goo blog サービス終了のお知らせ 

哲学の科学

science of philosophy

言葉は錯覚からできている(5)

2007-02-11 | 2言葉は錯覚からできている

さて、ようやく本題に戻ります。

ここで定義しなおした「錯覚(以下、括弧は使わない)」という見方を使えば、人間が感じる物事をはっきりと、錯覚でしかないものと、錯覚ではない物質に関するもの、とに分類できる。人間がふつうに使う言葉では、錯覚でしかないものと、きちんと物質現象に対応しているものとが混在している。ふつう、日常言語では、(拙稿の切り分けでは)錯覚でしかないものが、当然しっかり存在しているものとして、多く表現されている。錯覚だからいけない、ということではありません。それらの言葉は人間関係を適切に言い表し、社会、経済を作り出し、人生を豊かにする、実用的で重要な道具です。一方、きちんと物質現象を表現している言葉は、科学論文などに多い。ただし、こちらも物質現象を述べているからすばらしい、ということではありません。価値の低い科学文献は実に多い。

拙稿では錯覚という言葉に、だから良いとか、だから悪い、とかの価値観は含ませていません。脳の中で起こることをきちんと分類して、はっきりと観察するために、言葉遣いを改めただけです。

脳が作り出しているこれらの錯覚の仕組みは、将来いつかは神経細胞(ニューロン)一個一個のレベルから発生、分化、進化のメカニズムまで、すべてのレベルで解明されるでしょう。それは残念ながら、現代科学ではまだまだ無理です。観測技術も理論解析もまだ発展途上だからです。脳の各部分にある神経細胞のネットワークがそれぞれ何か信号処理をしているらしい、としか分かりません。

たとえば幼稚園児が芋虫をつついて「あっ、生きてる!」と叫ぶとき、つまり「命」という抽象語が表わす錯覚の存在感が活動しているときの脳の神経回路の仕組みは、よく分かっていない。網膜から視蓋に視覚信号が送られ、それが動眼神経を活動させて、瞳孔を開き、まぶたを全開して目を見開く。同時に視覚信号は視床外側膝状体に送られ、さらに扁桃体前部帯状回側坐核が活動し、脳幹から自律神経系に信号が送り出されて顔を赤くし、鼻孔が開く。並行して視覚信号は大脳皮質視覚野に送られて画像処理され、最後に大脳頭頂葉小脳側頭葉が活動して言語を形成し発声する。同時に、前頭葉から逆向きに神経信号がまた何度も戻っていく。こういう信号の流れはだいたい分かっていますが、それらがどう相互作用して認識を作り、「命」という存在感を作り、それから「生きている」という発声運動を形成し、その記憶をどう作っていくか、具体的な神経回路の活動メカニズムは全然分かっていない。

ここではわざと難解な脳の解剖用語を羅列してみましたが、筆者は脳科学や医学の専門知識をふりまわしたい用語マニアというわけではありません。こういう書き方をすれば脳内の神経信号がいかに複雑に処理されているかをイメージアップできるかなと思ったからです。問題は、この難解そうな名前がつけられている複雑な脳の各組織のさらに内部で行われているはずの微細で具体的な信号処理の中身が、現代科学では、まださっぱり分かっていない、もちろんその微細機構の医学用語など作られていない、ということです。それらを記述するためには、これら難解な名前の組織のさらに内部がそれぞれ数百種類の(将来さらに難解な名称がつけられるであろう)微細機構から成り立っていて相互に連絡しながら情報を処理している、その具体的メカニズムを解明していかなければなりません。世界中の科学者が今後、何十年もかけて取り組む仕事になるでしょう。

今から数十年前、脳内の神経活動に関する科学的知識は細胞集合説などと呼ばれる理論的な仮説だけだったことに比べれば、現在の脳科学は進歩したものだと思いますが、信号処理回路としての脳組織の微細な内部機構はまだまだ分かっていない、と言わざるを得ません。

コンピュータの仕組みを知らない国(そんな国は今どきないと思いますが) の科学者たちが、「あ、今、冷却ファンが回っているから、ずいぶん電気が使われていて内部温度が上がっているのだろう」とか、「記録装置のようなところと演算装置みたいなところの間で高速の電気信号がやりとりされているらしい」とか言いながら、初めて見るコンピュータを観察している、というような段階が、現代の脳科学です。内部の仕組みがさっぱり分らないのに、「コンピュータは神秘的だ」とか、「コンピュータ内部のどれかの部品には意識があるのではないか」などと言い合っている。実際、現代科学は、コンピュータに関しては原子電子のレベルからソフトウェアの設計思想まで完全に理解していますが、脳に関してそこまで達するには百年かかるでしょう。

たとえば幼稚園児がお腹をくすぐられて、「くくくっ」と笑いこけるときの神経回路の仕組みも単純そうに思えますが、それもまったくというほど分かっていない。くすぐられている子の隣でそれを見ている子も、「くう」とくすぐったそうな声を出しています。その子を次にくすぐろう、という手つきを見せながら顔を向けると、触れないうちから、もうたまらないというように身体をねじってその子は笑い出す。こういうとき、猿は笑いません(チンパンジーがくすぐられたときの表情や声の変化を「笑い」とみなす見解もあるが、触られる前には反応しない)。人間だけがこういう複雑なしかたで笑う。

