哲学の科学

science of philosophy

趣味としての老人(5)

2022-05-23 | yy83趣味としての老人


経済は需要者と供給者でなりたっているから、要らないといっても買ってくれといわれます。要らないけれども付き合いで買う、とか、もしかしたら便利かもしれないから買う、とか、みんな買っているから買う、とかで買います。
供給者としては、今度いいものが作れたから買い換えてくださいよ、とか、今はこれが流行だから買って、とかいつも言い続ける必要がある。
若い人はいいが、老人はこの売り込みに困ることが実は多い。新しいものは使いこなすのが面倒なので嫌だ、特にデジタルは分からない、分かりたくない。今使っているものに愛着がある、とか、変に新しもの好きに見えるのも恥ずかしい、とか。ようするに保守的、固陋、であるから新規提案にはかえって反感を持つ面があります。
老人は生活に苦労してきたから習性として吝嗇です。しかしケチだから買わないというよりも新しいことを考えるのも面倒だから買わない、という実態がありそうです。
したがって新規提案はまず却下。これは資本主義経済の新陳代謝に害となっています。しかしこれ、趣味として頑迷固陋をしている、としてみてはいかがか?資本主義の進歩がフルスロットルになるのもリスクがあるでしょう。それを少し抑える要素が老人の趣味としてあってよいかもしれません。
不易流行。変えないも大事、変えるも大事。若い人も老人も、新規提案は却下すべきものかどうか、いつもそれを考える必要がある、ということでしょう。それにしてもインターネット以来、売り込みが多い。






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趣味としての老人(4)

2022-05-15 | yy83趣味としての老人


●新規提案は却下
インターネットで検索していると必ずお誘いが飛びこんできます。こういうアプリはどうですか?クリックしてください。というサプライヤー側の提案が出てきます。スマホでは軽いタップです。インターネットが営利活動である限り当然の営業が行われているということでしょう。
これを全部、ハイお願いします、とクリックしていたらいくらただでもアカウントだらけでパスワードだらけになる。少額ですが月会費をとるものも多くあります。
こんなに便利になりますよ、とか、かなりお得になりますよ、とか、皆さんお使いですよ、などと言われる、つい登録したくなります。しかし待てよ。取捨選択して入会したりしなかったり、会費が高いからやめたり、とかばかり毎日しているのはいかがなものか?
提供されるシステムに参加したりしなかったり思い悩む毎日でよいのか?投資したり消費したり参加したり変更したりやめたりが個人として重要な活動であると思っていてよいのでしょうか?
昔の人もガマの油を買うか買わないかで悩んだりしたでしょう。それは楽しいことでもあるが買った後それほど役に立たない。いずれ捨ててしまうものです。買うか買わないか、その判断に使う思考エネルギーの無駄、ともいえる。
クリエイティブでない。自分の頭で考えだすものがない。身体を動かして作るものがない。タップする指だけは動かしますが。指だけの生活、これはデジタル(原義は指 拙稿80章「デジタルその魅力と退屈」)の罠ではないのか?
同年配で、インターネットは一切していません、という人がいます。それも立派。だがさぞ不便でしょう。ランプに頼る生活ですかね。しかし老い先短いのにいまさら変な新しい文化を学ばされるのはうんざり、ということでしょう。
この気分は納得できます。
今の生活でまったく不便はしていない。昔から比べればずいぶん便利になっているし、毎日同じような繰り返しで楽々と楽しく暮らしているから、これ以上便利になったり面白くなったりする必要がない。それより新しいことを覚えるのは面倒だ、となるでしょう。









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趣味としての老人(3)

2022-05-07 | yy83趣味としての老人


緩い斜面の下り坂はよいです。適当な負荷があるので筋力が強くなったような錯覚になり気分が良くなる。速度が上がる。しかし速く歩くと前へ進むことばかり考えてしまいます。その必要は、老人にはないわけですから、重力に逆らわない程度に前に進むのがよろしい。下り坂の場合、進むことは落ちることです。落ちることは楽しい。スキーと同じです。宇宙ステーションは常時落下しているから無重力を楽しめる。

●インチキ料理
料理は全くできません。したことがないどころか、しようとしたことがない。現代社会人としては失格ですが、後期高齢者としては辛うじて許されるでしょう。
問題はもちろんあります。家内を怒らせたとき外食もかえって事を荒立てるので自炊する。ということにしたいが、まったく能力がない。コンビニへ行ってチーズとパンを買ってきます。それだけあれば引きこもりも可能、と何かの本にありましたが、自明解にすぎるので卵とブロッコリーも買う。
自炊といえる条件は何か?湯を沸かして卵を三個入れるとゆで卵が三個できるので一個食べて残りは次の食事に使う。火を止めても余熱があるのでブロッコリーを三分の一に切って入れると柔らかくなるので食べます。これは料理といえるか?
おかげで料理ができるようになりました、と言ってみたい。小さな自立は老人の楽しみ、といえるのではないか?
インチキ料理というのは、鍋に放り込むだけであるとか、言葉で言うと簡単すぎて、料理を作ったとはいえない類でしょう。案外、主婦も実はよくしているのではないかと思えます。
それでも少なくとも私だけはそれを毎日おいしく食べることができる、したがってこれは私にとっては料理である、といえるならば、自分で作って自分で食べる、という自炊原則を満たしたことになる。
食欲もあまりないし自己顕示欲もない老人ならこれでよし、といえるところが重要なわけです。









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