哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ幸福になれないのか(4)

2008-03-29 | x6私はなぜ幸福になれないのか

幸福といい不幸といい、周りの仲間の取り分と比較して感じるという脳の仕組みからして、だいたい半分の人間が自他共に幸福と感じ、残りの半分は不幸と感じるように、人間は作られているはずです。かわいそうなドラマの人気が高いのはそのためです。人間は、仲間と比較しての幸福を強く願う。不幸な他人の人生を見て、その身に乗り移った気持ちで共感の涙を流すと同時に、今の自分の幸福をあらためてかみしめて、うれしくなるような身体になっている。

現実の自分を振り返ると、かなり多くの人は自分が不幸と感じてしまう。不幸と思う人々は、幸福を求めて努力する。自分が幸福と思う人々は、不幸を恐れて努力する。それで人類は繁栄する仕組みになっている。そのためには、幸福な人と不幸な人とは、半々くらい、いるのが良い。実際そうなっているということではなくて、だれもがそうなっていると思える場合、その集団はうまくいく。そのバランスが、集団としての人類の繁栄に有利だった。自分はいつでも幸福だと思い込む人々は滅びるに違いない。逆に、いくら努力しても絶対に不幸から逃れられない、と思い込むような人々も滅びて消えていく。

周りの人たちの幸不幸を横目で見て、「もしかしたら明日はわが身」と思い、今日の運不運に一喜一憂し、幸福な人をうらやみねたみ、明日こそ自分も幸福になりたいと願い、幸福になる希望がないときはひがみひねくれ、自分が幸福だと思うときにも明日の不運をおそれおびえる。私たちがわが身の幸不幸を感じるこのような感情は、人類が、集団の結束を武器にして生き延びるために重要な脳の機構だった。

私たちの身体が、仲間の幸福を見て自分の不幸を感じ、仲間の不幸を見て自分の幸福を感じる仕組みになっているとすれば、結局は、人類の半分が幸福で、残りの半分が不幸になるはずです。まあ、実際は、そう単純ではなく、幸福な階級と不幸な階級に分かれてしまいます。たとえば、貴族階級と平民階級です。幸福な集団は自分たちの幸福を維持保全するために、不幸な人々と分離して、排他的な階級を作る。ところが、階級が隔離されて下の階級の存在を忘れてしまうとすれば、今度は幸福な階級の人間の半分は自分を不幸と感じるようになる。その階級の中の上半分の人々は、また自分達だけの排他的階級を作る。するとそれの中の下半分の人々がまた不幸と感じる。・・・・となって、本当に自分を幸福と感じる人はだれもいなくなる、ということになる。

まあ実際は、上の階級の人々は下の階級が存在することを忘れるわけがありませんから、その優越感を支えにしてなんとか幸福感を保つことができる。しかし、結局みんなが上ばかりを見て、自分はもっと上の幸福な階級の人間と同等であるべきだと思っている限り、ほとんどの人が、多かれ少なかれ、自分は不幸だと感じる、ということが起こります。

両目が見えなかった人は、一つの目でも見えるようになれば、とても幸福になれる。だれを、同等の仲間と思うかで幸福と不幸は逆転するでしょう。私たちは、だれを自分の仲間だと思っているのでしょうか? 現代社会に生きる私たちの脳も、数十人単位の部族社会で狩猟採集の生活をしていたわずか一、二万年前までの時代にうまく働く仕組みのままになっている。現代人は、だれが同じ部族の仲間なのか、よく分からなくなっているのに、脳は無意識のうちに幻の仲間を感じ取り、その幻の人たちの境遇と自分のそれとを比べて、敏感に不幸を感じている。

家でテレビや新聞を見て、有名人の生活や恋人を見て自分と比較する。だれにも名を知られていて、美人で賢くて英語がぺらぺらで、テレビカメラに向かって堂々と語りかける。そういう有名人(最近はセレブというらしい)をうらやむ。外へ出て、豪華なファッションや格好いい自動車や住宅を見て、自分のものと比較する。人と話をして、性別や年齢が同じだと、無意識のうちに自分と比較している。出身校や会社のブランドや肩書きを知ると、すぐ自分と比較する。その場合、問題なのは、自分がそう感じていることをはっきりとは自覚できないことです。いつのまにか、どこかで見かけた人々から受けたイメージだけで、無意識にそれを感じ取っている。そのため、自分が、だれかと自分を比較しているということに気づかない。私たちはただ、自分が不運かどうか、自分が不幸かどうか、を感じるだけです。