このような人間特有の感受性の仕組みとして一番基本的な笑いなどの反射運動も、その脳内の仕組みは、具体的には、全然と言ってよいほど、分かっていない。そのため私たちは言葉を形成している自分たちの脳内の神経処理プロセスにまったく無自覚なまま、言葉を操ってむずかしい話を語っている。幼稚園児がジェット機を操縦しているよりも、ずっと怖い話ではありませんか。

脳科学はまだまだ、という話を長々としてしまいましたが、また、錯覚の話に戻ります。

錯覚は通常、人間の生活に役立ち不可欠なものです。私たち人間は、自分の脳が自動的に作り出す錯覚が映し出している世界を現実と思い込んで、便利に暮らしているといえる。

そもそも物理、化学などの基礎的な科学の実験観測も、脳が作る錯覚に基づいている。科学者も、測定装置が発生するエネルギーの変化を写真あるいはデジタルメモリなどに記録し、それを彼または彼女の網膜で受け、脳で変換した錯覚を感知している。運動シミュレーションを使った錯覚の存在感で得られた空間と時間の感覚にそって、データを観察し理論を作っていく。科学者が使っている錯覚が現実にうまく対応していなければ、間違った結論が出るだけです。ただ科学者は、同じことを何度も繰り返し理論モデルと照らし合わせながら慎重に再現性を確認して実験観察を進める。さらに多数の科学者の共同作業によって繰りかえし実験や視点の移動、多面的観測事実の統合などを行って錯覚を相殺し、修正し、理論モデルと観測結果を合わせ込んで総合的に判断することで、観察者の作る錯覚から独立した物質に普遍の法則を発見していく。

ようするに、(拙稿の見解では)私たち人間の脳は、五感で感知した感覚データ(哲学用語にもなっているが、筆者の用法では単に感覚器官から中枢神経系へ送信される信号のこと。data=ラテン語で「与えられたもの」)の入力情報を、記憶から生成されるシミュレーションなど脳の内部情報と組み合わせて現実にうまく対応する錯覚を作り出し、それを目の前の物質世界の存在感として感じ取っている。同時に錯覚の組み合わせによって、物質に対応しない錯覚も作ってしまう。さらに、それを仲間どうしで共感し、運動や表情や発声を使って共鳴し、その記憶を共有することで、錯覚を言葉として固定させていく。

それらの過程を繰り返して、脳では次々と抽象的な錯覚が製造され、それは再生できるようにデータ圧縮を受けて記憶に定着される。シミュレーション機構によって記憶から再生された信号は、外界から受けた直接の感覚データとは違う、圧縮された錯覚情報に変換されている。逆に言えば、錯覚を使うことでデータ圧縮と再生の効率がよくなる。この仕組みによって、進化した現生人類の脳では、それら圧縮変換された蓄積データ、つまり錯覚の記憶でできている脳内の世界像、に直接得た感覚データを埋めこんで使う。このシステムにより、人間の脳は、直接の感覚データを断片的に逐次リアルタイムで処理するよりもはるかに能率よく、(実用の観点から)再現性のよい実用的な世界の法則を獲得できる。つまり、私たち人間は、進化と学習によって、脳のシミュレーション発生機構の内部構造として、世界の法則(の断片を実用的に変換したもの)を身体の内部に取り込んでいる、といえる。

脳のこのシミュレーション機構は生活に便利で不可欠なものです。これがなくては高度な知的活動は不可能です。そうして生活に便利な錯覚を作る脳の能力が、遺伝によって増殖し、その使い方が人類の文化として私たち子孫に伝えられていったのです。

「命」、「心」、「自分」、「他人」、「個人」など、特に人間関係を操作するときに使う抽象概念を表わす錯覚が、生活に関係のない物質の存在感よりもずっと強い存在感を持ち、私たちの感情に響くのも、そういう錯覚を発生する脳神経系を持つことが、緊密な社会生活を営む人類の生存に有益だったからです。

人間関係に関するこういう錯覚を感じる機構は、もともと霊長類の脳に備わっている神経回路から発展したのでしょう。猿などが仲間との集団活動の中で運動や感情の共鳴を起こす神経機構の発展形だろう、と考えられます。

人間は仲間が自分と同じように持つ錯覚の感覚を、周辺の状況とお互いの身体の動きや叫びや視線表情として、目や耳で互いに感知し合い、互いの脳の感情回路と運動回路を共鳴させることで、仲間どうしの共通体験として記憶する。この場合、シミュレーションが活用されるのでしょう。脳のこの仕組みを使って人類は相互理解し、緊密な共同生活を営み、共有できる錯覚を作り出す神経活動の個体間共鳴を音声で表現する言語を作っていった。集団に共有され、言葉として固定された錯覚は、連想によっていつでも記憶から再生でき、目の前に現れる現象ではなくても、その錯覚に伴う感情回路と運動回路の神経活動を再現できる。

つまり、運動と知覚の経験に伴って脳内で次々と錯覚を作り出し、それに存在感を感じ、その存在感を仲間と共感し、それを表情や発声などの身体運動として表現し、さらに言語としてそれを固定することで、仲間との緊密な協力関係を維持していく動物として、人類は二百万年間の生存競争を勝ち抜いてきた。

そうしているうちに、「命」、「心」、「自分」・・・など、仲間と共感できるこれらの錯覚を表わす言葉は、より大きな集団に共有され、社会習慣や権威による信頼感を伴って、集団の記憶として安定的に固定されていく。大きな人間集団が、共通の言語として、その錯覚を生成する感情回路と運動回路の神経活動を集団的に記憶し、共感を通じて共有することで、その錯覚の存在感はゆるぎないものとなる。

