ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

散歩にて

2014-07-16 05:00:00 | 大阪にて
FAFAワールドカップ・ブラジル大会はドイツの優勝で約1ヶ月の熱戦に終止符が打たれました。このブログを始めてから3回目になるワールドカップですが、試合開始時間が私の生活にとって都合が良かったせいか、テレビ中継のあった試合は殆ど観ることが出来ました。これだけ興味を持ってワールドカップを観たのは、ブラジルにペレが居て、西ドイツにベッケンバウアーが居て、アルゼンチンにマラドーナが居た1970年から1978年の3大会以来でしょうか、ひょっとすると今回のワールドカップが私にとっては見納めになるのかも知れません。

             

モモの散歩に連れて行く南海公園、この自転車は私が乗って連れて行ってるものではありません。もうかれこれ3週間ずっとここに放置されています。誰が乗って来たのか、何故取りに来ないのか、そんなに古い自転車でもありませんから勿体ない、ここで降りて停めたのを忘れてしまって、もう大阪市に撤去されたと思ってるのかも知れません。飲酒酩酊したら往々にしてそういうことが起こり得るものです。

自転車と言えばブレーキの効きが悪くなった私の自転車、買ったところへ持って行って直してもらいました。ワイヤーやシューが悪くなっているのではないらしい、調整を繰り返してるだけだったのですが、車輪に歪みがあるとのこと、どういうことかと尋ねると、歩道のちょっとした高低差が自転車の車輪にとっては致命的な役割を果たしているらしい、そんなものかと思いつつ、自転車の車輪に悪いとは知らなくても、ガタンガタンと段差を越えるのが嫌いだった私を思い起こします。ワイヤーやシューの取り換えが無かったので、サービスかと思いきや1200円も取られてしまいました。

             

今年はセミが鳴くのが遅いとこの間書きましたが、ようやくセミの抜け殻を見つけました。でも公園ではセミの鳴き声は未だ聞こえてきません。練習に行った小学校では数匹が鳴いているようでしたが、まだまだ盛期ではありません。

       

セミが這い出してきた穴も5つほど有りましたが、何故鳴かないのでしょう。這い出してきたセミはここでは全部メスなのでしょうか。そういうことを思っていると、この公園内で気になることがセミが鳴く前から有ったのです。草が生えている区域が例年より狭いと言うこと、その方が虫などが隠れ難いので、人間にとっては好都合なのですが、ひょっとしたら農薬でも散布したのではないかと疑っているのです。そのせいでセミの幼虫は死んでしまったのではないかとさえ思えてしまうのです。

             

6月の末ごろから日切地蔵があった道路脇の花壇に香りの強い花が咲いています。近づくだけで芳香が漂っているのです。花のことは詳しくないのに、通る人に「この花、何と言う花?」と聞かれますが「さぁ」としか答えようがありません。帰ってから調べてみると、アベリアというとんでもなく嫌いな奴の名前が付いた花のようですが、正解でしょうか?

台風一過

2014-07-15 05:00:00 | 大阪にて

沖縄で猛威を奮った台風8号、7月の台風としては観測史上最大の台風だったそうで、11日には近畿を通過すると予報されていたので用心していたのですが、途中から速度が上がって、近畿の南部を通過するのが10日の夜ということになりました。日本国中あちこちで大雨が降ったので、雨も心配していたのですが、大阪では殆ど雨も降らず、撮ってる写真は午後6時ごろ、東の空に虹が出来たのです。

     

前のマンションに夕陽が当たっているのが分るでしょうが、この時少々の雨が降っています。大阪は夜中になってピューピューと風が吹いていましたが、朝方には止んで良い天気、台風通過が1日前倒しになったので、金・土曜は良い天気だったのに、日曜日は試合の途中、9時ごろから雨が降ってしまい、2回をもたずして中止になってしまいました。

             

雨が降って中止になったのは仕方がないとしても、昼ごろには雨は上がってまた良い天気になり、中止したのを悔やんだのですが、夜はまた雨になり、全く梅雨らしい天候には参ってしまいます。

     

それにしてもあの号泣議員は辞職し、解明できない政務活動費については利子をつけて全額返済すると言っているようですが、それは自分のとった行動が不正であったと認めたことであり、全容解明されることを期待したいと思います。でもあの号泣した演出を見ていると、厚顔無恥さは健在で、再度立候補するように思えてなりません。

             

