哲学の科学

science of philosophy

付き合いの存在論(3)

2022-02-26 | yy82付き合いの存在論


(拙稿の見解では)たぶん人が群れることから来る。群棲動物として仲間と近接を保持する、という習性が付き合いという行動の古い起源であるように見えます。
男同士でももちろん一緒にいたい。しかし男同士は角突き合う関係でもある。相互に警戒感、緊張感を持っている。無意識にジェラシーがある。群れていてもどこか索漠たるところがある。したがって男はときに寂しい。
こういう状況で、彼女がいれば寂しくない。いなければ寂しい。付き合っていれば対の形になれる。世間を見れば皆彼女がいる。対になったカップルの形が安定していると感じられます。うまくいっている男女のペアがたくさんいるように見えます。そうであれば、自分もそうなりたい。と想像するでしょう。
そうして世の中を二人で歩いてみたい、と思うでしょう。あたりまえの男の役割と女の役割を受け持ちながら(二〇一七年 沼崎誠「異性愛と社会的認知および社会的行動の性差」)。
居心地が良ければずっと彼女といたい。ペアになっていたい。対の形になりたい。対の安定のためには、むしろほかの女は邪魔です。
テストステロンはオキシトシンの発現を抑制する。(行動の分子メカニズムは解明されていませんが)角突き合いはくっ付き合いを抑制するらしい。オキシトシンが発現する女はそばにいるものにやさしいから安心です。そうであれば男にとって脳内のテストステロンが少ない女と一緒にいれば癒されることになります。
男も女も(拙稿の見解では)女の身体に性的魅力を感じる(拙稿54章「性的魅力の存在論」)。そうであれば男は、付き合いたい相手を求めて女の身体に近づいていく。女は(たぶんオキシトシンの影響で)相手が男でも女でも徐々に近づくものには敵対しない。もし拙稿の理論通りであるとするならば男子が女子との付き合いを求めていくことは必然となります。










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付き合いの存在論(2)

2022-02-12 | yy82付き合いの存在論


付き合いは深いほうがよし、という言い方は昔から世間常識になっていて、付き合いが悪い、と言うとふつう悪口になります。裸の付き合いという語は理想的な人間関係を美化するときに使います。 
筆者の若いころ、西洋的なホモセクシャルへの嫌悪感があまり敷衍されていなかったからか、学生寮は相部屋でまさに文字通り素裸の付き合いでした。たぶん現代もこの国では、同性の集団では、それぞれ丸裸といえる付き合いが理想とされているようです。
酒を飲み合い本音を語り合う。男同士の猥談、女同士では女子トークが好まれます。異性のペアは密集集団からかくれて密室で密接な裸の付き合いをする。仲間がいないところで手をつないでデート。あるいはひそかに、昔は濃厚なラブレター、現代では頻繁なラブライン、をすることになっています。
現代的といわれるこれらの風俗は、実は、人類が野生の先祖から受け継いだ古い行動様式とあまり違いません。つまり私たち自身、なぜ身体がこう動いていくのか、よく分かっていません。それが分っていない事実でさえも知らない学者や作家などが直観と民間伝承をたよりにいろいろ男女心理の理論や指南書を書いていますが、ほとんど間違いでしょう。
男子はなぜ女子と付き合いたいのか?いまだに人類の謎です。









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付き合いの存在論(1)

2022-02-12 | yy82付き合いの存在論


(82  付き合いの存在論  begin)




82  付き合いの存在論

好きです!付き合ってください。これを英語では I like you! I want to go out with you.と言うようです。筆者の世代は、この英語なら分かるが元の日本語の語感がつかめません。インターネットの教えあいコーナーでは、筆者の年代の人が「これは恋人になってください」という意味ですか?と質問を書き込み、若い人が「それよりちょっと軽いですけど」などと回答を書いています。
恋人、彼女、ガールフレンド。時代により意味は変わる。
筆者が結婚したのは二十代前半でしたから五十年くらい前のことですが、申し込みに行くに際して肩書のある大人に同行してもらう必要があると思いました。課長の席に行って「あの、課長。ガールフレンドのことでご相談してよろしいでしょうか?」と聞いた途端、「ええ?ガールフレンドのことだあ?」と大声を出されて閉口した覚えがあります。その当時、その語は、だれでもが恥ずかしくて口にできない言葉でした。
その数年前、人気のアメリカ映画「逢う時はいつも他人 Strangers When We Meet(Richard Quine監督一九六〇年)」を日比谷の映画館で見ました。カーク・ダグラス演ずる中年の建築家が「あなたが欲しいものは何?」と聞かれてI want to make love to you.と答えるところからキム・ノヴァク演ずる隣人との不倫が始まる。それを見て「あ、単純にこう言えばいいのか?」と英語に目覚めた、と思ったような記憶があります。
今の人はもっと洗練されてきているから、社会的に決まりきった意味をすり抜けて柔軟にずらせる人間関係を表すために多義的に聞こえる語を使うのでしょう。
あの二人、付き合っているの?という女子トークの定番ですが、その付き合いなるものはいかに存在するのか、実は存在しないのか、どちらなのか?悉無律に従うのでしょうか?
そしてだれと誰がペアをなしているのか?その関係性は夫婦のようであり、重婚が禁止されている単婚制に従っているらしい。しかし結婚と違って法制上の意味はなく離婚制度も財産分与もないところが重要。別れはもちろん、疎遠になることも連絡をなくすことも自由。その後だれと付き合おうともだれと結婚しようとも自由。というところが重要なようです。言葉は違うがそういうものなら昔からありました。野生動物のつがいも同じようなものでしょう。
筆者の世代で、付き合う、という語は職場の上司や同僚と居酒屋で会食する場面で使っていました。会社視察の帰り、駅前の居酒屋で先輩が「あの会社には驚いたよ。接待まったくなしなのかね」「急 に変わりましたね。マスコミを逆に利用した経費節減ですかね」などと話しながら酒をおごってくれました。付き合いが好きなその先輩はその後出世から外れて消えていきました。









