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哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ現実に生きているのか(13)

2012-12-31 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

本章をまとめてみましょう。

私たち人間の身体は、ここに間違いなく現実世界があるかのように感じ取る。ここに現実世界があると全面的に確信する。周りの仲間の動作や表情を見取ってそれが間違いないと確信する。そういう身体になっています。こういう身体であることが人類の進化上有利だったということでしょう。

また一方、私たちはときに、自分だけの感覚、感情あるいは自分だけが持っている知識や考えなど、自分の内面の存在を感じ取ります。自分の内面を自分だけが感じられるものだと感じます。私たちの身体はそうできています。ここはそういう身体であることが人類の進化上また有利であったと考えられます。

人類としての進化の結果(拙稿の見解では)、私たちの身体はこのように、その場での便宜のために、ある場面では現実の存在感を作ったり、また別の場面ではそれと関係なく、内面の存在感を作ったりします。

つまり私たちは、だれもが感じられるものとしての現実と、自分一人だけが感じられる内面とが、当然のごとく、ふたつとも存在する、と感じています。無意識のうちにそう感じるように身体が作動します。そしてまた、私たちは私たちの身体がこのように作動していることを自覚できず、現実と内面が矛盾していることもなかなか自覚できません。ふつういつもは現実がすべてだと思い、ときには内面がすべてのようにも思い、その矛盾に気づきません。

客観的現実世界と個人の感じる主観的内面とが両方ともに存在すると感じられることの矛盾は(拙稿の見解では)、近代的個人の自覚と内省を作り出すことで社会の近代化に寄与したといえますが、現代にいたって、客観的現実の存在感が極限にまで強くなってきたために、個人的内面の存在感が、かえって、個人の孤独感,疎外感を生みだしている、といえます。

現代社会においては、人間としての生活上、いろいろな場面で現実を絶対的に確信し、それに対応して生きることが、まずは有利です。人々と言葉で語り合えば、この現実だけをますます確信することができます。一方、人生においてまれにある場面では、現実に背を向けて、言葉を拒否してでも、自分の内面に深く沈み込む生き方が有利でしょう。人間の身体は、進化の結果、状況に応じてどちらにも適応するようにできあがっています。

現実の客観的な物質世界が個人の内面を作っているのでもなければ、個人の内面の主観が現実を作っているのでもありません。現実だけが存在している(唯物論)といっても、あるいは内面だけが存在している(独我論)といっても、どちらも矛盾から逃れられない。また現実と内面が両方とも存在しているという二元論は明らかに論理矛盾になっています。

古来、哲学をはじめ科学、文学ばかりでなく私たちの日常会話をも混乱させてきたこれらいずれの考え方も、存在という言葉、あるいは存在感という感覚、に引きずられて間違いに陥っているといえます。むしろ、人類共通の神経機構が(拙稿の見解では)集団的に共鳴を起こすことで現実が現れてくる、というべきでしょう。

本章で言いたかったことは、そういう人類特有の身体のつくりが、私たちがこうして現実の中に毎日を生きている理由である、ということです。■

(22 私はなぜ現実に生きているのか? end)

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私はなぜ現実に生きているのか(12)

2012-12-29 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

目に見えて耳に聞こえる現象を仲間と一緒に感じ取りそれを現実と呼ぶとすれば、そのように呼ばれる現実は、当然、先に挙げた三条件を満たすことが分かります。

つまり、仲間と唯一の現実を共有できる時間と場所だけにおいてそれが現実であることを感じ取れることから、そうでない時間と場所においてはそこに唯一の現実があるとしても間違いとはいえない。したがって次の条件が成り立つ。

①どの時間どの場所であっても、その時そこには唯一の現実がある。

また仲間どうしが同じと感じるものだけを現実とするので、

②その時間その場所にいればだれもがそこにある現実を同じものとして感じ取る。

また当然、仲間とともに①と②が確信できると感じられるものだけを現実とするから

③だれもがそのこと(①と②)は知っている。

という三条件が成り立ちます。

 

このように感じ取れる現実は、理論化されて科学の対象ともなり、自然の法則に従う理論的な物質世界として描写することができ、また社会現象として理論化され確率的な予測を可能とします。毎日の経験により、そういう現実を確認することで、私たちはますます現実に対する信頼感を強め、現実世界の存在感の中で安心して生きていくようになります。

 

ここに現実世界がある。あるいは言い換えれば、私たち人間の身体は、絶対ここに現実世界があるかのように感じ取る。ここに現実世界があると全面的に確信する。こういう事実があります。

私はなぜ現実に生きているのか?

