私たち人類は、言葉の世界の内部で生きています(拙稿26章「「する」とは何か?」)。
私たちは言葉で話し合う。一人で考えるときも、言葉で考える。言葉をはっきりとは使わないときでも、それを意識できて記憶できるような物事は言葉で言えるような物事です。それらは人と分かり合える物事です。つまり私たちが互いに理解し合えることは、言語あるいはその他の形で人と共有できるような表現(「言語等」ということにしましょう)として目や耳で感じられることができる物事だけです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。
言語等で表現できない私の部分(たとえば現代人の思うところの自己中心的自我)については、(もしそのようなものがあるとしても)語ることができない。私たちが語ることができる自我は、互に目に見える自分たちの身体とその動作、音声で表されることでしかないでしょう。それは自分のことであっても、他人のことであっても、基本は同じことです。私たちが自分で考えることができる私もまた、人に語ることができる私だけです。
私が知っている人間たちの中では、たしかに私はとびぬけて自分自身のことをよく知っています。しかしその知り方は、結局はほかの人間を知る知り方と変わりがない。私というものが私にとって特別なものである、という理由はこの現実世界の中には見つからない(拙稿23章「人類最大の謎」)。言い換えれば(この現実世界においては)、私というものは私にとって、もっとも親しい他人である。とても親しいけれども他人である。それ以外のものではない、ということができます。
拙稿本章をまとめてみましょう。
私が知る私とは何か?私はまず現実としての私(第一の自我)を知る。だれの目にも見える私の身体。履歴、自己紹介、過去の事実、ルーツ、社会的地位、収入、資産、家族、友人関係。だれもが知ることができる私の行動。それらはすべて現実です。私は、私を含むこの現実を知る。それは、現実を知る私を知る、ということです。
一方、この現実を知る本当の私を知っているのはこの私ただ一人しかいない、と現代人である私たちは思っています。(昔の人はこの私以外にも仲間、一族、あるいは神様が本当の私を知っていると思っていましたが)現代人の私たちにとってこれは常識になっています。そうであれば、私だけが私の自己中心的自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)を知っていることになる。
しかしそういうこと全体を、私たちは言葉(言語等)を使って語り合うしかない。ところが、言語等の限界として、現代人の思うところの自己中心的自我は直接に表現できない。ここに近代哲学、現代哲学の混乱が起きています。哲学の混乱は知識人、教師、マスコミの混乱に通じて、現代人の自我意識に複雑な影響を与えています。
私たち現代人は、言語等で直接に表現できないような自己中心的自我を自分自身だと思い込んでいる。一方、言葉で語り始めた瞬間、それはそれ自身とは違う客観的なものになってしまう。そこに現代人のフラストレーションが出てくるのはしかたがないでしょう。
言葉(言語等)で語り合う限り、言葉(言語等)で考えようとする限り、私たちが知り得る私というものは、他人から見える私と違うものではありません。私たちは他人を知る以上に自分を知ることはできない。逆に言えば、私たちにとって私とはそれだけのものです。この限界に、現代人である私たちは、なかなか気がつきません。■
(30 私を知る私 end)