今日の「 お気に入り 」は 、山田太一さんのエッセイ
「 夕暮れの時間に 」から 、「 休止期間の幻想 」の一節 。
人みな「 それぞれのやり方で『 究極の現実 』にそっぽを向いて
幻想をつくり出している 。そして 、なんとか元気に生きていこ
うとしている 。むき出しの現実が 力を露わにしたら ひとたまり
もない 。しかし 休止期間 がある 、その間だけ 、きびしくなれ
ば たちまち吹きとばされてしまうような幻想を ささえ に生きて
いる 。それを誰が笑えるだろう 。・・・ 」
備忘のため 、抜き書き 。
引用はじめ 。
「 ・・・ ある老人ホームに入った女性を訪ねた 。八十六歳だが 、
少し歩くのに杖が必要なだけで 、頭はクリアな人である 。
午後一時の約束だった 。五分前に 、その人の部屋のある四階へ
エレベーターで向かった 。着いてドアがあくと 、丁度その人が
ドアの前にやって来たところだった 。
『 ほら 、そうなの 。来るような気がしたの 。予感通り 。私
ってこういう勘がほんとによく当たるの 。あ 、いま玄関かな 、
あ 、いまエレベーターの前へ来た 。それがまるで見ているよう
に感じるの 。さあ 、出迎えようって部屋を出た 。エレベーター
の前に立った 。ドアがあいた 。ぴたり 』と大喜びしてくれた 。
一時の約束で五分前に合うのは 、予感によらなくてもあり得る
ことだが 、予感が湧きそれが当たった と思ってくれる方がずっと
情が深いし 、味わいもある 。小さな出来事を喜ぶ すべ を知って
いる人で 、だからこそ 自分の神秘性も信じられるのだろうと思っ
た 。」
「 E . M . フォースター が 、この地上のむき出しの現実は 、
身も蓋もない力の世界だが 、それはいつもむき出しでいるわけで
はない 、その休止期間には『 究極の現実 』に『 そっぽを向いて 』
なにかを試みる 。それが『 勇気なのか臆病なのか 、その点は分か
らない 。だが 、過去において人間がそっぽを向いていなかったら 、
価値あるものは何一つ残らなかったろう 』( 『 私の信条 』小野寺
健訳 ) といっている 。 」
「 個々の人生にとって『 究極の現実 』は死である 。その死にそっぽを
向いているからこそ 、日々をなんとか生きていることを思えば 、ひと
の幻想のはかなさを軽々には裁けない 。
( 『 一冊の本 』 2011年4月号 )」
引用おわり 。
この文章には以下のような続きがある 。
「 四国のお遍路に『 同行二人 ( どうぎょうににん ) 』という言葉がある 。
笠や衣に書かれている 。一人はお遍路をする人であり 、一人は弘法大
師である 。
簡潔で力強いいい言葉だなあ 、と僭越ながら感じていた 。ただあち
こちで見掛ける大師像は 、すっくと立っていらして乱れがない 。一緒
に歩いていただくには畏れ多いような 、私など置いて行かれそうな立派
さである 。
若いころ 、京都の六波羅蜜寺で 、空也上人の立像に出会った 。鎌倉時
代の木彫である 。これがよかった 。なにより疲れている 。汚れた衣 、
すり切れた草鞋 ( わらじ ) 、少し顎も上って 、それでも歩き続けようと
しているお姿に感動した 。この人と『 同行二人 』という幻想を含む現代
の小説を書いてみたかった 。やっと書くことが出来たのが『 空也上人が
いた 』( 朝日新聞出版 、2011年 )である 。信仰の話でも宗教の話でも
ない 。むき出しの現実が襲って来たら 、ひとたまりもない物語だが 、七
十半ばをすぎてやっと書けたという思いでいる 。 」