今日の「 お気に入り 」は 、橋爪大三郎著「 死の講義 」の一節 。
「 神々を祀る神道と 、真理を覚る仏教 。そもそも互いに
なんの関係もなく 、互いに違和感としこりのある関係だ 。
それが平安時代も後半になると 、歩み寄りが始まった 。
唱えられたのが 、本地垂迹 ( ほんじすいじゃく ) 説である 。
インド ( 本地 ) から仏や菩薩がおおぜい 、日本にやっ
てきて ( 垂迹 ) 降り立ち 、神々となった 。だから実
体は同じものだ 、という 。仏・イコール・神である 。
仏典のどこをさがしても 、そんなことは書いてない 。
なんの証拠もない 。だから『 説 』なのだが 、当時
そう思いたい人びとが多かったらしく 、それでいい
ことになってしまった 。 」
「 仏と神を区別するのをやめ 、同じものだと考えるよう
になることを 、神仏習合という 。」
「 仏と神という 、大変性質の異なったものを同一だと考
えると 、仏教が変質する 。通常の仏教で成り立たない
命題が成り立つようになる 。そして神道が変質する 。
通常の神道で成り立たない命題が成り立つようになる 。
死についてもそうである 。たとえば 、日本人は 、
『 人間は死ぬと仏になる 』と思っているひとが多い 。
インドや中国でこういうことを言うと 、笑われる 。
仏教からは絶対 、この命題は出てこない 。真理を覚
れば仏になるので 、それ以外の道はない 。人間の生
き死にと覚りとは 、直接の関係がない 。
なぜこういうことになるのか 。もともと 、人間は
死んだら神になる ( こともある ) 、と日本人は考え
ていたのだろう 。そこに 、神=仏を代入してみる 。
すると 、『 人間は死ぬと仏になる 』になるのである 。」
「 『 人間は死ぬと仏になる 』は 、仏教の正しい考え
方ではない 。 」
「 念仏宗は 、死後に極楽往生することを願う 。念仏宗
の信仰は 、この命題 ( 人間は死ぬと仏になる ) とぴ
ったり合っているような気もしてきたりする 。 」
( 出典:橋爪大三郎著 「 死の講義 - 死んだらどうなるか 、
自分で決めなさい - 」ダイヤモンド社刊 所収 )
この本の まえがき には 、こんなことも書かれていました。
「 死んだらどうなるのか 、死んでみるまでわからない 。それなら 、
死んだらどうなるのかは 、自分が自由に決めてよいのです 。宗教
の数だけ 、人びとの考え方の数だけ 、死んだらどうなるのか 、の
答えがあります 。そのどれにも 、大事な生き方が詰まっています 。
人生の知恵がこめられています 。それは 、これまでを生きた人びと
から 、いまを生きる人びとへのプレゼントです 。これより大きなプ
レゼントがあるでしょうか 。 」
世の中 、〇〇一辺倒でないことは 、ありがたいことです 。
経験上 、 〇〇一辺倒でよかった例 ( ためし ) がありません 。