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哲学の科学

science of philosophy

坂の存在論(1)

2025-02-22 | その他


(105  坂の存在論  begin)




105  坂の存在論

高い地面から低い地面に降りるためには、斜路を作ります。ふつう坂道といいます。現代の日本語ではスロープといいます。高低差が一メートルくらいならば飛び降りればよい。飛び降りるとひざを痛める恐れがあるので、斜めに土を崩すと良いでしょう。高い地面の端に立って、崖を靴で蹴とばして崩します。泥が崩れて斜めの斜面ができます。
人が通れる幅は最低でも数十センチなので、その幅をシャベルで削るとよい。踏み固めれば、何人でも通れるようになります。勾配は1/8以下、摩擦係数は0.6以下であれば安全、となっています。
一八七四年、海軍水路寮は地図作成の原点として、港区麻布台に天文台を設置しました。ここに据え付けた望遠鏡の基点が日本列島の原点となっています。ロシア大使館とアフガニスタン大使館の間の小さな空き地に石碑があり、その台座に埋め込まれた半球状の金属の中心に十字印が刻まれています(関東大震災後、天文台三鷹移転により装置は移動。現在は人工衛星測地に機能移転)。ここは、東京湾を見下ろす武蔵野台地崖線の正にぎりぎりの端で、境界線の南側は草木に覆われた急斜面になっていて歩けません。少し東に回って桜田通りの土器坂を回り込むと東麻布の平地(マンション密集地)にでますが、その北側は、前に述べた日本原点の下にある数メートル段差の上り崖です。
麻布台の南側は急斜面で下に降りる道はあまりありません。ロシア大使館の西側から南に下る狸穴坂。この坂は西側面も西へ下降していて、マンションが立ち並んでいますが、数十メートル西を南北に走っている麻布通り(地下鉄南北線の地上)から西に上っていきます。麻布台は東京都を覆う巨大な武蔵野台地が東の東京湾に沈む端の崖上になっています。武蔵野台地は、ヤマタノオロチのように東に向かってJR京浜東北線をなめ崩しながら、いくつもの舌を出していますが、かなり長い舌の一つがこれです。
この舌の先端が崖になって、京浜東北線に接しているところは、JR大森駅、品川駅、高輪ゲート駅、上野駅、鶯谷駅、日暮里駅、王子駅など、車窓から西側の崖が見えます。最近は高層ビルで見えにくいですが。
JRは束になって南北に走っていますが、窮屈そうです。JRの西側には線路に沿って南北に道路が走っていますが、西に上る坂道はふつう細くて、二車線道路は各駅に一本くらいしかありません。西側の駅前広場は狭く、東側の駅前が広くてロータリーなどがあります。
麻布台から南に降りる坂の話に戻します。外苑東道路を狸穴坂の西に移動しても南に進む幅広の下り坂はなくて、鼬坂と呼ばれる一車線道路だけがあります。あとその西には、レストランキャンティの脇を下る車も通りにくい下り坂があるだけです。その西は幹線の麻布通になっています。
鼬坂を南に降りていくと車が通れない徒歩通行の下り坂になっていて、鼠坂という標識があります。さらに南に下ると、また車が通れる道になり、その先が狸穴公園になっていて、子供が遊んでいます。
この鼬坂と鼠坂のすぐ西には、麻布通が南北に走っていて、その上を首都高速道路、その地下を南北線が並行しています。この道路は麻布台側の飯倉片町交差点から、南側の一の橋交差点(麻布十番駅地上)まで左にカーブしながら下っています。一の橋交差点には更科そばという老舗があって、正岡子規が「蕎麦屋出て永坂上る寒さかな」という句を残しています。
ここの麻布通の東側は、昔からの麻布永坂町という地番になっています。東側の大邸宅の著名人たちや更科そばの社長さんなどが町名保存を強硬に主張したといわれています。町名整理以前の昔から永坂町だった麻布通西側は六本木五丁目に変更されています。南に下る麻布通沿いの坂はいまも永坂という坂名が残っています。その西側の道路わきに娘が住んでいたことがあって、路上駐車の時は筆者が見張りをしていました。すぐ先にロシア大使館警備の警察官が立哨していたからです。
麻布通(つまり昔の永坂)の西側からはずっと上り斜面になっていて、完全に武蔵野台地が広がっています。麻布通の西数百メートルを外苑東通りから麻布十番通りまで南北に抜ける二車線道路が南に下っていて、鳥居坂と名づけられています。鳥居坂に沿っては、フィリピン大使館、東洋英和女学院、シンガポール大使館などが並んでいて立派な塀や擁壁が続いています。鳥居坂南東端にあるシンガポール大使館の西の擁壁は切通のように切り立っています。江戸時代初期に、ここにあった大名鳥居家の庭を掘削して坂道を作ったのでしょう。かなりきつい坂です。




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赤い童謡(2)

