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哲学の科学

science of philosophy

探検する人々(12)

2018-05-26 | yy62探検する人々


「我々は知らない、知ることはないだろう(Ignoramus et ignorabimus)」は、人間の認識の限界を主張したラテン語の成句です。一八八〇年の講演で生理学者エミール・デュ・ボア‐レーモン(一八一八年―一八九六年)は、「我々には未知の科学問題(物質の本質や意識の正体)があり、その答えを永遠に知ることができないだろう」と述べ、学者の間で喧々諤々の「イグノラビムス論争」を引き起こしました。
一九三〇年、ケーニヒスベルグでのドイツ科学物理学会で数学者ダフィット・ヒルベルト(一八六二年―一九四三年)が行った引退講演で述べた有名な語句が彼の墓碑銘に刻まれています。「我々は知らねばならない。知ることになるだろう(Wir müssen wissen.Wir werden wissen.)。これは先のイグノラビムス説に対する強烈な反論です。
おもしろいことに、この同じ学会で、当時二四歳だったウィーン大学の博士候補学生クルト・ゲーデル(一九〇六年―一九七八年)が不完全性定理の構想を発表していました。彼はこの翌年に論文を刊行して全世界の数学者や哲学者を驚かせます。この定理によって、ヒルベルトが理想としていたすべての数学を矛盾なく導く公理体系の構築は不可能であることが証明されました。
まあ、現代文明においては、こうして未知は徐々に解明されていく、という流れにあることは確かな事実でしょう。

月も探検してしまったし、私たち現代人にはもう未知の地はない。これが事実でしょう。何か閉塞されたような気がしますね。しかしこのような考えそのものがまた、私たち現代人の無知を象徴しているのかもしれません。■



(62 探検する人々 end)












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探検する人々 (11)

2018-05-19 | yy62探検する人々


既知の知識を最大に使うところに未知の世界が開ける。それが探検です。
知っていることを知っていることとして使う。知らないことは知らないことであるから使わない。これが現実を知っているということである。孔子はこう言って弟子の子路を諭した、と論語にあります。
子曰由誨女知之乎知之為知之不知為不知是知也(紀元前三世紀ころ編纂「論語」)

世界を発見していった探検家たちは、こういう仕方で未知の地を進んでいきました。
どこまでも未知を解明しようとして、奥へ奥へと進むべきであるのか?
どこまでも未知をつきつめてすべてを知り尽くそうとすることはよろしくないのではないか?こういう漠然とした疑問を、実は、私たち探検家ではないふつうの人たちは、持っているのではないでしょうか?
昔の賢人はこう言っています。
吾生也有涯而知也無涯以有涯隨無涯殆已已而為知者殆而已矣為善無近名為惡無近刑緣督以為經可以保身可以全生可以養親可以盡年(紀元前三〇〇年頃「莊子・内篇・養生主篇」)
有限の人間の分際で、無限の未知を解き明かそうとすることは無謀で危ういのではないか?
カント(一七二四年―一八〇四年)のように生まれた町(ケーニヒスベルグ)を一歩も出ないで(一六〇キロ以内なら出かけたとされるが)世界のことはすべて知っている、という生き方がよいのではないでしょうか?
家を出なくても世の中を知っていることはできる。窓から覗かなくても空があることは分かる。むしろ遠くへ出かけるほど物事を理解することが少なくなる。聖人は何もしないことで何事もなすことができるのである。老子がそう言っています。
不出戸知天下不闚牖見天道其出彌遠其知彌少是以聖人不行而知不見而名不爲而成(紀元前四世紀以降 老子「道徳経」)。
この考えでは、全然、未知の地を探検する必要を認めませんね。









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探検する人々(10)