出世できた人は優秀で、できなかった人はだめな人だ。お金をたくさん稼げるようになった人がかっこよくて、それができない人はなさけない。たくさんの友達を作った人の生き方は正しくて、それができない人の人生は間違いだ。人々もテレビも雑誌も、毎日そういうことをささやいてくる。そんなことは気にしても仕方がない、と思ってはみても、私たちは、実は、いつもそればっかり気になってしまう。

現代社会は「自分に自信を持って懸命に努力すれば、だれでも夢は必ずかなう」というメッセージにあふれている。これは人を傷つけもする両刃の言葉ですね。つまり裏返して言えば、人にうらやまれるような成功を勝ち得なかった人は、自分に自信を持てなかったか、あるいは懸命に努力をしなかったか、その両方か、のはずだ。君はそういうだめな敗者なのだ、というネガティブなメッセージになっている。

毎日そういうメッセージを浴びせる現代社会は、成功できなかった、あるいは成功できそうにない、大多数の人々が劣等感に苦しむ仕組みになっている。現代人は、世間でだれもが認めるような成功が達成できないと幸福感を持てないような人生を生きている。そのストレスのない本当の成功者だけ、つまり間違いなくだれもがうらやむような社会的エリートの地位を獲得した少数の人々だけは、特に健康で成人病にもかからない、という疫学的研究があります(二〇〇四年 マイケル・ギデオン・マーモットステータス症候群』)。そういうことで少数のエリートを除いて、現代人はたいてい不幸になっている。

村中の仲間が、全員、宝くじで一億円ずつ当たってしまった村があるとします。一人だけ九千万円しか当たらなかった人は、我が身のあまりの不幸を恨んで自殺してしまう。現代の自殺には、そういう傾向がかなりあるかもしれません。

しかし、宝くじに当たる前は全員が同じように年収二百万円くらいだったこの村は、ひいおじいさんの世代には年収が一万円以下だったことを、みんな忘れているのです。しかも、当時、十分に食料があったのはこの村だけで、周辺の村の人々はみんな飢え死にしてしまった時代があったことも、すっかり忘れられているのです。

甲子園に出場して一回戦で敗退しても、青春の美しい思い出になります。しかし、甲子園に出るまでのいくたの県内試合を勝ち抜いたことを、一つも覚えていないとしたら、一度だけ戦って自分は負けた、という記憶を一生悔やみ続ける屈折した人生になるかもしれません。全国四千五百校のうち優勝した一校だけが幸福になり、他の学校は全部不幸になるためにこのゲームがあるのでしょうか?

現代に生きる私たちは、全員が、生物として数千万回の命がけの試合を一度も負けずに連戦連勝して生き残った無敵のチャンピオンです。それは祖父母以前の記憶が消えると共に忘れてしまっただけです。それを幸福といわずして、どこに幸福があるのでしょうか?

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私はなぜ幸福になれないのか(3)

2008-03-22 | x6私はなぜ幸福になれないのか

「禍福はあざなえる縄の如し」、あるいは「人間万事塞翁が馬」などという。つまり、幸福の次には不幸が来て不幸の後には幸福が来る、とよくいわれます。本当でしょうか? 自然の法則を考えてみれば、そんなことはない、ということがすぐ分かる。

また、法則など考えなくても、実験すればすぐ分かります。百円玉を投げて見ましょう。表が出る。つぎは? また表かもしれないし裏かもしれない。裏になるほうが表になるより起こりやすい、ということはない。たまには、表表表と三回くらい表が続く。そうなると次はどちらでしょうか? そろそろ裏が出るのではないか、という気がする。しかし、実験してみれば分かるように、必ず表と裏は同じ確率で出る。つまり、表と裏が交互に出るだろうと思うことは、人間の脳が作り出す錯覚のひとつです。しかしなぜ、人間はそんなふうに感じるのでしょうか?

 実験で分かるような経験はいつもしているはずですが、私たちはそこから法則を学ぶことがない。経験から正しい確率を感じ取ることができない。禍福はよじった縄みたいに交互に繰り返すものだ、と信じ込んでいる。経験よりも、ことわざを信じるからでしょうか? いや、そんなことはないでしょう。自分の経験を、人間は、ことわざのような法則にしたがっている、と感じるから、ことわざが昔から今まで言い伝えられている。

ドラマや小説は、観客や読者である私たちが納得するように作られる。つまり、人間がそうだと思っている現実に合わせ込んで作られている。だから、かならず分かりやすい典型的なパターンの筋書きになる。事実は小説より奇なり、といわれますが、これは当然です。小説というものは、適当に奇ではあっても、信じられないほど奇でない程度の筋書きに作らないと売れないからですね。事実のほうは、古今東西世の中には無数の人々がいて、いくらでもおかしなこともするわけですから、信じられない、理解できないことが起こるわけです。

