さて、ようやく本題に戻ります。
ここで定義しなおした「錯覚(以下、括弧は使わない)」という見方を使えば、人間が感じる物事をはっきりと、錯覚でしかないものと、錯覚ではない物質に関するもの、とに分類できる。人間がふつうに使う言葉では、錯覚でしかないものと、きちんと物質現象に対応しているものとが混在している。ふつう、日常言語では、(拙稿の切り分けでは)錯覚でしかないものが、当然しっかり存在しているものとして、多く表現されている。錯覚だからいけない、ということではありません。それらの言葉は人間関係を適切に言い表し、社会、経済を作り出し、人生を豊かにする、実用的で重要な道具です。一方、きちんと物質現象を表現している言葉は、科学論文などに多い。ただし、こちらも物質現象を述べているからすばらしい、ということではありません。価値の低い科学文献は実に多い。
拙稿では錯覚という言葉に、だから良いとか、だから悪い、とかの価値観は含ませていません。脳の中で起こることをきちんと分類して、はっきりと観察するために、言葉遣いを改めただけです。
脳が作り出しているこれらの錯覚の仕組みは、将来いつかは神経細胞(ニューロン)一個一個のレベルから発生、分化、進化のメカニズムまで、すべてのレベルで解明されるでしょう。それは残念ながら、現代科学ではまだまだ無理です。観測技術も理論解析もまだ発展途上だからです。脳の各部分にある神経細胞のネットワークがそれぞれ何か信号処理をしているらしい、としか分かりません。
たとえば幼稚園児が芋虫をつついて「あっ、生きてる!」と叫ぶとき、つまり「命」という抽象語が表わす錯覚の存在感が活動しているときの脳の神経回路の仕組みは、よく分かっていない。網膜から視蓋に視覚信号が送られ、それが動眼神経を活動させて、瞳孔を開き、まぶたを全開して目を見開く。同時に視覚信号は視床外側膝状体に送られ、さらに扁桃体と前部帯状回、側坐核が活動し、脳幹から自律神経系に信号が送り出されて顔を赤くし、鼻孔が開く。並行して視覚信号は大脳皮質視覚野に送られて画像処理され、最後に大脳頭頂葉、小脳と側頭葉が活動して言語を形成し発声する。同時に、前頭葉から逆向きに神経信号がまた何度も戻っていく。こういう信号の流れはだいたい分かっていますが、それらがどう相互作用して認識を作り、「命」という存在感を作り、それから「生きている」という発声運動を形成し、その記憶をどう作っていくか、具体的な神経回路の活動メカニズムは全然分かっていない。
ここではわざと難解な脳の解剖用語を羅列してみましたが、筆者は脳科学や医学の専門知識をふりまわしたい用語マニアというわけではありません。こういう書き方をすれば脳内の神経信号がいかに複雑に処理されているかをイメージアップできるかなと思ったからです。問題は、この難解そうな名前がつけられている複雑な脳の各組織のさらに内部で行われているはずの微細で具体的な信号処理の中身が、現代科学では、まださっぱり分かっていない、もちろんその微細機構の医学用語など作られていない、ということです。それらを記述するためには、これら難解な名前の組織のさらに内部がそれぞれ数百種類の(将来さらに難解な名称がつけられるであろう)微細機構から成り立っていて相互に連絡しながら情報を処理している、その具体的メカニズムを解明していかなければなりません。世界中の科学者が今後、何十年もかけて取り組む仕事になるでしょう。
今から数十年前、脳内の神経活動に関する科学的知識は細胞集合説などと呼ばれる理論的な仮説だけだったことに比べれば、現在の脳科学は進歩したものだと思いますが、信号処理回路としての脳組織の微細な内部機構はまだまだ分かっていない、と言わざるを得ません。
コンピュータの仕組みを知らない国(そんな国は今どきないと思いますが) の科学者たちが、「あ、今、冷却ファンが回っているから、ずいぶん電気が使われていて内部温度が上がっているのだろう」とか、「記録装置のようなところと演算装置みたいなところの間で高速の電気信号がやりとりされているらしい」とか言いながら、初めて見るコンピュータを観察している、というような段階が、現代の脳科学です。内部の仕組みがさっぱり分らないのに、「コンピュータは神秘的だ」とか、「コンピュータ内部のどれかの部品には意識があるのではないか」などと言い合っている。実際、現代科学は、コンピュータに関しては原子電子のレベルからソフトウェアの設計思想まで完全に理解していますが、脳に関してそこまで達するには百年かかるでしょう。
たとえば幼稚園児がお腹をくすぐられて、「くくくっ」と笑いこけるときの神経回路の仕組みも単純そうに思えますが、それもまったくというほど分かっていない。くすぐられている子の隣でそれを見ている子も、「くう」とくすぐったそうな声を出しています。その子を次にくすぐろう、という手つきを見せながら顔を向けると、触れないうちから、もうたまらないというように身体をねじってその子は笑い出す。こういうとき、猿は笑いません(チンパンジーがくすぐられたときの表情や声の変化を「笑い」とみなす見解もあるが、触られる前には反応しない)。人間だけがこういう複雑なしかたで笑う。