2018-05-12 | yy62探検する人々


一九七二年一二月一一日、アポロ一七号の月着陸船が月面に着陸しました。着陸船操縦士のハリソン・シュミット(一九三五年― )は米地質調査所(USGS)出身の地質学者でした。彼は、アポロ一七号船長のユージン・サーナン(一九三四年―二〇一七年)とともに月に滞在した最後の人類になりましたが、同時に月を現地調査した最初で最後の地質学者です。
シュミットの任務は、月面地質の形成史を実証する岩石サンプルを採集することでした。月面の隕石衝突と火山噴出による生成岩石を分析することで地球と太陽系の生成過程が解明できると期待されていました。
月の表面はクレーターだらけです。真空であるがゆえに隕石の衝突が激しく、その痕跡は永久に残っています。地球の周りが、かつて激烈な隕石の雨にさらされていたとすれば、地球の地質もその影響によって形成されていたはずです。地球の形成、月の形成、太陽系の形成、その秘密が月の地質調査によって解明できるのではないか? シュミットははじめて月面に降り立った地質学者としてその使命を背負っていました。
地球に帰還したシュミットはアポロの宇宙飛行士としての人気に支えられて上院議員に選出されました。
二〇〇五年、筑波宇宙センター所長をしていた筆者は、訪日中のシュミットに依頼して講演してもらい宇宙センターを案内しましたが、そのとき土産にもらった月面でのシュミットのパノラマ写真を我が家の家宝にしています。学者でもあるけれども、実に実務家的な、現実的な、はきはきした意見を言う人でした。
既知の知識と技術をしっかり組み上げて困難なミッションを確実にこなす。宇宙飛行士にはそういう人が選ばれています。未知の宇宙環境に全身をゆだねながらも、既知の知識を最大に援用して計画的に探査を進める。確かに科学ではあるが、失敗は許されない。二段構え、三段構えの周到な対策を準備してから実行を開始するオペレーションです。







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探検する人々 (9) 

2018-05-05 | yy62探検する人々


日本はアジアの優等生として西洋、英国に近づこうと懸命に努力している途上国であるがヨーロッパ諸国の現状に比べると大きく見劣りする。いたずらに洋服を着ようとしているが容貌が劣るので全く似合わない。劣る原因はまず知性でありまた精神である、と繰り返し指摘しています。
それにしても、この英国婦人もまた腰が落ちついています。当時の西洋人からみて野蛮な侍の国の、しかも奥地の奥地に通訳の男一人だけを連れてどんどん入っていきます。不安と警戒心で緊張しているかと想像すると、野蛮な奥地の風習に取り囲まれてもまったく平気、という態度です。
目の前に展開する未知の光景を、この人はどう思ってみていたのでしょうか?文章を読むと、不可解とか、理解できない、とかいう記述はほとんど出てきません。風景や住民の風俗について、素晴らしいとか、味気ないとか、気持ち悪い、とかけっこう感情的な描写は多々ありますが、結局、理解できないと思ったことはない、と読み取れます。
むしろ鳥の目線というか、神様の目線というか、すべては初めから見通している、という態度です。彼女は当時のヨーロッパの優位、その最高地点に位置する世界に冠たる英国の視点の正しさを全く疑わず、絶対不動の立ち位置として日本を俯瞰しています。
アジアの新興国の日本が懸命に西洋文明を模倣しようとしているが、時代に取り残された日本奥地にはまだ珍奇な風物、風習が残っているはずであるからそこを踏破して記録しておくことは意義がある。その進路に困難な障害があればあるほどバードの闘志は高まります。まっすぐな探検精神です。
峠を越えて村落に足を踏み入れるたびに未知の光景が広がる。幼児を背負った少女の表情、外国人を恐れたり恐れなかったりする村人の反応、村長の饗応のおかしさ。宴会でふるまわれる日本酒の匂い。
この未知の世界、日本の奥地はエキゾチックではあるが、別に不可解なものは何もない。文明人の目で見れば、この野蛮な人々は未開であるがゆえにこのように野蛮なのである、と思ったのでしょう。





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探検する人々 (8)