虹が出来た2時間後、南東の空には月が出ていました。ヘンな奴もいるもんで、ヘンな天気も続きますね。

神ノ木

2014-07-14 05:00:00 | 大阪にて

クロスロードの車検の時期になり、前回まで全て任せていたI葉自動車の奥さんが亡くなり、社長は入院したので、会社を続けていけなくなり、まぁ愚車を売りつけた張本人ですから、見舞いにも行かず、仮に会社が続いていても車検は他社で受けようと思っていたのでした。保険は奥さんに任せっきりだったので、亡くなられて暫らくすると保健期間が切れそうになったので、何処で契約しようと思っていたら、同系列の会社から電話があって、どのような会社なのか判らなかったので、「安倍首相をどう思う?」と質問してみたら、「立派な人やと思う」と答えたので、さっさと交渉を止めたのでした。その後、親戚の息子さんが自動車保険の勧誘をやってると聞いたので電話したのですが、一度も電話に出ないので悩んでいたら、働いていた時の共済生協に自動車共済があったのを思い出し、両車とも共済に切り替えました。

             

車検の方はT中君が利用していると言う会社を三男が紹介して貰ったので、そこで車検を受けることにしました。前回まではI葉自動車が車を取りに来て、2~3日後に車検を終えて持って来てくれたのですが、今回は自分で乗って行って、1時間ほどで終わるので乗って帰らなければなりません。住吉大社の裏側の方だったので、少しは土地勘があるとは思ったのですが、心配だったので予め何処を曲るのか自転車で調べてから持っていくことにしたのでした。26号線を浜口交差点で左折し、長居公園通りを東上、朝日新聞舗のある道を左折するのです。暫らく行くと目的の会社はありました。

       

そのままずっと北の方へ走って行くと、南海高野線の住吉東駅に出たので、線路沿いに走って行くと阪堺電車の上町線、神ノ木駅が有るのです。高校生時代は家から高野線に乗り、住吉東で降りて、神ノ木駅から上町線に乗って、松虫駅で降りていたのでした。帰りはその逆ですから、この駅にはたいそうお世話になっていたのですが、当時から無人駅だったように思います。ここは天王寺発の上町線と難波発の高野線が交差するところなので高架になっていますが、昔造りなので土手状に土を盛っています。

             

私が通っていた頃はもう4~50年も前の話なので、この地下道は有りませんでした。朝は堺方面からやって来るので、住吉東駅から神ノ木駅までは遮断機を通らなくても良かったので、遮断機が上がらなくてイライラした覚えはありません。上町線沿いには我が母校の他に帝塚山学院、住吉高校、大谷学園などの高校が有り、往きの電車はいつも満員でした。

住吉は昔は海辺であり、松の木がよく茂っており、岸松や姫松も名前が残っており、この辺りには明治20年ごろまで樹齢1000年を超える松が茂っていたと言います。その中でもとりわけ大きな松がこの地に茂っており、人々は神木と崇めていた名残りが、神ノ木の由縁なのだそうです。

             

神ノ木周辺からは車で帰れそうもないので、来た道を少し戻ってみることにしました。夏祭りが近いのか、生根神社の幟があちこちに建てられていたので、家の近くにも生根神社が有るので、関係あるのかと思い探しましたが、分かりませんでした。その代り、平安時代の創建という宝泉寺というお寺を見つけました。

               

実際に車検に行ったのは予約を取った7月4日の午後1時、1時間待合室でテレビや雑誌でも見て過ごすのかと思っていましたが、暫らくすると作業員が来て、説明するからと言って、作業場に連れて行かれました。車は持ち上げられていて、その下に入るのですが、車の下に入るのは初めてで、怖いものですね。落ちてきたらどうしようと思うじゃないですが、ブレーキのシューの減り具合、エレメントの汚れ具合、エンジンやブレーキのオイルの汚れ具合など、直接見せながら、説明してくれます。こんなことは初めてでした。

