「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

東も西も Long Good-bye 2023・10・11

2023-10-11 05:11:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典

 「 ウィキペディア 」掲載の記事「 ウーゼドム島 」。

 

  Am*z*n Prime Video で 最近視聴した ドイツ発の テレビ

 ドラマ の舞台になっている 北ドイツにある保養地の島 である 。

  島内に ドイツ・ポーランド の 国境線がある 。面積で言うと 、

 島の85%がドイツ領 、残り15% がポーランド領 。

  人口 76,500人 、うち ドイツ領に 31,500人 、ポーランド領に

 45,000人 が住むというバルト海の島 。 

  テレビドラマのタイトルは 、 「 ウーゼドム・ミステリー 罪

 深き母の捜査ファイル 」。

  ドイツ語の原題は  、” Der Usedom - Krimi ” ( 直訳すれば 、

 「  ウーゼドム島 ー ミステリー 」 ) 。劇中 ドイツ語とポーランド

 語のせりふが交錯する サスペンス・ドラマ 。

  ドラマの舞台は 、ドイツとポーランドの国境を流れ 、バルト海

 に注ぎ込む 、オーデル川 の河口近くに浮かぶ島 ウーゼドム

  島のポーランド側 、60キロほど南には シュチェチン ( Szczecin 、

 ドイツ語読みだと シュテティーン  ) というポーランドの港湾工

 業都市がある 。

  国境をまたいでドラマは展開する 。多くの西欧諸国が共通して

 抱える様々な社会問題を切れ味鋭く 赤裸々に 描いていく 。

  ドラマの方は見てのお楽しみ 。保養地ではあるが 、寒そな土地 。

  以下は 、ウィキペディア掲載の記事 「 ウーゼドム島 」。

  太陽の島 というより 太陽が恋しい島 。

 ( ´_ゝ`)

  引用はじめ 。

 「 ウーゼドム島( 太陽の島 、 ドイツ語: Usedom [ˈuːzədɔm];

  ポーランド語: Uznam [ˈuznam])はバルト海の島

  ウゼドーム島とも表記する 。

   10世紀頃からスラブ人が定住し 、1000年ころから1945年まで

  ドイツ領( スウェーデンなどの神聖ローマ帝国領邦を含む )

