哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ息をするのか(9)

2009-07-25 | xx0私はなぜ息をするのか

呼吸の話を例に取れば、私たちがふつうに呼吸している場合、その運動は意識されない。呼吸運動の結果を予測していないからです。風邪をひいて鼻が詰まっているとき、しかたないから口で息をする。鼻をかみたくなる。そういうときは、いくらか意識して呼吸運動をしています。しかしこういう場合、他人の視点から自分の行為を見ているわけではありません。

他人に憑依して、その人の視点に乗り移って自分の行為をながめるとき、意識は鮮明になる。たとえばコンサートで音楽を聴いている場合、鼻をかむわけにいかない。音を立てないように鼻をかめるか? こういうときは、はっきり呼吸運動を意識している。鼻をかむ音を周りの人に聞かれてはいけない、というコンテキストの上で、他人の立場から見た自分の行為の結果を予測している。

コンテキストがあるとき意識ははっきりする。それでは、どういう場合にどういうコンテキストがあるのか? もっとも鮮明なコンテキストは、自分の次の行動の結果によって自分自身が強い影響を受けると予想されるときです。恐れや期待という強い感情を伴った意識的な行動が行われる。自分一人だけ目立ってしまう場面だとか、一発ショットだとか、勝負どころだとか、いう場合ですね。

今私はどうしたらいいの? 今この場面で間違った動き方をしたらひどい目にあってしまうかもしれない。こういう場面で私たちはどのようにして自分の動き方を選択しているでしょうか?

こういうコンテキストの上での行動選択は、意思決定理論でいうゴール、アウトカム、ゲイン、コスト、リスクというような概念で説明できる。うまくやり遂げた成功状態がゴール。成功して獲得できる結果がアウトカム。アウトカムを金額などの数値で表現できる場合それをゲインといいます。

ゲインを獲得するときに支出しなければならない経費、あるいはもっと一般的に、支払わねばならない犠牲の量をコストという。確率的に起こるかもしれない危険の見積もり量をリスクという。

意思決定理論では、これらを数値化して計算で最適解を求めるが、実際の人間の行動は数値計算で決まるわけではありません。人間は(拙稿の見解では)無意識に衝動的に行動を決める。私たちは、自分では考えてから動いていると思っているけれども、実際は無意識に衝動的に行動します。ゴール、アウトカム、ゲイン、コスト、リスクというような立派な概念は、人間の運動形成機構の中にはない。運動形成機構は、(拙稿の見解では)運動結果がなす状況変化を自動的に予想して、それへの好き嫌いのような反射的反応を使って運動を形成します。

運動形成機構は、過去の行動結果をその時々のコンテキストの上で評価して、その経験を記憶する。この機構は経験を学習して、現実に即した判断ができるようになっています。好きなことが起こるように、嫌いなことが起こらないように、学習によって行動結果の予測ができるようになっている。逆にいえば、経験から学習した運動形成機構が予測する状況の評価によって、物事のコンテキストが現れてくる。

コンサート会場で鼻をかむ場合、意思決定理論で解決しようとすれば、無意識の衝動的反応は必要ありません。むしろ、衝動は邪魔になる。冷静に事態を予測して結果の損得を計算することだけが必要です。もう演奏は始まっている。始まったばかりなので終わるまでには二十分くらいはかかるだろう。もしかしたら二十五分以上かもしれない。鼻をかむと大きな音が出る。会場中の人に聞こえるでしょう。

楽に息をするという状況をゴールとして、そのゴール到達の一つの手段としての鼻をかむという行為を評価する。その行為の結果、つまりアウトカム、を予測して、それに対するゲイン、コスト、リスクなどを計算してみましょう。鼻を思いっきりかむと、息がしやすくなってゴールは達成される。百パーセントのゴール達成というゲインを得る。一方、それに伴ってコストやリスクが発生する。さらに、対案として、いっさい鼻はかまない、という(抑制)行為のゲイン、コスト、リスクなども計算して比較検討してみましょう。

まず、隣の席に座っている私のつれあいは、せっかくいい気持ちで音楽に浸っていたのに、突然、不快な音を聞かされて非常に不愉快になる(コスト)。それよりも、私に対して非常に怒る(コスト)。なんて品のない人だ。こんな人のつれあいだと思われて恥ずかしい。一緒に来るのではなかった、などと後悔する(と私が思う)。

