今日の「 お気に入り 」。
「 『 日本 』は地名であるとお考えの方もあるいはいるかも知れませんが 、これは本来地名ではありません 。
『 日本 』は特定の国の名前として 、ある時点で歴史上にはじめて出現した言葉です 。読み方も十六世紀の頃
に『 にほん 』と『 にっぽん 』の両方あることがわかっており 、どちらが多く用いられたのかは議論の分かれ
るところですが 、ここでは『 にほん 』にしておきます 。『 にほんばし 』と『 にっぽんばし 』があるのです
から 、どちらを使ってもよいと思います 。しかし 、国の名前であるならば 、誰かがいつか何らかの意味を込
めて定めたことになります 。それでは 、この国の名前が決まったのは 、果していつだったのでしょうか 。」
( 中 略 )
「 ・・・ 、驚くべきことに現代の日本人の多くはその答えを知らずに日本に暮らしています 。大学で歴史を
教えていた頃 、毎年 、最初の講義の時に学生に対して『 日本という国の名前が決まったのは何世紀か 』と
いう質問をしてみました 。そうするといつでも 、またどこの大学でも 、答えは紀元前1世紀から始まって
19世紀まで 、ほぼ満遍なく散らばっていました 。やや多かったのは3世紀と答えた学生で 、これは卑弥
呼を意識してのことでしょう 。それから15世紀も多く 、これは足利義満が『 日本国王 』と称したのを念
頭に置いているものと思われます 。ただ正解の7世紀を含めて 、いずれも多数派と言えるほどの数で はなく 、
要するにこの問題に対して 、日本人の認識はきわめてあやふやであると言えます 。
国家公務員の研修に呼ばれて同じ質問をした時も 、結果は似たようなもので、 50人のほとんどが知りま
せんでした 。私が『 外国に行って 、このことを聞かれたらどうするのですか 』と言ったら 、みなさん苦笑
されていましたが 、その席にいたアメリカの国務省の役人に『 ご自分の国の名前が決まった年は 』と聞いた
ところ 、彼は1776年すなわち独立宣言の年を挙げていたと思います 。それが本当にアメリカの国名が決
まった年かどうかは別にしまして 、私はこれは非常に重大な問題だと思っています 。大学で中国人の留学生
に聞くと 、『 1949年 』と即座に答えが返ってきました 。日本人のように 、国名が誕生した時を明確に
答えることができない国民は 、世界でも珍しいのではないでしょうか 。 」
( 中 略 )
「 しかし 、実をいえば 、私自身もある時期まで国の名前が決まった年を 、正確には認識していませんでしたし 、
学生にも全く教えてきませんでした 。また 、それが書いてある教科書も 、最近まで全くなかったと思います 。
最近 、ようやく本文や注にこれについての記述が現れましたが 、やはり一番大きな問題は 、どのレベルの歴史
教育においても 、この点がほとんど教えられてこなかったことだと思います 。」
「 それでは 、日本という国名が決まったのはいつなのかといいますと 、現在の大方の学者の認めるところでは 、
浄御原令 ( きよみはらりょう ) という法令が施行された689年とされています 。浄御原令は天武天皇が編纂を
開始して 、死後その皇后の持統が施行した 、はっきりと存在が確認されている法令です 。その前に近江令があ
ったという説もありますが 、これは整備された形ではできていなかったという説が有力です 。
対外的には 、大宝律令が制定された701年の翌年 、中国大陸に到着した遣唐使の粟田真人が当時の周の皇
帝・則天武后 ( 中国大陸の国家の歴史上 、唯一の女帝で 、国号を唐から周にかえています ) に対して 、『 日本 』
の使いであると述べたのが最初といわれており 、これは 、ほとんどすべての学者が認めています 。それまでは
『 倭王 』 の使いであるといっていたのが 、702年に変わったのです 。つまり 、国名を『 倭 』から『 日本 』
に変えたのですが 、そのことから 、『 日本 』という国号が公式に決まったのはそれ以前ということになり 、
689年の浄御原令施行の時が最も可能性が高いと考えられています 。」
( 出典:網野善彦著 「 歴史を考えるヒント 」新潮選書 ㈱新潮社 刊 )
「 引用 」はここまで 。
網野善彦さんは 、その昔 、筆者が通っていた高校の「 日本史 」の先生 。当時 、
教壇の先生は38歳 、講義を聴いていた筆者は16歳だった筈なんですが、筆者の記憶に先生が授業される
お姿はありません 。
インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」には、網野先生の生い立ちやその生涯が次のように
綴られています 。掲載記事のうち 、「 活動・評価 」や「『 日本 』論について 」の部分は 、長文かつ学術
