ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

那智駅周辺

2012-01-24 05:00:00 | 田舎

熊野三社大神社の近く、大辺路と中辺路の分岐点に振分石なるものがあると調べていたので探しまわりました。そのような大きな石など(大きいとは書いていませんでしたが)どうしても見当たりません。私が停めた駐車場の片隅に案内板があったので見に行ったら、なんとその案内板の後ろに何が書いてあるのが分からんような白い立て札があり、読める所を辿ると振分石と読めます。

                       

この立て札の後ろにあるのが振分石らしい。ただの石ではなくて、石碑ですね。かなり古いものらしいですが、案内板ももう読めないくらい古いですから、何が何やら分かりません。後方にも熊野道と記された新しい碑があります。

             

この立て札、何とかならんかね。タイトルの“熊野古道 振分石 大神社”と最初の一行、“この板碑は『熊野街道振分石』××”と最後の一行、“建立したのである 以上”だけが辛うじて読めるのですが、肝心なところが殆ど読みとれません。そもそも大辺路と中辺路の分岐点など存在するのでしょうか?中辺路は田辺から本宮までの道、本宮から新宮(本宮大社から速玉大社)までは熊野川を下りますから、道としての接点はありません。でも大辺露から参詣するとなればどうなるのでしょう。那智山からは妙法山へ赴き大雲取を越えて小口から本宮の方へ向っていますから、先に新宮へ参ってから引き返していたのでしょうか。山の中の道を中辺路と言うのなら、この振分石のあるところを分岐点としても妥当なのかも知れません。

             

那智駅の方に交流センターがあるそうなので歩いて行ってみました。道の駅などもあって、何か買おうと思ったら財布を車に置きっ放しだったので、また車を取りに戻るはめに・・・でも道の駅は地産の野菜とかしか売って無くて買うものはありませんでした。

写真右側がJR那智駅、左側が交流センター、二階が丹敷の湯という温泉施設になっています。私は入ったことがありませんが、今回も昼から新宮の神倉神社に行く予定だったので、入浴しているわけにはいきません。この丹敷というのはどういう由来があるのだろうと考えてみました。この地域には丹敷という地名はありません。

これはきっと神武が大和のナガスネヒコに負けた後、紀伊半島を海で迂回して熊野から大和を目指した時、上陸した地で丹敷戸畔(にしきとべ)という女酋長を殺しますが、丹敷というのはこの日本書紀の話が元となっているのではなかろうかと思うのです。この地の豪族の長であった丹敷戸畔を偲んで丹敷の湯と名付けるのはいいのですが、その侵略者としての神武(その頃は神武ではなかった)を今もなお初代天皇などと言って崇め奉っている日本人はどうかしているんじゃないかと思いますね。

             

駅の前にこんな顕彰碑を見かけました。未だ新しいものらしく日本サッカーの始祖、中村覚之助とありますが、高校生の頃サッカー部で励んでいた私ですが、この人の名前は知りません。1878年にこの浜の宮で生まれ、現在の筑波大学に学んで、アソシェーションフットボール(サッカーのこと)を翻訳、日本初のサッカーの指導書を発刊し、蹴球部の試合を行ったと書いてあります。弱冠29歳で急逝していますが、日本サッカー協会の旗章の八咫烏はこの人の出身地である熊野に因んでいるそうですが、遠藤選手も本田選手も知ってるのかな?

             

駅下の地下道を通って浜に出てみました。海水浴場になっていました。夏になればどれくらいの人が訪れるのかは知りませんが、東牟婁では一番広い海水浴場ではないでしょうか。

             

遊んだ後は温泉もあるので、結構いいところだと思います。方角で言えば先のは北の方、見えているのは勝浦、こちらは南の方で波止場の向こうは宇久井の半島だと思います。

             

那智駅の構内、無人駅ですが複線です。きっと列車の行き違いがあるのでしょう。

             

こちらへ来る前に昼食を何処で取ろうかと新宮市のHPを調べていたら、三輪崎でこのお店を見つけたので、運転免許センターとコメリ、光洋中学校を目印に一旦コメリに車を停めて歩いて探しましたが、車は三輪崎の街へ思ってたのとは南北逆の方向から入って行ったので、歩くのも東西逆になってしまい見つけるのに随分時間がかかってしまいました。でも定食のハンバーグは美味しかった。チーズの苦手な人は食べられないかもしれません。
店を出たらもう1時になっていました。神倉神社へと急がねばなりません。

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