「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

休止期間の幻想 Long Good-bye 2023・10・19

2023-10-19 05:33:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、山田太一さんのエッセイ

 「 夕暮れの時間に 」から 、「 休止期間の幻想 」の一節 。

   人みな「 それぞれのやり方で『 究極の現実 』にそっぽを向いて

  幻想をつくり出している 。そして 、なんとか元気に生きていこ

  うとしている 。むき出しの現実が 力を露わにしたら ひとたまり

  もない 。しかし 休止期間 がある 、その間だけ 、きびしくなれ

  ば たちまち吹きとばされてしまうような幻想を ささえ に生きて

  いる 。それを誰が笑えるだろう 。・・・ 」

  備忘のため 、抜き書き 。

  引用はじめ 。

 「 ・・・ ある老人ホームに入った女性を訪ねた 。八十六歳だが 、

  少し歩くのに杖が必要なだけで 、頭はクリアな人である 。

   午後一時の約束だった 。五分前に 、その人の部屋のある四階へ

  エレベーターで向かった 。着いてドアがあくと 、丁度その人が

  ドアの前にやって来たところだった 。

  『 ほら 、そうなの 。来るような気がしたの 。予感通り 。私

  ってこういう勘がほんとによく当たるの 。あ 、いま玄関かな 、

  あ 、いまエレベーターの前へ来た 。それがまるで見ているよう

  に感じるの 。さあ 、出迎えようって部屋を出た 。エレベーター

  の前に立った 。ドアがあいた 。ぴたり 』と大喜びしてくれた 。

  一時の約束で五分前に合うのは 、予感によらなくてもあり得る

  ことだが 、予感が湧きそれが当たった と思ってくれる方がずっと

  情が深いし 、味わいもある 。小さな出来事を喜ぶ すべ を知って

  いる人で 、だからこそ 自分の神秘性も信じられるのだろうと思っ

  た 。」

 「 E . M . フォースター が 、この地上のむき出しの現実は 、

  身も蓋もない力の世界だが 、それはいつもむき出しでいるわけで

  はない 、その休止期間には『 究極の現実 』に『 そっぽを向いて 』

  なにかを試みる 。それが『 勇気なのか臆病なのか 、その点は分か

  らない 。だが 、過去において人間がそっぽを向いていなかったら 、

  価値あるものは何一つ残らなかったろう 』( 『 私の信条 』小野寺

  健訳 ) といっている 。 」

 「 個々の人生にとって『 究極の現実 』は死である 。その死にそっぽを

  向いているからこそ 、日々をなんとか生きていることを思えば 、ひと

  の幻想のはかなさを軽々には裁けない 。

                 ( 『 一冊の本 』 2011年4月号  )」

 引用おわり 。

 この文章には以下のような続きがある 。

 「 四国のお遍路に『 同行二人 ( どうぎょうににん ) 』という言葉がある 。

  笠や衣に書かれている 。一人はお遍路をする人であり 、一人は弘法大

  師である 。

  簡潔で力強いいい言葉だなあ 、と僭越ながら感じていた 。ただあち

  こちで見掛ける大師像は 、すっくと立っていらして乱れがない 。一緒

  に歩いていただくには畏れ多いような 、私など置いて行かれそうな立派

  さである 。

   若いころ 、京都の六波羅蜜寺で 、空也上人の立像に出会った 。鎌倉時

  代の木彫である 。これがよかった 。なにより疲れている 。汚れた衣 、

  すり切れた草鞋 ( わらじ ) 、少し顎も上って 、それでも歩き続けようと

  しているお姿に感動した 。この人と『 同行二人 』という幻想を含む現代

  の小説を書いてみたかった 。やっと書くことが出来たのが『 空也上人が

  いた 』( 朝日新聞出版 、2011年 )である 。信仰の話でも宗教の話でも

  ない 。むき出しの現実が襲って来たら 、ひとたまりもない物語だが 、七

  十半ばをすぎてやっと書けたという思いでいる 。 」

 

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