そう思われて私はその後、コンサートに誘われなくなるでしょう(リスク)。そればかりではない。相手は、こんな非常識な人と付き合う気がしない、と思うかもしれない(リスク)。これからは、付き合い自体が危うくなるかもしれない(リスク)。さらに、というか、結局一番不愉快になるのは変な音を立てるこの私だ(コスト)。周りからもつれあいからも下品だとか迷惑だとかと思われるし、さげすまれるし、それがよく分かるから瞬間に気がめいってしまうだろう(コスト)。

そういう場面で私はどんな気持ちになるだろうか? 穴があったら入りたくなる。顔が赤くなってしまう。その顔色を見られるのもいやだから、つとめて平静な気持ちを保とうと思うのだけど、そうすると、緊張が高まってトイレに行きたくなってしまうだろう(リスク)。結局、顔面は緊張するし、トイレには行きたくなるし、そうなると、音楽を聞くどころではなくなって、いらいらしてこの場を逃げ出したくなる(コスト)。

そういっても、この満員のコンサート会場で立ち上がってでて行くとなると、右側の五人か左側のつれあいを含めた六人を演奏中というのに立たせて「すみません、すみません」を繰り返しながら、もたもたと通路へ泳ぎ出なければならないだろう(リスク)。それはまず不可能に近いというべきだろう。という二重苦、三重苦の絶体絶命の運命に私はある。

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私はなぜ息をするのか(8)

2009-07-18 | xx0私はなぜ息をするのか

同じ筋肉運動をすることで紅茶啜りによって同じ音を立てたとしても、周りの人の反応に無関心な(幼児など)傍若無人な人間がそれをする場合は、無意識的行動、ということになる。こういう場合は、その人は、静かで上品なレストランの空気というコンテキストを認知しません。そのようなコンテキストを記憶もしないし、無作法な音に対する臨席者たちの反応など、行為の結果を学習もしない。自分が音を立てたことすら、まったく記憶しない。

以上のようなことを考えると、どうも、意識というものは、自分がこれからすることがこの後どのように周りの物事や人々の変化(とそれによる自分に対する社会的状況の変化)を引き起こすのかを(コンテキストの上で)予測する働きを持っているようです。

確かに、その働きは生活の役に立つ。というより世の中で生きていく上で不可欠というべきでしょう。

何かをするときは、その結果を予期しながら注意深く実行するほうが、うまくいくでしょう。後先を考えずに、反射的に行動してしまうのは、幼児やだめな大人がすることだと、私たちはよく知っています。知能の低い動物は後先を考えずに反射的に行動する。知能の高い人間は意識を使って、熟慮しながら行動する。こういう図式は、私たちの常識になっています。

その行動の結果予測ですが、人間の場合、重要なことは、コンテキストの上で予測を行う。つまり、自分と周辺の物事や人々との相互関係が一番重要です。なされる行為とそれへの人々の反応という関係の上で予測がなされる。行為するのは自分で、それに反応するのは自分に隣接している物事、周囲の人々などです。特に、周りの親しい人々の反応を予測しながら行動する場合が多い。

私たちは、人が見ている場面で意識的に何かをするとき、それをする前に、自分の行為を感知するであろう周辺の人々に憑依して、その内面の反応を自分の身体を使って感知する。特に、人々の感情を自分の身体で感じとって、それを自分の行動と対応させて予測し記憶する。たとえば、その高級レストランで紅茶を飲んだとき、わざと大きな音を立てた、と記憶する。それには周辺の人々がその音を感じてどのような感情(軽蔑とか)を起こしたか、そしてそれを自分が想像したとき自分はどのような感情(羞恥とか屈辱とか)を経験したか、の記憶が伴っている。

では、だれもいない場面で自分ひとりがした行為は無意識でなされるのか?