  であった 。三十年戦争当時 、グスタフ・アドルフ王率いるスウ

  ェーデン軍がドイツへ侵攻するために 、ここウーゼドムに上陸

  している 。18世紀になると 、ベルリンなど大都市から程近い

  保養地 として有名になる 。1945年のポツダム会議で 島の東側が

  ポーランドに割譲され 、ドイツ人はポーランド領から追放され

  た 。その後 東ドイツ時代以降 、現在に至るまで 、島の主要な

  産業は観光業 、漁業 、農業 となっている 。

   ウーゼドム島は オーデル川河口のシュチェチン湾の北に位置し

  ている 。島の西側は ドイツのメクレンブルク=フォアポンメル

  ン州の領域である 。島の東側にある シフィノウイシチェ市 は

  1945年からポーランド領になっている 。島の面積は 445 ㎢ で

  ドイツ領が 373 ㎢ 、ポーランド領が 72 ㎢ である 。人口は

  76,500人 で 、そのうち ドイツ領は31,500人で 、ポーランド領

  が 45,000人 である 。

   ウーゼドム島の東側にはヴォリン島がある 。ウーゼドム島と

  ヴォリン島の間は シフィナ海峡( Świna ; もしくは川 )で 、

  シュチェチン湾とバルト海の一部であるポメラニア湾とを結ぶ

  主要なルートである 。ウーゼドム島と本土との間の海峡は ペー

  ネ・シュトローム と呼ばれる 。これはシュチェチン湾の西の端

  へ流れ込むペーネ川の延長である 。

   ウーゼドム島の主な都市は 、ポーランド領の シフィノウイシチェ

  である 。この町の人口は島の残りの部分よりも多い 。ドイツ領で

  最大の町は ドライカイザーベーダー( Dreikaiserbäder )である 。

  島には多くのリゾート施設や海水浴場 、自然保護区がある 。

   ドイツ領には ウーゼドム海浜鉄道 Usedomer Bäderbahn ( UBB ) と

  いうローカル鉄道が運行されている 。UBB は 非電化・単線・標準

  軌で 、気動車が運行している 。その路線は 本土側の ツュッセン

  にある ドイツ鉄道駅から分岐し 、ヴォルガスト で狭い海峡を渡っ

  て ウーゼドム島に入る 。バルト海沿岸に近い ツィノヴイッツ で

  西の ペーネミュンデ に向かう支線が分岐している 。東に向かうと

  海水浴場が点在するバルト海沿岸を通り 、国境を越えて数百メー

  トルのところにある ポーランド側の シフィノウイシチェ・セント

  ラル が終着駅となる 。UBB はドイツ側の路線バスや中長距離バス

  も運営している 。

   ドイツ領の東寄り 、ガルツの近くには エアバス・A320型機クラス

  が発着できる ヘーリングスドルフ空港 があり 、夏の観光シーズン

  に限り 内外主要都市との間で旅客便が就航する 。ペーネミュンデ

  には 旧東ドイツ軍の飛行場もあり 、商業・スポーツ・訓練といっ

  た目的で小型機が利用しているが 、旅客便は設定されていない 。

    この島で 最も有名な場所 は ペーネミュンデ という小さな村であ

  ろう 。ここには 1936年にドイツ陸軍が 、1938年にドイツ空軍が

  開設した 長距離兵器実験場 があった 。本土とは隔絶された島故に

  情報管理が容易で 、秘匿性が高く 、海上に向けて長距離ミサイル

  の発射実験が可能であった 。それまで内陸部で行われていた V1

  飛行爆弾 や V2ロケット などの 新兵器開発がここに移された 。

   ウーゼドム島は また第二次世界大戦中に捕虜の収容所 として使わ

  れていた

   戦後は旧東ドイツに組み込まれた 。1991年には ペーネミュンデ

  歴史技術博物館 が開館し 、V2ロケット のほか 、旧東ドイツ軍や

  旧ソ連軍の軍用機や軍艦などを展示している 。前述の ペーネミュ

  ンデ飛行場 で 、V1発射施設の遺構や 、旧東ドイツ軍が使った掩体

  壕を見学することができる 。

  ペーネミュンデ 

   詳細は「 ペーネミュンデ陸軍兵器実験場 ( ペーネミュンデりくぐん

  へいきじっけんじょう 、ドイツ語 : Heeresversuchsanstalt Peenemünde )

  を参照

   ロケット等の研究が行われていた 。戦後は整備されロケット関係の

  記念館がある 。現在でも往時の建造物が遺されている 。」

   引用おわり 。

   東西 何処の国にも 、負の遺産 、負の歴史 。

   今日 、世界を 、宇宙を飛び交う ロケット の 走り 。

   ヴェルナー・フォン・ブラウン ゆかりの地 。

  。( ´_ゝ`)。

  ( ついでながらの

    筆者註: 「 評 価
          フォン・ブラウンは 第二次世界大戦中は 、ナチス党政権下

         のドイツのために 、V2号ミサイルの製作を指揮し 、ナチス

         党員 、親衛隊少佐でもあった 。

          戦後渡ったアメリカ合衆国では 、その経歴のために様々な

         非難を受けたが 、 『 ナチズムには前から反対だった 』

         『 宇宙に行く為なら悪魔に魂を売り渡してもよいと思った 』

         と弁明した 。

          第二次世界大戦中は 、ドイツ軍の勝利のために 弾道ミサイル

         を開発し 、ドイツの敗戦後には 、第二次世界大戦中にドイツ

         の敵国であったアメリカ合衆国の国家の威信のためにロケット

         を作るという変節は 、両国の評論家よりしばしば非難される 。

          風刺家でシンガーソングライターのトム・レーラーは 『 ヴェ

         ルナー・フォン・ブラウンの歌 』 という曲を作り 、フォン・

         ブラウンのことを 『 忠誠が便宜に支配された男 』( " A man

         whose allegiance is ruled by expedience " )と評している 。

          とはいえ 、人生をロケットの研究にかけ 、ドイツやアメリカ

         のような一部の国家の発展にではなく 、グレートジャーニー

         以来の 生息域の拡大 という 、ホモ・サピエンスという生物種

         すなわち 人類全体の発展に忠義を尽くしたともいえ 、また

         フォン・ブラウンの西側諸国の科学・技術界における貢献は大

         きく 、1962年に エリオット・クレッソン・メダル 、1969年に

         ヴィルヘルム・エクスナー・メダル 、1975年に アメリカ国家

         科学賞 を受賞している 。

          自伝を書いた作家によると 『 宇宙依存症 』 。 

         以上ウィキ情報 。)