2018-04-28 | yy62探検する人々


大統領が町を散歩して道行く人と気軽にあいさつを交わすらしい、など民主的空気に感心してもいます。婦人が教養高く、立派な意見を述べるなど高い女性の地位にも正確な理解を示しています。一方、黒人は下流で姿が醜く、白人が上流で姿も優美である、など白人の人種偏見をそのまま素直に受け入れてもいます。
アメリカのエリート層は民主的で紳士的でかつ勇敢でもある、と賛美しています。引き換え、日本の幕府高官は権威主義的で尊大で虚栄と保身が強すぎて国威を損なっている、とまるで現代の評論家のような記述を残しています。

玉虫左太夫の渡米から一八年後、一八七八年夏、世界旅行家イザベラ・バード(一八三一年―一九〇四年)は北関東から東北、北海道の奥地を踏破しました。その旅行記で特に賞賛している土地の一つが米沢の農村です。

暑さはあるが気持ちの良い夏の日だった。会津山の頂上に少し残っている雪が涼しさを感じさせる。南に繁華な米沢市街があり北に湯治客の集まる赤湯温泉を有する米沢平野は完璧なエデンの園である。豊富な農産物には、米、綿、トウモロコシ、タバコ、麻、藍、大豆、ナス、クルミ、メロン、キュウリ、ナシ、アンズ、ザクロがある。その豊饒な土地はアジアのアルカディアと呼ぶべきである。ここには十分な土地があり、それらはそれを耕作するものに所属し、圧政もなく、豊かな安楽な生活がある。アジア的専制政権のもとで驚くべき光景である。ただし信仰の主たる対象はいまだに大黒(福の神)であり、欲望の対象は物質的である(一八八〇年 イザベラ・バード「日本の未踏道 Unbeaten Tracks in Japan Letter18」訳筆者)。
バードが見た米沢平野の豊穣は、名藩主として名高い上杉鷹山治憲(一七五一年―一八八二年)の農業振興策の成功を示しているのかもしれません。ちなみに、小惑星探査機はやぶさプロジェクトを企画し実現した宇宙工学者であり筆者が現役時代おおいに薫陶を受けまたJAXA内で研究予算を奪い合った関係でもあった上杉 邦憲氏(一九四三年― )は鷹山の直系子孫で仲間内にトノと呼ばれていました。
閑話休題、バードの記述は、まったく公平な観察者に徹する方針を守っているつもりらしく、貧民村落の不潔さ猥雑さを遠慮なく指摘している一方、庶民の親切と寛容を美点とし、風景や寺社建築の美しさを絶賛しています。彼女の立脚点は、もちろん、世界に冠たる当時の英国の価値観です。










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探検する人々 (7)

2018-04-21 | yy62探検する人々


ペリーが去って数年後、一八六〇年、日米修好通商条約(日本國亞米利加合衆國修好通商条約 Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)の締結のために幕府外国奉行新見正興とその随行七十七名からなる渡米使節団がワシントンのホワイトハウスを訪問しました。東回りに十か月で地球を一周した日本政府(江戸幕府)一行の詳細な記録が残されています(一八六〇年頃 玉虫左太夫「航米日録」)。
玉虫左太夫という人は当時三六歳の仙台藩士で渡米団員として個人的な日誌を書き残しました。
たとえばホノルルに初上陸した翌日一八六〇年三月六日の日記には以下のように書いています。
「十五日此処ハ晴雨定マラズ晴天ニシテ忽チ雨来リ道路常ニ湿ス予靴ヲ持タス歩行甚ダ難渋ス午後靴ヲ求メント市街ニ出テ旅館ヨリ二丁許行キ支那店アリ靴ヲ商キノフ其価ヲ問フ大円銀一個半ト云フ予国ノ方銀ヲ以テ買ントス彼筆ヲトリ此国不用方銀ト書ス予亦筆ヲ取リ所携唯方銀而己如何ト書ス彼首肯ス筆ヲ取リ四個方銀可以兌換ト書ス是ニ於テ予思フニ靴一對ハ我国ニテ二個方銀ノ価ナルニ四個方銀トハ甚タ貴シ然ニ今求メサレハ戸外ニ歩モ行ク能ワス乃チ四個方銀ニテ求メ帰ル(原文墨書から)」
一五日とありますが日付変更線を超えたので実際には旧暦二月一四日つまり新暦では三月六日です。
筆者は一九八五年、学会参加のためホノルルに滞在しましたが、爪切りを買うために町に出たところドラッグストアのおばさんに「ネイルカッターはないがネイルクリッパーならあるよ」と言われてそれを買ったらふつうの爪切りだった、という経験を覚えています。左太夫の百年後でも、ホノルルに初上陸した日本人の経験は同じようなものです。
現代人の私たちの感覚では、アメリカ人の町での日本の侍の初体験がこのように日常的な買い物風景であったことが逆に驚異です。現代人の私たちでも初めて訪れた言葉の分からない国の店に入って一人で買い物をするときはもう少し不安を持つでしょう。左太夫は自分の行動に完全な自信を持っています。どうしてなのか?
この世に真に新たなものなどなし(nihil novi sub sole)と、旧約聖書にあります。未知なものなどない、知っていることから類推すればすべては理解できる、という態度です。
左太夫は、未知の新世界を理解する場合であっても、自分の知識、教養に大きな不足があるとは思っていません。英語はまったく分からないが、中国人商人と漢文筆談で通じるのであまり不便していません。この後、アメリカ本土で中国人と交流し、アメリカ政府の外交政策は無邪気で友好的に見えるが油断ならない、などとアドバイスを受けてもいます。








