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哲学の科学

science of philosophy

私はここにいる(15)

2009-02-28 | x9私はここにいる

このように、私たちは場面場面によって、くるくるといろいろな現実を使い分けているらしい。現実1と現実2と現実3は、哲学者がいうように論理的にはたがいに相容れないはずなのに、私たちの日常生活では、あまり違和感なくどれをも使ってしまう。私たちの毎日の生活は、まことにいい加減です。私たち人間はみんなが、外面と内面と社会的人間関係をくるくると使い分ける。ジキル=ハイド、あるいは昼子=夜子と同じ二重人格者です。自分で気づいていないだけですね。あるいは三元論哲学の立場でいうならば、三つもの現実を使う三重人格者である、ともいえる。

しかし、たいていの人がそうして生きているならば、こういう状況を、それこそ現実と認めてしまったらどうか。三元論哲学でよい。三流哲学でよい。論理的整合性などと、えらい哲学者たちのようにうるさいことをいうことはやめる、というふうにできないでしょうか? 

特に、物質主義というか、唯物論というか、現実1(=科学が描くような物質だけでできている世界が本物という現実)ばかりを強調することはよろしくない。たしかに、現実1だけを認めれば、科学的な行為はすべてうまくいく。現代社会で特に力を発揮する技術開発や生産や医療や戦争や建設はうまくいきます。けれども、私たち生身の人間の身体は、どうしても現実2(=自分の感じることだけからできている世界が本物という現実)を下敷きにして衝動的に動いていく。いくら物事を物質現象に還元して説明しても、現実2には近づくことができない。炭素と窒素と酸素の結合状態がどこまで詳しく分かっても、なぜこのコーヒーがおいしくて、あのコーヒーはまずいのか、分からない。

さらに、私たちの毎日は人と付き合うことで成り立っている。私たちの関心は、ほとんど、これで成り立っている、といってもよい。ふつう人間の生活では、人と人が互いにその行動を見たり見られたりすることが、なによりも重要です。顔をあわせて会話するとなれば、もちろん言葉を使う。人と付き合ったり、言葉を使ったりというような、毎日のほとんどを占めるこのような場面では、私たちは社会的現実(現実3)の上で動いていく。この現実3(他人の目で見た自分を自分で見ながら自分を操縦している世界が本物という現実)の上で、いつも、私たちの目玉や顔や舌や手足が動いています。

デカルト以来、科学者や哲学者は客観的物質世界(現実1)の中に自己中心感覚(現実2)を埋め込もうと努力したが、いまだにうまくいっていない。科学の言葉で自分の内面を語ることはできません。その意味で、科学者があまり疑いを持たずに安心して毎日、科学を実行している科学的唯物論の世界(現実1)は、実は完結していない。

現代の脳神経科学も、もちろん科学の基本を守って、客観的な物質現象としての世界(現実1)を記述していく。脳神経科学者は、客観的物質としての脳の機構を解明して、そこで起きる物質現象としてあらゆる感覚と感情を表現したいと願っている。私たちが自己中心感覚による現実(現実2)として捉えている主観や自我意識についても、それらを科学的物質世界(現実1)の現象として説明しようとする。研究室での実験観察によって、自己中心感覚(現実2)を科学の言葉で記述しようと努力している。たとえば、五感による外界の感知とは別に、主観的な感情や自我意識は、自律神経系や平滑筋や体性感覚の活動信号から大脳前頭葉内側皮質や島皮質に投影される神経活動パターンで表現される、とする理論(一九九九年 アントニオ・ダマシオ何が起きたかの感情無意識の脳 自己意識の脳〕』)がある。人間の主観というものを客観的に記述すれば、たしかにそうでしょう。拙稿もそれには同意します。(拙稿の見解では)私たちが主観的に感じる自分の意志や感情や思考や欲望や自我意識は、筋肉による身体運動を形成する神経活動と基本的には同じ仕組みで起こる。身体運動が筋肉を動かして外部から観察できるのに対して、主観的な感情や思考に対応する脳内の神経活動は外部から観察できないので、(拙稿では)仮想運動と呼ぶ。