料金は9万円弱でした。I葉自動車で車検を受けてた頃は10万円以上かかっていたので、かなり割安でした。

ま虎っちゃん

2014-07-11 05:00:00 | 大阪にて

号泣会見を見て唖然としました。兵庫県議会議員の中にヘンな奴がいるんですね。西宮維新の会って大阪維新の会とは関係ないらしいけど、橋下徹もきっとびっくりでしょうね。3年前選挙公報に西宮維新の会と掲げ、11291票を得て初当選した野々村竜太郎議員、去年だけでナント195回も日帰り出張し、政務活動費約300万円を受け取っていたとか、過去3年間で345回、約800万円にも上ります。本当なら物凄く活力旺盛な議員だと思うのですが、領収書の添付は一切なく、調査目的、調査先、調査結果なども一切明らかにしていませんから、ウソなんでしょうね。泣きながら「少子高齢化問題を」と喚き散らし、記者の質問にもまともに答えようとしないところをみると、政務活動に関しては触れられたくなかったんでしょう。議員辞職するのか、しないのかは本人次第ということになるのでしょうが、次回の選挙でもし立候補するというような勇気が有るかどうかは分かりませんが、有権者はそっぽを向くでしょうね。

                       

タイガース応援1000円チケットと出会って、何年になるのでしょう。そう長くはないと思うのですが、在職していた頃からお世話になっていましたから、4~5年は経つと思います。これまでは私の居た尼崎ビルと同じ仕事をしていた住吉ビルのI仲さんという方を仲介してもらっていたのですが、I仲さんもしんどくなってきたらしく、直接私に連絡をくれるようになったのが、この『ま虎っちゃん』のマスターです。

       

I仲さんがしんどくなってきた理由の一つが、チケットを取りにこの店まで来ないといけないこと、まぁ未だ住吉ビルで働いておられるのでしょうから、通勤途上なので電車賃は要りませんが、チケットだけ貰ってくるわけにはいかず、チョットは飲んで帰るのでしょう。

             

私もこの日、初めてこの『ま虎っちやん』に行ってみたのですが、夜の北新地で飲むのは初めてではないかと思います。北新地と言っても昔ほど高くはなく、もちろん高い店も残っているのでしょうが、たかがタイガースファンが高いお金を払って飲みに来るわけがありません。私などは酒ならどこで飲んでも同じと思ってる人間ですから、なるべく安い店で飲むようにしているのです。

       

モノは試しにと店に入ってみたのですが、所狭しとタイガース関連グッズ、選手のサイン入りのバットやボール、監督のサインが入った張り子の虎まで有りました。先ずマスターには「私はタイガースファンではない」ことを告げておきました。そうしておかないとタイガースの話ばかりされても困るのです。

             
           壁に貼られていた旗、ファミマのものかと思いきや、まぁファミマと言っても間違いではありませんが、ファミリーマートではなく、ファミリーマートンじゃないですか。
開店の6時過ぎに入店、9時過ぎまで居たのですが、途中入って来たのが3人組一組だけ、あまり儲かってないのかと思いきや、試合が終わった後が大変なのだそうです。甲子園からわざわざこの店に集まってくるファンが多いとか。

             

マスターはどうやら『おとこまえ』の藤井捕手のファンのようで、扉の表は藤井選手のユニフォーム、裏は同じく藤井選手のTシャツがかけてありました。タイガースの選手も時々やって来るようで、藤井選手もよく来ているのかも知れません。3時間ほど飲んで4000円チョットでしたから、まぁまぁ高くはありません。でもこの時貰いに行ったチケットで私は観戦希望日が無かったのです。他の人の為にこの店に行ったわけですが、I仲さんもそういうことが有ったのかも知れません。

黒門市場

2014-07-10 05:00:00 | 大阪にて

7月1日は久し振りに警察病院へ行く日でした。何でもすぐに忘れてしまう今日この頃ですが、病院へ行くのは一度忘れてしまったことがあったのでかどうか、この日は忘れずに前の日から準備は怠らずにと思っていたのですが、病院では検査が有るので、朝食はいつも抜いていくのに、この日の朝は何も考えずにパンを焼いて食べてしまっていました。病院に着いて、予約票を印刷してやっと「しまった」と思ったのですが、血液検査は無かったのでセーフだったのでした。朝9時からの予約なので、30分前には検査室の前に着いたのに、もう沢山の患者が並んでいました。長いこと待たされて、診察室に入ったのは10時前、いつものことですが、何もない所で長く待たされるのは参ったものです。石の破片もだいぶん取れたようですし、腎臓の腫れも収まったみたいなので、次回の検査は来年の1月13日の9時から、季節は今と正反対の真冬です、そんなころまで覚えてられるか、それが心配です。

       