このような人間特有の感受性の仕組みとして一番基本的な笑いなどの反射運動も、その脳内の仕組みは、具体的には、全然と言ってよいほど、分かっていない。そのため私たちは言葉を形成している自分たちの脳内の神経処理プロセスにまったく無自覚なまま、言葉を操ってむずかしい話を語っている。幼稚園児がジェット機を操縦しているよりも、ずっと怖い話ではありませんか。
脳科学はまだまだ、という話を長々としてしまいましたが、また、錯覚の話に戻ります。
錯覚は通常、人間の生活に役立ち不可欠なものです。私たち人間は、自分の脳が自動的に作り出す錯覚が映し出している世界を現実と思い込んで、便利に暮らしているといえる。
そもそも物理、化学などの基礎的な科学の実験観測も、脳が作る錯覚に基づいている。科学者も、測定装置が発生する光エネルギーの変化を写真あるいはデジタルメモリなどに記録し、それを彼または彼女の網膜で受け、脳で変換した錯覚を感知している。運動シミュレーションを使った錯覚の存在感で得られた空間と時間の感覚にそって、データを観察し理論を作っていく。科学者が使っている錯覚が現実にうまく対応していなければ、間違った結論が出るだけです。ただ科学者は、同じことを何度も繰り返し理論モデルと照らし合わせながら慎重に再現性を確認して実験観察を進める。さらに多数の科学者の共同作業によって繰りかえし実験や視点の移動、多面的観測事実の統合などを行って錯覚を相殺し、修正し、理論モデルと観測結果を合わせ込んで総合的に判断することで、観察者の作る錯覚から独立した物質に普遍の法則を発見していく。
ようするに、(拙稿の見解では)私たち人間の脳は、五感で感知した感覚データ(哲学用語にもなっているが、筆者の用法では単に感覚器官から中枢神経系へ送信される信号のこと。data=ラテン語で「与えられたもの」)の入力情報を、記憶から生成されるシミュレーションなど脳の内部情報と組み合わせて現実にうまく対応する錯覚を作り出し、それを目の前の物質世界の存在感として感じ取っている。同時に錯覚の組み合わせによって、物質に対応しない錯覚も作ってしまう。さらに、それを仲間どうしで共感し、運動や表情や発声を使って共鳴し、その記憶を共有することで、錯覚を言葉として固定させていく。
それらの過程を繰り返して、脳では次々と抽象的な錯覚が製造され、それは再生できるようにデータ圧縮を受けて記憶に定着される。シミュレーション機構によって記憶から再生された信号は、外界から受けた直接の感覚データとは違う、圧縮された錯覚情報に変換されている。逆に言えば、錯覚を使うことでデータ圧縮と再生の効率がよくなる。この仕組みによって、進化した現生人類の脳では、それら圧縮変換された蓄積データ、つまり錯覚の記憶でできている脳内の世界像、に直接得た感覚データを埋めこんで使う。このシステムにより、人間の脳は、直接の感覚データを断片的に逐次リアルタイムで処理するよりもはるかに能率よく、(実用の観点から)再現性のよい実用的な世界の法則を獲得できる。つまり、私たち人間は、進化と学習によって、脳のシミュレーション発生機構の内部構造として、世界の法則(の断片を実用的に変換したもの)を身体の内部に取り込んでいる、といえる。
脳のこのシミュレーション機構は生活に便利で不可欠なものです。これがなくては高度な知的活動は不可能です。そうして生活に便利な錯覚を作る脳の能力が、遺伝によって増殖し、その使い方が人類の文化として私たち子孫に伝えられていったのです。
「命」、「心」、「自分」、「他人」、「個人」など、特に人間関係を操作するときに使う抽象概念を表わす錯覚が、生活に関係のない物質の存在感よりもずっと強い存在感を持ち、私たちの感情に響くのも、そういう錯覚を発生する脳神経系を持つことが、緊密な社会生活を営む人類の生存に有益だったからです。
人間関係に関するこういう錯覚を感じる機構は、もともと霊長類の脳に備わっている神経回路から発展したのでしょう。猿などが仲間との集団活動の中で運動や感情の共鳴を起こす神経機構の発展形だろう、と考えられます。
人間は仲間が自分と同じように持つ錯覚の感覚を、周辺の状況とお互いの身体の動きや叫びや視線や表情として、目や耳で互いに感知し合い、互いの脳の感情回路と運動回路を共鳴させることで、仲間どうしの共通体験として記憶する。この場合、シミュレーションが活用されるのでしょう。脳のこの仕組みを使って人類は相互理解し、緊密な共同生活を営み、共有できる錯覚を作り出す神経活動の個体間共鳴を音声で表現する言語を作っていった。集団に共有され、言葉として固定された錯覚は、連想によっていつでも記憶から再生でき、目の前に現れる現象ではなくても、その錯覚に伴う感情回路と運動回路の神経活動を再現できる。
