このように、私たちは場面場面によって、くるくるといろいろな現実を使い分けているらしい。現実1と現実2と現実3は、哲学者がいうように論理的にはたがいに相容れないはずなのに、私たちの日常生活では、あまり違和感なくどれをも使ってしまう。私たちの毎日の生活は、まことにいい加減です。私たち人間はみんなが、外面と内面と社会的人間関係をくるくると使い分ける。ジキル=ハイド、あるいは昼子=夜子と同じ二重人格者です。自分で気づいていないだけですね。あるいは三元論哲学の立場でいうならば、三つもの現実を使う三重人格者である、ともいえる。
しかし、たいていの人がそうして生きているならば、こういう状況を、それこそ現実と認めてしまったらどうか。三元論哲学でよい。三流哲学でよい。論理的整合性などと、えらい哲学者たちのようにうるさいことをいうことはやめる、というふうにできないでしょうか?
特に、物質主義というか、唯物論というか、現実1(=科学が描くような物質だけでできている世界が本物という現実)ばかりを強調することはよろしくない。たしかに、現実1だけを認めれば、科学的な行為はすべてうまくいく。現代社会で特に力を発揮する技術開発や生産や医療や戦争や建設はうまくいきます。けれども、私たち生身の人間の身体は、どうしても現実2(=自分の感じることだけからできている世界が本物という現実)を下敷きにして衝動的に動いていく。いくら物事を物質現象に還元して説明しても、現実2には近づくことができない。炭素と窒素と酸素の結合状態がどこまで詳しく分かっても、なぜこのコーヒーがおいしくて、あのコーヒーはまずいのか、分からない。
さらに、私たちの毎日は人と付き合うことで成り立っている。私たちの関心は、ほとんど、これで成り立っている、といってもよい。ふつう人間の生活では、人と人が互いにその行動を見たり見られたりすることが、なによりも重要です。顔をあわせて会話するとなれば、もちろん言葉を使う。人と付き合ったり、言葉を使ったりというような、毎日のほとんどを占めるこのような場面では、私たちは社会的現実(現実3)の上で動いていく。この現実3(他人の目で見た自分を自分で見ながら自分を操縦している世界が本物という現実)の上で、いつも、私たちの目玉や顔や舌や手足が動いています。
デカルト以来、科学者や哲学者は客観的物質世界(現実1)の中に自己中心感覚(現実2)を埋め込もうと努力したが、いまだにうまくいっていない。科学の言葉で自分の内面を語ることはできません。その意味で、科学者があまり疑いを持たずに安心して毎日、科学を実行している科学的唯物論の世界(現実1)は、実は完結していない。
現代の脳神経科学も、もちろん科学の基本を守って、客観的な物質現象としての世界(現実1)を記述していく。脳神経科学者は、客観的物質としての脳の機構を解明して、そこで起きる物質現象としてあらゆる感覚と感情を表現したいと願っている。私たちが自己中心感覚による現実(現実2)として捉えている主観や自我意識についても、それらを科学的物質世界(現実1)の現象として説明しようとする。研究室での実験観察によって、自己中心感覚(現実2)を科学の言葉で記述しようと努力している。たとえば、五感による外界の感知とは別に、主観的な感情や自我意識は、自律神経系や平滑筋や体性感覚の活動信号から大脳前頭葉内側皮質や島皮質に投影される神経活動パターンで表現される、とする理論(一九九九年 アントニオ・ダマシオ『何が起きたかの感情〔無意識の脳 自己意識の脳〕』)がある。人間の主観というものを客観的に記述すれば、たしかにそうでしょう。拙稿もそれには同意します。(拙稿の見解では)私たちが主観的に感じる自分の意志や感情や思考や欲望や自我意識は、筋肉による身体運動を形成する神経活動と基本的には同じ仕組みで起こる。身体運動が筋肉を動かして外部から観察できるのに対して、主観的な感情や思考に対応する脳内の神経活動は外部から観察できないので、(拙稿では)仮想運動と呼ぶ。
たとえば、私たちの主観的な感情や思考の動きも、(拙稿の見解によれば)スポーツのような身体運動と同じように、経験の学習によってシミュレーション記憶が作られ、条件反射によって呼び出され、仮想運動として脳内で(あるいは身体各部を使って)シミュレーションされる。結局、私たちの主観的世界(現実2)は(拙稿の見解では)、身体運動による外界からの感覚信号の変化と体性感覚信号の変化に加えて、シミュレーションによる仮想運動によって引き起こされる自律神経系や平滑筋や体性感覚の活動信号の変化が組み合わされて、作られている。
このような脳神経系の活動に関する科学的理論は、たしかに客観的物質世界(現実1)に主観的世界(現実2)をみごとに埋め込んでいくように見える。また、最近提唱されている社会脳神経科学のような境界科学は、脳神経系という物質的現実(現実1)の中に社会的現実(現実3)をうまく埋め込んでいくと見なせるかもしれない。しかし、客観的物質世界(現実1)の一部分である脳の構造と機能を客観的に詳述していくことで完成するだろう自然科学あるいは社会科学の表現形式では、私たちが体感する自己中心感覚(現実2)あるいは主観的に体感する自他の社会関係(現実3)そのものを言い表すことはできない。
ビデオに写っている私の姿を指差して「ほら、これが君だ」といわれれば、ああ、そうですか、と思う。けれども、「ここに写っているものが君のすべてだ」といわれると、それは違うでしょう、と思う。またさらに、(未来の科学者が)私の脳細胞すべてのリアルタイム三次元顕微鏡画像を見せてくれて、「ほら、これが、今君が感じていることだ」といわれても、やはり「ああ、そうですかね」と思うだけでしょう。
たとえば、科学の見解では「私はここにいる」という言葉は必要ないことになる。言葉を使う者はすべて「私はここにいる」ということになるに決まっているから、こんなことをいう必要はない。それにもかかわらず、本章の最初に述べたように、私たちは死に際にこの言葉を発する極悪人の気持ちが分かる。つまり、科学者の見解だけでは私たちの気持ちを表すことはできない。
現代の心理学者の中には、こういう問題が、二十一世紀の心理学のメインテーマになると提唱する人たちもいる(たとえば二〇〇七年 エドワード・ケリー、エミリー・ケリー他『還元できない心:二十一世紀の心理学に向けて』)。しかし、主観的な心の世界(現実2)が客観的な物質科学の世界(現実1)の現象として説明できないように見える特殊な例(記憶の謎、幻想、自動運動、臨死経験、天才の謎など)を羅列して、そこから新たな科学の理論化を試みても、(拙稿の見解では)衣を代えた神秘主義や霊魂論の混乱に逆戻りするだけでしょう。
主観を客観に還元しようとする科学者のこのような見解とは逆に、哲学者の間では、主観的世界(現実2)の中に客観的物質世界(現実1)を埋め込もうとした議論も多くあったが(古くは一七三九年 デイヴィッド・ヒューム『人性論』既出、現代哲学では一九二七年 バートランド・ラッセル「物質の分析」など)、これも完成していない。ふつうの人は、目の前のここにある現実の世界が客観的に存在するものでないなどと、思えるわけがないのです。
現実1と現実2と(一応、現実3はさておくとしても)二つもの現実があるということは、たしかにおかしい。それにもかかわらず、どちらかで統一することもできない。困ったことです。