警察病院からの帰りは天王寺方面へ向かうか、一旦北に向かってから千日前筋を下って難波方面へ向かうかのどちらかなのですが、今回は難波の方へ下って行きました。黒門市場の横を通ったのが10時20分ごろ、人がいっぱいなので何が有るのかとチョット寄ってみることにしたのです。黒門市場は南北に200mぐらい(もうチョットあるかも)の一本道の両側に鮮魚類を主に店を並べ、途中に3本東西の筋が絡んでいます。

                      

何度も来たことのある市場ですが、よくよく見るとアーケードの天井にはいろんな魚のオブジェが飾られているのです。普段は買い物に来てるんで天井なんか見てませんもんね。今回は買い物ではなく、ブログのネタ探しですから、キョロキョロあちこちを見回しているのです。

              

市場の東側、アーケードは途中までしか有りません。アーケードを抜けて右側のこの魚屋、三男が働いている魚屋です。朝5時から魚を捌いて、この時間はあちこちの店に配達に出てるので、三男は居ませんでした。

       

クエもタイもイセエビも立体的に出来ており、どちらから見ても同じように見えますが、これはカニ、裏側が取れてるやんと思ったのですが、よくよく考えるとカニの腹側ってこうなってるんですよね。どちらから見ても同じように造ってあるのではなかったのです。

             

朝の早くから賑やかな商店街ですが、来ているのは買い物客の日本人ではなく、殆んどがデジカメを首からぶら下げた観光客の中国人です。おそらくこの中国人観光客目当てだと思うのですが、テンプラやおでんや焼き肉を売ってる店が増えています。昔なら見られなかった光景です。

       

市場の南の方に無料休憩所が設けられています。出来た当初は利用する人は少なかったのですが、今は中国人で満席です。ここで座って食べてくれれば良いのですが、殆んどの人は歩きながらの立ち食いです。それも固まって食べているので、通行の邪魔になってしょうがありません。

             

こちらは黒門市場の南の門、ここまで来ると中国人は見られません。最初の写真が市場の北門、日本橋側になります。

             

買い物目的ではありませんでしたが、ここのお漬物が美味しいので、キューリと白菜のお漬物を買って帰りました。ホントは蕪のお漬物が美味しくて有名なのですがね。

南宋寺

2014-07-09 05:00:00 | 大阪にて

昨日は朝から風がそよとも吹かず、そんなことはあり得ないのですが、風の神が全部、瞬間最大風速70mという台風8号へと集結したのではないかと思うほど、風が吹かなければ暑いですね、少し動いただけで汗が噴き出ます。去年の今頃はセミが鳴き始めてたような記憶が有るのですが、去年が特別に早かったのか、今年が遅いのか、未だセミの鳴き声は聞こえません。あいつらが鳴き始めると、その音だけで暑いんですよね。

             

昨日載せ忘れた利休好みと言われる実相庵、茶の湯など嗜みのない私には、何が何だか説明を聞いてもチットモ解りません。

             

国の重要文化財に指定されている仏殿の内部です。写真撮影禁止とは書かれていませんから、遠慮なく撮っておきました。正面には釈迦如来が安置されています。

             

違和感を覚えたのが、この奉祈と書かれた紙、“チベットがチベット仏教徒の国にもどることを”“中国人に仏心が生まれることを”って、そんな他国の事をあれこれ言うのはよろしくないと思いますよ、内政干渉とも取られます。そんなことなら、集団的自衛権を容認する閣議決定をしないよう、日本国を他国で戦争する国へ変えないよう祈ってもらいたいものです。

             

狩野信政筆の天井絵、『八方睨みの龍』、狩野信政ってあんまり知らんなぁ、きっと南宋寺の仏殿の天井に飾ろうと思って描いたんじゃないと思うけど、名古屋に単身赴任していた頃に小布施で見た北斎の天井絵と比べたら、(自分では描けませんけど)下手ですね。

             

南宋寺の壁には全て、瓦が利用されています。夏の陣で焼き払われた家のものなのか、大阪大空襲で焼け落ちた家のものなのか、それとも全く関係のないものなのか、何処にも書かれてないので想像するしかありません。

             

誰も気付いてないのか、この古そうな消火器の前で立ち止まる人はいません。勿論ボランティアの語り部からの説明も有りません。

             

南宋寺を離れて、前回来た時に写真を撮らなかった少林寺施設、近くに有る少林寺のものかと思ったけど、よく見ると少林寺校区自治連合会となっています。縄が張られていますが、申し込みさえすれば自由に利用できるようです。

             