その答えはこれです。

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私はなぜ現実に生きているのか(11)

2012-12-22 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

できません。目に見えて指さすことができるものを語ることから成り立っている科学は、結局は、目に見えないもの、指さすことができないものをきちんと語ることはできない。人の内面は、科学の対象外です。

文学や科学と毎日、接している私たちは、それらがあたかも自由自在にすべてを語っているかのように受け取っています。それは文学者や科学者ばかりではなく、マスコミ、学者、先生たちの語り、書き物、あるいは世間話での会話で、私たちはいつも、言葉で語り合える、自分たちが共有できる現実だけがすべてと思いこんでいるからです。人と人が通じ合う、そういう場では、すべては現実の中にあるとして語られます。人間の使う言語というものがそのように作られているからです。

人が言葉を使って自分の内面について考えるとき、たとえば「自分は何者か」、あるいは「自分は死ぬとどうなるのか?」と思うとき、それは内面のことを語っているように聞こえても実は現実から作られた空虚な比喩の言葉です(拙稿12章「私はなぜあるのか?」拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」 )。こういう言葉には意味があるかのように聞こえても、実は、はっきりした意味はない。そこには言葉が作り出す空虚な幻影しかありません。

言語で語れることは、目で見たり耳で聞いたりできること、あるいはその上に作られる理論、または比喩、でしかないことを忘れてはいけません。

身体の奥の奥からくる内面の感覚や感情は言語にできない(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。言語は(比喩で語る以外)内面を語ることができない。逆に言えば、個々人の内面を語れないからこそ、言語は、だれにも共有される現実を語ることができて社会生活の上でまさに実用的になり得る、といえます。

たとえば文学者、あるいは科学者が文章、あるいは科学の方程式で、自分の内面を表現できないことにいらだちを感じても、それは文学が拙いからではなく、科学が未発達であるからでもありません。あるいは哲学者が、意識とは何か、自分とは何か、と煩悶したところで(二〇〇六年 ニコラス・ハンフリー赤を見る:意識の研究[邦訳: ニコラス ハンフリー (著) 赤を見る?感覚の進化と意識の存在理由 ] 』)それが宗教や哲学の深淵であるということでもありません。単に、人類の言語が内面を表現する道具として進化したものではなかった、というだけでしょう。言語が土台とする現実はすべてを包含する必要がなかった。それ故に、現実の内部に私たちの内面あるいは意識あるいは自我というものはありません。

私たちの身体は、場面場面での便宜のために、現実の存在感を作ったり、またそれと関係なく内面の存在感を作ったりします(拙稿23章「人類最大の謎」)。客観的な現実の物質世界が個人の内面を作っている(唯物論という)のでもなければ、個人の内面の主観が現実を作っている(独我論という)のでもありません。人類共通の神経機構が(拙稿の見解では)集団的に共鳴を起こすことで現実が現れてくる、というべきでしょう(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」 )。

たとえば、仲間と仕事をする場面では、仲間が感じている現実を、私たちは、同じように客観的に感じ取って行動する。一人でリラックスしている場面では、現実を意識せず、人を意識しないし、自分の内面をもあまり意識しない。強い感情や自分の感覚に違和感を覚えて自分を内省するときは、自分の内面をはっきり感じる。というように、場面によって私たちと現実との関係は変わる(拙稿19章「私はここにいる」 )。私たちが客観的に現実を感じ取るときは、実際毎日の大部分の時間がそれですが、仲間と行動を共にしていて、自分だけの内面をほとんど問題にしないときです。

 

私たち人間の身体は、仲間と協力するために現実を作りだす、といえます。

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私はなぜ現実に生きているのか(10)