ドラマでは、主人公がさんざん、かわいそうな目に合った末、幸せをつかむ。つまり、ハッピーエンドで終わるものがひとつの典型です。逆に、悲劇のように、これでもか、これでもか、と主人公が運命にいたぶられる、悲惨な結末を売りにする、という物語の技法もある。いずれも、運不運、幸不幸の変転を意識したストーリーになっている。観客、読者は、自分の人生に照らしたりして、笑ったり涙ぐんだり怒ったり泣いたりして感慨に浸り、楽しむ。良いドラマを見ると、心が洗われたように気持ちよくなる。人間の脳は、こういうストーリーを敏感に感じるようにできているわけです。

明日か、来月か、来年か、いつかは今日と違う境遇になる、自分はいずれ、今日よりも幸福になる。あるいは、不幸になる。たしかに私たちは、そういうストーリーが現実だ、あるいは現実だと思いたい、という気持ちがある。そう信じて不幸な場合でも不幸にめげずにがんばれば、たぶん、状況は改善されるでしょう。逆に、幸福な場合でも幸福は長く続かない、きっと不幸が来るに違いない、と不安になる。私たちは、ついこう思ってしまうようにできている。もちろん、これは錯覚です。何の根拠もないのに、そう思うように、人間の脳ができている。根拠がないからこそ、強く思う。それでなくては、ドラマも小説も、マンガもゲームも存在しないでしょうし、健康保険も生命保険もいらない、株も宝くじもパチンコ玉も、あんなに売れるわけがありません。

病中、再起不能の可能性を医師に言われたとき、筆者は、なぜか楽観を感じ、全治した自分の姿が思い浮かびました。同時に、根拠なしにそう感じる自分を不思議だな、と思っていた記憶があります。自分に甘い、と言えばその通りなのですが、人生それもまたよし、とも思えますね。

明日の幸福を信じること。根拠のないそのイメージは錯覚ですが、その錯覚をしっかり感じて生きる。私たちの脳はそうなっている。幸福と思うときも油断せず、不幸になる危険に備える。不幸と思うときもめげずに、自分だけは幸福になると信じ、機会を求めて努力する。こういう行動をとる人類が生き残った。その子孫が私たちだからなのでしょう。

私たち現存の人類は、自分の運命を他人と比べては、不運、不幸をひがみ、恨み、敗北感、屈辱感、挫折感、ジェラシー、怨嗟、怨念、復讐心のようなネガティブな感情を持つ。なぜでしょうか? なぜ、こういうよくない感情があるのでしょうか? 宗教も道徳もマスコミも学校の先生も、そんないやらしいひねくれた感情は捨てなさい、忘れなさい、と教えます。こういう屈折した感情がなくなったら、世の中はいい人ばかりで、明るくすがすがしい、気持ちのよいところになるように思えます。しかし、どうも大昔から人間は、ねたみやひがみや恨みのようなネガティブな感情をかなり強く持って行動していたらしい。時代がたっても、ちっともなくならない。残念ながら、それが事実のようですね。なぜ、そういういやらしいよくない感情が、人間の身体にしっかりと備わっているのでしょうか? 

たぶん、こういうネガティブな感情を感じない種族は子孫を残せなかったのでしょうね。

私たち現代人は、敗北感や屈辱感、ジェラシー、怨嗟、怨念、復讐心、挫折感、自暴自棄のような屈折した感情を、そんなものはないほうがよい、あってはならない、などと否定的にいう。皆が幸福に生きるためには、そういうものはなくならなければいけない、という気持ちがあります。実際、現代の政治、経済、そして社会を円滑に機能させるには、ジェラシーのような感情を抑える教育が必要でしょう。しかし少なくとも、つい最近までの人類の歴史上、こういうような感情は、集団としての子孫繁殖のために有益なものだったに違いありません。もちろん、道徳家の先生たちがいうように、こういうネガティブな感情で人間どうしは争い、損害を与え合って互いに不幸になる。しかし、人類の過去の生活では、ひとりひとりが、ある程度、そうして不幸になることによって、集団の生存が確保され、子孫が増えて、繁殖上の利益が多くなる事情があったのかもしれない。

大昔、狩猟採集の時代、集団で得た収穫は公平に分配されていた。それによって、集団の団結がはかられていたのでしょう。運不運、幸不幸の感情やジェラシーの感覚は、この公平な分配を維持するための機構として働いたと思われます。