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探検する人々 (6)

2018-04-14 | yy62探検する人々


この後、栄左衛門は軍艦搭載の蒸気エンジンが稼働するところを見学します。彼は熱心に各部品の運動を観察し知的興味と好奇心を示したが恐れは見せず、この機械を初めて見たものがふつうは抱くはずの驚嘆の様子もなかった、とあります。
栄左衛門は当時のインテリ武士の典型だったようです。のちに幕府の国産第一号洋式軍艦開発プロジェクトに参加しています。アメリカ側は日本人に魔術のような最新兵器を見せつけて威嚇するつもりだったようですが、栄左衛門は冷静に観察してそれが魔法でも何でもない精巧な機械とみなし、構造が分かれば自分たちも製造できると思いながら視察したのでしょう。
次年一八五四年春に再来航したペリーは日米和親条約(日本國米利堅合衆國和親條約 Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan)の締結に成功します。
前述の遠征記で、「かくして日本は自己中心的な鎖国方針から解き放たれ互恵的な世界法則にしたがうこととなるのである」とペリーは語っています。イギリス、オランダ、ロシア、フランスを出し抜いて成り上がりのアメリカが世界的懸案の日本開国に成功したという自負がよく表れています。
自分は、来日前から日本人と日本政府の内部構造を深く研究し、この人たちには紳士的友好的なアプローチが適当であるが、それだけでなくそれと並行して武力による恐怖を示唆する必要があることを見抜いていた、と語っています。
それが一貫したペリーのポリシーであったことは、艦隊編成の企画段階から最新型蒸気エンジンを装備した重厚な大型戦闘艦数隻以上の投入を海軍長官に上申していたことからも明らかです。黒船騒動としてこれに反応した江戸幕府は見事にペリーの戦略にはめられた、といえますが、この外圧を利用して政権奪取に持ち込んだ維新勢力もまた戦略上手といえましょう。
「米国艦隊遠征記」の記述を見ると、ペリーが、出島のオランダ商館の記録などを詳細に調べ、遠征の計画段階から日本の内情を分析し、軍事能力を的確に把握し、日本政府(江戸幕府)の権力構造と官僚機構を熟知していたことがよく分かります。江戸湾への米国軍艦進入による軍事的威嚇が江戸幕府内部にどのような政治的効果をおよぼすかを的確に予測していました。
ペリーの行動によって露呈された江戸幕府の脆弱性は、維新勢力の台頭を招き、日本の歴史を動かしていきます。
ペリーは未知の日本について事前に徹底的に調べ上げて、その知識に自信をもって江戸湾に進入しました。香山栄左衛門は、当時の日本人としての知識を総動員してペリーに対応し、穏便に退去させることに成功しました。双方とも未知の事態に対して冷静で知的な対応をしていることに、現代人の私たちは感心します。
昔の人たちは、たしかに無知ではありましたが、その知性はもしかすると現代人よりも高かったのかと思わざるを得ません。