 

 

 

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今も昔も Long Good-bye 2023・10・09

2023-10-09 05:44:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

 「 高鴨の地 」の一節 。

 備忘の為 、 抜き書き 。

 引用はじめ 。

 「 わが葛城 ( かつらぎ ) 一言主神 ( ひとことぬしのかみ ) の後裔は 、

  典型的な大和顔である 。長い丸いという分類法でいえば丸顔に属する

  が 、こまかくいえば五角形で 、あごがよく発達し 、えらが出 、ぜん

  たいに ぶ が厚く 、頭髪が強 ( こわ ) い 。

  ( 典型的な大和の顔だ )

   と 、失礼ながら 、一言主神社の神職の伊藤大人 ( うし ) とむかいあい

  ながら 、感嘆するおもいでいた 。死んだ母方の叔父とそっくりで 、ど

  うぞどうぞと茶をすすめられる目尻のこじわのあたりまで似ておられて 、

  懐かしくもあり かなしくもあった 。

  『 このお宮の台地は 、葛城の高丘とか 、高鴨の高丘とか高尾張とかいわれ

  ておりますですね 』

  と 、障子越しに低く見おろす大和盆地を見ながら私はきいた 。

  『 はい 、そのように 』

  いわれております 、という言葉のかわりに 、大人は煎茶の茶碗をすっと私の

  ひざに押してすすめた 。

   『 やはり 、ここが一言主の氏族というか葛城のひとびとの宮殿だったので

  しょうか 』  」

  ( ´_ゝ`)

 「 このあたりは 、高鴨 、高尾張 、高丘などといったふうに 、地形が高い 。

  古代のある時代 、この高燥の地から盆地の天孫族の繁栄をながめて 、

  ―― あの連中にはかなわない 。

   とおもった葛城びともいたであろう 。天孫族はどぶどぶした低湿の泥田

  に入って水稲を植え 、そのあと水はけまでできる技術をもっていて 、ど

  んどん耕地をふやし 、耕地のふえるごとに人口もふえ 、ムラもたくさん

  でき 、人数からいっても葛城のひとびとを圧倒した 。軍事力において

  かけはなれてしまった葛城のひとびとにとって 、誇るべきものは神々だ

  けしかなかった 。かくて葛城びとや鴨族のひとびとは神族たる面をいよ

  いよ誇示せざるをえなかったのであろう 。 」

  ( ´_ゝ`)