脳の扁桃体周辺の神経回路が判定する幸福不幸の物差しは相対的なものです。心理学実験によると、私たちの脳は、周りの人間が獲得した収穫と自分のものとを比較して、幸福不幸の感情を引き起こす(たとえば、一九九四年 リチャード・スミス『羨望における敵意と鬱的気分の予測因子としての主観的不正義と劣等感』)。周りの人が手に入れたものの平均より自分の獲得物が小さければ不幸、などという判定法を使っているように観察できます。

そういう判定をして、不幸を感じ不愉快になり、他人に嫉妬したり怨嗟したりひねくれたりして、それを行動に反映させるという人間の性向が、集団全体としての生存に有利だった。配分に不満を言って怒れば、仲間が再配分してくれるかもしれない。不公平にすると不満が出てくることがあらかじめ予想できるから、人々は不公平な配分をしないようにいつも気をつける。それで集団の結束が高まる。

不公平に怒って復讐するような文化を持つ社会では、復讐した本人は返り討ちに会って殺されたり、ケガをしたりして損をするかもしれない。しかし不公平をもたらした側も損害をこうむるから、報復を恐れて不公平をしない歯止めになる。ひがんでひねくれた人はみんなでする仕事の協力に積極的でなくなるから、仲間は困ります。そのため仲間は、ひねくれものがでないように、いつも物事の公平には気をつけるようになる。

そうして、そういう嫉妬や怨嗟やひがみなどネガティブな感情を作るDNA配列(ゲノム)を持ち、それを発現する文化を維持する集団は、公平な、団結力が強い社会を維持することができる。そうでない社会は内部の結束が足らず競争に負けて消えていく。そうして、敗北感や嫉妬や怨嗟を表現するDNA配列(ゲノム)は生き残った集団とともに増殖していく。そして現在、生き残った人々の子孫である私たちの身体に、その形質が現れているわけです。

世界でも特に平等で協調性の高い社会を実現しているといわれている私たち現代日本人の祖先は、もしかしたら、一人一人が自分の幸不幸にかなり敏感で、ひどく嫉妬深い人々だったのではないでしょうか? もしそうであれば、平等で協調性の高い社会を維持するためには、その特質を大事にするほうがよいのかもしれませんね。まあ、それは冗談ですが、欧米人をはじめとしてどの国の人も、いろいろつきあった筆者の経験では、表面はともかく実際は、日本人もうんざりするほど嫉妬深いということが事実です。

そういう人類のDNA配列(ゲノム)から作られた私たちの脳は、仲間が手に入れたものより自分のものが小さいと不幸を感じる。嫉妬し怨嗟するような機構になっている。ひがんだりひねくれたりする。できるものなら復讐したい、と思う。それが自然です。けれども世間では、こういう話は、ふつういやがられる。人間はだれもがひどく嫉妬深いなどという話を露骨に話されると恥ずかしいし、まじめな人は困惑します。しかしそれはたぶん、隠しておきたい事実だからでしょう。

私たちは、残念ながら、自分で思っているよりもかなり嫉妬深い。幼稚園でケーキを切り分けるとき、先生はよほど注意して全員、等分になるように分けないといけません。それで子供は算数ができるようになったりする。大人になったら、そういうことはなくなるか? 大人の方がずっと算数が上手ですね。つまり、嫉妬深さは年をとるから少なくなるということはない。あさましくて情けない、といえばそのとおり。しかし、それは私たちが異常に陰湿な性格だからだとか、情けないヤクザ者だからそう思うのではなくて、それが人間の健康な脳の反応だからそう思うのです。

自分だけが不幸でもひがまない、他人をうらやまないという人は、学習の結果、強くそれらネガティブな感情を抑える新しい神経反応を作ることに成功したからです。文明が発達して以来、宗教や哲学は、ネガティブな感情を抑えるように教えてきましたが、そういう学習はふつう身体になじみませんから、なかなか成功しない。それで、理性が勝っているはずの私たち文明人の間でも、敗北感やジェラシー、ひがみ、怨嗟、怨念、復讐心、のような屈折した感情は、意識の下のほうから繰り返し、ふつふつと現れる。

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私はなぜ幸福になれないのか(2)

2008-03-15 | x6私はなぜ幸福になれないのか

そもそも、幸福と不幸は、どうやって見分けるのでしょうか。苦労しないで美味しい食べ物が手に入ったときは、幸福です。逆は不幸。ということでしょうか? 