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探検する人々 (5)

2018-04-07 | yy62探検する人々


ダーウィンが「種の起源」の推敲を重ねていた頃、一八五三年七月八日、マシュー・C・ペリーを提督とする米艦隊四隻が江戸湾(現東京湾)に進入し浦賀に停泊しました。浦賀奉行所の退去命令に対し、ペリーは「自分は米国大統領の命令で日本国皇帝に直接親書を渡す使命を帯びているから皇帝の指名した高官を呼べ」と譲りませんでした。
奉行所応接掛与力香山栄左衛門が浦賀奉行と称して旗艦サスケハナに乗船しましたが、ペリーは会ってくれず上位者を呼べと言います。数日後、幕府の指示を受けて本物の浦賀奉行はペリー一行の上陸を許可し、久里浜海岸に会場を設営して儀式的に大統領親書を受け取ります。
ペリーは、来年返事を受け取りに来る、と言い、帰り際に江戸湾の奥まで(威嚇のため)軍艦を進めます。そのとき旗艦サスケハナに招待され乗船していた香山栄左衛門は米士官と(たぶんオランダ語通訳を挟んで)以下の問答をしています。
栄左衛門:(親書受領式が)すべて無事にすんでよかった。
ブキャナン艦長:日本と米国とはいつまでも友人でありたいですね。
栄左衛門:いつお立ちになるのですか?
ブキャナン艦長:二、三日くらいあとです。提督は湾を上って良い投錨地を探したいとおっしゃっています。最初の投錨地はお気に召さないようです。
栄左衛門:そこに停泊するおつもりですか?
ブキャナン艦長:ほんの二、三日ですよ。海に出る前の準備に。
栄左衛門:公式的に言えば、今日中にお別れしたいのです。あなた方が出て行く前に私たちが帰るわけにはいかないので。
ブキャナン艦長:何か月もたたないうちにまたお目にかかれるとうれしいです。ペリー提督は今回皇帝陛下へのプレゼントを持ってきませんでしたが、次回は持ってくるでしょう。その中には蒸気エンジンや鉄道の機関車などがあります。
コンテ大尉:その中には電信装置もありますよ。浦賀から江戸まで一瞬で話を通じさせることができます。
栄左衛門:蒸気船は一時間に何里進めますか?
コンテ大尉:無風時の蒸気エンジン推進だけで日本の八(?)、アメリカの一三マイルです。合衆国には河川用の非常に軽量の蒸気船がありまして、それらは時速一八マイルで進みます。
栄左衛門:どこで蒸気船は初めて発明されたのですか?
コンテ大尉:アメリカで、です。フルトンという名のアメリカ人がニューヨークで初めて発明しました。 (一八五六年 フランソア・L・フォークス著マシュー・C・ペリー監修「中国沿岸および日本への米国艦隊遠征の記 Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan」訳筆者)







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探検する人々 (4)

2018-03-31 | yy62探検する人々


ガラパゴスで調査中のダーウィンが、漠然とではあっても、このような進化理論の存立可能性を予期していたことは否定できません。聖書の創世記を否定する危ない思想です。書きつけることは危ない。うっかり口に出すことも危ないでしょう。実際、ガラパゴスでの観察ノートには進化論的思想の片鱗もありません。
たしかにガラパゴスの海イグアナと陸イグアナの形体は似ているが生態はかなり違う。一方は海で暮らし、他方は陸で暮らしています。何万年か前には共通の祖先から分かれたのかもしれない。当時のダーウィンもそのくらいは考えたでしょう。しかし、すべての生物のすべての過去に適用すべき進化論は思いつかない。そこで思考が止まってしまうのが当時の博物学者だったでしょう。
地球にこのような多種多様の動物や植物がにぎやかに生息している謎。生物を分類すると、非常に似ているものも多く、また全然似ていないものはさらに多い、という事実。これらの事実は何を意味するのか?聖書の創世記は間違っているのではないか、という疑問。
その答えを博物学は知らない。未知の何かがある。観察記録を編集していた長い時間のある時から、ダーウィンにはその答えが浮かんできたのでしょう。
地球生物の過去を我々は知りません。目の前には見えません。しかし、過去があったことは確かでしょう。数十億年の過去。未知の過去です。
現在を形作った未知の過去があり、私たちはそれを知らないが、現生生物の分類学的系統関係、化石、そしてなによりもDNAの系統図に全生物の過去はしっかりと刻み込まれているはずです。ダーウィンから百数十年たった現在、私たちは進化論を確信し全生物の系統図を持っています。しかしその系統図の根元がどうなっているのか、生物の根幹はまだ分からない。未知のそれを調べることが、これからの科学の大きな課題です。
















