哲学の科学

science of philosophy

長寿と夭折(5)

2017-02-25 | yy55長寿と夭折


ガロアが決闘などを避け、長生きしてガウスと同じくらいの長寿をまっとうしたとしたら、どうなっていたでしょうか?架空の想像は、たしかに空しいですが、想像はできます。
ガウスと同じくらいの大数学者になった可能性は十分あります。しかし性格が正反対です。ガウスは保守的で、対立、抗争がきらい。一方、ガロアは革命大好き、ケンカ大好きです。数学研究に関しても、ガウスは完璧主義、ガロアはひらめき派です。
ガロアが死なずに数学面で活躍したとしたら、たしかに現代数学を先取りして、その後の科学をリードしたでしょう。コンピュータや情報科学も早く発展した可能性もあります。しかし、ガロアから発展する数学は厳密科学ではなく、インスピレーションを軸としたアート的でかつ実用的な技術、つまり建築学や画像技術のようになっていったかもしれません。
ガロアの果たせなかった仕事を空想するよりも興味深いことは、長寿を全うした彼の人生に、私たち後世人がどのような印象を持つか、の想像です。まず、夭折した天才に私たちが興味を持つのは、その人が夭折したからです。つまり、将来の大発展が確実に見えている青年が、ごく若くして死んでしまった。この、死んでしまった、消えてしまった、というところが重要です。

勢いよく膨らんでいくシャボン玉が一瞬にして破裂してしまう。まあ、シャボン玉の美しさ(おもしろさかな)はそれでしょう。子供はそれが好きです。
桜をめでるというのも、それがあるでしょう。こちらは老人も好きですね。
梶井基次郎は、産卵を終えたウスバカゲロウの死骸が重なり合う水面を見て、「俺はそれを見たとき、胸が衝つかれるような気がした。墓場をあばいて屍体をこのむ変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった(一九二八年『桜の樹の下には』)」と書いています。
散る桜には妖艶な美しさがある、といいます。かげろうのような、というと美人薄命の形容でしょう。自分たちは安全第一の人生を送りながら、夭折というような、そういう話を好む私たちは、梶井のいう残忍なよろこびを楽しんでいるのでしょうか?■








(55 長寿と夭折 end)




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長寿と夭折(4)

2017-02-18 | yy55長寿と夭折


エヴァリスト・ガロア(Évariste Galois、一八一一年―一八三二年)が命を失うことになるパリ郊外の決闘場へ行く前夜に友人にあてた手紙には、その数十年後、数学界を揺るがせ、そこから現代数学が組み上げられていく群体論の骨組みが走り書きされていました。
二十歳のガロアに瀕死の銃創を負わせた決闘の相手も、決闘の理由も明らかになっていません。ただその時代背景から推測すれば、死の二年前に起きた七月革命の混乱と激情に直接影響された二十歳の青年が、政治的高揚と自身の野望とに翻弄され続けた結果、無謀な行動に走ったことは不思議ではありません。
十七歳ころから当時一流の数学者に論文を送り付け、ある程度の評価を得たものの、精緻さに欠ける未熟を理由に刊行を認められなかったことも、その若さからして当然でしょう。
たしかにその着想が百年後の数学の基礎となり、二百年後の社会で情報技術の根幹となって現代すべての人々の生活を支えていることは事実ですが、十九世紀前期、二十歳の青年はそのとき、ただ方程式を最高に美しく整理してみせただけのことです。
筆者も大学院生のころ、回転群上の確率過程を勉強した際、ガロアを源流とする抽象数学の構造構築力に感嘆した経験があります。