2012-12-16 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

私たちの身体は、進化の結果、生きていくのに必要な、あるいは便利な反射や感覚を自然と身につけるようになっています。社会を作り、人と交わり、言葉を使い、人と通じあうためには人と共有できる現実をしっかり確信することが必要です。必要であるから、私たちの身体はそれができるようにでき上っています。

だれもがそうであるから(拙稿の見解では)、皆で語り合っていればこの現実世界がしっかりとここに存在することになる、あるいは互いに影響し合っていればだれもがそう確信するような身体になっている、といえます(拙稿24章「世界の構造と起源」 )。

そういう理由で、私たちにとってのこの現実世界は、ここにこうある。それ以外に、現実世界が存在する理由はありません。そうであれば(拙稿の見解では)、現実世界が私たちの内面を説明することができないのは当然といえます。

現実が内面を作っているのでもなければ内面が現実を作っているのでもなく、現実も内面もみな私たちの身体の中で作られたものだからです。しかも現実と内面は互いに無関係に作られています。現実は現実が作られる理由によって作られている。内面はまた、現実が作られる理由とは無関係な別の理由によって、作られています。

この話はしかし、このあたりから、やや面倒な話になります。この話が面倒になる理由は、私たちが私たちの身体の中で現実がどのようにして作られているのかを自覚することができないからです。また、私たちが感じるところの私たちの内面についても、それがどのようにして私たちの身体の中で作られているのかを、私たちは自覚することができません。たぶんその理由は、そのようなことを自覚することが生活上、何の利益にもならないからでしょう。さらに言えば、そのような自覚ができてしまうと、人間がふつうの社会生活をするうえで面倒なことがいろいろ起きてしまうからでしょう。

そういうことで私たちの身体は、なぜ私たちが現実の中に生きているように感じるのか、あるいはなぜ私たちは自分が内面の心を持つように感じるのか、自覚できません。つまり私たち人間は、そういう感性を持つようにでき上っている。そういうような感性の上にでき上っている現実世界のさらに上に作られている言語(自然言語)は(拙稿の見解では)、当然、個人の内面を語ることなどできません。

ちなみに文学は言葉で個人の内面を語る、といわれます。しかしそれは比喩で語られる内面の描写でしかありません。「胸が張り裂けるような悔み」とか「痛恨の極み」とかいう言葉を読めば、あああれのことかな、と内面の感情を想像できます。しかしそれは目に見える目の前の客観的な現物を指して言う言葉に比べると、それが何を言い表しているのか、正確に伝わるのかどうか、あぶなくあやしげです。

指さすことができないものを言い表そうとすれば、私たちはすぐ、言語の限界に突き当たります。文学は、結局は言語の限界を超えられません。

科学もまた言語を使って物質について語ります。たとえば脳について語る。自律神経系について語ります。科学は人の心、内面を語ることができるのか?

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私はなぜ現実に生きているのか(9)

2012-12-08 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

さてこの現実が実際に現実であるためには、現実の三条件、

①どの時間どの場所であっても、その時そこには唯一の現実がある。

②その時間その場所にいればだれもがそこにある現実を同じものとして感じ取る。

③だれもがそのこと(①と②)は知っている。

が成り立たなくてはなりません。

これが成り立てば、私たちは現実に生きることができる。

実際、私たちはこの三条件をいつも満たしている現実の中に生きていると確信しています。だれもが、この現実の中で懸命に生きていこうとします。そうしなければ子孫を残すことができません。そういう生き方をするような身体に進化した結果、そういう祖先の子孫である私たちがここでこういう話をしているといえます。

そうであれば、現実と矛盾するようにみえる私たちの内面などはなるべく無視するほうが生活上有利であることになります。逆に、内面にこそ本当の意味があると思ってしまうと、内面を無視しなければならない現実は、無意味な虚無でしかない、そんな現実の中で努力しても空しい、となるでしょう。

どちらが正しい生き方なのか?