言語を持たない動物は、たとえ錯覚を作れたとしても、それを仲間との間で共有し頻繁に再現することで集団として記憶を共有する言語として固定できないため、錯覚の記憶を維持できないでしょう。その理由で、動物は目の前の物質以外の観念を保持することができない。ところが人間は、集団としてそれらの錯覚の記憶を共有し、言葉を使って頻繁に再生することで、脳内で形成する錯覚に伴う仮想運動と感情を安定的に記憶し保持し、必要な場面で再生する能力を発展させ、さらにその神経活動の作り方を若い世代に伝えることができる。

その結果、人間は仲間どうし相互理解できる。つまり、互いに互いの行動を予測することができるようになった。

仲間の行動を予測するために人間は他人の心の動きを読む方法、つまり欲望や信念という心理的概念を使う素朴心理学を組み立てて利用するようになった、と述べる現代哲学者がいます(一九九一年 ダニエル・デネット『リアルパターン』)。これは拙稿の見解に近い考えですが、少し違います。すなわち拙稿では、人間のこの予測機能は、素朴心理学を学習する以前に、仲間の運動の認知により誘発される無意識の自発運動共鳴により生得的に備わっている、と考える「(一九八九年 アルヴィン・ゴールドマン『心理解釈』にこの点は近い。その予想の存在感から(次に述べるように)言語が発生した後、仲間どうしで錯覚の存在感を言葉で語り合うために、後から素朴心理学が作られたのでしょう。

共有できた錯覚をうまく利用して、仲間どうし互いの行動を予測し合えるようになった(現代人の祖先である)人類の集団は、緊密な相互協力の能力を発展させ、それによって、狩猟採集生活での、他の人類集団との生存競争を上手に勝ち抜いていった。そして、その錯覚製造機構を進化させ、存在感を持って錯覚を感じ取り、仲間と共感し、その錯覚の経験を共有して記憶し、それを信頼性のある(権威がある)言葉として固定し、脳の中でその記憶を巧みに操れる子孫を増やしていった。つまり、原始時代の集団生活の中で、たまたま人間の脳内に発生した錯覚が、仲間と共有されることで集団生活に利用され、発声運動として固定され、さらに世代を超えて伝えられ、集団の記憶として蓄積されたものが、今私たちが話している言語です。

しかしながら、抽象概念を表す言語の基底になっているそれらの錯覚は、脳神経系における内部だけでの情報処理でしかない。脳神経回路の内部の記憶、すなわち神経細胞連結部(シナプスという)の微視的な物質状態として存在するだけで、脳の外側の物質世界の中には具体的な対応物を見つけられるものではない。それなのにこれらの抽象概念は、なぜ存在感が強いのか? 

これら脳内だけで作られる錯覚の存在感が強いのは、それが脳の感情回路に結びつく仕組みになっているからでしょう。感情を揺すぶられると人間は(哺乳動物は)興奮し、ホルモン物質を分泌し、体中の筋肉を使って夢中で努力する。「自分の命がなくなる!」、あるいは「地獄に落ちる!」と思うと、その人は極限までがんばる。そして結果的に危ないところを生き残り、その後子を産んだりもできる。そういう人々の集団は生存率が高まり繁殖率が高まって、子孫が繁栄する。

それが錯覚であろうとも、「自分の命」あるいは「地獄」などという物質的な実体が脳神経回路の外には存在しないとしても、そういう類の錯覚を大脳皮質で作り出し、その神経活動を感情回路に導いて存在感と恐怖感、期待感を発生させ、仲間とその感情を共感することでそれを共有し、集団行動に結びつける脳の機能は、人間が生き残り子孫を残すためにとても役に立つ。そのような機能を持つ脳神経回路を作り出すDNA配列(ゲノムという)が、あるいはそれに伴った文化とともにそれが、子孫に伝わり、その種族は増殖していく。そうすることが人類の繁殖に有利だったから、といえる。

逆にいえば、感情に直結して人間を自己保存と繁殖に有利な集団行動に駆り立てることができたから、物質に対応しない錯覚を作りだし共感する脳のDNA表現(遺伝子型、ゲノタイプ、英語発音はジェノタイプ)は増殖し、現生人類である私たちの身体に備わっている。

(2 言葉は錯覚からできている  end

3  人間はなぜ哲学するのか?

Banner_01

コメント

言葉は錯覚からできている(4)

2007-02-04 | 2言葉は錯覚からできている

またわき道にそれていくので話を戻しましょう。確かに脳科学がある程度進んできた現代、昔からの哲学の問題に科学者が答えられるようになったのではないか、と期待される面もある。哲学や心理学の問題は、結局は、脳の物質現象を含めた物質科学として、科学者が解明するべき問題なのでしょうか? しかし、多くの科学者は難問だという。科学者は、ふつう科学以外のことを考えるのは嫌いですから、難問だと言って逃げているところがある。それに、こういう問題を科学の思考法で考えようとしても歯が立ちませんから、本当に難問だ、と感じるのでしょう。