 「 ・・・ ここ十年 、あたらしい道路ができると建売り住宅ができ 、結局

  は大和の風景をこわしてしまったように 、最後の大和といっていいあた

  りも飛鳥の惨状に墜ちてゆくことはあきらかである 。すでに建売り屋が

  農家に手を打っているという 。

   私は古くさい左翼理論にはうんざりしているほうだが 、日本の政治と

  いうのは 、結局は無数の利益団体の欲望を調整するだけの機能にすぎ

  ないようである 。逆にいえば 、それだからこそ日本史上最初の活動力

  に富んだ経済社会ができたともいえるが 、しかしその裏目が出てきて 、

  たとえば 大和が大和でなくなってしまった 。日本の建設会社というもの

  は一年も遊んでいれば つぶれてしまうのにちがいなく 、だから絶えず

  道路やダムを生産しつづけねばならない 。建設会社をつぶさないため

  には調整権力としては たえまなく新道路の建設を企画せねばならない

  のであろう

  『 だいぶ考えたのですが 、結局はお国のためだとおもい 、ハンを

   つきました 』

   と 、葛城王朝の末裔ともいえる伊藤さんはいわれた 。古代葛城氏は

  一言主命が雄略天皇に あれほどさからったことでもわかるように いわ

  ば反骨の神さまなのだが 、結局は 大和盆地の新勢力に屈し 、その勢力

  下に入って 、葛城国造 ( かつらぎのくにのみやつこ ) という小さな存在

  になってしまい 、その祖神はいまは村の鎮守になりはてている 。いま

  もう一度 一言主命が奮い立って この道路計画をぶっこわしてくれれば

  大和の一角はかろうじて守れるのだが 、そうはいかないであろう 。

   建設省が 役小角 ( えんの おづぬ ) のごとき魔力をもっているのである 。

   小角が 葛城から吉野まで岩橋をかけようとして一言主命をこきつかい 、

  一言主命がいうことをきかないとなると 葛城の谷底に蹴おとして 石牢

  に封じこめてしまったように 結局は 土着神というのは弱いようである 。

   ついで 、葛城のふもとを南へたどって高鴨神社へゆく 。 」

 引用おわり 。

 今も昔も変わらぬ人の世 。都市は増殖し続ける 。

 (* ̄- ̄)

 ( ついでながらの

  筆者註:「 役 小角( えんの おづぬ / えんの おづの / えんの おつの 、

       舒明天皇6年〈634年〉伝 - 大宝元年6月7日〈701年7月16日〉

       伝)は 、飛鳥時代の呪術者 。役行者( えんのぎょうじゃ )

       役優婆塞( えんのうばそく )などとも呼ばれている 。姓は 君 。

       いくつかの文献では実在の人物とされているが生没年不詳 。

       人物像は後世の伝説も大きく 、前鬼と後鬼を弟子にしたと

       いわれる 。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道

       の霊場でも役小角・役行者を開祖としていたり 、修行の地と

       したという伝承がある 。

       出 自

       役氏( えんうじ )、役君( えん の きみ )は三輪系氏族に

       属する 地祇系氏族 で 、葛城流賀茂氏から出た氏族 である

       ことから 、加茂役君 、賀茂役君( かも の えん の きみ )

       とも呼ばれている 。役民 を管掌した一族であったために 、

       『 役 』の字をもって氏としたという 。

       また 、この氏族は 大和国・河内国 に多く分布していたとされる

      以上ウィキ情報 。  ) 

 

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信長・秀吉・家康 Long Good-bye 2023・10・02

2023-10-02 05:45:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

 「 海の道 」の一節 。

 備忘の為 、 抜き書き 。

 引用はじめ 。

 「 江戸時代 、大坂湾から蝦夷地 ( 北海道 ) へゆくのに太平洋航路は危険で

  あった 。おそらく難所は 、遠州灘 ( 寄港地なし ) と銚子から北のほうの

  鹿島灘 、それに最大の難所は三陸沖 ( 宮城 、岩手 、青森の三県の太平洋

  岸 ) だったであろう 。

   このため『 東まわり 』といわれる太平洋コースよりも 、多くは日本海

  航路がとられた 。大坂湾を中心に考えればここから下関へゆき 、ぐるっ

  と北へまわって日本海岸の港々に寄りつつ奥州へゆき 、蝦夷地へいたる 。

  この航路や船のことを 、

  『 北前船 ( きたまえぶね )