ガロアが死んだとき、ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(一七七七年―一八五五年)は五四歳、すでに世界的大数学者として有名でした。ガロアの友人が出版してコピーを贈呈した無名学生のその論文を読んだはずですが、何の反応も示していません。
複素数空間の操作を駆使して代数方程式の解法を埋め込んだ(代数学の基本定理)ガウスは、当然、有理数、複素数の体論的、群論的性質を熟知していたはずですが、ガロア論文の高度な抽象性が萌芽する強力な発展性には気づかず、空理空論として見捨てたのかもしれません。
ガロアは二十歳で死にましたが、ガウスがその年齢のころは、すでに代数学の基本定理を完成し、整数論の体系を発展させていました。三〇歳でゲッティンゲン天文台長になり、観測誤差分布の理論を発展させ、現代の科学測定の基礎原理であるガウス分布と最小二乗法を定式化した「天体運行論」を刊行しています。自身のこの理論を適用して、天文学史上初めて、軌道予測による小惑星の再発見に成功しています。
五十歳のころは曲面幾何学を理論化し、微分幾何学におけるガウスの原理(一八二七年「曲面の研究」)を発見し、非ユークリッド幾何学の概念に至っています。
七八歳でガウスは死にましたが、最後まで信心深く、「不死の霊魂がなくしては万物の存在は不条理でしかない」という言葉を残しています。








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長寿と夭折(3)

2017-02-11 | yy55長寿と夭折


一九二四年、二十三歳の梶井基次郎(一九〇一年―一九三二年)は京都丸善の書棚にレモンを一個置いて立ち去った。美術書を横置きに数冊重ねたその上だったようです。そのころ洋書でもマチスの画集があったかどうか定かではありませんが、赤や緑の鮮やかな色合いの本を重ねた、とあります。すでに結核に罹患していたようで微熱のある手で握った檸檬は冷たくて気持ちよかった、と書いています。梶井は、その結核が悪化し三十一歳で死んでいます。
芸術、文学の世界でも西洋に伍して先端を走る新生日本の若きインテリ。その野心と気概はレモンのきつい香気を放っていたでしょう。しかし若い身体は肺結核のため徐々に衰え、小説作品はなかなか評価されず印税は少なく生活に困窮しながら死の床に就きました。
一九二八年病状悪化のため東京帝大文学部を中退して大阪の実家に帰る際、すぐに戻るつもりで飯倉片町の下宿には荷物を残して行った、とあります。下宿の前を走っていた市電は一九六九年十月に廃止され都バスに代替えされました。筆者がそのころ駆け出しのサラリーマンとして通勤していた麻布郵便局ビルの四階(NASDA-JAXA発祥の地)はその下宿の向かい側です。
閑話休題、その基次郎との恋愛関係を噂された宇野千代(一八九七年―一九九六年)はすでに有名作家になっていましたが、尾崎士郎、東郷青児、北原武夫など、当時著名な作家、画家と結婚離婚を繰り返し、ますます有名になっていきます。男性との交友を恐れずその経験知識や人脈を生かして新ビジネスを展開するなど、自信に満ちた独立不羈の人物像として現代女性の先進モデルといわれています。この人は百歳近くまで生きて、しかも年を取るほど元気で前向き、人気も高まる、という長寿時代の模範のような人生を送りました。
百歳まで大活躍という人生が正解とするならば、こういう人が三十歳のころに年少の男としてつきあって数年後に死んでしまう梶井の人生はどうなのでしょうか?
まあ、どちらも人生を目いっぱい楽しんだ、ように見える、ということでは互角、ともいえます。宇野も結果的に長寿となりましたが、危険を避けて安全に徹する生き方とは反対の人生を進んだようです。過去や将来にこだわらずに、その時を力いっぱい楽しむ、という態度は、まさに現代女性の鏡といいたくなります。逆に梶井は、いつも病身を意識していて、将来がない、という苦しさに耐えた一生だったようです。
人生というものの重さが重要だ、というならば、宇野の百年人生よりも梶井の三十年のほうが重かった、という感じがします。けれども、人生の重さなどというものに大した意味はないともいえるので、深く比較する必要はなさそうです。







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長寿と夭折(2)