そんなことはないでしょう。周りにだれもいない場合、夜中に一人で靴下の穴をかがっているときなど、意識はある。針穴に糸を通す。注意深くしないとできません。このとき無意識だとはいえない。一時間くらい後になっても、さっきは針穴に糸がうまく通らなくて何度も失敗し、いらいらしたことを、よく覚えている。しかし三日くらいたつとどうか? 針穴のことは、もう完全に忘れています。

その日のうちに、その経験を日記に書いておく。ブログならもっとよいでしょう。そうすれば忘れにくい。日記やブログを読み返さなくても、書いたというだけでしっかり記憶できます。

自分ひとりでしたことでも、日記に書くことで、私たちは他人の目に乗り移って、そのようなコンテキストを感知しながら自分の行動を見る。そういう場合、意識が強く働いて自分の行動を(そのコンテキストを伴って)記憶できる。

人が見ているときにした自分の行動は、記憶がはっきりする。コンテキストをはっきり記憶している。周りに人がいて私の行為を見ている場合、あるいはその場にはその人がいないとしても、私の行為の結果に対してだれかが感情を動かす(喜ぶとか憎むとか)と私が思った場合、そういう場合には、記憶は鮮明です。

特にその人が知り合いだった場合、ふつう、記憶が失われることはない。だから人間は、会話でしゃべった自分の言葉を覚えている。会話をするときは必ず相手の人間に対面しているからです。自分が言った言葉をたまに忘れたりすると、言った言わないのケンカになる。ふつう自分が言ったことは忘れるはずがない、とだれもが思っているからです。

ようするに、(拙稿の見解では)意識というものは、(コンテキストの上で)結果を予測して何かをする場合に伴う。それも、人が見ていると意識は鮮明になる。知り合いが見ていると、さらに意識は鮮明になる。意識とはそういうものらしい。これらから推測すると、意識というものは、運動の準備として、その運動の結果をコンテキストの上で予測するシミュレーションとその評価活動だといえそうです。

人が見ていると、その人に憑依して、その人の視点から自分の運動シミュレーションの予測を評価できるので、現実感がはっきり感じられる。コンテキストがはっきりする。自分の行為の結果が、コンテキストに従って分節化され、意味がはっきり分かる。その結果、強い感情が引き起こされる。感情が強いと記憶は鮮明になる。

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私はなぜ息をするのか(7)

2009-07-11 | xx0私はなぜ息をするのか

意識というものはこういうように、学習のために、経験を分節化する働きを持っているようです。逆に言えば、世界についての経験を分節化してコンテキストとして認知し、その変化を予測する働きが意識である、といってもよいでしょう。

世界をコンテキストとして認知することで、実用的な予測ができる。予測の結果が好ましいものなのか、それとも忌避すべきものなのか、コンテキストの中で人や物がどう変化するかを予測すれば、すぐに分かります。

意識的な呼吸という拙稿本章の興味からすると、レストランで紅茶をすする場面や、バースデーケーキのキャンドルを吹き消す場面でのコンテキストに注目したくなります。つまり、行為の結果に対する周りの人々の反応を予測すること、その結果を学習して記憶することなどが、なぜ意識に伴うのか、という問題に注意する必要がありそうです。

レストランで紅茶カップを唇につけて息を吸う。鼻咽頭をあげて鼻腔を閉じ、同時に口を開けて息を吸えば、口から空気が流れ込む。空気の流れに吸い込まれて紅茶も口に流れ込んでくる。次に鼻咽頭の筋肉を緩めて口の中の空気を鼻から逃がす。口の底に残る液体だけをのどへ落とす。これが啜る、という運動ですね。

もちろん紅茶は熱いから口でその温度を確かめながら気をつけて吸う。口からのどへ落とした紅茶をそのまま気管に入れると咳き込んでしまうから、飲み込むときは喉頭を上げて気管のふた(喉頭蓋)を閉じる。一連のこういう運動です。ここまでは無意識でできる。大人は無意識で、これをします。赤ちゃんは、きっと試行錯誤を重ねながら苦労して、この運動を学習するのでしょう。大人はもう習熟しきっていますから、かつてお母さんの胸の中で学習したことさえ忘れている。

さて、紅茶をすするときに出る音ですが、息をあまり強く吸わずに紅茶を重力で口に流し込むようにすれば、音は出ない。重力を使わずに空気力学に頼るから音が出る。強く吸うと、ズズーと、大きな音がでる。のどの内部空間で空気が液体と摩擦して音波を発生する。幼稚園児くらいまでの年齢の子供は、周りの人を意識せずに強く吸うので、音が大きい。大人は、こういう場では、ふつう自分が発生する音を意識する。音を意識すると、息を吸う運動は意識運動になります。