たとえば、私たちの主観的な感情や思考の動きも、(拙稿の見解によれば)スポーツのような身体運動と同じように、経験の学習によってシミュレーション記憶が作られ、条件反射によって呼び出され、仮想運動として脳内で(あるいは身体各部を使って)シミュレーションされる。結局、私たちの主観的世界(現実2)は(拙稿の見解では)、身体運動による外界からの感覚信号の変化と体性感覚信号の変化に加えて、シミュレーションによる仮想運動によって引き起こされる自律神経系や平滑筋や体性感覚の活動信号の変化が組み合わされて、作られている。

このような脳神経系の活動に関する科学的理論は、たしかに客観的物質世界(現実1)に主観的世界(現実2)をみごとに埋め込んでいくように見える。また、最近提唱されている社会脳神経科学のような境界科学は、脳神経系という物質的現実(現実1)の中に社会的現実(現実3)をうまく埋め込んでいくと見なせるかもしれない。しかし、客観的物質世界(現実1)の一部分である脳の構造と機能を客観的に詳述していくことで完成するだろう自然科学あるいは社会科学の表現形式では、私たちが体感する自己中心感覚(現実2)あるいは主観的に体感する自他の社会関係(現実3)そのものを言い表すことはできない。

ビデオに写っている私の姿を指差して「ほら、これが君だ」といわれれば、ああ、そうですか、と思う。けれども、「ここに写っているものが君のすべてだ」といわれると、それは違うでしょう、と思う。またさらに、(未来の科学者が)私の脳細胞すべてのリアルタイム三次元顕微鏡画像を見せてくれて、「ほら、これが、今君が感じていることだ」といわれても、やはり「ああ、そうですかね」と思うだけでしょう。

たとえば、科学の見解では「私はここにいる」という言葉は必要ないことになる。言葉を使う者はすべて「私はここにいる」ということになるに決まっているから、こんなことをいう必要はない。それにもかかわらず、本章の最初に述べたように、私たちは死に際にこの言葉を発する極悪人の気持ちが分かる。つまり、科学者の見解だけでは私たちの気持ちを表すことはできない。

現代の心理学者の中には、こういう問題が、二十一世紀の心理学のメインテーマになると提唱する人たちもいる(たとえば二〇〇七年 エドワード・ケリー、エミリー・ケリー他『還元できない心:二十一世紀の心理学に向けて』)。しかし、主観的な心の世界(現実2)が客観的な物質科学の世界(現実1)の現象として説明できないように見える特殊な例(記憶の謎、幻想、自動運動、臨死経験、天才の謎など)を羅列して、そこから新たな科学の理論化を試みても、(拙稿の見解では)衣を代えた神秘主義や霊魂論の混乱に逆戻りするだけでしょう。

主観を客観に還元しようとする科学者のこのような見解とは逆に、哲学者の間では、主観的世界(現実2)の中に客観的物質世界(現実1)を埋め込もうとした議論も多くあったが(古くは一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論既出、現代哲学では一九二七年 バートランド・ラッセル「物質の分析」など)、これも完成していない。ふつうの人は、目の前のここにある現実の世界が客観的に存在するものでないなどと、思えるわけがないのです。

現実1と現実2と(一応、現実3はさておくとしても)二つもの現実があるということは、たしかにおかしい。それにもかかわらず、どちらかで統一することもできない。困ったことです。

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私はここにいる(14)

2009-02-20 | x9私はここにいる

たとえば、今、私の机の上に一万円札がある。これは植物繊維セルロースがからまってできている薄膜です。縦七六ミリ、横一六〇ミリ、厚さが約0.1ミリある。

現実1(=科学が描くような物質だけでできている世界が本物という現実)を使ってこの状況を感じ取ると、一万円札の物質的特徴がよく分かる。この物質的特徴については、言葉でいくらでも詳しく正確に語ることができる。

さて、私は、このお札を財布にしまおうとしている。なぜ、しまおうとしているのか。これは私の物だからです。なぜ、私の物なのか? その理由を詳しく述べることはできますが、それ以前に、重要なことは、私自身がこの一万円札が私の物だと確信している、という事実がある。現実2(=自分の感じることだけからできている世界が本物という現実)によって、私はそう感じている。

私は、これが、さっき妻からもらったお小遣いだ、ということは皆さんにしっかり説明できるけれども、私がどのような感覚でこれが私のものだと確信しているのか、あるいは、その確信の強さはどの程度のものか、ということはうまく説明できない。第一、私の確信というものは、私にとってはこれほどしっかり感じられるのに、皆さんの目に見せることができない。つまり自己中心的な感覚でできている現実2に関することは、自分ではしっかり分かっているのに、言葉で他人に説明しようとすると、うまくいかない。