脳神経科学でも、主観的な心理問題はどう扱ってよいか分からないので、科学者は「主観的な心の問題は、今研究している物質としての脳の部分々々の科学とは別」といって無意識のうちに心脳二元論に逃げていく。ちなみに、ノウ、nousというと、フランス語では「私たち」という意味だし、ギリシア語では「心」という意味です。駄洒落はさておき、科学者は逃げていき、この問題を引き受ける役と思われている哲学者たちは「心脳二元論は、昔の心身二元論と同じで論理的におかしいからだめ」と否定するばかりで分かりやすい一元論的な説明はできていない(一九八六年 ジェニファー・ホーンズビー物理主義思考と行動の概念』)という状況です。これは大変な難問のように思えますね。

筆者の考えでは、しかし、これは難問ではありません。答えは簡単です。

「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」こういう主観に絡む抽象概念に対応する存在感やそれに伴う不安、神秘感、尊厳、などもろもろの感情は、物質現象としては目に見えず手で触ることもできないのにはっきりと存在感があるわけですから、いわゆる錯覚です。物質としては存在しないのに存在感だけが感じられるのです。人間の脳神経系の中だけにある物質現象です。その脳の持ち主本人だけが自覚できる錯覚の存在感です。

それは進化の結果できた、たぶん人類にだけある特有な神経回路の活動です。大きな大脳皮質を使わなければ不可能なほど複雑で膨大な、神経信号の操作なのです。人間以外の動物が、「心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」、のようなものを感じているとは考えられません。猿が自分や他人(他猿?)の死をイメージするでしょうか? きちんと観察すれば、そんなことはありえないことが分かります。

命、心、自我、生死など、そういう目に見えない神秘的なものに強い存在感を感じるような脳の働きは、人類が他の動物と分かれて進化して来た過程で獲得したものに違いありません。動物が感じる世界には、こういうものは存在しません(と動物に聞いたわけではありませんが、筆者は確信しています。その理由はだんだんと述べます)。つまり、これらの神秘的な抽象概念に対応するものに強い存在感を感じることは、この数百万年間の進化競争を勝ち抜いてきたホモサピエンスの脳の神経機構だけが作りだす人類特有の錯覚現象なのだと思います。

二百万年前の旧人類ホモ・ハビリス)の化石では、頭蓋容積が急に拡大していて大脳の急な発展を示しています。人間以外の動物が使わないような大脳皮質神経回路の使い方が始まったのでしょう。二百万年前におきたこの中枢神経系の飛躍的なパワーアップは何に使われたのでしょうか?

ちょとしたアナロジーとして、五十年前におきた人工頭脳、つまりコンピュータ、の情報処理能力の急な拡大を考えてみましょう、一九六〇年代に集積回路の出現によりスーパーコンピュータが可能になったとき、飛躍的に増大したその高速計算能力は何に使われたか。戦闘機大陸間弾道ミサイルの飛行シミュレーション核兵器爆発過程シミュレーション気象予測シミュレーションです。つまり、三次元空間での力学系の複雑な運動過程を高速計算で模擬する大規模高速シミュレーションに使われたのです。

では、二百万年前に人類が入手した大脳新皮質の高速計算能力は、当時、何に使われたのか? 興味深い諸説が提起されている。石器のハンドリング、言語の発生、あるいは投石のコントロールに使われた、など(一九九八年 リチャード・ドーキンス虹の解体』)です。ここで僭越にも筆者の推測を言わせていただけば、この世界最高性能の大容量高速生体計算機(人間大脳小脳)は、狩猟生活における人間の身体運動という力学系の高速シミュレーションとそれを応用した物質世界の変化の予測、特に高度の情報圧縮によるその記録と高速再生、さらにはそれらを応用した錯覚の形成のための情報処理に使われるようになった、と考えられる。

獰猛な、あるいは迅速な獲物を狩るには、自分自身と獲物と道具(投石とか槍とかこん棒)の三者が三次元空間で高速運動する過程を、瞬時に正確に失敗なく、予測しなければならない。そのためには運動の実行以前に身体の動かし方を何度も頭の中でシミュレーションして練習することが効果的です。失敗が許されないロケットの打ち上げ前には必ず、大規模で正確なコンピュータシミュレーションがなされる。それらシミュレーションの結果得られた運動の特徴はデータ圧縮され、整理されてメモリに蓄えられ、似たような事態が実際に発生したときに、高速で再生されて状況の判断に使われる。それが人間の脳が作り出す将来の事態の予測イメージ、さらには目に見えないものたちの存在感、などの錯覚現象となっていったのではないでしょうか?

現在の科学では、脳機能の精密な観測方法が開発されていないので、これら錯覚現象は研究の対象にはならない。いずれ観測装置が開発される時代(百年くらい先か?)がくれば、これらの存在感が自然科学の研究対象になることは間違いない。ただし、そのときには

コメント

言葉は錯覚からできている(3)

2007-02-01 | 2言葉は錯覚からできている

しかしこれらの言葉をしゃべっているとき私たちの脳(中枢神経系ともいう)の神経細胞(ニューロンともいう)はどういう物質変化を起こしているのか? それを考えたとき、すべての信念はぐらついてきます。

科学の立場で見ると、世間話であろうと数学であろうと哲学であろうと、どんな内容を話すためであろうと言葉を使っているとき、私たちの脳の中では膨大な数の神経細胞膜の電圧がパルス状に変化(活動電位という)し、それにともなって神経伝達物質が分泌されて、膨大な量の神経細胞間電気信号の伝達(シナプス伝達という)を調整している。

