「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

信長・秀吉・家康 Long Good-bye 2023・10・02

2023-10-02 05:45:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

 「 海の道 」の一節 。

 備忘の為 、 抜き書き 。

 引用はじめ 。

 「 江戸時代 、大坂湾から蝦夷地 ( 北海道 ) へゆくのに太平洋航路は危険で

  あった 。おそらく難所は 、遠州灘 ( 寄港地なし ) と銚子から北のほうの

  鹿島灘 、それに最大の難所は三陸沖 ( 宮城 、岩手 、青森の三県の太平洋

  岸 ) だったであろう 。

   このため『 東まわり 』といわれる太平洋コースよりも 、多くは日本海

  航路がとられた 。大坂湾を中心に考えればここから下関へゆき 、ぐるっ

  と北へまわって日本海岸の港々に寄りつつ奥州へゆき 、蝦夷地へいたる 。

  この航路や船のことを 、

  『 北前船 ( きたまえぶね )

  といった 。前 というのは 、男前 、江戸前といったふうに 、意味のない

  接尾語とみていい 。

   江戸初期には 、北陸の諸港から下関経由で大坂までであったが 、江戸

  時代の経済が充実するにつれてしだいに航路は北へのび 、幕末のすこし

  前には蝦夷地までのびた 。当時の日本では大動脈ともいうべきルートで 、

  この船の発着地はすべて栄えた 。その最大の繁栄をになったのが 、長州

  藩の諸港であった 。長門では下関 、周防では三田尻 ( いまは防府市 ) で

  あろう 。下関などは 、幕末 、

  『 いずれ大坂の繁栄をしのぐだろう 』

   とまでいわれた 。それが 、維新後 、汽船の発達で北前船が衰え 、下関

  も三田尻もさびれる

   話が転ずるが 、幕末 、長州藩の革命資金は 、自前であった 。薩摩は 琉

  球貿易でもうけた金をもって旋盤その他の工作機械をすえた工場をもち 、

  ついには発電所まで作り 、軍艦や輸送船をそろえ 、砲兵を充実するなど 、

  たかが いまの鹿児島と宮崎県の一部をもって 、比率的にいえばヨーロッパ

  諸国よりも ( つまり土地の面積と軍備との比例において ) 充実していたに

  ちがいないが 、長州藩もそれにおとらない 。

   薩摩藩が七十七万石であるに比し 、長州藩はわずか三十六万九千石である

  それ以上の大藩は筑前福岡 ( 黒田家 ) の五十二万石もあるし 、芸洲広島 ( 浅

  野家 ) の四十二万六千石 、仙台 ( 伊達家 ) の六十二万石 、それに徳川御三家 、

  さらには加賀百万石といった大藩が多くあったのに 、なんとかれらは 薄ぼん

  やり ―― 悲劇的なほどに ―― していたことであろう 。 」

  ( ´_ゝ`)

 「 ・・・ 尾張という流通のさかんな土地で成長した信長や秀吉は商人の原理

  と機略をもっていたが 、家康はそういうところがすこしもなく 、あくまで

  も山村の庄屋さんの原理でその生涯を終始した 。信長・秀吉という商人が

  倒産したあと 、庄屋さんが出てきて自分のものにし 、徳川帝国というもの

  を庄屋の原理でつくりあげた 。鎖国も庄屋の原理であり 、四民の階級を法

  制化したのも農民の感覚であり 、家康はそれらを意識的に平定の原理であ

  るとし 、死ぬ前に 、

   ―― 三河のころの制度を変えるな 。

   と遺言し 、それを天下統治の法制的原理として据えこんだのである 。

  その点 、変ったおっさんであった 。世界史的にいえば航海商業時代が第二

  期の隆盛期に入っていたのに 、徳川家一軒をまもるためには 、世界史の潮

  流から日本を孤立せしめ 、ことさらに農民の原理でしばりあげた 。農民の

  嫉妬心を利用し 、相互監視の制度をつくり 、密告を奨励し 、間諜網を張っ

  たという点で 、日本人の性格をそれ以前にくらべてずいぶん矮小化した 。 」

 「 家康は ・・・ 世界史的な動向として航海商業時代がきていることは十分

  知っていた 。かれは堺商人との接触を濃厚にもっていたし 、漂流してきた

  英国人の船長ウィリアム・アダムス ( 三浦按針 ) を召しかかえることによっ

  て海外情勢を理解する基礎を得ようとした 。十分知っていてなおそのこと

  から目をつぶり 、日本を鎌倉期の農業国家にもどしたのである 。家康の武

  将としての理想像は武田信玄であり 、政治家としての理想は源頼朝であった 。

   家康らの前時代である室町期は 、いわば貿易時代であった 。室町将軍みず

  からが商人のようになって対明貿易に熱中し 、その側近衆のなかには京の

  大商人を置いていたし 、また私貿易では九州の武装貿易者 ( 倭寇 ) がはび

  こり 、遠く東南アジアにまで日本人町ができるほどであった 。このまま

  日本が世界の潮流のなかに参加していれば 、江戸期の四畳半文化も成立し

  なかったかわり 、日本人の四畳半精神も成立せずにすんだにちがいない 。

   秀吉は商人の親方であった面がつよい 。かれはその政権の財政的基盤の

  大きな部分を 、堺と博多といったような貿易収入源に置いた 。

   その所領を比較してもわかる 。徳川政権の直轄領は六百万石と言い 、

  八百万石ともいわれているが 、あれほど豊かであった豊臣政権の直轄領

  はわずか二百数十万石にすぎなかったことでもわかる 。秀吉は農村を収

  奪して米穀をもって財政の基盤にするよりも 、海外貿易による儲けの方

  により魅力を感ずる政治家であったことがわかるし 、同時にかれが世界

  史的潮流のなかでの時代の子であったことがわかる 。 」

  引用おわり 。

  「 どうする家康 」( 脚本・古沢良太 ) を BS4K 、BSP 、地上波 、その再放送

  で 、毎回4度見する 。

 

 

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