一分間だけ、ちょっとがまんして仕事をすれば、一食分の美味しい食べ物が手に入るとする。この場合は幸福なのか? まずふつうの人の答えは、イエスですね。おいしいレストランの入り口で一分だけ待たされる。しかも料金はただ! これが不満な人はいないでしょう。では、三十分つらい仕事をしなければ同じものが手に入らない場合はどうか? 三時間ではどうか? 三十時間飲まず食わずのままで、死にそうになりながら働いて、やっと一食分の食事が手に入るようではいくら美味しいものでも不幸、と言えるでしょう。その幸福と不幸の境目は、どうやって決まるのでしょうか? 人にもよる。その仕事がどういうものなのか、その食事がどんなものなのか、にもよる。どこまでが幸福で、どこからが不幸なのか?

理屈で決まるのではない。境目を決められるとしても、それは当人が幸福感を感じるかどうか、つまり直感で決めるしかなさそうです。身体の反応としては、無意識のうちに働いている脳の辺縁系基底核、特に扁桃体側坐核およびその周辺器官の神経反応です。哺乳類の脳にはこれらの脳器官からなる報酬回路と呼ばれる神経回路があって、ある種の化学物質、脳で分泌されるドーパミン、エンドルフィン、あるいは摂取した麻薬、などに反応して活動する。これらの化学物質がこの神経回路の信号伝達物質として働いているからです。

ちなみに、麻薬による中毒症はよく研究されていますが、この生理現象は一部の犯罪者の問題ではなくて、どの人間にも備わっている脳の働きです。この神経機構が、私たちの感じる幸福感と深く関係している。これは人間ばかりでなく、哺乳類全般の行動を支配する神経機構です。麻薬中毒は、ある種の感覚刺激を繰り返し求める行動ですが、脳のこの仕組みも、哺乳動物の進化の成果です。この仕組みによって、動物の脳は、生存繁殖に必要な行動を(無意識のうちに)覚えこんでいく。麻薬中毒に落ちいりやすい脳の仕組みは、人間の脳の欠点ではなくて、優秀さを表わしている。このような化学物質の信号を敏感に伝達する脳の活動は、毎日の生活で、私たちに、生存、繁殖に有利な行動を選択させ、学習させ、身体に覚えこませる機構として、重要な働きをしている。

詳しく観察すると、私たち人間が感じる幸運感、あるいは不運感は、動物としての生存と繁殖に有利か不利かという条件と、うまい具合に一致している。ちょっとした努力でいいものが手に入る、つまりコストに比較して取得価値が大きいと、私たちはふつう、幸運、と感じる。それは動物として生存、繁殖が容易になるということに一致している。これは人類の祖先が数千万年にわたる進化の過程で獲得した感覚、つまり、いわば価値のセンサーです。この貴重なセンサーを使うことで、私たちは、毎日、安全確実に生きていかれるわけですね。

私たちは、お金が手に入るとうれしい。怠けてあまり働かないのにお金がたくさん手に入ると、もっとうれしい。これはあきらかに、食べ物や住居、つまり栄養と安全の確保が少ない負担でうまくいった状況、に結びついている。人類が数十万年暮らしてきた原始生活では、こういう状況は最も望ましいものです。私たちはふつう、名誉と社会的地位が得られ、人に尊敬されると幸せと感じる。これも、現代はともかく、原始時代には、仲間の間で序列があがり多くの人間を従わせて、良質な栄養や安定した安全を得られ、優良な配偶者と良質な交尾の機会を得られることを意味していたはずです。こういう状況に強く幸せを感じて、それを懸命に追い求めるような身体を持った人類は、そうでない人類よりも生き延びて多くの子孫を残した。現代にまで生き残ったその子孫である私たちの身体は、先祖の遺伝子を受け継いで、同じ仕組みになっているわけです。

私たちはまた、自分が物やお金や地位が獲得できないとき、ひがんだりひねくれたりする。不運を感じ、不公平を感じる。手に入らないそれらが、どうしても手に入れたいくらい大事なものに見えてきて、それらを手に入れた者にジェラシーを感じる。それでくやしさのあまり懸命に努力して、それらを追い求める。

時には、取り分の多い人間を糾弾したり、陥れたり、殺したり、革命を起こしたりする。そういう行動は、部族集団の全体に警告を与え、公平と団結を取り戻す仕掛けになっています。公平と団結は部族の力を強め、人々が協力し合うことによって安全と生産性を高め、部族全体の生存条件を有利に導き、繁殖が進む。つまり、運不運の感知に伴うジェラシーも、集団の単位で、人間の生存繁殖に有利な仕組みなのです。それで、子孫が繁栄し、ひがみやジェラシーの遺伝子とそれを発現させる文化を伝えるから、私たちの身体にそれが備わっているわけです。