現実の中に生きるのか、生きないのか、それが問題だ、となる。

人は現実に生きるべきであって、あらゆる意味は現実の中にだけあるのだ、ということであるならば、私の心とか内面とかは、気にかける必要がない。私が何かを感じているとしてもそれは現実がどうであるかを察知するための情報収集でしかないから、その情報に対応して現実をどのように操作すべきか、ということだけが意味がある。現実とあまり関係のないことを私の内面が感じたとしても、そういう夢とか理想とか正義とか、プライドとか優越感とか劣等感とかトラウマとか、芸術とか哲学とか形而上学とか、などなどの空理空論は無意味というべきである。となります。

逆に、私の内面が感じることだけが意味があって、現実などは内面で感知することの一部でしかないのだから大して重要ではない、という考え方も、ちょっと変わり種ですが昔からあります。私がいい気持になれさえすれば現実はどうでもいいのだ、あるいは、私が死んでしまえば何もかも意味がない、私が死んだら世界などなくなると思えばよい、という極論も、現代人の間では案外、多くの共感を呼ぶでしょう。

現実と内面。客観と主観。身体と心。物質と精神。ニワトリとタマゴ、どちらが先か?

この問題。西洋では心身二元論などと言って大問題であることになっていますが、東洋では、たとえば心身一如、あるいは色即是空などと言って全然問題ではないということになっています。拙稿によればどちらも間違いです。

私たちが服を着て外で人と話すときは、自分の内面を出さないようにして、客観的な現実に対応して冷静に行動する。家に帰って服を脱いでいるときは、内面の衝動にまかせて気楽に動く(拙稿19章「私はここにいる」 )。私たちはだれも大なり小なり、そうです。人間の二面性ですね。

身体が蝶であるときは自分は蝶だと思い、身体が人間であるときは人間だと思う。日本で日本人と交わっているときはご飯がおいしいけれども、アメリカでアメリカ人だけと交わって英語を話しているとハンバーガーがおいしくなる。現実と戦えるときは現実に生きるけれども、戦えなくなると内面に沈み込む。私たちはこういうように、実は多重人格であり、日和見主義者です。

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私はなぜ現実に生きているのか(8)

2012-12-01 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

私が現実の中に生きている、ということが本当ならば、私の内面というような、だれもが見ることができる現象ではないものはわけの分からないあやしげなもの、ということになります(拙稿23章「人類最大の謎」 )。逆に、私が私の内面として感じているものが本当ならば、現実世界は私の内面によって作られた作り物、ということになります。どちらにしても常識に合わない。こういう話を人にしたら、おかしな人だと思われてしまいますね。

これはしかし(拙稿の見解では)、常識のほうが矛盾しています。

現実と内面が両方とも存在することの矛盾。客観的現象と主観的現象が両方ともあることの矛盾。私たち人間はこの矛盾をなかなか矛盾と感じないような感性を身に着けている。常識ではこの矛盾は問題にされない。そういう感性を持つように人類が進化したからでしょう。この矛盾は感じないほうが、社会生活には便利だからです。この矛盾を矛盾と感じてしまうと、まず言語が信頼できなくなる。社会も維持できません。人間どうしで話が通じなくなるからです。

筆者など、この矛盾を、ちょっとあるんじゃないかと思ってしまうので、今度は、人間どうし言葉が通じることが不思議に思えてしまう(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。これはちょっといけません。皆さんとぴったり意気投合ができなくなります。世の中うまくわたるためには、現実を身体の芯から信じられなくてはなりません。

現実は一つしかなくて、だれが感じても同じもので、だれもがその中で生きている、それしかない、と思えなくてはいけません。そうでないと、人間どうし話が通じない。社会も作れなくなります。

逆に言えば、社会がこのようにうまくいっているということは、人間だれもが現実を信じきっている、ということを表しています。

人生のほとんどの場面で人間は現実と内面との矛盾を感じない。けれどもひどい不幸にみまわれた時、あるいは人知れない孤独に陥った時、自分の死を身体で感じるとき、人は現実のあやしさに気づく。その場合、神秘感、宗教、自意識、自尊心、個人主義など、いろいろやっかいなものが芽生えてきます。

歴史上、大宗教の時代を経て近代現代にいたって、人々はこの矛盾に敏感になってきたようです。現実と内面との矛盾から始まる自意識、自尊心などから発展して、近代社会においては、自由主義、民主主義を生み、契約に基づいた社会関係、立身出世意欲、近代組織、科学などが生まれてくる基盤となっています。

