ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

天平大仏記

2007-10-03 06:10:00 | 読書
聖武天皇が慮舎那仏を紫香楽の宮に造営する詔を発したのは天平15年、律令政治が度重なる旱魃・地震・凶作・疫病によって疲弊し、仏教に依り安泰を図ろうとする意図があった。

藤原不比等以来、権勢を欲しいままにしてきた藤原一族も往時の力が衰え始めてきた矢先、この慮舎那仏建立という機会に乗じて橘諸兄を蹴落とし、権勢を回復させようとしたのが藤原仲麻呂であった。

物語は山背の国・葛野にある蜂岡寺で働くの造仏工・天国<あまくに>と当麻呂<たいまろ>が、慮舎那仏建造に携わる経緯から始まる。

行基が慮舎那仏建造に抜擢され、この大仏建造に係わる賎民は良民に身分を移されることになる(天平16年)が、これは未曾有の大仏を造る為の労働力確保だった。この時行基は77歳。

藤原仲麻呂は一族の勢力を回復させるため、慮舎那仏建立を紫香楽宮から自らの勢力の基盤である平城京に替える策略を巡らす。
まず僧行基を誘拐し紫香楽の山に放火したが、この企みは拐われた行基を探す天国の知ることになってしまう。

天国はこの事をよりにもよって藤原仲麻呂に訴え出、斬殺されそうになるが「大銅仏をこの手で鋳てみたい」という一心に「この事他言無用」と許される。
天国はこの事件を機会に、過酷な労役に不満の輩に対し「良民に直されたことの恩寵を忘れるな、早く造営が終わればそれだけ早く自由になれる」と説き、工人たちを統率していった。

仲麻呂の執拗な策略の前に橘諸兄も反対できず大仏造営は平城京に移され、三笠山の麓に大きな櫓が造られる。そんな折、当麻呂は天国が紫香楽の慮舎那仏は試作であったことを知っていたのに吾等を騙していた、見損なったと絶縁を言い渡したのだった。

櫓を組み、鋳型を作り、鋳造し7年あまりが過ぎ、後は鍍金するのみの工程になった頃、藤原仲麻呂は突然放賎の中止を仄めかす。

当麻呂は事前に察知し、天国を誤解していたと気付くのだが・・・、逃亡を企てるが追っ手に捕まり殺されてしまう。

そして大仏開眼を目前にした天平勝宝4年、放賎中止の令が発され全戸籍が天平15年の元に戻された。

工人たちはお上に訝られたと騒ぐがどうにもならない、怒りは天国の方に向けられてゆく。

やがて、銅や水銀を扱う工程がもとで体を患わせた天国は山背の国・葛野の里に帰っていく。有能なを豪族共が手放すわけはなかったのである。

この慮舎那仏造顕の最中、僧行基は没している。82歳であった。