私たちは、他人と比較して自分の運不運を感じ取る。あたかも、運という貴重な資源が社会の中に一定量あって、その資源が(運命の女神によって?)各人に配分されているように感じますね。

人間が運不運を感知する仕組みは、要するに、動物としての人間の生存、繁殖に関する状況の有利不利を感知して、仲間社会でのその分布をモニターし、自分の割り当てに比較して快不快を感じ取る神経機構です。どの動物にも、生存繁殖が有利になる状況を感知してそれを獲得しようとする機能がある。哺乳類では進化の結果、この機能を果たす機構として感情を発生して身体を制御する神経回路が発達している。この感情回路によって、哺乳類は、感知した状況を評価し、記憶と比較し、緊急度にプライオリティをつけて、すばやく適切な行動を取れるようになった。

哺乳類の脳は、生存繁殖に有利な状況を感知すると選好の感情を発生して、獲得運動を強化するとともに、その状況を記憶する(この神経機構の働きは、欲望と呼ばれている概念に対応するが、拙稿ではその内観能力の存在に関して懐疑的な立場をとっている〔拙稿10章 欲望はなぜあるのか?〕)。この神経機構は脳の辺縁系、基底核前部帯状回前頭葉内側の神経回路で構成されていて、快感、不快感、を発生することから報酬回路と呼ばれている。群生活をする社会性の哺乳類は、この報酬回路により与えられる一次的な価値に関して、その社会的配分を感知しそれに対応して二次的に快不快の感情を発生する。言語表現能力を持つ人間の場合、この感情を状況に投射して概念化するときに使われる言葉が、運不運、あるいは幸不幸なのでしょう。

人間が、お金に対して示す選好は、学習によって作られた脳内の選好マーカーを量的にみごとに表現している。貨幣という社会的システムは、幸福、不幸を定量的に測定する脳内の仕掛けを外面的に表現するために発明された巧妙な仕掛けですね。

遊び道具を買いたいからお金が欲しい、という小学生の願望から始まって、お金→幸福、という学習が繰り返されると、神経回路は能率よく短絡してくる。つまり、お金イコール幸福、となる。期待した以上のお金を入手した瞬間、脳の神経細胞から麻薬と同類の作用を持つ神経伝達物質が分泌されて報酬回路が活性化され、私たちの顔面筋は弛緩し、幸せそうな微笑が浮かんでしまう。麻薬中毒に似ている。というか、麻薬中毒と同じ脳内現象ですね。

現代では、産業と流通が発展した結果、人が求めるものは必ずどこかで売っている。つまり「お金で買えないものはない」という状況になってきている。こうなると、ふつうに幸福を追求することは、お金を獲得することに限りなく近くなってくる。

現代人は、お金中毒、拝金主義、だと批判されますが、これは生物として正しく環境に適応している正常な行動だともいえる。現代、欲しいものは何でも、それなりの価格で買える。そうなると、欲しいものイコールお金となるのは、しかたがないですね。つまり、人類は、脳内の報酬回路を個人の頭蓋骨から引きだして身体の外側に自分たちの作った貨幣経済システムとして共有することに成功しつつあるのでしょう。地球経済がグローバリゼーションとして一体化することは、いわば、人類の心、のごく一部分ですが、それがついに融合して一体になる。もしそうだとすれば、人類が進化の極致に至った時代に、私たちは立ち会っているのかもしれない。

私たちが身につけている幸福感は、私たちの先祖の生き様そのものです。つまり、私たちが何を幸福と感じるかは、人類が環境に適応して進化してきた歴史そのものを表わしている。

手足が縮こまる寒い夜、暖かい部屋に入ると幸せです。寒いと不幸、暖かいと幸せ。そういう気温の環境で人類は進化してきたのでしょう。摂氏零度くらいだと寒くて不幸。二十数度だと幸せ。三十数度だと暑くて不幸。気温をそう感じる種族が繁栄したのは当然です。その幸福感を求めて行動する人々は、健康に生き残って子供を生み育てられる。その子孫が、私たちになったから、こういう幸福感覚を持っている。

不幸なことを不幸なことと感じ、幸福なことを幸福なことと感じる。そういう感受性を持った種族が生き残って、現代の人類になった。

幸福と感じたときは、成功感、勝利感を持ち、その行動を繰り返したくなる。不幸と感じたとき、失敗感、敗北感、を持ち、そういう事態を繰り返さないような行動をする。そういう感じ方をし、そういう行動をとる人たちは、自然環境と社会環境の中を生き抜いて成長し、配偶者を獲得し、子孫を残す確率が高くなる。今の私たちが感じるのと同じように幸福と不幸を感じるような脳を持った人類だけが生き残って、同じ脳を持つ子孫を増やし、私たちになった。逆に、私たちのような幸福感、不幸感を持たなかった人類は、栄養獲得や交尾の機会を失い、絶滅していった。その結果、生存競争を戦いぬいて選別淘汰された私たちのDNA配列(ゲノム)は、私たちがこのように感じるところの幸福感を発生する神経回路を脳の中に形成する設計図になっている。