つまり、運動と知覚の経験に伴って脳内で次々と錯覚を作り出し、それに存在感を感じ、その存在感を仲間と共感し、それを表情や発声などの身体運動として表現し、さらに言語としてそれを固定することで、仲間との緊密な協力関係を維持していく動物として、人類は二百万年間の生存競争を勝ち抜いてきた。
そうしているうちに、「命」、「心」、「自分」・・・など、仲間と共感できるこれらの錯覚を表わす言葉は、より大きな集団に共有され、社会習慣や権威による信頼感を伴って、集団の記憶として安定的に固定されていく。大きな人間集団が、共通の言語として、その錯覚を生成する感情回路と運動回路の神経活動を集団的に記憶し、共感を通じて共有することで、その錯覚の存在感はゆるぎないものとなる。
言語を持たない動物は、たとえ錯覚を作れたとしても、それを仲間との間で共有し頻繁に再現することで集団として記憶を共有する言語として固定できないため、錯覚の記憶を維持できないでしょう。その理由で、動物は目の前の物質以外の観念を保持することができない。ところが人間は、集団としてそれらの錯覚の記憶を共有し、言葉を使って頻繁に再生することで、脳内で形成する錯覚に伴う仮想運動と感情を安定的に記憶し保持し、必要な場面で再生する能力を発展させ、さらにその神経活動の作り方を若い世代に伝えることができる。
その結果、人間は仲間どうし相互理解できる。つまり、互いに互いの行動を予測することができるようになった。
仲間の行動を予測するために人間は他人の心の動きを読む方法、つまり欲望や信念という心理的概念を使う素朴心理学を組み立てて利用するようになった、と述べる現代哲学者がいます(一九九一年 ダニエル・デネット『リアルパターン』)。これは拙稿の見解に近い考えですが、少し違います。すなわち拙稿では、人間のこの予測機能は、素朴心理学を学習する以前に、仲間の運動の認知により誘発される無意識の自発運動共鳴により生得的に備わっている、と考える「(一九八九年 アルヴィン・ゴールドマン『心理解釈』にこの点は近い)。その予想の存在感から(次に述べるように)言語が発生した後、仲間どうしで錯覚の存在感を言葉で語り合うために、後から素朴心理学が作られたのでしょう。
共有できた錯覚をうまく利用して、仲間どうし互いの行動を予測し合えるようになった(現代人の祖先である)人類の集団は、緊密な相互協力の能力を発展させ、それによって、狩猟採集生活での、他の人類集団との生存競争を上手に勝ち抜いていった。そして、その錯覚製造機構を進化させ、存在感を持って錯覚を感じ取り、仲間と共感し、その錯覚の経験を共有して記憶し、それを信頼性のある(権威がある)言葉として固定し、脳の中でその記憶を巧みに操れる子孫を増やしていった。つまり、原始時代の集団生活の中で、たまたま人間の脳内に発生した錯覚が、仲間と共有されることで集団生活に利用され、発声運動として固定され、さらに世代を超えて伝えられ、集団の記憶として蓄積されたものが、今私たちが話している言語です。
しかしながら、抽象概念を表す言語の基底になっているそれらの錯覚は、脳神経系における内部だけでの情報処理でしかない。脳神経回路の内部の記憶、すなわち神経細胞連結部(シナプスという)の微視的な物質状態として存在するだけで、脳の外側の物質世界の中には具体的な対応物を見つけられるものではない。それなのにこれらの抽象概念は、なぜ存在感が強いのか?
これら脳内だけで作られる錯覚の存在感が強いのは、それが脳の感情回路に結びつく仕組みになっているからでしょう。感情を揺すぶられると人間は(哺乳動物は)興奮し、ホルモン物質を分泌し、体中の筋肉を使って夢中で努力する。「自分の命がなくなる!」、あるいは「地獄に落ちる!」と思うと、その人は極限までがんばる。そして結果的に危ないところを生き残り、その後子を産んだりもできる。そういう人々の集団は生存率が高まり繁殖率が高まって、子孫が繁栄する。
それが錯覚であろうとも、「自分の命」あるいは「地獄」などという物質的な実体が脳神経回路の外には存在しないとしても、そういう類の錯覚を大脳皮質で作り出し、その神経活動を感情回路に導いて存在感と恐怖感、期待感を発生させ、仲間とその感情を共感することでそれを共有し、集団行動に結びつける脳の機能は、人間が生き残り子孫を残すためにとても役に立つ。そのような機能を持つ脳神経回路を作り出すDNA配列(ゲノムという)が、あるいはそれに伴った文化とともにそれが、子孫に伝わり、その種族は増殖していく。そうすることが人類の繁殖に有利だったから、といえる。
逆にいえば、感情に直結して人間を自己保存と繁殖に有利な集団行動に駆り立てることができたから、物質に対応しない錯覚を作りだし共感する脳のDNA表現(遺伝子型、ゲノタイプ、英語発音はジェノタイプ)は増殖し、現生人類である私たちの身体に備わっている。
(2 言葉は錯覚からできている end)