教室のようなものが有るので、私は保育所か幼稚園だったと思ったのです。

                       

南宋寺の総門まで戻ってきました。最初に来た時には気付かなかったのですが、門の前にこのような小さな碑が建っていました。家康、坐雲亭、紹鴎、利休、古田織部、信長、信忠の名前が確認でき、當寺に有と書かれています。

墓だらけ

2014-07-08 05:00:00 | 大阪にて

南宋寺へ向かったのが11時半、普段なら昼食を始めようとする時間なので、食事を先にするか、見学を先にするか迷ったのですが、結局南宋寺の方に行ってしまいました。前回は宿院頓宮から南へ走ったら、たまたま南宋寺の前に出たので入ったのでしたが、今回は何処に有るのか分かっていたので、大道筋を突っ切って、御陵前の交差点を左折したのでした。この道からは南宋寺の裏側に出ると思っていたら、途中で道が無くなってしまって、結局は何度も曲がって正面に出たのでした。でも今回は北門から入ったのではなく、駐車場の方へ回って、そこから入ったのでした。この方が南宋寺にずっと近いのです。前回は北門から入り、南宋寺の山門まで10分近く使っていました。

             
                              ここは唐門、前回来た時の反対側です。

拝観料400円を払おうとすると、ボランティアの案内の人が居て、「今、先の団体が行ったとこやから、すぐ行ったら追い着くんで、早よ行き」と言われましたが、私は案内など必要としませんが、どんな話をするのか聞きたかったので、指差される方へ急ぎました。でも総勢20名ほどが所狭しと立ち尽くしていて、自由に見学できる雰囲気は有りません。おまけに写真を撮ろうとすると、人が入ってしまうので、一呼吸置いてから次の順路に進んだのでした。

             

こちらは東照宮跡碑、文政年間に建築された東照宮は、空襲で焼失、昭和42年になって碑が建立されました。唐門から一直線に通じ、20mほど奥に建っています。

       

前回撮らなかった唐門の瓦、確かに三つ葉葵の紋が描かれています。碑の徳川家(康)の文字が見えます。観音さんの奥には開山堂跡があり、家康の亡骸は一旦この下に埋められたという伝説が残っているのです。

             

坐雲亭、山内最古の建築物で、中には入れませんが、秀忠・家光両将軍が相次いでやって来たことを記した板額が掛かっているとか。

                       

夢界堂、南宋寺再興に尽力した、堺奉行・喜多見若狭守の位牌堂だとか。

       

ここからは堺所縁の著名な人の墓があちら・こちらに雑然と配置されています。雑然とは私の感想であって、ちゃんと計算されているのかも知れませんが・・・。先ずは津田家の墓、それから千家一門(裏・表・武者小路)の墓、その中の中心に千利休の墓が有りました。

        

左は武野紹鴎の墓、中央の墓は何故かこの墓の説明が有りません。右が三好長慶一族の墓。

         

続いて三好家一族の墓、人がたくさん居たので横からの写真と、居なくなってから正面の写真を撮りました。半井家の墓、半井って「なからい」と読むとは、NHKのお天気姉さんが出てくるまで知らなかったのですが、最近見かけないですね。

             

ここから立ち入り禁止の札、禁止だからではなく、何故かこの道を進んでみたい気がします。

             

枯山水まで帰ってきました。古田織部好みとされる庭ですが、大きな岩が無いのでアクセントが無いように思われます。方丈と一緒に撮りたかったのですが、見学の皆さん、縁側に座って動きよらんのです。前回来た時は誰も居なかったのに、今回は私の居合わせた時に2組の団体が見学に訪れていたのです。来ていた人が「なんそうじ」と言っていましたが、このお寺は「なんしゅうじ」です。

与謝野晶子生家跡

2014-07-07 05:00:00 | 大阪にて

阪堺電車が東玉出の北側から住吉街道で同じ道を走り、住吉大社を越えて別々のルートになり、堺市に入って綾ノ町で再び合流した地点からもう一度御陵前駅で分岐するまでの紀州街道を堺では大道筋と呼んでいます。その大道筋沿いに大小路ビルが有ったし、ザビエル公園も有りました。大道筋は片側3車線、真ん中に阪堺線の線路が2軌道分あるので幅は約0mと広く、全長約2,5km、その所々に『てくてくろーど案内図』という案内板が設置されています。

             