人間が言葉をしゃべっているときに限らず、動物が運動するときはいつも脳内の神経活動があり運動信号を作り出して脳から神経系(遠心神経系という)を介して全身に送り、いろいろな筋肉を収縮させたり、弛緩させたりしています。それで運動が起こる。つまり、外から見えるように身体が変形したり、顔色や表情が変わったり、全身が移動したり、身体に接触する物に力を加えたり、声や音が出たりしている。動物の運動というものはそういう物理化学的現象、つまりは物質現象の一種です。それだけです。それしかありません。二十世紀の中ごろから発展した神経科学(日本では脳科学ともいう)は、神経細胞の連結からなる神経回路網を流れる電気信号の伝達現象が、知覚、記憶、学習、思考など精神活動の基盤になっていることを示した(一九四九年 ドナルド・ヘッブ『行動の組織化』)。現在、その原理を疑う科学者は、ほとんどいない。

脳の神経細胞の活動は、身体の外にある物質世界との間に交わす運動出力や感覚入力の信号に直接対応するものもあれば、夢や抽象的思考のように主に脳の中だけで信号を伝播させるようなものもがある。

人間が物を見たり物を持ち上げたりするときは、その物質と人間の身体との間にエネルギーと情報のやり取りがある。しかし夢や抽象的思考のように脳の中だけで信号が伝播する場合、身体の外の物質との間にエネルギーや情報のやり取りがない。

詳しくいうと、人間が声を出さずに言葉を思いつくときには、のどや口など発音器官にわずかな筋電流が流れる。しかしこの小さな運動は口の形を変えるほどには筋肉を動かさない。他の人が観察しても、この人の脳内の活動が身体の外の物質と関係しているようには見えない。外界に関係なく人間の神経系が活動するだけといえます。

その観点から言うと、「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」、そういう直感的にすぐ分かる抽象的な概念、あるいはそれに伴う存在感、神秘感、など種々の感情、を言葉に表現するときの脳の活動は、脳に入ってくる感覚信号に直接対応するのではなく、身体の中の神経細胞の間だけでの信号伝搬です。

これらの神経活動は、カメラやビデオに撮ったり、数値データとして精密に記録したりできるものではない。(脳科学の研究で使われるfMRIなど脳活動測定装置では、脳の各部位の血流量の変化など神経活動の量を示す立体画像が得られますが、現在の技術レベルではかなり大雑把なもので、言語の内容との対応は測定できません。)つまり現在の科学では、脳の言語活動は精密な観測が不可能なものだ、と言わざるを得ない。主観的な存在感は感じられるものの目の前の観測可能な物質現象には直接対応しないものは科学では研究対象にできない。

心理学科言語学科は、ふつう、大学の理学部には属していませんね。いわゆる科学的方法論といわれる客観性再現性反証可能性簡潔性など自然科学の方法が使えないからでしょう。物理学を手本とする科学的方法論の立場からいうと、心理学や言語学の対象は脳の神経細胞の活動の一種、というしかない現象です。しかし、そう言ってしまっては人間が最も関心を持っている人間自身の心理や言語の内容の研究ができない。現代の心理学や言語学の研究者は、素朴な主観が混じる心理描写や言語の直接的な内容を研究対象にすることを避けて、人体の物理的運動などコンピュータに入力できるような観測データを客観的に記述する方法を開発し、科学的方法論に近い方法で研究を進めている。

ところが、古来の哲学の対象である精神的な概念、「命、心、欲望、存在、言葉の意味、自分・・・」というようなものは、人体の運動を客観的に観察しても、なかなか厳密には捉えられない。コンピュータに入力できるようなデータになりませんね。こういう主観的情緒的、あるいは文学部的なものを科学としてどう考えたらよいか。自然科学に組み入れることはできないのだろうか?

この問題は、現代哲学では、心の哲学(philosophy of mindとして研究対象になっている。欲望というような心的な概念で表わされる心的現象と身体の運動との因果関係は、どう考えるべきか。心的現象が脳の運動神経を起動するのか? そうではなくて観察する人間がそう思い込んでいるだけなのか? 現代哲学でも、うまい説明はできていない。現代哲学の傾向としては、だんだんと主観的な心的現象(欲望、信念、意識など)を、懐疑的にみるようになってきている。主観的にしか捉えられない心の現象は、脳神経科学の記述で置き換えられはずだ(一九六〇年 W・V・O・クワイン『言葉と対象』)とか、いやそうではない、とかの議論が盛んになっている。

数学モデルとして提唱されたニューラルネットワークが、情報科学認知科学の研究のための脳神経系の有力なモデルとして一九八〇年代頃から注目されはじめた。この分散型の情報処理システムは、現代のフォンノイマン型のコンピュータに取って代わる次世代のコンピュータではないか、という期待が計算機科学に影響を与え、また人間の脳のモデルになるとして認知科学の基礎理論になった。ニューラルネットワークの研究が心の問題を解決できるという考え(コネクショニズムという)や、それをさらに発展させて、常識的な心理学(素朴心理学などともいう)のいう欲望や信念など心的現象概念に関する経験的心理法則はすべて脳の働きをニューラルネットワークの作動過程とみなすことで物理的に理解できるはずだ、という考え(消去的唯物論などという)が、特に英語圏で発展した分析哲学の系譜に繋がる現代哲学では盛んになっている。心的な概念に実体が伴わないという言い方は、拙稿の考えと似ている。ただし人間観察から考察する拙稿と違って、現代哲学や認知科学では、ニューラルネットワークの数学的構造と数学的表現から導かれるシステムの特性を示すことで心的現象を説明しようとする傾向がある。

