以前に西国街道のことに触れたのは、市役所より西の昆陽という街中でした。
そこで西国街道を東へと辿ってみることにしました。
市役所は千僧という街にあります。
少し南へ歩を進めると西国街道に着きますが、遠くからでも高々と茂っている樹が見えたので行ってみると、天神社の鳥居がありました。
先の東天神社や西天神社はここより西にあります。
昭和45年に4億5000万をこの土地の方々が譲渡したと認めてあります。
この碑にある今池という池を埋め立てて、その土地を供出したのでしょうが、市民団体としては大変な額だと思います。
境内の片隅に古いお地蔵さんが集められていましたが、下がセメントなのが気に入りません。
流石に伊丹市と思わせるのは、奉納と書かれたモニュメントが酒樽型であったことです。
この天神社の前の道が西国街道なのですが、ここから猪名川までの道を西国街道で行ってみたいと思います。
昔の名残を残す家が数軒あります。
道幅が狭いでしょ。大名行列がしきりに通ったとは考えられないのです。
百姓たちが蹲ると、行列は一列になって進まなければならないくらいなので、横の民家から刺客が襲えば簡単に大名籠を突き刺すことが出来たと思うのです。
まぁ、江戸時代中期はそのようなことも起こらないくらい平和だったのかも知れません。
何やら手前に祠がありました。
お地蔵さんと言うより、小さな御神体ですね。
こちらの方が可愛かったな。
そこで西国街道を東へと辿ってみることにしました。
市役所は千僧という街にあります。
少し南へ歩を進めると西国街道に着きますが、遠くからでも高々と茂っている樹が見えたので行ってみると、天神社の鳥居がありました。
先の東天神社や西天神社はここより西にあります。
昭和45年に4億5000万をこの土地の方々が譲渡したと認めてあります。
この碑にある今池という池を埋め立てて、その土地を供出したのでしょうが、市民団体としては大変な額だと思います。
境内の片隅に古いお地蔵さんが集められていましたが、下がセメントなのが気に入りません。
流石に伊丹市と思わせるのは、奉納と書かれたモニュメントが酒樽型であったことです。
この天神社の前の道が西国街道なのですが、ここから猪名川までの道を西国街道で行ってみたいと思います。
昔の名残を残す家が数軒あります。
道幅が狭いでしょ。大名行列がしきりに通ったとは考えられないのです。
百姓たちが蹲ると、行列は一列になって進まなければならないくらいなので、横の民家から刺客が襲えば簡単に大名籠を突き刺すことが出来たと思うのです。
まぁ、江戸時代中期はそのようなことも起こらないくらい平和だったのかも知れません。
何やら手前に祠がありました。
お地蔵さんと言うより、小さな御神体ですね。
こちらの方が可愛かったな。