを本当に知っていて、ほかの人は実は山田さんを誤解しているのだ」などという言い方をする場合もありますが、これも中身によく注意して聞いてみれば、「皆さんは本当の山田さんを見ていないから誤解しているのであって、仮に本当の山田さんをしっかり見る機会があれば、私が知っている山田さんが本当の山田さんだということがだれにでも分かるはずだ」ということを簡略化した言い方であることが分かります。

つまり、私が山田さんを知っているということは、私一人だけが独自の知り方でそう思っているということではなく、潜在的にはだれもが知り得るような山田さんの本当の姿や性格や行動を私は知っているということです。

こういう場合に、私は山田さんの顔を見ればすぐに山田さんのすべてを思い出すことができるし、顔を見なくても、だれかが山田さんを話題にすればすぐにすべてを思い出せます。

これは、現に山田さんが現実世界に存在していることから当然のことと思われます。山田さんに限らず、どの人でも、その人が現実世界に存在していれば、その人を知るということは、こういうことでしょう。

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私を知る私(2)

2012-06-30 | xxx0私を知る私

ここで注意したいことは、アルキメデスは他人と比べて自分がどうであるかを忘れたという事態ではない、ということです。彼は自分が何をしているかを意識していなかった。アルキメデスの原理を発見したことを純粋に喜んでいるだけで、喜んでいる自分というものも意識していません。

こういう場合、日本語では「無我夢中」とか「我知らず」とかいう。逆に言えば、こういう場合以外は、私たちは我を知っている、ということです。

つまり私たちは、いつでもこう思っている。私は、私が何者であるか、私が今何をしているか、よく知っている。だれかが私を見れば、私が何者であるか、私が今何をしているか、すぐに分かる。私はいつもこういうことをよく知りながら行動しているのだ。そう思っていますね。

さてここで、拙稿の興味としては、なぜ私たちはこういうことをよく知りながら行動しているのだろうか、という問題です。人間以外の動物は、自分が何者であるか、今何をしているか、分かっているとは思えませんね。たとえば猫は「吾輩は猫である」などと思っていないでしょう。ニャーと鳴いて餌をねだっているときでも、自分は餌をねだっているとは思わないでしょう。人間でも赤ちゃんはそうです。「私は赤ちゃんである」などと思っていないでしょうし、「さてこれから泣いてミルクをねだろう」などと計画して泣いているのではないでしょう。

猫は自分自身を知らない。赤ちゃんも自分自身を知らない。人間の大人だけが、自分自身をよく知っている、自分が何者であるか、とか、自分は今何をしているか、とか、これから何をすべきか、とかを知っている。あるいは、知っているべきだ、と思っている。

こういう問題は、ふつう、自意識の存在問題とされています。人間だけが自意識を持っている。人間性の神秘だ、あるいは神の摂理だ、といわれる。しかし拙稿ではもう少し深いところを探りたいので、自意識という使いなれた言葉を避けましょう。自意識と何か、という設問はしません。もっと素朴な、私はなぜ私を知っているのか、という疑問から入っていきます。

さて、拙稿のアプローチとしては、私はなぜ私を知っているのか、と問う前に、私はなぜある人物、たとえば山田さん、を知っているのか、を問題にしたい。

私は隣の山田さんを知っている。山田さんは二年くらい前に隣に引っ越してきたらしい。道で会うとき挨拶するくらいですが、顔を見ればお互いにすぐ分かります。先日新宿駅の雑踏の中で偶然すれ違いましたが、あの山田さんだと分かりました。声をかけたら、一瞬あっと驚いた顔をしてから「あ、こんなところで」と笑顔であいさつを交わしました。

こういうふうに私は隣の山田さんを知っているが、これが六本木ヒルズにあるスターバックスの店員さんだとどうか? 一年に何回かはその店でコーヒーを飲んでいるけれども、カウンターで応対してくれた店員さんがだれだったかは全然覚えていない。だれかが応対してくれたはずであることは間違いないけれども、覚える気もなければ、実際覚えてもいない。

隣の山田さんの人格は私の心の中にあって、スターバックスの店員さんの人格はそこにない、ということなのか?隣の山田さんの人格を呼び起こすデータが私の脳神経のどこかの回路に格納されている、ということなのか?