  といった 。前 というのは 、男前 、江戸前といったふうに 、意味のない

  接尾語とみていい 。

   江戸初期には 、北陸の諸港から下関経由で大坂までであったが 、江戸

  時代の経済が充実するにつれてしだいに航路は北へのび 、幕末のすこし

  前には蝦夷地までのびた 。当時の日本では大動脈ともいうべきルートで 、

  この船の発着地はすべて栄えた 。その最大の繁栄をになったのが 、長州

  藩の諸港であった 。長門では下関 、周防では三田尻 ( いまは防府市 ) で

  あろう 。下関などは 、幕末 、

  『 いずれ大坂の繁栄をしのぐだろう 』

   とまでいわれた 。それが 、維新後 、汽船の発達で北前船が衰え 、下関

  も三田尻もさびれる

   話が転ずるが 、幕末 、長州藩の革命資金は 、自前であった 。薩摩は 琉

  球貿易でもうけた金をもって旋盤その他の工作機械をすえた工場をもち 、

  ついには発電所まで作り 、軍艦や輸送船をそろえ 、砲兵を充実するなど 、

  たかが いまの鹿児島と宮崎県の一部をもって 、比率的にいえばヨーロッパ

  諸国よりも ( つまり土地の面積と軍備との比例において ) 充実していたに

  ちがいないが 、長州藩もそれにおとらない 。

   薩摩藩が七十七万石であるに比し 、長州藩はわずか三十六万九千石である

  それ以上の大藩は筑前福岡 ( 黒田家 ) の五十二万石もあるし 、芸洲広島 ( 浅

  野家 ) の四十二万六千石 、仙台 ( 伊達家 ) の六十二万石 、それに徳川御三家 、

  さらには加賀百万石といった大藩が多くあったのに 、なんとかれらは 薄ぼん

  やり ―― 悲劇的なほどに ―― していたことであろう 。 」

  ( ´_ゝ`)

 「 ・・・ 尾張という流通のさかんな土地で成長した信長や秀吉は商人の原理

  と機略をもっていたが 、家康はそういうところがすこしもなく 、あくまで

  も山村の庄屋さんの原理でその生涯を終始した 。信長・秀吉という商人が

  倒産したあと 、庄屋さんが出てきて自分のものにし 、徳川帝国というもの

  を庄屋の原理でつくりあげた 。鎖国も庄屋の原理であり 、四民の階級を法

  制化したのも農民の感覚であり 、家康はそれらを意識的に平定の原理であ

  るとし 、死ぬ前に 、

   ―― 三河のころの制度を変えるな 。

   と遺言し 、それを天下統治の法制的原理として据えこんだのである 。

  その点 、変ったおっさんであった 。世界史的にいえば航海商業時代が第二

  期の隆盛期に入っていたのに 、徳川家一軒をまもるためには 、世界史の潮

  流から日本を孤立せしめ 、ことさらに農民の原理でしばりあげた 。農民の

  嫉妬心を利用し 、相互監視の制度をつくり 、密告を奨励し 、間諜網を張っ

  たという点で 、日本人の性格をそれ以前にくらべてずいぶん矮小化した 。 」

 「 家康は ・・・ 世界史的な動向として航海商業時代がきていることは十分

  知っていた 。かれは堺商人との接触を濃厚にもっていたし 、漂流してきた

  英国人の船長ウィリアム・アダムス ( 三浦按針 ) を召しかかえることによっ

  て海外情勢を理解する基礎を得ようとした 。十分知っていてなおそのこと

  から目をつぶり 、日本を鎌倉期の農業国家にもどしたのである 。家康の武

  将としての理想像は武田信玄であり 、政治家としての理想は源頼朝であった 。

   家康らの前時代である室町期は 、いわば貿易時代であった 。室町将軍みず

  からが商人のようになって対明貿易に熱中し 、その側近衆のなかには京の

  大商人を置いていたし 、また私貿易では九州の武装貿易者 ( 倭寇 ) がはび

  こり 、遠く東南アジアにまで日本人町ができるほどであった 。このまま

  日本が世界の潮流のなかに参加していれば 、江戸期の四畳半文化も成立し

  なかったかわり 、日本人の四畳半精神も成立せずにすんだにちがいない 。

   秀吉は商人の親方であった面がつよい 。かれはその政権の財政的基盤の

  大きな部分を 、堺と博多といったような貿易収入源に置いた 。

   その所領を比較してもわかる 。徳川政権の直轄領は六百万石と言い 、

  八百万石ともいわれているが 、あれほど豊かであった豊臣政権の直轄領

  はわずか二百数十万石にすぎなかったことでもわかる 。秀吉は農村を収

  奪して米穀をもって財政の基盤にするよりも 、海外貿易による儲けの方

  により魅力を感ずる政治家であったことがわかるし 、同時にかれが世界

  史的潮流のなかでの時代の子であったことがわかる 。 」

  引用おわり 。

  「 どうする家康 」( 脚本・古沢良太 ) を BS4K 、BSP 、地上波 、その再放送

  で 、毎回4度見する 。

 

 

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