ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

補陀洛山寺

2012-01-19 05:00:00 | 田舎

14、15日は土・日曜日にあたるので釣りはお休み、まさしく働く日に釣りをして、土・日は休むと言う労働者的習慣を堅持して生活しています。土・日曜日に釣りをしないのは、せっかくの休みに釣りを目的に来た人に対して、毎日釣りをしている自分が場所を占領するようなことがあってはならない、場所を譲ってあげなければいけませんという発想の元なのです。決して怠けてるわけでもありませんが、釣りばかりしていては釣りブログかと言われそうなので、他にもすることがあるだろうし、今回はその休みの日に新宮へと行ってきました。決してブログのネタ探しではありませんよ、自分の見聞を広めるためであります。

             

ここのところ、『藤原定家の熊野御幸』という本を読んで以降、未だ感想文を書いてはいないのですが、中上健次の『紀州 木の国・根の国物語』や同じ和歌山県出身・神坂次郎の『縛られた巨人ー南方熊楠の生涯』を読み、二人の作家が共通して取り上げていた補陀洛山寺に強い興味を抱いたのでした。

補陀洛山寺は国道42号線からJR那智駅の前の信号を左折、那智大社や青岸渡寺へと登る県道43号線に入ったすぐ右手にあります。

             

補陀洛信仰というのは南方の海の果てに観音菩薩の浄土があるというものですが、非常に興味深い話があって、61歳の11月になると、補陀洛山寺の僧はこの写真にあるような渡海船に乗り、補陀洛(サンスクリット語のポータラカ)を目指すのですが、船の屋形には十分とは言えない食糧を積み、屋形は決して逃れられないように四方を板で打ちつけられ、何の動力も無く、潮や風の趣くままに漂流しながら、観音菩薩の浄土を目指すと言われていますが、実際には死への旅立ちなのです。

             

誰がどのような動機でこのようなことを考えたのか知りませんが、よくもまぁこんなことを考え、そして実行したものです。何を調べても、このお寺の案内板にもこの行為を宗教儀礼と表現していますが、こんなものは自殺であり、周りからましてや習慣などと言って強制するのは殺人でさえあると思うのですが、どうでしょう。耐えかねて扉を壊し、島へ逃れた僧を役人が海へ放り込んで殺してしまったという話もあるくらいです。

             

この渡海船の模型は平成五年の作ですが、そういった儀礼があった頃の船にはこのような窓などあったものかどうか、あったとすれば死を悟したお坊さんが窓からの景色を見たのなら生への執念が甦りはしないのか、何の恐怖心も無く何の考えも無い人がこのような船を作ったのなら、それは惨い仕打ちをより一層強く与えてるという結果になりはしないかと思いやるのです。

             

どのような動機でこのような惨い儀礼を考えたのか解らないと書きましたが、平安末期から鎌倉と言う歴史を考えてみると、栄耀栄華を極めた天皇家や貴族たちの恩寵を受け、仏教としての道を外した僧(この南涯の地では、そのおこぼれさえも頂けないという恨みもあったのかも知れませんが)へ対する造反、法然や親鸞等が唱えた大乗仏教に対して、仏教とは本来こういうものだという本質に迫ったものだったのかもなどと思ってしまいます。

                     

さて本堂に足を踏み入れます。いろんな古物が目を惹きますが、特に本尊の両脇に脇侍として佇む平安中期の持国天と広目天、憤怒の相が真迫していて、足の下に捉えられて小さくなってしまっているのは本物の悪人のようです。

             

本尊は木造の千手観音立像、平安時代の作とされ国の重要文化財に指定されていますが、カギがかけられており、写真だけが貼り付けられていました。せっかく訪れた人に対して失礼やなぁと思ったりするのです。

             

平安時代より以前から建立されたというこのお寺、建立当初から補陀洛山寺と呼んでいたのかは分かりませんが、江戸時代の1808年の台風のために全壊しています。その後仮本堂であったのを1990年に現在の本堂が再建されていますが、なんと200年近くも放置されていたことになります。

補陀洛水と記されている手水、水道の水であるのにそのような勿体ぶった名前を付けて良いものか、「栓を最後まで締めよ」と書かれているのが何とも自嘲気味だと思えます。

             gooリサーチモニターに登録!