地図には妙国寺や菅原神社、開口神社、宿院頓宮、南宋寺の他、千利休や武野紹鴎の屋敷跡や与謝野晶子生家跡など、大道筋沿いの名所・旧跡がたくさん描かれていますが、『てくてくろーど』と書いてある通り、歩く上でこの上なく都合良く作ってあるのです。例えば歩道にはサイコロの絵が描いてあり、その眼の数だけ歩道に描かれた目印を辿れば、目的のところまで行けるようになっているのです。

             

この地図は一つしか有りません。堺を縦横に走っている紀州街道、熊野街道、長尾街道、竹内街道、西高野街道の5つの街道を示しています。このうち紀州・熊野・西高野の各街道は南北に、長尾と竹内の両街道は東西に走っているのです。歩く気はさらさら有りませんが、竹内・長尾の両街道は大道筋を起点とし、長尾街道は方違神社の前を通る道、竹内海道は大小路通りを通る道で、両方とも二上山の方へ繋がって行くのです。

             
                  このモニュメントの地図を見ると生家の駿河屋は今の大道筋を殆ど覆っていて、紀州街道は東側の歩道の幅しかありません。

『てくてくろーど』マップに載っていた与謝野晶子生家跡を訪ねてみることにしました。与謝野晶子と言えば『君死にたまふことなかれ』で反戦思想として知られていますが、少しかいつまんで詩を本文に近い口語体で書いてみます。
①“ああ弟よ 君を泣く 君死にたまふことなかれ。末に生まれし君なれば 親のなさけは勝りしも 親は刃を握らせて 人を殺せと教えしや 人を殺して死ねよとて 24までを育てしや”
③“君死にたまふことなかれ。すめらみことは戦いに おほみずからは出でませね 互(かたみ)に人の血を流し 獣の道に死ねよとは 死ぬるを人の誉れとは おほみこころの深ければ もとより如何で思されん”
⑤“暖簾のかげに伏して泣く あえかに若き新妻を 君忘るるや思へるや 十月も添はで別れたる 少女ごころを思いみよ この世ひとりの君ならで ああまた誰を頼むべき 君死にたまふことなかれ”

             

この詩を書いたのは26~27歳、日露戦争の頃、親交の深い文芸評論家に「家が大事、妻が大事、国は滅びてもよし、商人は戦う義務なしというのは余りにも大胆すぎる発言」と批判を浴びますが、「たいそう危険な思想と言われますが、当節のように死ねよ、死ねよと言われること、また何事にも忠君愛国の文字や、畏れ多い教育御勅語などを引用する流行は、この方が却って危険」と反論しています。こういう若き日の晶子だったのですが、第一次世界大戦に及んでくると『戦争』と題する詩の中で“いまは戦ふときである 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る”と戦争賛美ともとれる考えを披露しています。

満州事変勃発後は満州国成立を容認・擁護し、こんな詩まで書いていたのです。“強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは”戦争を美化し、鼓舞する詩まで書き、晩年は翼賛婦人に成り果ててしまったのでした。

             

次は千利休の屋敷跡、武野紹鴎の屋敷跡も近くに有るのですが、昼飯時が近かったので、この日は寄りませんでした。大道筋よりフェニックス通りと呼ばれる大通りの南側を少し西に入った一筋目に有ります。真ん前には駐禁にも拘らず車が停めてあったので、道いっぱいに引くことが出来ません。余りにも高名な茶人ですが、住んでいた屋敷は意外と小さいというか、都市開発の煽りで屋敷跡を全部残せているのではありますまい。侘び寂び好みの利休でしたが、利休が住んでいた頃は、人口も少なく、土地もふんだんに有ったことでしょうから、もっと広かった筈です。

             

高札のような大きな板に何やら書かれているのですが、擦れている箇所も多く、とても読み難いのです。どうやらタイトルは『椿井来由記』と書いてあるらしい。

             

椿の井とは利休が産湯を使った井戸で、今でも清水が湧いていると言います。ここは江戸後期から明治中期まで酒造業を営んでいた加賀田太郎兵衛が居住していた場所で、その人が昔住んでいた利休を偲んで茶室までも拵えたとか、見えている屋形は京都・大徳寺の昭和大修理の際に出た古材を使用して建てたのだそうです。

             

開口神社のあの句碑が気になって仕方がありません。“風鈴や”の句を調べてみても判らなかったのですが、開口神社の案内図を拡大して見ると、句碑の位置に山本梅史句碑と書いてあるのを発見、なので山本梅史を検索してみました。