おなかの筋肉を収縮させて横隔膜を下げると、口から紅茶が流れ込んでくる。同時にズズーという大きな音が聞こえてくる。自分の耳は、とたんに周りの人々の耳に成り代わってその無作法な音を聞く。人々は、その音の発生源に視線を向けたくなるが、それを我慢して顔を動かさないようにしながら、視野の死角にある音源を想像で捜し始める。その気持ちがよく分かる。

犯人はあいつだ、と周りの人々が(視線を向けるのは我慢しながら)頭の中で私を注目している、に違いない。そこでさらに、思い切り息を吸い込みながら紅茶をすすり上げる。ズズズズズーっと大きな音がして、皆さんはさすがにチラッと視線を向ける。私は、知らん振りをして紅茶を啜り続けるが、顔の横や首の後ろに非難と軽蔑の視線がブスブス突き刺さる、と感じる。

こういう実験をするために、できるだけ高価な高級レストランに行ってみましょう。お金もかかるし、もう二度とそこへは行けなくなるかもしれませんが、まあ、いいじゃないですか。現代哲学の最先端問題を研究するためなのですから。

さて、紅茶吸飲意識とコンテキストの問題に戻ると、この意識運動は、次のような連環をなしている。

呼吸筋の収縮運動の準備→運動時に発生する紅茶音の予測→周辺客席の反応の想像→このようなコンテキストでの過去の学習成果の呼び出し→このようなコンテキストでの紅茶音発生に対する周辺客席の反応の予測→周辺反応を予期した呼吸筋収縮運動の意識的実行。

つまり、この場合、このようなコンテキストでの運動の結果による自分の社会的状況の変化を予測した運動が意識的運動となっている。逆にいえば、(社会的意味合いというコンテキストでの)意識的運動とは、過去の学習にもとづいて未来(の自分の社会的状況の変化)を予測しながらなされる運動である、といえる。

特に、人々の視線を意識するという感覚に注目すると、人間がする行為は、そのようなコンテキストでの仲間が自分のその行動の結果に対応して未来になすであろう運動―感覚を(仲間に憑依することで)予測しながら行為をするとき、最も意識的な行為となる、といえる。

たとえば、高級レストランで紅茶をすする音を立てる行動は、それの結果の音を聞いた周りの人々が起こす運動―感覚を(憑依によって)自分の身体の感覚として予期しながらする場合、明快な意識的行動になる、といえる。この場合、過去に同じようなコンテキストで同じような行為をした経験を思い出しながら、行為の結果を予測する。そして、行為の結果を、また、そのコンテキストとともに記憶して学習が進む。次の機会には、さらに正確に予測できるようになっている。

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私はなぜ息をするのか(6)

2009-07-04 | xx0私はなぜ息をするのか

意識して運動するということは予測を伴う、ということからすると、Bという神経活動は予測を伴うはずです。Aを実行しようと意識的に思うときは、必ずAの結果を予測している。逆にいえば、Aの結果を予測するということが、Aを実行しようと意識的に思うという神経活動Bのことである、といってよい。

それでは、Aの結果を予測する、つまり息を吸うことの結果を予測する。それはどんな場面か? 先の例で、高級レストランで紅茶をすする場面。あなたは、いまこれから大きな音を立てて、ズズズーっと、紅茶をすすります。その行為を実行しようとしている。さあ、始めましょう。

この場合、紅茶をすすることを実行しようと思う、ということは、その結果、何が起きるかを予測するということです。ここには特有のコンテキスト(場面特有の事情)がある。ここは高級レストランで、お客さんたちは皆上品な人たちで、お互いに迷惑をかけないように、音を立てないように気遣いながら静かに食事をしている。ほんとうに静かです。そこで、あなただけがすごい音を立てて紅茶をすする。全員が聞こえないふりをするでしょうね。ところが、あなたの連れ合いだけは知らん顔をしてくれないばかりか、目をむいて怒った顔をする。

ここでの「(息を吸うという運動)Aを実行しようと意識して思う神経活動B」は、このレストランでのコンテキストを含んで予測と記憶が行われる。単に、息を吸う、という行為ではなく、大きな滑稽な音を立てて静寂を破る、という行為の結果を、このコンテキストの上で予測する。同じ筋肉運動でも、コンテキストが違えば、違う予測になる。だれもいない自分の部屋で遠慮せずに音を立てて紅茶を飲む。そういう場面でも横隔膜の筋肉運動としてはまったく同じです。しかし、コンテキストはぜんぜん違う。一方、無意識に息を吸う場合は、コンテキストに関係なく、息を吸うだけです。予測も記憶もない。ところが意識して息を吸う場合は、コンテキストに依存した予測と記憶がなされる。