2025-02-15 | その他


〇赤いリンゴに くちびる寄せて
だまって見ている 青い空
リンゴは何にも いわないけれど
リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
(一九四五年十月「リンゴの唄」作詞サトウハチロー、作曲万城目正)
戦後映画第一号『そよかぜ』(一九四五年十月)の主題歌及び挿入歌。
ラジオはNHKしかなかったから、どの家でもそれがつけっぱなしで繰り返しこの歌を聞いていました。モノクロームの世の中が突然総天然色になった。赤と青。それが現実だと言われれば、そうかもしれないという気がします。しかし昨日までの世界も実際に現実だったのでしょう。戦後、という語が現実ならば、その前は夢ということかもしれない。よく覚えていません。筆者はちょうど生まれていませんでしたから。□
〇「夕焼小焼の赤蜻蛉
負われて見たのはいつの日か
山の畑の桑の実を
小籠に摘んだは幻か
十五で姐やは嫁に行き
お里の便も絶え果てた
夕焼小焼の赤蜻蛉
止まっているよ竿の先」□
(「赤蜻蛉」一九二一年三木露風、一九二七年山田耕筰作曲)
あかとんぼ、という語の当時のアクセントが残っています。□

童謡や流行歌は、赤い、という歌いだしから始まるものが多くあります。赤色のイメージが鮮烈だからでしょう。ポリティカルな「赤」が好き、という人もいますが、 嫌いな人も多い。無邪気な子供はそれが好き、ということで、まず使われます。けん玉の色を見れば明らかでしょう。サンタクロースの服も赤です。■
(108 赤い童謡 end)











(108   赤い童謡   end)





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赤い童謡(1)

2025-02-08 | その他


(104 赤い童謡  begin)




104 赤い童謡

〇「真っ赤なお鼻の トナカイさんはいつもみんなの 笑いもの」(一九三九年Robert L. May作制「Rudolph the Red-Nosed Reindeer」一九六四年 新田宣夫訳詞「赤鼻のトナカイ」)。この絵本はシカゴのMontgomery Wardデパートでクリスマスの景品に無料で配布され、数百万部が配布されました。作者のメイはいじめられていた幼少期の思い出を詩にした、といわれています。□
〇「赤い花つんで あの人にあげよ
あの人の髪に この花さしてあげよ
赤い花 赤い花 あの人の髪に
咲いてゆれるだろう お陽さまのように」(一九六四年 「赤い花白い花」中林三恵)
この歌を覚えているのは、一九九四年、第45回国際宇宙会議がイスラエルのエルサレムで開催され、筆者が会長指名委員だったからです。そのとき、五代富文氏を会長に推挙し委員会の賛同を得ました。レセプションの会場でイスラエルの少女歌唱団が歌っていたのが「赤い花白い花」の日本語でした。一週間後、市街地で爆破テロがあり、怖い町でしたが、日本語の歌の響きが特に平和に感じられた覚えがあります。□
〇「赤い夕陽が 校舎をそめて、 ニレの木蔭に 弾む声。 
ああ 高校三年生。 ぼくら 離れ離れに なろうとも、 クラス仲間は いつまでも」(一九六三年 丘灯至夫「高校三年生」作曲は遠藤実)
舟木一夫は高校生の制服を着たレコードジャケットでデビューしています。筆者が高校を卒業したのは一九六五年なので、このヒット曲(一九六三年第5回日本レコード大賞・新人賞)は巷に流れていました。若いころのクラス会では、当然、肩を組んで歌っていました。校庭といえば二本の巨木から落ちる銀杏を焼いては食べていたり、脇のプールで筏が転覆してずぶぬれになったり、隣の神社でさぼり昼寝をしていたことくらいを覚えています。この時代の十年後くらいですが、一九七六年森田公一とトップギャランのヒット曲「青春時代」(阿久悠)も歌詞を覚えています。
「卒業までの半年で答えを出すと言うけれど、二人が暮らした歳月を何で計ればいいのだろう。青春時代が夢なんてあとからほのぼの思うもの、青春時代の真ん中は道に迷っているばかり」このあと、青春という語を聞いても無関心な大人になりました。□
〇「赤い靴はいてた女の子
異人さんに連れられて行っちゃった
横浜の埠頭から汽船に乗って
異人さんに連れられて行っちゃった」
「赤い靴」(一九二一年 野口雨情 本居長世作曲)
山下公園にある『赤い靴はいてた女の子の像』(山本正道 作)は横浜市の「赤い靴を愛する市民の会」が寄付を募り一九七九年に完成した、とのことです。父方の家は関東大震災で被災後、横浜から東京に引っ越したそうですが、墓地が横浜にあり、筆者も墓参の際、中華街や山下公園に行きました。山下公園の西半分は米軍住宅で金網で囲われていました。祖母は、外人墓地を異人墓といっていました。横浜は外国への出発地でした。明治期には、外国人の養子になって海を渡る少女もいたでしょう。西洋文明、キリスト教、社会主義の理想への憧憬と幻滅。野口雨情は明治大正期日本の若々しい現状肯定と希望を歌詞に託していたのでしょう。□
〇『秋桜 コスモス』は、一九七七年、山口百恵のシングル曲。作詞・作曲:さだまさし。」この年、「気象衛星ひまわり」を打ち上げ、運用開始。『秋桜 コスモス』は、一九七七年、山口百恵のシングル曲。作詞・作曲:さだまさし。」この年、「気象衛星ひまわり」を打ち上げ、運用開始。長女が生まれ、給料も宇宙予算も毎年増え続けて、平和な時代でした。
淡紅の秋桜が秋の日の
何気ない陽溜りに揺れている
此頃涙脆くなった母が
庭先でひとつ咳をする□
〇暴虐の雲 光を覆い
敵の嵐は 荒れ狂う
怯まず進め 我等が友よ
敵の鉄鎖を 打ち砕け
自由の火柱 輝かしく
頭上高く 燃え立ちぬ
今や最後の 闘いに
勝利の旗は ひらめかん
起て同胞よ ゆけ闘いに
聖なる血に まみれよ
砦の上に 我等の世界
築き固めよ 勇ましく
(一八八〇年 ヴァツワフ・シフィエンチツキ「ワルシャワ労働歌 原題Warszawianka」日本語版一九二七年鹿地亘)
真っ赤な歌といえます。一九六九年、筆者大学卒業の年、安田講堂は陥落しました。この歌が毎日響いていました。気が付くと鼻歌で歌っていました。機動隊突入の日、湯島の裏通りで野次馬を殴る警官隊に遭遇し、出血した後頭部を押さえながらラーメン屋であんかけを食べて帰りました。□
〇美しき桜貝一つ 去り行ける君にささげん
この貝は去年の浜辺に われ一人ひろいし貝よ
ほのぼのとうす紅染むるは わが燃ゆるさみし血潮よ
はろばろとかよう香りは 君恋うる胸のさざなみ
あゝなれど我が想いははかなく うつし世のなぎさに果てぬ
(一九四九年 「さくら貝の歌」作詞:土屋花情、作曲:八洲秀章)□
〇アカシヤの 花の下で
あの娘が窃っと 瞼を拭いた
赤いハンカチよ
一九六四年 作詞:佐伯孝夫,作曲:渡久地政信。石原裕次郎主演映画。
高校三年生。担任の渡辺先生が、面接で趣味を聞いたので、五球スーパーを作っています、と答えたら、家のが壊れちゃてね、直してもらおうかな、という会話をした覚えがあります。□