その意味で、人類が近代社会を獲得する過程で、現実と内面、そしてこれらの間の存在の矛盾、というものが必要であった、といえます。

西洋近代のようにこの矛盾が適度に現れてくる場合、社会の近代化に寄与する。ところが現代にいたって、客観的な現実の存在感と主観的な個人的内面の存在感との矛盾が、極端にはっきりしてきています。こうなると、逆に、冷酷な現実から自分の内面だけを守ろうというニヒリズムやエゴイズムが芽生えてきます。これが蔓延すれば社会の基盤が危うくなる恐れがあります(拙稿23章「人類最大の謎」 )。

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私はなぜ現実に生きているのか(7)

2012-11-24 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

現実はあまりにも確かに、ここにはっきりとある。そしてその現実と同時に私は私の内面があるように感じられる。その他にも、人によっては神秘的な世界、霊的な世界、愛や希望があるようにも感じられるようです。

限りなく絶対的な存在である物質からなる現実世界に取り込まれることができないもの、私の内面というようなものは、いかがわしくあぶない影のようなありかたになるしかない。人間の身体はそう感じるようにできています。

人と共有できる現実世界。それに対して人と共有できない私の内面。少なくともこの二つの世界にまたがって私たちは生きている、と思われています。人と人が社会を作って言語を話す以上、どうしても私たちが互いに共有しているものだけが絶対的な存在感を持つ。話せば話すほど、書けば書くほど、現実世界だけが表に出てくる。

科学も、知識人も、教科書も、マスコミも、すべての権威は言葉でできている以上、現実世界だけを立脚点にして私たちに語りかけてきます。

言葉以外の表現方法、たとえば(音楽や美術など非言語的)芸術は創作者の内面を表すといわれています。それはその通りでしょう。しかし、そのことが芸術作品の意味を共有することをむずかしくしています。結局は、創作者だけがその作品の意味を感じ取ることができる、と言ってしまえば、共有はありえません。

人の内面を他人が感じ取ることなどできるのか? 少なくとも言葉でそれを語る以上、内面は共有できません。人と付き合い、皆で正しく語り合えば語り合うほど、私だけが知ることができる私だけの深い内面は、霧のように薄れていきます。

しかし言葉で語ることをしばしやめて、ただ一人、目をつぶり胸に手を当てて、自分の奥からの通信を聞けば、明らかの私の内面からそれらは来る。

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私はなぜ現実に生きているのか(6)

2012-11-18 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

つまり、ここにあるこの客観的現実しかない。そしてこの現実は私たち人類の身体が作りだしている。人類が無意識のうちに、協力して生存繁殖するために作りだした(拡張表現型である)巣穴のようなものでしょう。

それは唯一の現実である。自分たちが唯一の現実として作りだしたものは、当然、唯一です。そうであるならば、唯一であるこの現実の中で生きることだけが私たちにできることです。

さてここから、ちょっと困った問題が起きます。私たちが自分というものを考える場合、現実の客観性を絶対視すると自分の内面というものがそれに対峙するものであるかのように感じられてくることです。

たとえば、この世界と私の内面とは別のものだという考え(拙稿23章「人類最大の謎」 )などがここからでてきます。客観的に存在するこの現実世界とは別に自分の内部には自分だけが知っている内面がある、という考え方です。

実際、このような考えが当然として人々の会話、マスコミ表現、教育、宗教などが行われています。しかし(拙稿の見解によれば)この自分だけの内面という現代人に顕著な考え方からは現代のニヒリズムやエゴイズムや自己疎外など自分を絶対視する世界観ないし人生観が必然的に芽生えてきます。現実世界の冷然とした客観性が確立された現代では、これら内面にこだわる個々人の生き方が社会の基盤をむしばむ要因のひとつとなっています。

私たちはこの現実を共有する。私たちだれもが、この現実が現実だ、とはっきり分かる。それは私たちの身体が、この現実を強い現実感を持って感じ取るからです。そしてこの現実は当然、だれもが同じように感じ取っているはずだ、と確信しています。私たちの身体はそう感じ取るように作られています。現実がこのように感じ取れることは、あまりにも当然であるので、私たちは意識しませんが、あらためて考えてみれば人間の身体がそのようになっている、ということが分かります。