レストランで紅茶をすする場面では、紅茶をすすった直後に息を吐いています。それは記憶していないけれども、息を吐いているはずです。息を吐きながら、「はあ」とか声が出たかもしれない。しかし、それも覚えていない。バースデーケーキのキャンドルを吹き消す場面では、息を吐く直前に息を吸っているはずですが、それは覚えていない。鼻の穴をひろげて、「すうう」とか音が出たに違いない。それでも記憶にありません。

自分の意識的な行動に関する私たちの記憶は、このように恣意的で断片的です。便宜主義的といってよい。自分の行動を予測してうまくやりたいと思うことだけを記憶する。うまくしなければいけない、と気にしている行為だけを記憶する。その行為がうまくできたか失敗したかの自己評価をコンテキストとともに記憶する。そういうしかたで、私たちはそのコンテキストにおいてはそのような身体の動かし方がうまくいくことを学習する。そうして次回に役立てると便利なことだけを記憶する。自分がそれに習熟して上手になるとうれしいとか、得をするとか、便利だとかと思われる運動だけを予測し学習し記憶する。私たちは、はなはだ、ご都合主義的であり、便宜主義的であります。

それが、(拙稿の見解では)私たちが意識、といっている脳の働きです。

脳のこの仕組みは生存に便利です。人生において、役に立つ物事の経験を繰り返して習熟し、スキルが上がることによって、効率よく生きていかれるようになる。生存の確率が上がり、子孫が増える確率が上がる。進化はそういう方向に進む。そういう神経回路をつくるDNA配列が多くコピーされ、増殖して子孫に伝わっていく。人類において意識的行動を実行する神経回路が進化したのは、こういうメカニズムが働いたからでしょう。

一方、意識しないでいつの間にか学習するという場合も、また多くある。動物の場合、ほとんどの学習はこれでしょう。こういう動物一般の無意識的学習と、人間の意識的学習はどう違うか? (拙稿の見解によれば)意識的行為の特徴は、コンテキストを伴って、結果を予測して行為し、その結果を記憶し学習する、という点です。

ところで拙稿では、数十行ほど前から、明確な定義をせずにコンテキストというカタカナ語を使っています。日本語に訳すと「文脈」となります。日本語の文脈は狭い意味で文章の流れをさす簡単な語ですが、英語の場合、この語は正確に使おうとすればかなりめんどうな(形而上学的な)議論に入り込んでいくおそれがあります。

めんどうな議論をさけるためには、拙稿ではふつう、語の定義は単純に割り切って、とりあえず流していくほうがよいという立場をとりますが、参考のために認知言語学で使われる専門用語としてのコンテキストの定義を書いておきます(一九九七年 テューン・ヴァン・ディーク認知的コンテキストモデルとディスコース.)。

■(行為の解釈における)コンテキストは次のカテゴリーの要素から構成される。

場所、時間

社会的事情:事前になされた行為、社会的状況

行為の制度的環境

行為の目標

行為の関係者とその社会的役割

関係者の相互関係と属性(年齢、性別、地位など)■

ようするに、ある行為がなされるとき、その行為に伴うコンテキストとは、いつ、どこで、だれが、何を目的として、どういう人たちとどういう関係のもとに、その行為がなされたのか、という事情のことです。

つまり、時間空間のどこで何が起こったかを表現できて、だれがそれにどう関係するかが分かっている。特に自分と人との関係を重視する。社会的な関係の状況判断です。

そういう状況判断の情報が伴っていれば、行為の経験記憶は学習として役立つ。そういう経験学習の蓄積があれば、それを参考にして、これからなそうとする行為の結果をうまく予測できる。行為が意識的になされるときは、コンテキストを伴って過去の学習記憶に参照され、それを使って予測がなされ、終わると行為の結果が経験記憶として蓄積されて学習が進む。

コンテキストは、このように将来役立つように行為の経験を整理して蓄積していく分類箱のようなものです。インターネットで収集したイベント情報やニュース記事に時間場所その他の番号、キーワードをつけて、座標やインデックスで表現する、あるいは五十音順に辞書化する。あるいはカテゴリーごとに分類してアーカイブを作っておく。生活に役立つように経験を記憶するために世界を分節化するシステムです。

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