長野県にやってきたのではありません。相変わらず石屋川沿いの道を六甲山方面へと歩いています。
こんな所に『善光寺』がありました。確かに『信州善光寺御分身如来奉安浄土』等と書かれています。
あまりお目にかかれない最澄・天台宗のお寺です。
長野の善光寺は日本の仏教が諸宗派に分かれる以前からあるお寺なので無宗派なのですが、一応天台宗と浄土宗の別格本山になっています。
故に、明治38年に湊川でこのお寺を再興する際に、信州善光寺から阿弥陀如来を貰い受けたのだそうです。
元々は比叡山・延暦寺の一角に宝乗院としてあったそうですが、明治2年に消失、本尊・不動明王(藤原時代)と脇士二童子(鎌倉時代)はその前日故あって比叡山の方に遷座していたという嘘のようなことが記されていました。
この地に移転されたのが昭和15年、そして昭和50年に嘘のような難を逃れた尊像二体が帰ってこれました。
バカなことを言ってると、不動明王さんにこっ酷く叱られそうです。
このお堂に例の不動明王と脇士二童子が安置されているのですね。
格子戸に何か貼ってあります。
サンスクリット語の読み方と、日本語の意味を書いていただいているのでしょうが、どう対応しているのかサッパリ解りません。
本堂に対面する講堂ですが、大き過ぎるのか、境内が狭過ぎるのか、うまく捉えることが出来ません。
赤ちゃんを抱いたお地蔵さんです。水子地蔵と呼ぶのでしょうか?
こんな所に『善光寺』がありました。確かに『信州善光寺御分身如来奉安浄土』等と書かれています。
あまりお目にかかれない最澄・天台宗のお寺です。
長野の善光寺は日本の仏教が諸宗派に分かれる以前からあるお寺なので無宗派なのですが、一応天台宗と浄土宗の別格本山になっています。
故に、明治38年に湊川でこのお寺を再興する際に、信州善光寺から阿弥陀如来を貰い受けたのだそうです。
元々は比叡山・延暦寺の一角に宝乗院としてあったそうですが、明治2年に消失、本尊・不動明王(藤原時代)と脇士二童子(鎌倉時代)はその前日故あって比叡山の方に遷座していたという嘘のようなことが記されていました。
この地に移転されたのが昭和15年、そして昭和50年に嘘のような難を逃れた尊像二体が帰ってこれました。
バカなことを言ってると、不動明王さんにこっ酷く叱られそうです。
このお堂に例の不動明王と脇士二童子が安置されているのですね。
格子戸に何か貼ってあります。
サンスクリット語の読み方と、日本語の意味を書いていただいているのでしょうが、どう対応しているのかサッパリ解りません。
本堂に対面する講堂ですが、大き過ぎるのか、境内が狭過ぎるのか、うまく捉えることが出来ません。
赤ちゃんを抱いたお地蔵さんです。水子地蔵と呼ぶのでしょうか?