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ノーチェンジャーゲーム(6)

2022-02-05 | yy81ノーチェンジャーゲーム


日本将棋連盟はゲームのルールを変えない。しかし人工知能は名人の権威を脅かし始めました。テクノロジーの進化が結局はノーチェンジャーゲームの安定を侵食するようです。
二十一世紀を代表するテクノロジーはコンピュータとインターネットです。スマートフォンの普及は先進国の日常生活を一変したといえるほどのゲームチェンジャーです(拙稿80章「デジタル その魅力と退屈」)。昔から続いていた多くのノーチェンジャーゲームがスマホに駆逐されました。ラブレターも折り込みチラシも辞書も雑誌も消えていきます。
インターネット、コンピュータ、スマホはいまや日常生活のインフラであり、あらゆる産業活動の基盤であり、加速度的に膨大な資本が流入しています。
現代、テクノロジーが最大のゲームチェンジャーであり日常生活の侵略者であるといえます。だれもがそれを知っているのになぜ、テクノロジーの進化は阻止されないのか?
この会社がそれを使わなければ、あの会社がする。この国がその販売を許さなければあの国がそれを許可する。一日でも早い方がすべてを獲るかもしれない。結局強いテクノロジーを使わないものが排除されることになります。
地球上のすべての国がSDGsを守れば、理論的には、テクノロジーの弊害は防げます。進化は抑えられる。少なくともかなり緩慢にできる。しかしそれでは国家間の格差は永続しさらに拡大を続けます。格差が下の国々は不満を募らせるでしょう。
中間層はノーチェジャーゲームを維持しようとする。下の層はゲームチェンジャーを歓迎する。いつの世でもそうです。
多くの人々にとってノーチェジャーゲームは心地よい。しかしそれが面白くない層が下に残る。その境界層は揺動するので多数派はときに逆転します。民主主義が働いていても、ゲームチェンジャーにはいつかチャンスが来ます。

昔の人は、もののあはれ、といい、諸行無常といいました。ゲームチェンジャーは嫌いだが、筍のように出てくるその台頭は防ぎきれない、奢れるもの久しからず。永久に不変で行けると願うのは無理でしょう。中世の人はそれを知っていました。
永遠の幻想に酔いたい。しかし幻想は続きません。いずれすべては変わっていく。この世に永遠にあるように見えるいくつものノーチェンジャーゲームは、どれもあるとき、風と共に去っていきます。
永遠の平和を願ってはいけない。戦争を避けたければ戦争から逃げてはいけない。この世はノーチェンジャーゲームではありません。■


    
(81 ノーチェンジャーゲーム end)









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ノーチェンジャーゲーム(5)

2022-02-01 | yy81ノーチェンジャーゲーム


日本の国家経済体制は資本主義あるいは修正資本主義、あるいは国家資本主義でもあり、さらに修正の修正から現代に続く修正修正修正資本主義ともいえますが、昔からあったものの換骨奪胎ともいわれる。この資本主義システムはなぜ長期安定なのか?いったん成立したゲームはなぜ世代を超越して長く続くのか?
歴史上、(第二次世界大戦)戦時の国家総動員システム、それが修正された占領軍指導システム(SCAPanese model【一九九九年 ジョン・W・ダワー「Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II 『敗北を抱きしめて』」】)。それを修正して大成功した通産省指導システム、それがまた修正(あるいは経年劣化ともいわれるが)されてきた現代の日本資本主義システムであるといえますが、結局、外部環境つまり国際経済情勢への適合不適合によって成功不成功が決まっているようです。

しかし戦争や革命がなければシステムの根本は変わらない。全面崩壊は起こらない。最初の三世代くらい統治がうまくいくとなかなか崩壊しない。洗練されたシステムが完成して人々の信頼が得られるからでしょう。
軍事機構と官僚機構が完成する、生産システムの系列化と人民の間の階層化が安定する、世襲制が定着する。ブランド、看板が浸透する。コネのネットワークが発展し現代的に洗練されます。試行錯誤を脱却して永続的なサイクルが生き残り、修正はあっても新規の大変革を排除する保守安定機能を持つようになります。逆にいえば、雨後の筍のように出てくる異端を駆除して、新規を叩き規制する強力な復元機構が完成します。
平和が続き、ノーチェジャーゲームは完成します。
なによりも多数派の人々がそれでよしとする。永遠に続く安全安心を享受する。あるいはそれしか仕方がないとあきらめる。そうなればその統治システムは完成します。
前世紀に隆盛を誇った現代日本システムも、いまや先進国から脱落する陳腐化システムに退化したといわれながらも、結局はこれが良しとされている。大改革はされない。人々はその安定を捨てる気がない、ということでしょう。
徳川幕藩体制は歴史上も世界有数の安定性を獲得した国家システムでした。天下泰平のこのノーチェンジャーゲームは黒船の来航で崩壊しましたが、その平和なユートピアの伝説は現代にまで続く安全・安心の村社会の風景、つまり日本的ノスタルジー、となっているのかもしれません。

平和への願い。怖いことは起こってほしくない。変なことは起らないようにしたい。人々の願いはゲームのノーチェンジをよしとします。











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