そういう身体を持つことが人類の生活にとって実用的だったからです。そういう理由でこの現実は現実である。私たち人間が協力するためにはこの現実を共有する必要がある。協力して言語を通じさせるためにはこの現実を共有する必要がある。そうであるならば、言葉を話す限り、言語の実用性のためには、この現実は限りなく絶対的な存在とならざるを得ない(拙稿24章「世界の構造と起源」 )。

ここで注意しなければならないことは、私たちが現実をこのように感じ取る身体を持っているということから、この現実世界は実在する、という結論は導けません。この現実世界が実在するという前提からは私たちが現実をこのように感じ取るはずだ、という結論は導けますが、その逆は必ずしも成り立たない。

実際、私たちが知り得る限界は、私たちが現実をこのように感じ取る身体を持っているということだけですから、残念ながらこの世界が実在するかどうかは証明できません。

日常生活では、私たちが現実をこのように感じ取る身体を持っているということから出てくる結論を知っていれば、判断に困ることはありません。現実の物質世界はここにこうある。私の身体もまた、現実の物質であるから、同じように、ここにこうある。このような現実は、目の前の机が物質としてありのままに見えるように、だれが感じ取っても同じです。私の身体もまた、裸にしたり解剖したり顕微鏡で見たりすれば、どこまでも細かく、客観的な物質として、だれが見ても同じものです。

ところが私が感じ取るものはこれらの客観的な物質ばかりではない。身体の内部からくる感覚、感情、私自身の考えなどが感じ取れます。そういうものは私の内面であって、私以外の人には感じ取れるはずがありません。こういうものは、それでは現実ではないのか?

よく分かりませんね。そのような私の内面とは何なのでしょうか?

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私はなぜ現実に生きているのか(5)

2012-11-10 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

現実に関する三条件を繰り返すと、

①どの時間どの場所であっても、その時そこには唯一の現実がある。

②その時間その場所にいればだれもがそこにある現実を同じものとして感じ取る。

③だれもがそのこと(①と②)は知っている。

人間はだれもが、自分が感じている現実はこれらの条件を満たしていると思っています。そういう意味で現実は人類に共有されています。

それはこういうふうに、人間であればだれもが同じように現実を感じ取るように、私たちの身体ができているからです。私たちが生存し繁殖するために便利なように(拙稿の見解によれば)私たちの身体はできている。生活していくために実用的な身体に進化したからです。そう進化したから人類は子孫を残し、その結果このような私たちがいてこのような話をしている、といえます。

このように現実を感じ取ることで実用的な生活行動ができるような身体を私たちが持っているから、私たちはたがいに現実をこうして共有できる。そのように人類の神経系が進化したからです。

ここで重要なことは、私たちが現実の中を生きているということが自明なことと感じられることです。私たちの身体はそう感じるようにできている。ここにあるこの現実が現実である。このことは意識するまでもなく自明であるから、いつでも私たち人間の行動の背景にある。

私たちがそう思うことによって現実は現実である。そういう仕組みで現実は現実になっている。逆に(拙稿の見解によれば)、そういう仕組み以外に現実は現実とならない。私たちの感じている現実はそういうものです。

現実を感じ取る私たちの身体の仕組みがこうなっているということは、現実が存在するかどうかよりもずっと重要なことです。私たちの身体の仕組みがこうなっているからこそ、このような現実について私たちが語り合うことができるのであって、そうでなければ現実に関するこのような語りはそもそも存在もしないでしょう。

さてここで注意すべきことは、(ふつうの言い方で)ここにあるこれが現実だから私たちの身体がこれを現実と受け取っているのだ、という言い方は分かりやすくて実用的ですが、正確ではないという点です(拙稿23章「人類最大の謎」 )。