確かに数学モデルを使えば、コンピュータシミュレーションなどがどんどんできるので、面白い。哲学の論文も数学的な字面になってきて、いかにも現代的な研究に見える。学会で発表したり、大学で講義したりするにも、メリハリが利く、という効用もあるのでしょう。しかしまあ筆者に言わせれば、数式を羅列して説明しなくてよいことまでわざわざ数式で書いている傾向がある。数学で表現できることは言葉でも説明できる。拙稿のようなエッセイ風の文章でも、書き方を工夫すれば、高等数学の内容も書けるわけです(若干牽強付会?)。ただし、上手な数学的表現は大きな発展性を導くことがある。地動説天動説座標変換による数学的表現の変更だといえるし、地動説にもとづくニュートン力学の座標変換そのものを力学変量に繰り込んだアインシュタインの相対論力学も、またを対象として力学を書き直した量子力学も、それぞれの数学表現の選び方に成功の鍵があった。コンピュータの発展も二進法の採用によるところが大きい。表現はいろいろ試してみることがよいでしょう。表現を変えるだけでは内容は変わらない。ただし理論の進化と発展は表現のしかたに大いに依存することがよくある、ということです。

Banner_01

コメント

言葉は錯覚からできている(2)

2007-01-30 | 2言葉は錯覚からできている

試行錯誤でいろいろな哲学や理論や信仰が作られていきました。それらはだんだんと洗練され、自然現象や人間行動をうまく説明し、正確ではなくてもかなりの精度で予測し、不安な人々が頼りにしたくなる程度には役に立った。それらが使う言葉と理論は、それぞれの文化の中の法律や儀式や制度や書式や文学を通じて人々に浸透して行った。人々が安心して使いやすく覚えやすく、使うと便利なものに進化していった。仲間と楽しくやれて癒しと安息を感じられて、大きなものに保証されているような、使うと気持ちが安らいで、もうやめられなくなるような、そういう理論が生き残り、普及していった。そういうものが人間の脳神経系の動きにぴったりと共鳴するからです。

「何事もじっと我慢すれば、そのうちきっとよくなるよ」とか、「強く希望すれば、どんな夢もいつか必ず実現する」とか、「思い切ってやれば、うまくいくものだ」とか、何の根拠もなくても、そう言われると人間は元気が出て、癒される。

ちなみに、生き方理論というか、人生成功哲学の講演などでよく言われる「自分は運が良いと信じて前向きに生きる人が成功するのだ」という世の中の法則は、たしかに経験的には正しいようです。ただし、この法則が言っていることは、実は、前向きに生きる人の中のごく一部の人が成功して、ますます前向きを続け、残りの失敗した人たちは前向きに生きることをやめたりする、というだけのことですけれどもね。

まあ、シニカルに言えばこう言える一方、別の真実としては、自分を信じて懸命に生きることの他に人生の幸福があるわけはありません。若い人に、それを教えることは大事でしょう。

ところで、人間はなぜ幸運を求めるのか? 世渡りに成功したとはいえない筆者も、こういう運不運の問題にはとても興味があります。人間はなぜおみくじや宝くじを買うのか?あるいは買わないのか?実に興味深い。しかし、この話を始めると元に戻れなくなりそうなので後まわしにしましょう(後の章で詳述)。

さて、この手の生き方理論で、きわめつけは、「この大きな権威にひれ伏して身をゆだねることでしか、君たちは幸福になれない」というものです。こういう言葉に抵抗できる人は少ない。

 ちなみに、権威にひれ伏す、という行動は人間だけの話でなく、哺乳類の古い神経機構の働きで起こるようです。そういう神経系を持った者が多くの子孫を残せたからでしょうね。群行動をする哺乳類の多くの種では、社会的地位の高い個体に出会った低位の個体は、子犬のように、頭を下げたり高音で鳴いて挨拶したりするという行動の観察が報告されている。そのとき、上位の個体のほうは頭をそらしたり低い声で応答したりする。なんだか、会社のエレベーターで上役と会ったときみたいですね。確かに、偉い人にはなるべく高い声で挨拶したほうが覚えがめでたくなりそうな感じがします。筆者も現役の頃、もう少し頭を低くして声を高く出していればもう少しは出世できただろうに、と悔やまれます。

学校の先生とかインテリっぽい大人は「権威にへつらうな」と教えるし、もっと偉そうな宗教家は「ひたすら祈りなさい」とか言っている。どっちが正しいのか。いずれにしろ、人間は権威に盲従したくなるような神経回路を持っているようです。その証拠に、それに働きかける理論は、社会的権威、あるいは宗教的権威など、立派な錯覚を作り出して成功しています。

実際、世界中でそういう錯覚にもとづいた理論、哲学、思想、信仰、文化、文明がいくつも作られて、権威をもって人々に共有されている。それらは互いに境界を接し越境して競合し、人間の集団の間の反目と対立を増幅していきった。暴力や戦争、粛清魔女狩りがそうして発生したのです。

物質を指す言葉のほうは、こういう事態を避けることができた。

科学の理論の違いで学者たちが対立することはあっても、殺し合いはしませんね。

戦争というものが起こる原因を武器や兵器に利用される科学が犯人であるかのように言う人がいますが、間違いだと思います。暴力や戦争を起こす原因は、物質を表わす言葉を扱う科学よりも、物質を表さない言葉を扱う哲学に近いほうから流れて来るのではないでしょうか。確かに科学は物質についての人間の力を強大にしましたが、それを何に使うか、それを決めるのは物質を表わさない言葉で語られる哲学のほうです。科学は、いわば盲目的に、人間の力を強めていく。それは、物質を表わす言葉を磨き上げて、物質世界の法則を極めていけば必ずそうなる。

