それでは、高収入を得られない多くの人々にとっては伝統的な婚姻習慣は無子化、少子化を進行させることになってしまうのでしょうか?もしそうであるならば、妊娠出産育児を婚姻の内部に埋め込むという伝統的な習慣は、現代において社会の再生産を阻害し、国家社会の衰退の原因となる可能性を持つことになります。
過去の歴史に学べば、風俗習慣は生産形態に適応するように変化するものとみなすことができます。そうであれば、妊娠出産育児、すなわち繁殖行為が、伝統的な婚姻の外部でも実行される社会が、早晩に、実現してくると予想されます。その場合、人類の婚姻生態は崩壊するのか、あるいは形を変えて存続するとみなすことができるのか、という疑問が出てくるでしょう。
しかし有史以来あるいは旧石器時代以来、綿々と続いてきた人類の婚姻生態が、そう簡単に現代の産業社会制度によって干渉され衰弱させられるものでしょうか? むしろ、繁殖を阻害するような劣悪な社会制度は淘汰されるのではないでしょうか?
象徴的な社会現象として、先進国における非嫡出子あるいは非婚姻カップルの差別廃止の傾向があげられます。これらの現象を深読みすれば、妊娠出産育児を埋め込む機構としての婚姻の機能が崩壊していくことを予想することができます。先進国の事例をみると、公共資金による保育・教育のサービスを充実させることで婚姻および家族の機能の主要部分を代替しています。税金の投入によるこの種の公共サービスを極端に進めると仮定すると、まず低収入の男性の経済力格差をなくすことで出生数の低下を緩和できると同時に、複数の女性に複数の子を出生させることが可能になると予想できます。
この形態が実現してくるとすれば、たしかに産業社会での婚姻の機能低下を補完する役割を果たしますが、伝統的な婚姻の機能である繁殖に対する栄養補給を代替することにはなっていません。
人類の身体が単婚に適応していて複婚や乱婚に向いていないとすれば、これでは社会を正常に維持できないでしょう。やはり繁殖に対する栄養補給の機能を持つ単婚を代替するシステムが必要です。
現代の産業社会では、栄養補給は企業による賃金によって行われます。市場の競争圧力の下にある企業は、妊娠出産育児への関与をコストとして処理する仕組みになっています。企業のネガティブな関与を公共セクターが補完する制度を作れるとしても、かつて伝統的な婚姻制度が果たしていた栄養補給の役割を完全に代替することはできないでしょう。
日本でも欧米でも、世界中どこの国でも、出生という社会機能に関して企業はネガティブな位置にあります。現代の産業社会では過去の社会と違って、家族は生産の単位ではなくコストになっています。そうであるとすれば、現代社会は繁殖という重要な機能を欠いた持続不可能な存在であるのでしょうか?
では、ほかにどのような可能性があるのか?具体論としては、だれもそれは思いついていません。しかし、抽象論でよければ言える。つまり産業界、企業が妊娠出産育児をネガティブなコストではなく、ポジティブなメリットとして追及するようなシステムに変わり得れば、それは伝統的な婚姻の機能を代替できるはずです。
圧倒的な栄養供給能力つまり生産能力を持つ産業が、法人としての利潤追求ではなく、その構成員の妊娠出産育児を究極の目的として活動するという仮定を置けば、それは可能といえます。