走っても走っても、いや速く走れば走るほど、周りの景色もついてくる。走るのをやめれば、もちろん、後ろに取り残されてしまいます。アリスと赤の女王の世界(一八六五年 チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン/ルイス・キャロル「不思議の国のアリス Alice's Adventures in Wonderland」)です。
病原体と免疫、あるいはウイルスとワクチンとの果てしない競争のようです。
赤の女王は走り続けるしかないのでしょう(一九九四年 マット・リドレー「赤の女王/性と人間性の進化 The Red Queen: Sex and the Evolution of Human Nature」)。■
複数の権力、権威、良識、善意、そしてエゴイズムが互いに競争し、牽制しあって、バランスよく、健全な社会を維持する。言葉で言えば簡単ですが、うまくやっていくのは簡単ではありません。
そもそも、現実社会をうまくやっていく、という発想も間違いかもしれません。社会の現実は、多数の人々が、それぞれの権力、権威、良識、善意、そしてエゴイズムを持ち寄って互いに頑張り、互いに協力し、遠慮しあいながら毎日をつくりあげているものである(たとえば一九六〇年 フリードリヒ・ハイエク「自由の条件 The Constitution of Liberty」)。そうであるとすれば、試行錯誤の歴史的経験によって作られた自由の現実、にまかせるしかないことになります。
自由といい、平等といい、結局はその社会が決めることなので、どういう自由どういう平等が正義であると法が述べているのか、あるいは社会モラル、倫理規範がどうなっているのか、が、現実社会では実際、個人の自由放逸なエゴイズムを制御し、実質かなり固い壁で囲い込んでいます。
暴力の自由とか詐欺の自由とかが許されると、追剥や強盗やインチキ商法がはびこり、見知らぬ人と話すのも目を合わすのも危険ということになって、かえって自由に外を歩けなくなるでしょう。自由放逸ということは自由の最大の敵である、と近代法システムの創始者は言っています(一七四八年 シャルル‐ルイ・ド・モンテスキュー「法の精神 De l'Esprit des lois」)。
たとえば世界最大の経済大国であり自由主義の模範とされるアメリカの社会が成功しているのは、個人の自由が奔放なエゴイズムに走らずに共通の目的をもって共同社会を作っているからである(一八三五,一八四〇年 アレクシ・ド・トクヴィル「アメリカの民主政治 De la démocratie en Amérique」)といわれます。自己利益を追求する個人の集団が共同して私企業と民事司法行政の活動を支える社会が保持されればアメリカは健全であるが、マスコミが支配する大衆独裁社会となる危険もある、とされます。アメリカの成功は、危険と隣り合わせであって、そういえばどの時代でも、屋根から滑り落ちそうではないか、という警告に満ちています。
ようするに、エゴイズムは社会にとって活力の源泉となる良いものでもあるが、放置すると混乱あるいは専制を招く危険なものでもある、ということのようです。
ちなみに実際問題、この法とモラルがうまくできていないと国家はうまくいきません。法の作り方にしても、政治家がよく考えて理想の社会を目指す体制を作ればよいとする理想主義、現状維持を原則に時代に合わせて逐次改善すればよしとする保守主義がせめぎあいます。
保守主義では、社会のモラルはエリートが理論で考え出すものではなく、歴史と伝統の中に蓄積されたカルチャーから自然に発生したものでなくてはならない(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム「人間本性論 A Treatise of Human Nature」)とされます。現代の経済先進国は、だいたいこのような(社会民主主義と称するものも含めて)保守主義を軸としています。
先進国でも昨今、環境破壊や移民急増や軍事的脅威などの危機意識から右派的あるいは左派的極端理論を主張する政治勢力が台頭する現象がありますが、これも復古現状維持の欲求がポピュリズムとして反動的に表現されたものとみることができます。ある意味、デモクラシーつまり大衆による支配がますます徹底してくるにつれエリートの理想論が駆逐されてくる、という現代の政治風景でしょう。
人間だれもが自分勝手であることが社会にとって実はいいことなのだ、という人はあまりいない。いや、いました。ロシア系アメリカ人の思想家アイン・ランド(Ayn Rand 一九〇五―一九八二)は、各人が自己利益を追求できる社会が最善である、と述べています(一九六四年 アイン・ランド「自分勝手の美徳 The Virtue of Selfishness」)。
このような考えは、実は昔からあって、一八世紀英国の哲学者経済学者アダム・スミス(Adam Smith 一七二三―一七九〇)は、各個人の自己利益追求が国家の富を形成する、としています(一七七六年 アダム・スミス「国富論 The Wealth of Nations」)。資本主義経済がいまのところ社会主義経済よりも繁栄しているように見えるので、この理論も正しいところがありそうな感じがします。
歴史は全体法則によってではなく各人が自分勝手に動いていくことで作られていくのであって、エリートが指導して理想的な社会を作ろうとするのは間違いだ、という考え(一九五七年 カール・ポッパー「歴史主義の貧困 The Poverty of Historicism」)もこれに近いといえます。
生物はみな利己的であるのだから人間が利己的なのは生物的本能であって当然である。これは、よく言われる理論ですが生物学的には単純すぎて説得力がありません。
生物の基礎である遺伝子は、たしかに自己増殖のみを最適化する機能から構成されていますが、生物個体は自己増殖行動に最適化されていません(一九七六年 リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子 The Selfish Gene」)。たとえば生物界に見られる利他的行動は情報としての遺伝子の自己増殖を最適化しているといえます(一九六四年 ウィリアム・D/ハミルトン「社会行動の遺伝的進化 The genetical evolution of social behaviour I and II. 」)。
自分勝手はいけない、というモラルは、よく言われる割には、なかなか徹底されません。
どうも、多くの人は内心、実は人間だれも自分勝手なのだから、と思っているのではないでしょうか?そうであればそういう現実の上で世の中をやっていくよりしかたがない、ということになります(一五三二年 ニッコロ・マキャヴェッリ「君主論 Il Principe」)。