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探検する人々 (3)

2018-03-24 | yy62探検する人々


ビーグル号がイギリスを出港する時、地質学者でもあるフィッツロイ艦長はダーウィンに、当時出版されたばかりの新刊学術書を渡してくれました。「地質学の基本原理:過去の地球表面の変化を現在作用中の変化原因によって説明するための試案として」というまわりくどい副題の論文でした(一八三〇年 チャールズ・ライル 「地質学の基本原理:過去の地球表面は現在と同一の原因によって変化してきているとする説明の試案として Principles of Geology: being an attempt to explain the former changes of the Earth's surface, by reference to causes now in operation」)。
地球表面は超絶的な長期にわたる非常に緩慢な作用を継続的に受け続けた結果、現在の姿となったのであって、瞬時の天変地異や大洪水などで一挙に無から生じたものではない、という学説でした。聖書の天地創造説を否定するようなちょっと危ない感じの学説です。ビーグル号で大西洋を渡る間、若いダーウィンがこの本を読み続けていたと想定すると、南米での調査意識に相当な影響を与えたと考えられます。
地質の過去の変化は地層の断面に物質的に残り、生物の過去の変化は化石に残るとともに形質遺伝として子孫の形体と生態に物質的に残る。地質を変化させる熱や圧力や水化作用は場所によって異なるから場所によって岩石の生成結果は違う。生物を変化させる要因も場所によって違うだろう。生息場所が違う生物が交流して混血しない、できない、という条件があれば、場所によって異なる形質が遺伝として徐々に蓄積され、種の分化が起こるのではないだろうか?
退屈な遠洋航海の間、ダーウィンはフィッツロイ艦長にこんな話をしていたのではないでしょうか?
ガラパゴスを離れて二五年後、ダーウィンは「種の起源」を出版します。
神学生であったダーウィンは神による世界創造を信じていました。聖書によれば、生物の各種は、天地創造の日から変化せずに現在のように存在していたはずです。もしそうではない、と言ったら、聖職者たちは石を投げつけるでしょう。前掲「種の起源」の序文がくどいような弁解で始まっているのを読むと、ダーウィンの躊躇がよく分かります。しかしそれだからこそ、当時の読者はその理論の説得性を感じ取ったのでしょう。
長い時間の間には、生物の形体と生態は変化し、種は分化して祖先とは違うものとなる。この理論が正しいとすれば、人間をはじめ現在の生物すべてが過去には現在とは違う形体と生態であったことになります。しかも分化を遡れば、似た種の生物は共通の祖先を持つことになります。
無限に近い過去にまで遡ればすべての生物はただ一種の祖先から分化したことになる。実際、「種の起源」の最終章(14章 結論)でダーウィンは全生物の共通祖先の概念をちらっと述べています。
「したがって類推により私は、おそらく、かつて地球に存在したすべての有機体はあるひとつの原初的形体を祖先とするのではないか、と推論せざるを得ない。それはその中に生命がはじめて息づいた存在である(訳筆者)」
ちなみに、現代生物学では、この共通祖先概念は最初の生物ではなく、何度かの絶滅と変遷の後、現生生物全体系図の根になった生物体として最終世界共通祖先LUCA:Last Universal Common Ancestorと呼ばれています。















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