「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

明治は遠くなりにけり Long Good-bye 2023・10・15

2023-10-15 05:55:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」 。

  降る雪や 明治は遠く なりにけり

          ( 中村草田男 )

 ( ´_ゝ`)

  俳人 中村草田男さんは 、筆者の父と同じ 明治34年 ( 1901 年 ) のお生まれ 。

 

 ( ついでながらの

   筆者註:「 中村 草田男( なかむら くさたお 、1901年 〈明治34年〉

       7月24日 - 1983年〈昭和58年〉8月5日 )は 、日本の

       俳人・国文学者 。成蹊大学名誉教授 。本名は中村 清

       一郎( なかむら せいいちろう )。

       中国アモイ出身 。東京帝国大学国文科卒 。高浜虚子に

       師事、『 ホトトギス 』で客観写生を学びつつ 、ニーチ

       ェなどの西洋思想から影響を受け 、生活や人間性に根

       ざした句を模索 。石田波郷 、加藤楸邨らとともに人間

       探求派と呼ばれた 。『 萬緑 』を創刊・主宰 。戦後は

       第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的

       な役割をもった 。

        次世代の 金子兜太 などに多大な影響を与えた 。忌日は

       『 草田男忌 』 として 、季語になっている 。

       経 歴

        清国( 現中国 )福建省廈門にて清国領事 中村修 の

       長男として生まれる 。母方の祖父は 松山藩久松家の重臣 。

       1904年 、母とともに中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前

       町に帰国 。2年後 松山市に転居 。1908年 、一家で東京に

       移り赤坂区青南尋常小学校(のち港区立青南小学校)

       に通学する 。1912年 、再び松山に戻り 松山第四小学校に

       転入 。1914年 、松山中学に入学 。先輩に 伊丹万作 がお

       り兄事する存在となる 。1916年 、伊丹らとともに回覧同人

       誌 『 楽天 』 を制作 。1918年 、極度の神経衰弱にかかり

       中学を 1年休学 。復学した頃に ニーチェの 『 ツァラトゥストラ

       かく語りき 』 に出会い 生涯の愛読書となる 。

        1922年 、松山高等学校入学 。直後に可愛がられていた

       祖母に死なれたことで不安と空虚に襲われ 、その解決の鍵

       として哲学・宗教に至る道を漠然と思い描く 。1925年 、一

       家で東京に移転 、4月に 東京帝国大学文学部独文科に

       入学 。チェーホフやヘルダーリンを愛読するが 、1927年にふた

       たび神経衰弱に罹り翌年休学 。このころに 斎藤茂吉 の歌

       集 『 朝の蛍 』( 自選歌集 、改造社 、1925年 )を読んで

       詩歌に目を開き 、『 ホトトギス 』 を参考にしながら 『 平安な

       時間を持ち続けるための唯一の頼みの綱 』 となる句作を始め 、

       俳号 『 草田男 』 を使い始める 。1929年 、母及び叔母の紹

       介で 高浜虚子 に会い 、復学したのち 東大俳句会 に入会 。

       水原秋桜子 の指導を受け 、 『 ホトトギス 』 9月号にて 4句

       入選する 。

        1931年 、国文科に転じ 、1933年卒業 。卒論は 『 子規

       の俳句観 』 。卒業後 成蹊学園に教師として奉職 。1934年 、

       『 ホトトギス 』 同人 。1936年 、縁談を経て 福田直子 と結

       婚 。1938年より下北沢に住む 。1939年 、学生俳句連盟

       機関誌 『 成層圏 』 を指導 。また 『 俳句研究 』 座談会に

       出席したことをきっかけに 、石田波郷 、加藤楸邨 らとともに

       『 人間探求派 』 と呼ばれるようになる 。1945年 、学徒動

       員通年勤労隊として福島県安達郡下川崎村に向かい 、

       同地にて終戦を迎える 。

        1946年 、『 成層圏 』 を母体として 『 萬緑( ばんりょく )』

       を創刊 、終生まで主宰 。1949年 、成蹊大学政経学部

       教授に就任 、国文学を担当する 。1954年 下高井戸に転居 。

       1959年 、朝日俳壇選者 。1960年 、現代俳句協会幹事長

       となるが 、現代俳句協会賞選考を巡って協会内で意見対立

       が起こったため 、1961年に協会を辞し 新たに俳人協会を設立 、

       初代会長に就任する 。1965年 、成蹊大学文学部教授 。

       1967年に定年退職後 、非常勤講師となったのち 、1969年

       に同名誉教授 。1972年 、紫綬褒章 。1974年 、勲三等

       瑞宝章 。1978年 、メルヘン集 『 風船の使者 』 により芸術

       選奨文部大臣賞受賞 。

        1983年8月5日 、急性肺炎のため 東京都世田谷区北烏

       山の病院で死去 。82歳没 。死の前日洗礼を受けた 。洗礼

       名 『 ヨハネ・マリア・ヴィアンネ・中村清一郎 』 。墓は 東京都

       あきる野市の五日市霊園にある 。没後の1984年 、日本芸術

       院恩賜賞が贈られた 。

        妻直子との間に四人の娘をもうけている 。お茶の水女子大学

       教授( フランス哲学 )の 中村弓子 は三女 。

       作 品

        代表的な句としては、

        蟾蜍(ひきがえる)長子家去る 由もなし( 『 長子 』 所収 )

 

        降る雪や 明治は遠く なりにけり(1931年作。『長子』所収)

 

        冬の水 一枝の影も 欺かず( 『 長子 』 所収 )

 

        玫瑰(はまなす)や 今も沖には 未来あり ( 同 )

 

        萬緑(ばんりょく)の 中や吾子の歯 生え初むる

                   ( 1940年作 。『 火の島 』 所収 )

        勇気こそ 地の塩なれや 梅真白

           ( 1944年作 。『 来し方行方 』所収 )

        葡萄食ふ 一語一語の 如くにて

           ( 1947年作 。『 銀河依然 』 所収 )

       などがある。( 後 略 ) 」

       以上ウィキ情報 。)

 

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