私が隣の山田さんを知っているということは、どういうことなのか?山田さんが目の前にいないのに、私が、今自分は山田さんを知っていると確信できるのはなぜなのか?私の脳のどこかに山田さんが入り込んでいるのか?脳神経科学でもよく分かっていないようです。というよりも、科学だけで分ることでもないでしょう。

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私を知る私(1)

2012-06-23 | xxx0私を知る私

(30 私を知る私 begin

30 私を知る私

汝自身を知れ」とソクラテス が言ったということですが、自分自身を知るというのはむずかしい。年を取ると、鏡に映る自分を眺めるということもめったにしませんが、風呂場の鏡に裸が映ったりすると、ありゃこんなに太っ腹だったか、やはり食べ過ぎだな、と思います。

筑波山の四六のガマは鏡に映った自分の姿があまりに醜いので脂汗を流す。

手前もちいだしたるは、四六のガマの油だ、お立ちあい。このガマの油を取るには、四方に鏡を立て、下に金網を敷き、その中にガマを追い込む。鏡に映るおのれを見てその醜さに驚き、たらーり、たらりと、脂汗を流す。これを下の金網にてすき取り、柳の小枝をもって、三七二十一日の間、とろーり、とろりと、煮詰めたるのがこのガマの油だ」

私たちも、脂汗を流すほどではありませんが、裸の自分の姿を正視するということは、ガマでなくとも、ちょっと緊張するようなところがありませんか?

裸の自分を風呂場の鏡で見るのが、自分を知ることになるのかどうか?ちょっと違うような気がしますが、しかしいずれにせよ、改めて考えてみると、自分を知るということはどういうことなのか?そもそも人間が自分を知るということはできるものなのか?などという疑問がでてきます(稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」 )。

私を知る私とは何か? 拙稿本章では、これを考えてみましょう。

孫子の兵法 にあります。

知彼知己百戰不殆不知彼而知己一勝一負不知彼不知己?

戰必殆(敵を知り己を知れば百戦して危うからず。敵を知らずして己を知れば一勝一敗となる。敵を知らずして己をも知らなければ戦うたびに危うい)。

自分を知ることは、つまり、戦いに勝つために必要です。自分の射撃命中率はどの程度か?自分は逃げ足が速いか遅いか?味方のはずの味方はいざというときに味方をしてくれるのか?

いつも自分がどういう強み弱みを持っているか、どういう立場にいるか、を自覚しておく。社会の中で人生をうまく生き抜いていくためにも、ぜひ身に着けたい習慣ですね。汝自身を知れ」という格言もソクラテス が言ったというので哲学の言葉になっていますが、実はソクラテスの前からあって、単に古代ギリシア人の処世術を教える箴言だったという説があります。ただし、現代のギリシア人が自分自身を特によく知っているのかどうか分かりません。

さてそういうことで古代ギリシア人もそうだったでしょうが、世間をうまくわたっていくために、私たち現代人もますます自分自身を知る必要がありそうです。

兵法や処世術以前の問題として、もっと重要なことですが、身体で感じる直感としても、たしかに私たちは自分がどう動くシステムであるのかを知らないと危なそうだ、とか、損しそうだ、とかいう気がします。この感覚はたぶん正しいでしょう。しかしその感覚はどこから来るのか?よく分かりません。そもそも私たちは、何のために自分を知る必要があるのか?なぜそうしなければならないという気がするのか? まずこの辺から調べていきましょう。

たとえば家から駅まで歩いていくのに五分かかるだろうとか、私たちは知っています。運動選手が全速で走れば三十秒くらいで行ってしまうでしょう。ふつうの人が走っていけば二分くらいかな。しかし坂があるし、運動不足の人は息が切れてしまうでしょう。息が切れても二分くらいなら走っていけます。しかし年寄りの筆者など、走ったりして転んで骨折したりしたら人様にも迷惑をかけてしまいます。急いでも歩くしかありません。自分の身体の能力を知っているから、急がなくて済むように時間をみて家を出ます。

こういうように私たちは自分を知る。自分の能力の限界を知る。優れた人を見て、自分も同じようにできる、などと思ってはいけない。能力の範囲内でこつこつと努力することです。

こういう文脈では、自分を知るということは、他人と比べるということを言っています。

では逆に、自分を知らないという言い方は、どういうときに使うのでしょうか?

これもまず他人と比べての場合に使います。「己の分際をわきまえず」などと言います。しかし、現代ではあまり使わないかもしれません。それよりも、自分を知らない、という言い方は「我知らず」とか「我を忘れて」とかいう場合が多い。これは「忘我」とか「無我夢中」とかいう表現にも通じて、現代でも頻繁に使われています。

アルキメデスアルキメデスの原理を発見した際、「エウリカ 」と叫びながら全裸で街に飛び出したとされていますが、これが無我夢中という状態の典型です。つまり服を着ていない状態で街を走るとストリーキングということで、おまわりさんに捕まるとか、皆に笑われたり変人と思われて評判を落としたりとか、まずいことになるので、ふつうしない。ところが、アルキメデスの場合、そういう些細なことが全く気にならないほど、夢中になっていた、ということです。

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