私にとっては、この一万円札は、とても大事なものである。なくしたらがっかりです。なくさないように、さっさと財布にしまわなくてはなりません。しかし、これがどれほど大事なものなのか?客観的物質としての一万円札をいくら詳しく調べても、その分子構造を全部、解析したとしても、これが私にとって、どんなに大事なものなのか、まったく分からないでしょう。目に見えるものは、物質としての一万円札であって、それが大事かどうかは、目に見えない。

日本人ならだれでも、一万円札がそれなりに大事なことくらい分かっている、ともいえるかもしれない。しかし、紙幣を見たことがない江戸時代の人が見たらどうか? ここに描いてある散切り頭はだれだ? 顔の脇に小さく、その人物の名らしい漢字が書いてある。しかし福沢諭吉などだれも知らない。生まれていたとしても、赤ちゃんでしょう。その時代の人が一万円札を見ても、ただのよくできた版画だとしか思えない。面白いと思うかもしれないが、今私が思っている大事さとはぜんぜん違う感覚でしょう。

私と同じカルチャーで育って、同じ年齢、同じジェンダー、同じ社会的立場の人ならば、物質としてのこの一万円札が、私にとってはどのように大事なのか、その感覚が分かるかもしれません。それでも無理かもしれない。このことを言葉で語っても、よほど、うまく表現しないと、こういう私にとっての感覚のような、目に見えないものの意味は伝わらない。

小説家や詩人や心理学者は、目に見えないこういうものを強引に言葉で説明してしまう言語技術に長けた人々ですが、それでもなかなかうまくいかない。これをするには、アクロバットのようなすばらしい言語の技が必用です。あるいは錯覚を錯覚と感じさせない高級な手品でしょうか? 人々は、お金を払ってでもその技を見る価値がある。だから、小説家という職業がなりたつ。

つまり、それほど主観的な現実2(=自分の感じることだけからできている世界が本物という現実)に関することは、自分以外の人と同時に共感することがむずかしい。私たちは、ふつう、自分の内面を言葉でうまく語ることができないのです。

さっき妻からこのお小遣いをもらったときに私が「ありがとうございます」と言った理由は説明できる。黙ってもらってしまうのでは、ずうずうしいと思われて、妻との付き合いにおいて今後大いに損をすると思うからです。その事態を予想して、それを恐れたからああいう態度をとったわけです。妻の目に私の行動がどう映っているかと気にしているわけで、現実3(他人の目で見た自分を自分で見ながら自分をうまく操縦している世界が本物という現実)を感じている場面です。

この社会的現実もまた、やはり、目には見えない。物質として捉えることはできない。だから、共感できない人に対して、言葉を使ってどこまでも明快に説明するのはなかなかむずかしい。一言で片付けるほうがよほど簡単です。分かる人にはすぐ分かる。分からない人には、いくら言っても無駄です。空気が読めない人には、言葉で言っても無駄です。

私は、ずうずうしいと思われるのは困る。そう思われると損をすると思うからです。しかし、ずうずうしい、というのは、どういう物質現象なのか? どの分子がどういうエネルギーレベルに遷移するのか? さっぱり分からない。言葉を並べて詳しく言おうとすると、ますますおかしくなる。それなのに私たちは、ずうずうしい、という言葉を、その一言で、すぐに理解する。ずうずうしいと感じる人の気持ちがすぐ分かる。さらに、ずうずうしいと感じる人の気持ちが分かる人の気持ちもよく分かる。そういう、ずうずうしさの存在感、これは客観的物資世界(現実1)とはぜんぜん違う社会的現実(現実3)の世界です。

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私はここにいる(13)

2009-02-14 | x9私はここにいる

動物の中では、例外的に、(チンパンジーやヒトなど)群棲類人猿がこの現実感覚(現実3)を持っているようですが、この現実感覚を感知し、行動に反映する脳神経機構は、類人猿の中でも特に人類において極度に発達している。家族、人生、社会、財産、経済、政治など、私たち現代人が重要な問題と考えていることのほとんどは、この現実(現実3)の上に現われてくる。現生人類の身体は、この社会的現実に埋め込まれて、毎日を懸命に生き抜いているわけです。