                       

山本梅史(ばいし)は全く聞いたことがない人ですが、やはりインターネットは何でも調べることが出来るんですね。有りましたよ。この句碑の句を解明する前に皆さん、この句が読めますか?と思って再掲したのですが、尻すぼみになってしまっていて、下に行くほど薄くなり、私もやっと“風鈴や”だけを読めたのです。

では正解です。“風鈴や 見馴れたれども 淡路島”書いてある句が分かっても、句碑と比べるとそうは読めませんよね。梅史さんが若い頃は堺から毎日のように淡路島が見えていたんでしょうね。

開口神社 Ⅱ

2014-07-04 05:00:00 | 大阪にて

開口神社って皆さん「かいこうじんじゃ」と読んでいませんでしたか?実は私もそう思っていたのですが、「あぐちじんじゃ」と読むそうなのです。それにはチョット開いた口が塞がりませんが、私のPCでは「あぐちじんじゃ」と打っても変換してくれません。なので「かいこうじんじゃ」と打っているのですが、でもGoogleの検索エンジンを使うと「あぐち」と打つだけで『開口神社』と候補が出てきます。

             

近所からは「大寺さん」と呼ばれ親しまれているようですが、お寺ではなくてれっきとした神社なのです。何故「大寺さん」と呼ばれているのか、それはこの境内に行基が神宮寺として念仏寺を建立したと伝えられており、お寺としては明治元年まで残っていたそうです。勿論、明治政府のバカな政策によって毀釈の憂き目に遭ってしまったわけですが、三重塔などは先の戦災で焼けてしまうまで残っていたようで、近所の方々はその念仏寺を「大寺さん」と呼んでいたのでしょう。

               

境内に三つのモニュメントが有ります。一つは東側に有る泉陽高校跡の碑、泉陽高校は今、大小路ビルより北東側に有りますが、1874年に女紅場として開口神社の境内に誕生したそうで、古くは与謝野晶子や橋田壽賀子を、現在活躍している女優では沢口靖子が学んでいました。真ん中の句碑、これにも説明板が無いので、出だしの“風鈴や”だけが読め、作者も分りません。三つ目が三国ヶ丘高校跡地の碑、三国ヶ丘高校は方違神社の南隣にあった履中天皇陵よりもっと南に有ります。1895年にこの境内に仮校舎が建てられました。昨年の市長選挙で維新候補を退けた現市長はこの高校出身です。三国ヶ丘高校は1年後に移転、その後1年は寄宿舎だけが残っており、泉陽高校の前身の女学校は1903年に現在地に移転しているので、境内には二つの学校が有ったことになります。

どうしても気になるので真ん中の碑にある“風鈴や”の季語で始まる俳句を調べてみました。“風鈴や花にはつらき風ながら(蕪村)”“風鈴や草匂ふほど水きけり(富田木歩)”“風鈴や古典ほろぶる劫ぞなし(竹下しずの女)”“風鈴や天駆け巡りくる風に(長谷川櫂)”ぐらいしか出てきませんが、どれも句碑に彫られた字と比べると違う句のようです。

             

一番最初に使った大きな写真は西の鳥居です。西の鳥居はアーケードのある商店街と交わるように建っており、遠くからは写せなかったので苦労しました。境内側から撮ると鳥居の向こうがタバコ屋になっているのが分ります。顔は商店街の方を向いていますが、ここの狛犬がやたらと大きかったです。

             

商店街側から鳥居の全体を写そうとすると、アーケードの一部が入ってしまいます。鳥居の中、境内の向こうに東の赤い鳥居が見えています。

       

鳥居の右脇にこの神社で唯一の案内板を見つけました。ステンレス製で丸いのでよく目立ちます。南宋寺の塀に囲まれた一角に有った海会寺は、創建(元弘2年)当初はこの地に建立されたようです。その時代に掘られた井戸が金龍井と呼ばれていたとか、干ばつの時に龍神に祈ったら、老人に扮した神さんがここを掘るよう教えたという由緒がある、室町時代の記録では泉南第一の井戸(この辺りは泉南ではないのですが)、江戸時代の記録では豆腐製造に、また違う文献では茶の湯に適しているというようなことが記されています。案内板を注視すると一行目の真ん中辺りにテープが貼られているのが分ると思いますが、これは海会寺の創建の元弘2年の後ろで『(1332)』と西暦で表した箇所、案内板を造った時に間違ったのかと思ったけど、家で調べたら合っているので、単なるいたずらなのか、間違っていたのを上から貼ったのかも知れません。