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私はなぜ幸福になれないのか(1)

2008-03-08 | x6私はなぜ幸福になれないのか

(サブテーマ:私はなぜ幸福になれないのか? begin

16 私はなぜ幸福になれないのか?

運命の女神は、いるのでしょうか? 

 運命の女神の姿を見た人はいますか? 彼女は、どんな服装をしていましたか? それとも全裸でしたか? 少なくとも背中とお尻はつるつるの裸のはずです。行過ぎた運命の裾を捉えて引き戻すことはできない、と言いますからね。でも残念ながらその女神を見た人はいないでしょう。そんな女神は存在しないからです。

 どんな人生にも神秘はない。ふしぎな人生などはない。長々と今まで生きてきて、筆者はつくづくそう思います。

 私たちがどれほど幸運で、王様のように幸せな毎日がいつまでも続いているとしても、そのことは何のふしぎもない。逆に、どれほどの不運が続けざまに私たちの身に襲ってきて、苦痛のどん底を味わいながら死ぬとしても、それも何のふしぎもない。まあ、人間は長生きすればするほど、身体は不具合の連続になって、あっちが痛いこっちが悪い、と嘆きながら死んでいくことになるわけです。私たちが人間であれば、あるいはまた、大してよいこともない平凡な人生の最後に、めったにありそうもない馬鹿げた事故に遭遇して死ぬのでしょう。たいてい、そういうものが私たちの運命なのですが、それもまた、何のふしぎもない。

人生は、そういうものだろうな、と思います。しかしそれなのに、なぜ、人間は幸福を追い求めるのでしょうか? 

人生において自分は幸せになれるのか、それとも不幸に陥るのか、私たち生きている人間にとってこれほど大事な問題はありませんね。実際、少なくとも内心で、自分の幸運を祈ったことがない人はいないでしょう。私たちは、人生の運、不運と言われているものを、はっきり感じることができます。「私は不運だ。私は、なんて不運なんだ!」と、天を仰いで叫びたい気持ちは、人間ならだれでも経験しているはずです。どうしたら幸運に恵まれるのか? 幸運を呼び寄せる神秘の技があるならば、ぜひ知りたいものです。

さて、開運の神技を探るまえに、ここでは、改めてじっくり考えて見ましょう。幸運と不運とは、幸福と不幸とは、何なのか? (幸福論の古典としては、一九三〇年 バートランド・ラッセル幸福の達成(既出)』など

それは目に見えない。直接、物質として見えないということは、現実には存在しないものかもしれない。錯覚かもしれません。運不運、幸不幸ということは、本当は何の意味もないのではないか? それなのに、人間はなぜ、それについて考えてしまうのか? おみくじや宝くじを買ってしまうのか? 

人間の脳は、自分の幸不幸にこだわり、喜んだり怨んだり、やる気がでたり塞ぎ込んだりするようにできているようです。脳の奥の、視床にある神経細胞群は、不幸な状況にあったときに活性化されます。この神経回路の活動が、元気をなくしたり不幸の感覚を覚えたりすることに関係しているようです。その結果、その人間は、不幸にめげて行動が不活発になるのでしょう。どの人間も同じ仕組みになっているようです。

なぜ、そういう脳ができているのでしょうか? 

たぶん、それが人類の生存に有利だったからに違いありません。幸運を願い、不幸を怖れて、ときにはおみくじや宝くじを買うような神経を持った人類が、そんなものを見向きもしない人類よりも、原始生活では生き残りやすかった。不幸を恐れ、幸運を祈るような脳の仕組みを持った人々は、過酷な自然との戦い、病気との戦い、他部族との闘い、そういう現実の過酷な物質世界を、たくましく生き抜いたのではないでしょうか? 

なぜでしょうか?

