今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「父の影、子の影」より。
「戦後すぐに急死した父のことを、私が何かにつけ思い出すようになったのは、私が父の死の歳、つまり五十をいくつか過ぎたころからだったと思う。それまでの三十数年間は、こうして書くことはもちろん、誰かに父の話をするということさえほとんどなかった。別に父が恥ずかしい人だったわけではない。あるいは父と私の間に、思い出したくない嫌なことがあったわけでもない。ただ、晩年の父に私は息子として優しくなかったのではないかという、曖昧な気持ちの負い目が、その間、私の中にわだかまりつづけていたように思うのだ。それは、いまさらどうしようもないことだけに、水を吸った砂袋のように、私にとって憂鬱で重い荷物だった。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
「戦後すぐに急死した父のことを、私が何かにつけ思い出すようになったのは、私が父の死の歳、つまり五十をいくつか過ぎたころからだったと思う。それまでの三十数年間は、こうして書くことはもちろん、誰かに父の話をするということさえほとんどなかった。別に父が恥ずかしい人だったわけではない。あるいは父と私の間に、思い出したくない嫌なことがあったわけでもない。ただ、晩年の父に私は息子として優しくなかったのではないかという、曖昧な気持ちの負い目が、その間、私の中にわだかまりつづけていたように思うのだ。それは、いまさらどうしようもないことだけに、水を吸った砂袋のように、私にとって憂鬱で重い荷物だった。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)