ルネッサンス以降、西洋文明の人々は、物質ではない概念を扱う哲学を発展させると同時に、物質を表わす言葉をも磨き上げた。自然哲学と称して物質についての観察、実験、記録、を重ね、物質世界の法則を明らかにしていったのです。近代科学の開祖といわれる自然哲学者が、今から四百年以上も前に語った「科学[知識]は力である(スキエンティア ポテンティア エスト{ラテン語} 一五九七年 フランシス・ベーコン『聖なる瞑想 異端の論について』)」という言葉は、現代の科学の発展を正しく言い当てたといえる。

彼らの後継者たちによる自然の観察と実験、それにもとづいた仮説検証から帰納的に築き上げられた研究成果は近代物理学、近代化学や進化論、工学などを生み、すばらしい自然科学を築き上げた。それらは産業革命を実現し、さらに十九世紀から現在にかけてますます発展し、ほぼ完璧に物質世界を説明し、もうすこしで世界を征服できそうな完全性にまで近づいている。

西洋の哲学者たちは、物質世界を理論化していく自然科学の目覚しい成功に感銘を受けた。そしてその成功が、次には、旧来の神学や哲学に破綻をもたらしていく可能性に気づいた。もともと論理をつめていくルネッサンス以来の西洋文明の哲学が科学の成功をもたらしたのに、そのおかげで今度は、(自然)科学以外の哲学の領域(仮に人文哲学、と言うことにしましょう)が科学と矛盾していくことがはっきり見えるようになってしまったのです。

「科学万歳」、「科学万能」と叫びたくなります。しかしそれでは何も考えていない理系バカみたいに見える恐れがあるので、「人類の科学依存が過ぎるのはいかがなものか」とか、「科学の限界を知らない人類の傲慢は自然の神秘に報復されるだろう」とか言っておくほうが利口に見えるという気がします。しかし筆者がバカに見えるか利口に見えるかにかかわりなく、何と言おうと、科学の進歩には実際かなわない、いずれ科学の一人勝ちは抑え切れない、という気がします。

科学は、自然現象を原子エネルギーに還元して数値で表わしてしまう。このコーヒーカップもこのパソコンも、この机も、私の人体も脳も思考も、人情でさえも、時間と空間に分布する数値の羅列で説明しきってしまいそうです。科学の見方では、この世は力学の方程式で表わされる四次元時間空間(時空という)の上のベクトル関数でしかない。これら数値の羅列で表わされる物質とエネルギーがどう組み合わさると、人文哲学が思考の対象としている「存在」とか「意識」とか「自我」とか「正義」とかができてくるのか。さっぱり分かりませんね。科学者は答えてくれません。どちらかというと、哲学者がこれに答えるべきだ、と人々は思っています。

十九世紀から二十世紀にかけて、このような自然科学と人文哲学の乖離に苦しんだ新世代の哲学者たちは、その原因を既存の哲学が使う言葉のあいまいさにあると気がつきました。そこで彼らは、伝統的な哲学の言葉を否定し、数学や科学のように厳密で限定された特殊な言葉遣いを作って哲学を再構築しようとした(言語学的転回などという)。

これらの仕事は、今まで使われたことのないまったく新しい概念を作ることで、日常的な言葉にまとわり付いている宗教や古い社会体制の権威をも振り払っていく効果があった。そのために当時の西洋文明の知識人たちに歓迎され、文学芸術啓蒙教育、社会批判、イデオロギー、政治運動、などにひろく応用された。

この面では新しい哲学は成功した。西洋諸国の知識人の間の教養として定着し、神学に取って代わってアカデミーにおける最高の学問としての地位を獲得した。しかし一方で、この新しい哲学運動は、西洋哲学をますます悲劇的な袋小路に追い込んでしまった。

目で見れば分かる物質だけを扱う科学と違って目に見えない直感的な存在感の共有に依存せざるを得ない人文哲学は、どうしても直感に伴う曖昧さの侵入を防ぐことができない。そこに哲学者たちは論理の破綻を見てしまう。そこで再び混乱が始まる。対立する論敵を論破して学派の勢力を守るために、ますます特殊な言葉と特殊な論法を作って論争を発展させる。それらを統合するためにさらに新しい言葉と論法を作り出し、哲学を立て直そうとする議論も表れる。そうして際限なく現代哲学難解になっていく、という悪循環が始まった。

ちなみに直感的な存在感を極力排除する方向に全力を傾けた哲学の一派は、形式論理の研究に徹底し、数理論理学や現代数学の基礎論になっていき、それはそれで成功した。間違わない哲学を作ることに成功したのです。たしかに、数理論理学や数学は矛盾のない形式的な体系を作ることには成功しましたが、その分ふつうの人々の悩みからは遠く離れてしまった。「円周率は存在するか?」という問題に日夜悩まされている人は少ないでしょう。

ふつうの人が日ごろ気にしてしまう言葉は、「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」というようなものでしょう。こういう、目に見えないものを表わす人間にとって最も存在感がある、印象の強い言葉は、科学では説明できないが最も重要であり根源的なものだ、と思われてきた。円周率などと違って心に響く存在感がある。この世の神秘的な、神聖な、崇高な、あるいは尊厳のあるものを表現しているという気がする。しかもこういう言葉を使いこなすことによって私たち現代人は社会を維持し、互いにつきあい、そして個人の人生を生き抜いていく。