的で 、「 日本史 」に疎い素人 の筆者には難しく 、ついていけませんので、引用を差し控えます 。
「 網野史観 」と評される程の高名な歴史学者にお成りになっていたとは 、お亡くなりになる迄 存じあげま
せんでした 。
「 網野 善彦(あみの よしひこ、1928年(昭和3年)1月22日 - 2004年(平成16年)2月27日)は、日本の
歴史学者。専攻は中世日本史。
生 涯
江戸時代から続く地主網野家の当主・勝丸の末男として山梨県東八代郡御坂町(現在の笛吹市御坂町)に
生まれる。曾祖父の網野善右衛門は実業家で、山梨中央銀行の前身のひとつである網野銀行の創業者であ
る。
実父の勝丸は甲州市塩山の旧家出身で代議士も務めていた広瀬久政の次男として生まれ、網野家へ養子に
入った人物。久政長男の広瀬久忠は善彦の叔父にあたり、久政も右派政治家で戦前には山梨県初の大臣
(厚生大臣)を務め、戦後には参議院議員となった。久政三男の名取忠彦も戦前は山梨県翼賛会壮士団長
で、戦後は山梨中央銀行の頭取として山梨県政財界で影響力を持っていた人物で、善彦の幼少期にはこう
した右派的政治環境があったことが指摘されている。
幼少期に東京市麻布区桜田町(東京都港区西麻布)へ移住。白金小学校卒業後、1940年(昭和15年)、旧
制東京高等学校尋常科入学。このころの友人に氏家齊一郎や城塚登や増田義郎がいる。 旧制東京高等学校
高等科文科卒業後、1947年(昭和22年)、東京大学文学部国史学科入学。学生時代は石母田正に私淑(網野
善彦著作集より)。またこのころ日本共産党に入党し、山村 ( さんそん ) 工作隊の指揮や階級闘争による国民的歴史学運
動に携わる。民主主義学生同盟副委員長兼組織部長となったが、のち運動から脱落する。
1950年(昭和25年)3月に東京大学文学部国史学科を卒業。同年4月から渋沢敬三が主宰する財団法人日本常
民文化研究所の月島分室に勤務した。
1954年(昭和29年)に水産庁からの予算打ち切りが決まると同研究所を辞し、翌年4月から永原慶二の世話
で東京都立北園高等学校の非常勤講師(日本史)として勤務。同年5月には日本常民文化研究所の同僚だっ
た中沢真知子と結婚する。エンゲージリングが買えないほど貧しかったため、代わりにカーテンリングを
贈ったという。
1956年(昭和31年)6月、正式な教諭となり、日本史の授業以外にも社会科学研究会や部落解放研究会など
の顧問を務める 。勤務の傍ら東京大学史料編纂所に通って古文書を筆写、1966年に『中世荘園の様相』を著す。
1967年(昭和42年)1月に同校を退職し、同年2月に名古屋大学文学部助教授に就任し、名古屋に転居。
1973年(昭和48年)には中世史研究会発足に参加している。
1978年(昭和53年)に『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』が学術書としては異例のヒットを記録。
1979年(昭和54年)、神奈川大学が日本常民文化研究所を招致することが決まり、名古屋大学を辞任し、
1980年(昭和55年)10月に神奈川大学短期大学部教授に就任。1993年(平成5年)4月に神奈川大学大学院
歴史民俗資料学研究科を開設し、1995年から同大学経済学部特任教授となり、1998年(平成10年)3月に
定年退職。
2000年(平成12年)2月に宮田登の葬儀委員長を務めるが、その翌月に自身が肺癌だと分かり闘病生活に入る。
2004年(平成16年)、東京都内の病院にて死去。享年76。死去時には、ル・モンド紙にも記事が掲載された。
遺骸は本人の遺志によって献体された。 」
上記のご経歴から、1967年1月には都立北園高校を退職され、同年2月名古屋大学文学部助教授に転じら
れていたことを知ると共に 、筆者が北園高校に在籍していた 1963年4月から1966年3月までの3年間 、
網野先生が 「 日本史 」の授業以外に「 社会科学研究会 ( 社研 ) 」や「 部落解放研究会 」などの顧問を務めて
おられたことも知りました 。半世紀以上も前のことで 、網野先生の講義の内容や授業の雰囲気について全く記
憶にありません 。そう言えば 、高校時代 、家でとってた 「 朝日新聞 」読んだことなかったなあ 、・・・
「 天声人語 」も 。昔から「 意識低い系 」の筆者です 。
ふとした出会いが人生を分ける 。会わなくてよかった 。
ついでながら 、網野先生の高校時代からの友人 、城塚登さんは 、筆者の高校時代の「 漢文 」の先生 。
東大助教授の傍ら 、都立高校の講師バイトをなさっていたよう 。
偏屈そうな雰囲気の先生でした 。この方には 会えてよかった 。
「 中国語 」の講師をされていた 菊地昌典さん も 網野さん 、城塚さん つながり のよう 。
履歴書から消しておられる 不遇時代 。
ウソのようなホントの話 。