             

東の鳥居です。鳥居の前がすぐ片側2車線の道路なので、渡って撮りました。

                     

どう見ても鳥居は新しいし、入口の狛犬の顔もマンガチックで新しそう、でも台座は古くからのもののようです。写真が小さいのでよく判らないかも知れませんが、目に黒目が描かれており、私にはマンガの顔に見えるのかも知れません。東の鳥居の南内側に豊竹稲荷大神、この境内にはいったい幾つの神が祀られていたのでしょう。

開口神社

2014-07-03 05:00:00 | 大阪にて

集団的自衛権の行使を容認するという、戦後一貫して守ってきた平和外交を覆すようなことを、安倍内閣はとうとう国会の審議を経ずに、閣僚だけで決めてしまいました。やり方も一方的ですが、一度あったことは二度あるし、二度あることは三度あると言うので、これからも国民にとって都合の悪いことには、こういう手法が使われていくのだと思うと、やはり戦前の二の舞になるのかと思うと、空恐ろしい気分になるというものです。齢とった私などはどちらにしても余命幾ばくもないし、徴兵されることもありますまい、これから先、実際に武力を行使するのにはもう少し時間がかかるでしょうから、私からすると子どもの世代より、孫の世代のことが心配です。おそらく安倍晋三と言う人は後世の人から、悪名高き人の中に名を連ねるんでしょうが、反対にこういう人を持ち上げたがる人もいるものです。

             

菅原神社から一旦自転車を停めておいた大小路ビルまで戻り、自転車で阪堺電車の大小路駅付近まで行き、開口神社を探しました。菅原神社からは200mも南へ歩けば開口神社の北鳥居に到着するのですが、そこからまた大小路ビルまで戻るのも時間がかかるというものです。菅原神社では近づくとたまたま雅楽の音が聞こえてきましたが、こちら開口神社ではけたたましい女性の声が聞こえてきます。北の鳥居から中に入ると自転車が所狭しと置いてありました。

       

どうやら境内に幼稚園でもあるのでしょうか。参観日だったのかも知れませんが、大勢の女性が勝ってがってに喋るとこうも姦しいのか(かしましいを変換するとこんな字に・・・)、聖なる地には似つかわしくありません。自転車が置かれた反対側、つまり入口の左側には祠が並んでいます。左から順に楠木神社、舟玉神社、少彦名神社、恵比須神社、大国魂神社、北辰神社、産霊神社で、次の一群が豊受神社、神明神社、琴平神社、三宅八幡神社、兜神社、厳島神社、熊野神社です。まぁよくも一ヶ所にこれだけの神を並べたものだと感心しながら、欲張りやなぁと軽蔑もするのですが、大鳥井瀬神社を探した時に跡碑のあった兜神社がこんなところに祀られていました。

             

更に奥は薬師社、薬師と言うのは仏教の言葉、別段、本地垂迹・神仏習合でも私は構わないのですが、明治維新後の神仏分離・廃仏毀釈は何だったんだという思いに至ります。結局は日本国は神の国であることを強制するために国家神道を強いて、富国強兵路線を推進し、日清・日露から更にあの戦争へと突き進んだのでした。征韓論の主唱者だった西郷隆盛が西南戦争で敗れても、維新政府の首脳は全て征韓論者であって、常に東アジアを侵略しようと考えていたのでした。安倍晋三の『日本を取り戻す』とは、こういうことへの回帰だったのですね。

             

舳は「へさき」、舳松は「へのまつ」と読むようですが、昔堺には舳松村という村があったようで、この開口神社より少し南東部にあたります。境内には何の説明も有りませんが、今は無きその村の鎮守だったのでしょう。左側は岩室神社、菅原神社、右側は賽神社、白髭神社、相変わらずの祀りようです。

       

境内にはたくさんの碑や祠が有りますが、殆ど説明されたものは有りません。一番左が、扇塚という碑が置かれています。真ん中の鳥居の奥には影向石という石が置かれています。右端は堺の荒神さんと呼ばれる竃神社、岩室神社から竃神社まで境内東側に一列に並んでいました。

             

ここまで来ると、拝殿の間の広い境内が見渡せるようになりました。ここまでが開口神社の東北部分の紹介です。