私たちが、はっきり、「自分は今、何かを考えている」と思うときは、(拙稿の見解では)この自他感知の社会的現実世界(現実3)の中にいる。言葉を使っているときは、もちろんですが、ひとりになって沈黙して自分について考えるときも、いつも、この社会的現実感(現実3)を使う。自分が何をしたと記憶したり、自分はどうしようかと計画したり、自分は損なのか得なのかと計算したり、自分はどうなるのかと心配したりするときは、必ず、自他感知の現実感(現実3)を使っている。他人の行動について、記憶したり、予測したりするときも、そうです。

さらに、人間が関係しないと思われる、物質の変化や、経済学や数学など抽象的な問題を考えるときでも、私たちは実は、自他感知の社会的現実感(現実3)を使っている。私たちは、自分が今考えていることが正しいかどうかをチェックしながら考える。その正しさの基準は何か? 私たちは、無意識のうちに、他人がそれをどう思うかをチェックしている。他人から見た私が、どう動くはずか、それを他人の視点で予測している。つまり、自他感知の社会的現実感(現実3)を使って、私たちは(それが抽象的思考であっても)自分の考えをいつも点検している。

私たち人間が、懸命に何かを考えているときは、(拙稿の見解としては)必ず、自他感知の社会的現実感(現実3)を使っている。逆に言えば、自他感知の現実感覚を持っていない動物は、懸命に何かを考えるということはしません。動物は身体が動くままに動く。何をしようとか、何をしなければ、などと思わないでしょう。

人間と、たぶん人類に近い霊長類の一部だけが、懸命に何かを考える、ということをする。そのときは、自他感知の社会的現実感覚を使っている。ところが、拙稿でたびたび述べたように、自他を感知するこの現実感覚(現実3)は物質世界と違って、実際、目に見えない。近代から現代にかけて急速に発達した自然科学が、客観的物質世界の現実(現実1)を簡潔な理論によって解明するのに対して、自他感知に基づくこの社会的現実(現実3)の理論化は(社会人文科学の下敷きになるはずの理論であるが)いちじるしく後れを取っている。理論があやふやであるにもかかわらず、この社会的現実(現実3)は、圧倒的な存在感で、私たちの身体を引き込んでいく。私たちがそれに引き込まれているというよりも、むしろ、この社会的現実(現実3)は、私たちの身体に深く埋め込まれ、私たちそのものになっているといえます。

実際、私たちの脳の運動形成神経回路には、私たちの顔や手足の筋肉、関節の運動モデルに加えて、はさみや自転車やラケットやゴルフクラブの運動モデルが作りこまれている。さらに、毎朝駆け下りる地下鉄の階段や、セブンイレブンやスターバックスのロゴマークと店構えの見分け方、そこのカウンターにならぶときの身体の運び方も作りこまれているが、それと同様に、毎日のつきあいでの人間関係や売買している商品市況や社会あるいは自分の会社の政治権力体制、友達の間の貸し借り関係、取引先の信用不安、上役の口癖、同僚の瞬きのタイミング、などの運動モデルも作りこまれている。大変な量の、それらもろもろの運動モデルは、運動結果を評価する感情機構に連結していて、私たちが動いた結果の良し悪しが、瞬時に算出される。それで、私たちは、いつでも、「こうなればよい」とか「こうなるといやだな」とかを感じながら私たちの行動を作っている。この機構は、実際の実運動にも使われるが、その何十倍もの頻度でシミュレーションによる仮想想運動として運行されている。そして実際、現実はそれらのシミュレーションで予測したとおりに動く。だからそれは現実と感じられる。逆に言えば、シミュレーションは、学習を繰り返すことで、そうなるように洗練されているからです。

それで現実が作られていく。それは、客観的物質であったり(現実1)、自己中心的身体運動に対応する世界の反応であったり(現実2)、自他感知による他人や社会の動き方だったり(現実3)しますが、いずれも、まさしく現実であると感じられます。

私たちは、脳のこの仕組みによって現実を感じ取る。いつでもすぐに、ほとんど正しく、実際の運動と同じように脳内でシミュレーションができることで、私たちは現実の法則を感じ取っている。

私たちの脳がそう作りこまれているおかげで、無意識に歩いても家の中でトイレにいけるのと同じように、私たちは、この、いろいろな人々で構成されている社会的現実(現実3)の中で、いろいろな人と協調し協力し、あまり深く考えなくてもスムーズに行動していける。そういう意味で、はさみも、ゴルフクラブも、セブンイレブンのドアも、持ち株の上下運動も、上役の口癖も、同僚の瞬きのタイミングも、それらの動きは全部、私の身体の中に作りこまれているから、それが瞬時に予測でき、その意味がすぐに分かる。