科学が物質現象を完全に解明するかのように発展した現代では、物質から成りたっているこの現実世界の客観性は過去のどの時代よりも強くなっています。そこに暮らす私たち現代人は現実を絶対視し、この(いつでもどんな場合でもこのここにあるこれが現実だから私たちの身体がこれを現実と受け取っているのだ、という)言い方が何の問題もなく通用する、と思うようになっています。

しかしこの言い方は、人間どうしが語り合っているときにしか通用しません。

この現実世界は人類の身体が実用的な共通認識を作ることができるように進化した結果できあがってきたものです。私たちが言葉を使って語り合う。会話する。討論する。論文を書いたり読んだりする。数十人が協力してマンモスを狩る。数万人が協力して宇宙ロケットを打ち上げる。そういう場合に身体が感じ取る実用的な共通認識としてできあがっています。人類の身体から派生する拡張表現型です。

ではこれ以外に現実はあるのか?これ以外の世界はあるのか? という質問が出るかもしれません。これらの質問にも答えはない。私たちにとって現実は一つだけです。一つだけと感じられるから現実といえます。現実の世界はこれ一つ、しかもこれでさえ人類に固有のものでしかない。そしてしかも他の世界などはない、というべきでしょう。

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私はなぜ現実に生きているのか(4)

2012-11-03 | xxx2私はなぜ現実に生きているのか

この三条件、 

①どの時間どの場所であっても、その時そこには唯一の現実がある。 

②その時間その場所にいればだれもがそこにある現実を同じものとして感じ取る。 

③だれもがそのこと(①と②)は知っている。

私たちはなぜ、これを知っているのか?

幼稚園の頃はもう知っていたようです。言葉を覚えはじめた幼児のころ、もう知っていたのでしょうか? 赤ちゃんを観察すると、一歳児くらいでも知っているように見えます。体験だけで学習していくのでしょうか? 発達心理学の重要な課題です(一九九八年 ウィルコックスイラジオン幼児期における物体の個別認識・隠蔽実験に関する判断における特徴情報の利用 』既出など)。

さて、そういうことであるので、私たちは現実の中を生きている。 

ところで、私たちは現実の中を生きている、ということは事実なのか? 

そういう設問があります。私たちは現実の中を生きている、と思っていますが、現実の中を生きているというのは事実なのですか?

現実の中を生きていると思っているのは事実であるけれども、思っているだけで実際には現実の中を生きているのではない、という可能性もありそうです。私たちの感覚は100パーセント現実の中にいるという感覚です。けれども、それが事実だという証明はできるのか? その証拠は何なのか? いったい証拠などあるのか? 

この設問には答えがない。どう答えようとしてもそれは証明できないからです。あえて(拙稿の論法で)答えれば、私たちは私たちが現実の中を生きていると思っているから現実の中を生きているのである、となります。 

あるいはもっと正確に言えば、私たちは私たちが現実の中を生きていると思っていてそれで互いに話が通じ合うから私たちは現実の中を生きているのである。つまり現実の中を生きていると思っていて問題がないならば現実の中を生きているといってよい、という論法です。現実というものをこのようなものとして定義する、ということですね。 

こうでも言わないと、私たちが現実の中を生きているということが自明なこととならない。一方、これが自明でないと大変困ります。まず私たちはたがいに相手が現実を感じ取っているかどうか分からない。現実というようなものを感じ取っているとしても、それが人によって違うかもしれない。というようなことになったら、互に心が通じ合わない。会話もできない。協力もできないことになります。問題がないどころか問題だらけです。社会は崩壊する。そのまえに、人に何か言うということがむなしい。まあ言語も崩壊する。というか、始めから成り立たないので発生しない。そういう状況になりますね。 

しかし心配することはありません。実際、私たちの住んでいる現実の世界では、そういうことはない。私たち人間は通じ合う。協力し合えます。言葉が通じて会話できます。それは現実を共有しているからです。

 

言い換えれば、私たち人間は現実を通じて協力し合える。現実を通じて言葉が伝わり(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )、互に同じ現実を踏まえているから互いに会話できています。 

逆に言えば (拙稿の見解では)、人間どうしが通じ合い、協力し合い、言語を共有きるように現実を共有する能力が身体に備わったから人類はこのように繁殖し、その結果、現在私たちがこういう話を語り合っている、といえます。

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