それを、考えてみましょう。

 世の中には、運、不運というものがあるように思える。他人の人生を見て、運、不運を感じるし、人々は毎日のように「運が良い。運が悪い」という会話をしています。

なによりも自分の人生を振り返ると、運、不運というものを考えてしまいます。しかし、運命の女神は幻想でしかないらしい。この世界は、私たちの念力に影響されて動いているのではなく、私たちの希望や願いや後悔や怨念などの感情とは何の関係もなく、物質の法則だけで動いている。この世に、運不運と言うものは存在しない。それなのに、私たち人間はそれを強く感じて感情を揺り動かされてしまう。

これは人間の脳の欠陥なのか? 感情に振り回されるのは、だめな人間だからなのか?

そんなことはないでしょう。運不運を強く感じ、希望や後悔の感情に振り回される人間のほうが、そうしない人間よりもしっかりと生き残って、多くの子供を残した。だから、私たちは、それらを強く感じる脳を持っているのです。

運命の女神を疑い、科学の法則だけしか信じない筆者のように冷徹な(カント的)リアリストは、逆説的ですが、科学の法則が支配するこの世界でうまく生き残れないらしいのです。運とか不運とかをいつも気にかけて、毎日、願ったり祈ったり、占いを見て喜んだり不安がったりしている人のほうが、よほど、うまく生きているようです。でも筆者も結局は、こうして、それなりに生きているのですから、自分で思っているほど冷徹なリアリストではないのでしょう。

その証拠に、認めたくないのですが、筆者も実はどうも、自分の運がとても気になるようです。筆者は、傘を持って出なかったときに限って、帰りに雨に降られるのです。自分では気にしないと思っているのですが、帰りに雨が降るのか降らないのか、傘を持たないで出かけるとき、身体が自分の不運を怖れて、雲行きを敏感に観察しているのが分かります。

やはり私たち人間は、生れつき、運不運を強く感じる身体を持っているのでしょう。つまり、運不運を感じるその遺伝子(DNA配列)は、筆者も含めて、人類全体に広がっているようです。

運というものは、本当にあるのでしょうか? 偶発的なことで、人は幸せになったり、不幸になったりするように見える。それと人生の目標や努力とは、どういう関係にあるのでしょうか?

こういう問題は、だれもが自分の問題として関心のあるところです。それで、占いは繁盛しているし、幸運や不運の実例などを書いた本は良く売れる。小説家や漫画家や劇作家は、もっともらしい作り物の運不運の物語を次々に創作し、毎日これを書いて生活している。

だが、本当に、この世に運不運は存在するのか? 存在するとしたら、それは物質世界の法則と、どういう関係にあるのか? そこを厳密な科学理論として体系化することに成功している著作は見当たりません。科学を自称する疑似科学が運勢について書き流したものなどは多くありますが、科学として実証的に運不運を分析した著作はほとんどない。確率論や統計学、あるいは物理学上の決定論と不確定性原理を論じて人生の決定論に言及する数学者や物理学者の著作はまた数あるが、これらもマクロな人間の視点にとっては本質的な議論ではない。また幸福感に関する心理学からのアプローチは多く試みられているが、これらも、それぞれまじめな研究ではあるものの、残念ながら実証に裏付けられた自然科学の理論としては不十分なものばかりです。

確かに、現在の科学知識で、人間の価値観の形成システムを解明することは困難です。ただし、最近の十数年、この問題のヒントになりそうないくつもの事例が、脳神経科学と人類進化の研究成果として報告されるようになった。それらをバックグラウンドとして、拙稿では、幸運の女神の正体を見直して見ましょう。

世の中で大成功した人が書いた成功哲学の本を読むと、「絶対に願望を諦めず、繰り返し挑戦すれば必ず成功する」と説いている。たしかにそれは著者にとっての真実だったでしょう。けれども、何度も勝負に負け続けた人は、破滅して消えていく。そういう人が書いた人生哲学は、本屋さんで売っていませんね。

勝負が連続すれば、勝ち続ける人はどんどん減ってきて、最後には何万人に一人の勝者が勝ち残る。何万人分の賭け金がひとりのものになるとすれば、すごくうらやましい大成功者になる。その勝者にとっては、絶対に願望を諦めず、繰り返し挑戦したから成功したという事実は間違いない。

敵弾雨あられの中を突撃して見事に凱旋した勇者は、「敵弾など、当たらないと念じれば、かすりもしない」と豪語する。当人にとっては、それは正しい。一方、当って死んだ人の言葉は残っていない。成功哲学は、ある人の経験では正しくても、多くの人にとっては正しくないのです。もっとも、自分は敵弾に当らないと信じ込んでいる蛮勇の兵士のほうが、敏捷に走り回る結果、弾にあたらないで生還できることもある。自分だけは失敗しない、と確信している事業家は、ブラフでなく本気で賭けに出るので、恐れをなすライバルを出し抜いて、大成功する場合があるでしょう。

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