要約すると、私たち現代人は、(拙稿の見解では)互いに異質な数種類の現実感を持っている。分類の仕方でいくつにも分けられるが、拙稿では簡単に三つに分けている。客観的物質世界の現実(現実1)、主観的な自己中心的現実(現実2)、と社会的現実(現実3)は、それぞれ強烈な存在感を持っていながら、論理的には共存できない。互いに矛盾している。どれかが本物だとすれば、論理的には、他はニセモノ、ということになる。ふつう私たちは、その矛盾に気づかずに暮らしている。「私はここにいる」、「世界は、はっきりとここにあって、同時に私もはっきりとここにいる」と思っている。しかし、これがそうでないことを、たいていの人は、どこかで気づいてしまうことがある。たとえば、死んだらどうなる、とか、自分は何のために生きているか、とか思うときがそれでしょう。

ここに、(拙稿の見解では)哲学の混乱があり、現代人のニヒリズムの根源がある。

さて、ここで実験してみましょう。仮に私たちは、現実1,2,3と三つくらいの現実を同等に認める。どれが本物かなどとは考えないことにする。三つとも同時に成り立つかどうか、なども考えない。こうすれば、三元論と呼ぶべき哲学ができあがります。かなりいい加減そうな哲学です。あまりのいい加減さにデカルトもびっくりでしょう。でも実用的ではある。だいたいの場面で、だれとでも話が通じる。「まあ、そうですね」と言っていられる。厳格な哲学者には「非論理的である」と叱られてしまうでしょうが、ふつうの人は、哲学者に叱られてもあまり困らない。

こういう場合でも、「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」というような、明快な主張はできない。物質現象の現実(現実1)だけを使えば、私が私の内面にあると思っているような私は、はっきりここにいるとはいえない。一方、自他感知の社会的現実(現実3)を使えば、自意識を持った自分がいなくなったら客観的な世界がはっきりとここにあるとはいえない。客観的物質世界(現実1)と自他感知の世界(現実3)を同時に使うのは論理的におかしいけれども、一時的にこっちを使ったり、次にはあっちを使ったりすればなんとかなるでしょう。「世界はここにあるようだし、私もここにいるみたいだ」という言い方になりますかね。

「世界はここにあるようだし、私もここにいるみたいだ。よく分からないけど」というようなことを言うのが、拙稿の三元論哲学です。三流の哲学というか、哲学というほどりっぱな理論ではない。「この世はこんなものだろうさ」という程度の、かなりいい加減な世界観です。しかし、ちょっとこれは、どこかで聞いたような話ではありませんか? そうです。これは、私たちが毎日の行動の下敷きにしている考え方ですね。

論理的な哲学者には叱られるけれども、どうも、私たちふつうの人間の頭の中はこうなっているらしい。もしそうであるとすれば、三流哲学だ、非論理的であるといって頭ごなしに否定するよりも、なんとか、この非論理的理論を認めてあげる方法を考えてみては、どうでしょうか? 拙稿としては、この線で、今しばらく、がんばってみます。

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私はここにいる(12)

2009-02-07 | x9私はここにいる

客観的物質世界(現実1)だけしかないという哲学が(狭い意味の)唯物論です。科学者はこの現実感覚に徹して仕事をしなければいけない。正しい科学者は、金儲けとか、出世とか生活とか、雑念を持ってはいけない。ものづくりの職人もそうでしょう。芸術家もそれです。作品に神経を集中する。

原始人も、懸命に石器などを作るときは、こうしたでしょう。物質現象の理解と予測に集中しないと物は作れない。石器で槍を作って獲物に投げつけるときも、物質と物質の法則に神経を集中する。物質を操作するときは、この現実感覚がないと、うまくいかない。私たちも、初めて道具を使うときは、道具の動きに神経を集中する。物質としての道具と対象物の運動法則を把握しようとする。ところが、使い方に慣れてしまうと、違ってきます。自分中心的感覚の世界(現実2)を使うようになります。