2017-02-04 | yy55長寿と夭折


画業の完成度からいえば、円熟期の荻須のほうがはるかに高いところに達しています。しかしなぜか、佐伯の絵にはファンが多い。セックスアピールがあるような感じがする。それはこの画家が客地で夭折したという事実と関係があるでしょう。
荻須は自分の絵の個性に自信を持っていたでしょう。そうでなければ六十年も描き続けることはできません。しかし、画家の名もよく知らない素人の私たちから見ると、佐伯が死んだ後、荻須は佐伯が描くはずのフランス風景を描き続けていたような錯覚を感じます。あるいは、佐伯が死なずに書き続けていたならば、荻須は違う絵を描いていたのではないか、という想像もしたくなる。そしてあれほど長命の画家にはならなかったのではないか、というふうに思いたい気になります。
もし、円熟した荻須の絵が完成形であるとするならば、佐伯の絵は未完成の価値が低いものである、ということになる。佐伯は短命であったがゆえに人気は出たが、その作品は価値の低いものであるのか?もし逆に、佐伯の作品が別の意味で美しい完成形であって最高の価値に達しているとすれば、佐伯が生き残って描き続けたとした場合、その後年の作品は陳腐化し劣化していくだけであるのか?
もしそうであるとすれば、荻須が三十歳以降数十年間描き続けた作品は、繰り返しと経年変化を見せるだけのものであったのか?
ある種の画家の画業というものは、数年間くらいの短期間で終わってしまうことがあるのでしょうか?また別の画家の作品系列は、数十年にわたって変化することで、鑑賞の価値を大いに高めるものなのでしょうか?
私たちは、作品そのものを見ているのか、それとも画家の一生を見ているのか?どちらなのでしょうか?





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長寿と夭折(1)

2017-01-27 | yy55長寿と夭折

(55 長寿と夭折 begin)




55 長寿と夭折

長生きするためには極力、冒険のようなことは避け、安全第一の人生を送るほうがよい、といわれます。その通りでしょう。しかしこれは、人間の生き方として、正しいのか?

天才の夭折、という話はなぜか、人を引き付けるところがある。その天才はなぜ若くして死んだのか?もし生き延びて長寿を全うしてしまったならば、どう違うのか?

佐伯祐三(一八九八―一九二八)はパリの風景を描き続け、その地の精神病院で死んだ洋画家です。三〇歳でした。昭和初期の東京美術学校(現東京芸術大学)出身の、典型的な日本人エリート画家といえます。その絵は、まさに、パリとフランスに対する現代日本人の心象風景とぴったり重なっています。
精巧な迫力のある絵もあれば、売るために描いたような雑な絵も多い。後者の小さなものを筆者は玄関に飾っていますが、いかにも日本人の思う古き良き時代のパリという絵柄で、現代的なカワイサがあると気に入っています。
三十歳で死んだので当時としても若死にです。パリ郊外の精神病院で食を拒み衰弱死した、となっています。彼はなぜこの若さで死んだのでしょうか?
東京で新進気鋭の画家として喝さいを浴び、パリに修行に行く。パリで世界の最高峰に接して、才能の限界を悟り絶望したのでしょう。
時代が離れた私たちから見れば、かなり単純な野心ある若者の挫折です。それでも彼は、パリの風景を熱愛した。短期間に描いた作品の量は、その時代の青年の情熱を感じさせます。
玄関の絵をひっくり返して裏ぶたを取ると、キャンバスの裏に「佐伯祐三」と漢字で書いてありますが、隣に四角い紙が貼ってあって、それには「佐伯米子鑑」とあります。キャンバス裏の字と紙上の字がよく似ている。おなじ人が書いたようです。この佐伯米子(一九〇三―一九七二)という人は、祐三の奥さんで、才能のある画家でもあったとのことです。祐三の絵は頻繁に米子による加筆がなされていて、贋作という見方もあるようです。日本人に売るために日本人好みに修正したとのことですが、ありそうな話です。米子は、祐三を慕って日本から来た後輩の画家の世話もしたようで、その交際関係に疑問を呈する憶測も伝わっています。
祐三の二年後輩の洋画家荻須高徳(一九〇一―一九八六)は、祐三の晩年にフランス生活を共にし、死にも立ち会っています。若いころの絵は、パリの市街を描いて、まさに祐三にそっくりですが、しだいに端正緻密な風景画になって晩年まで制作を続け、八四歳で死亡と同時に文化勲章を授与されました。
同じような画風から出発した同時代の二人。一人は三十歳で夭折。他の一人は八十四歳の長寿を全うしています。この二人の男の生涯を比べると、まず端的には、身体の健康の違いが極端に寿命に反映した、ということができます。








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