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日本という国民国家(4)

2025-02-01 | その他


学生運動が盛り上がった一九七〇年代、ボクシング漫画の最終場面で、真っ白く燃え尽きる主人公、明日のジョー(1970-1973 高森朝雄/ ちばてつや)の伝説的画像は現在のインターネットにもよく登場します。日本経済のピークが終わろうとしていました。闘争の果ての死のイメージは終わりの暗示として当時の漫画のシーンによく出ています。
地球侵略軍マゾーンの女性型の指揮官ヌレームは捕虜尋問に引き出されると即時に自爆します(一九七七年 松本零士「宇宙海賊キャプテンハーロック」)。二度目の敗戦といわれた日本経済のその後の凋落を予言するような漫画が当時すでに読まれていた、といえます。
日本は外国からどう思われているか?日本人は毎日コスプレをしている、と思われている、という答えもかなり正解です。
日本人は、毎日、刀を磨いている、とか、毎日寿司を食べている、というのも正解。アメリカ人は、みんな、弱いやつを殴り倒す、という答えが正解であるのと同じくらい、正解でしょう。
どうせそんなものですから、外国にどう見えるかなど、気にする必要はありませんが、日本人論は日本で特に熱心に語られます(拙稿78章「日本人論の理論の理論」)。
日本の社会福祉は世界一、という人もいる。日本人はそう言いませんが。平均寿命を見れば、そうも言えます。
日本はめずらしく大成功した社会主義国である、とも、いう人もいます。これも、多くの日本人はそう思っていませんが。そういえば、最近の記事では、社会民主主義的に成功したはずの北欧諸国が、移民問題で困っているという話も漏れてきます。日本としても無関心ではいられない。社会福祉は正義なのか?民主主義は正義なのか?
教育は正義であるべきなのか?右翼左翼問題が嫌いでよいのか?政治家やマスコミは良い人であれば良いのか?二十世紀は、勝てば官軍とか、弱者擁護とかモラルがあったらしいが、この世紀ではよく分からない、という人も多くなっています。
『星の王子さま』(Le Petit Prince 一九四三年)は、アントワーヌ・ド・サンテグジュペリの小説です。
人生の職を探している王子は、四番目の星でビジネスマンに会います。La quatrième planète celle du businessman. Cet homme était si occupé qu'il ne leva même pas la tête à l'arrivée du petit prince.ビジネスマンは忙しすぎて、王子が来ても頭を上げられませんでした。アメリカと同じで、日本でもビジネスマンが一番偉いことになっています。それでこそ先進国です。
日本という国民国家は、吉田松陰以来、日常を超えて、戦争を作り、生活を作っていった時代がありましたが、二百年を経て、また日常の中に薄れていくでしょう。それから世界はどうなっていくのでしょうか?戦争は歴史上の記述だけになってしまうのでしょうか?■










(103  日本という国民国家  end)





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