Banner_01

コメント

言葉は錯覚からできている(1)

2007-01-28 | 2言葉は錯覚からできている

 2 言葉は錯覚からできている

人類が言葉のようなものをしゃべりはじめたころ、仲良く語り合う二人の未開人は気持ちのおもむくままに「あー」とか「おー」とか、適当な声を出していればお互いにうまく理解し合えた。二人の脳の神経回路の活動は相互に干渉し、共鳴し、同じような状態になって、ほぼ完全な相互理解ができていた。二人は実質的にひとつの脳で動いているようになり、うまく共同作業ができた。

現代人が「あー」とか「おー」とか言うだけで共同作業ができるのは、赤ちゃんどうしが遊ぶときとか、大人どうしだと、セックスのときくらいでしょうか。それ以外のほとんどの場合、人間と人間はきちんと言葉を介さずに協力はできません。

しかし悲劇的なことに、言葉を使えば使うほど人間どうしの相互理解はむずかしくなる。

まず話し手が言葉を使って、自分が今思い浮かべている何かを精密に指し示そうとすると、そう単純に相互理解はできない。

話し手が指し示そうとしているものを、聞き手は目で見るか、脳内で思い浮かべる。それがなかなか同じものを思い浮かべられない。

「ブラックホールがさ」

「え、何それ?」

「だから、ブラックホールがね」

「ブラックホール? 何のこと?」

「何でも吸い込んじゃうんだ」

掃除機みたいなもの?」

という具合で、言葉はうまく伝わらない。

目の前に見える物質については、それでも割合うまく行く。

言葉が通じない外国に行って苦労した人は分かるでしょう? イエス、ノー、オッケーくらいしか分からない。それでも、そこにあるものを指差せる場合だけ、なんとかカタコトで通じ合う。

「それそれ」

ボアソン?」

「そう、ドリンク。オッケー?」

「ヴヴドレボアソン?」

「イエス、イエス」

「ダコール」

とかぜんぜん通じそうになくても、目の前に並べられている清涼飲料水は買える。

未開人たちは身の回りの物質を指差しながら、表情や身振りで自分が何を感じているか表わし、同時に音声を出して「イヌ、イシ、アメ・・・」などと物質に音節列を対応させていった。そして次には、が子犬を産む場面で「イヌ、コイヌ、ウム」といい、石を二つに割る場面で「イシ、フタツ、ワル」といい、が雪に変わる場面で「アメ、ユキ、カワル」というなど、目の前で起こる物質の変化を目で見ながら身振りで表わし、音声で言い表すようになっていく。そのうちに語彙も増え、文法も精密になり、言葉の意味は正確になっていった。

物質に関する言葉は、お互いに目の前のその物を見ながら話せば何を言っているのかはっきり分かる。いろいろな物を指差して名づけ、繰り返し起こる物質現象を話し合えば話し合うほど、に関する仲間との相互理解は深まっていく。

それら物質現象に関する知識は蓄積され、それを表現する精密な言葉が発達し、それらは組み合わされて生活の知恵となり、一般常識となり、専門技術となり、ついには科学に発展し人類の繁栄に結びついた。

一方、物質を指さない「命、心、欲望、存在・・・」というような言葉は、だれもが重要なものだと思いながらも、目に見えず手でも触れない。「これが心というものだ。触って確かめろ」と言って指し示すことができません。それでしっかりした観察実験記録もできなかったために、精密になりようがなかった。

「これが私の心だ。触って確かめてくれ!」

「ああ、アッタカイ! 心というのは、こんなに暖かいものだったのね」

「そうだ。そこに君の顔が写っているだろう。私は君のことだけを思っているのだ」

「ああ、私の顔がこんなに大きく写っている。私のことを、こんなに強く思っていてくれるのね!」

 という調子で会話できれば、思いのたけが伝わって少女漫画のように相思相愛になれるはずなのですが、現実はこうはいかない。相手の心は目に見えませんから、人間の会話は、なかなか思うところを伝えられない。それは、心というものが、互いに目に見えないものだから伝えられないのです。

「命が一番大事」、「心が一番大事」、あるいは「欲望が・・・」などといつも言い合っていると、なんとなく気持ちが通じ合って具合が良いのですが、言葉のあいまいさ以上に、はっきり通じ合うということはない。

「命が一番大事って、どういうこと?」

 小学生なら、大人にこういう質問をしてもおかしくありません。まあ、いまどきの小学生はこういう質問をして、いかにも小学生らしく見せたい、という演技心(小学生は、ふつう、小学生を演じています。筆者が筆者を演じているように)もある。それでも何割かは、まじめに答えを知りたいという気持ちはあるでしょう。

大人は内心、困ったな、と思いながらも、いかにも自分は大人だからそういう質問にも答え慣れている、という顔をして答える。

「生きていることが一番いいってことさ。死んでしまったら何もできないだろ?」

それを聞いて小学生は「ふうん、そうなのか。分かった」と言う。そう言うしかない。答えてくれた大人の顔を見ればその意味が完全に分かっている、という自信に満ちた顔をしている。大人が自信たっぷりに答えてくれたことにそれ以上の答えがあるはずはない。子供は、

コメント

文献