自分中心的感覚の世界(現実2)だけしかないという哲学が、唯心論、独我論、あるいは(狭い意味の)観念論です。夜子の世界です。哲学などという前に、人間以外の動物、人間でも言葉が分からない赤ちゃん、などの世界はこれだけです。そういう意味で、原始的な世界感覚といえる。大人の人間でも、他人を意識しないときなど、大体この現実感覚で無意識的に動いていることが多い。一人でご飯を食べているときなど、この現実感覚でしょう。お酒を飲むと、もっとそうなる。ベロンベロンに酔ってしまうと、もう完全に自分だけの世界ですね。

現在の感覚刺激に反応して反射的に身体を動かす。これは動物の基本です。猛獣に襲われたときなど、この現実感覚で対応しないと、とても生き延びられない。スポーツでも、習いたてのころは客観的物質世界(現実1)の感覚で、自分の手足やクラブやラケットなどの動きに、意識的に、注意を集中しますが、いつまでもそれではうまくなれない。習熟してくると、感覚刺激に反射的に反応して自分の身体を無意識的に動かす自分中心的感覚の世界(現実2)の感覚を研ぎ澄ます。そうしないと、上級プレイヤーらしいスムーズな運動はできません。

ところで、唯物論とか、唯心論、独我論などと、唯や独が頭につく哲学は、(拙稿の見解では)哲学であること自体、矛盾ですね。そもそもそれら理論を語るのに言葉を使っているところからして、他人と自分の対話を認めなければ始まらない。自分というものを認めると同時に、もう自他感知の世界(現実3)が始まっています。ここに気をつけないと、話がめちゃめちゃになってしまう。

さて、哲学として、客観的物質世界(現実1)と自分中心的感覚の世界(現実2)の両方とも認めてしまうのが、デカルト流の二元論です。科学者は暗黙のうちにこの二元論を使っています。科学の研究対象は、客観的な物質(現実1)として冷徹に観察する。その同じ科学者が「アー、発表論文が間に合わない!」と叫んで頭をかきむしっているときは、自分中心世界(現実2)にはまり込んでいる。夜子もこれです。

第三の現実、自他感知の社会的現実の世界(現実3)は、だいたいふつうの人がやっている生活の仕方です。昼子も助手のマリーと会話しているときは、当然、この現実にはまってしゃべっている。人間には外面の内側に内面がある。内面にある心、意志、タマシイ、念力、のようなものが物質である身体の外面を動かしている。どの人間にも外面と内面があるから、自分と違う心を持つ他人がいて、他人と違う心を持つ自分がいる。

これは実は、論理的に矛盾を含んだ世界です。けれども私たちは、その矛盾に気づかずに使っている。そもそも、(拙稿の見解では)この現実3が言語の基礎になっています(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。この現実(現実3)が感じ取れないと言葉がしゃべれない。人と付き合えない。社会的にやっていけません。

この現実世界(現実3)では、他人の目で見た自分がしていると感じられることを、自分がしていると思い込んで、それをしている自分の次の行動を予測する。それによって、自分の行動の評価をし、これからの目的を立てて計画する。そういう自分が仲間や他人の間でどう見えるかを感じ取ることで自分というものを作っていく。不特定の仲間(心理学では一般他者などというが、要するに、その場の空気のこと)が暗黙のうちに作っているゲームのルールを読み取って、うまく参加していく(一九一三年 ジョージ・ハーバート・ミード社会的自我』既出)。空気を読み取り、空気の流れに従って流れていく。それがこの世界(現実3)の私です。

私って何? 私はお母さん? 一流会社員? 社会的地位。私のアイデンティティ。自己疎外。私探し。そういう(個人的と思われている)社会的(社会心理学的)問題は、全部ここ(現実3)から出てくる。私たち現代人の、社会的、経済的、政治的活動は、ほとんどこの現実(現実3)の中で行われる。宗教、そして哲学も、もっぱらこの現実認識を下敷きにして論じられる。

自他感知の世界(現実3)は、そういう私たちの社会行動が作っている世界ですね。まあ、私たちは、ほとんどの場合、この、仲間や他人や自分、という人間関係の世界にどっぷりとつかって毎日を生きている。

この現実(現実3)の中で、私たちは、すべての物事を考え、会話し、行動している。すくなくとも、意識の上では、自分がそうしていると感じ、そう記憶していきます。実際、私たちの毎日の大部分を費やしている人との会話、電話、テレビ、新聞、雑誌、インターネット、電子メールなどに登場する話題は、人間関係のことばかりでしょう?

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