「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・08・20

2013-08-20 12:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「家のあちこちにあった薄明り」より。

「 天井に 朱(あか)きいろいで
    戸の隙(すき)を 洩れ入る光、
  鄙(ひな)びたる 軍楽(ぐんがく)の憶(おも)ひ
    手にてなす なにごともなし。

 これは、中也の『朝の歌』の第一節であるが、私が、毎年テレビドラマの中で撮りたいと思っている情景を、詩はたった四行で言いつくしてしまっている。しかし、私がなんとか絵にしたいのは、こういった薄明りの憂鬱でもあるが、薄明りの愉しみでもある。あそこには、ちょっと被虐的ではあったが、眠くなるような悦楽もあった。やわらかな微光に染められ、もどかしいくらい、ゆっくりとたゆたう、微睡(まどろみ)の奥底にこそ、私のふるさとがある。
 私は、ずいぶん長いこと、この薄明りのことを、薄闇と勘違いしていたようである。あのころの家のあそこに、ここに、遠慮がちに佇(たたず)んでいたのを、薄闇だと思っていた。そして、それを恋しい、懐かしいと呟きつづけてきたのだが、闇がふるさとであるはずがない。目をつむって思い出してみれば、私たちは、仄かな光の中で夢を見、夢を見失い、思い直してまた次の夢を育ててきた。たとえば小雪の窓――顔を洗いにいった台所の、すりガラスの向うに、重く靄(もや)りながら動く影は、朝の雪だった。明るくもなく、暗くもなく、過ぎ去った時のようでもあり、まだ見えない明日のようでもあり、――詩人たちが歌ったのは、あの、ほんの束の間の夢だったのだ。
 そしてたとえば、日が落ちる少し前の仏壇のつつましい輝き――閉め忘れた観音開きの扉の中の、鉦(かね)や蠟燭(ろうそく)立てが、薄赤い残光に揺れるのを見て、五歳の私は、仏様の前に陽炎(かげろう)が立っていると思った。仏壇の中の死者たちは、こんな赤い日暮れどき、ふと蘇るのだろうか。私は、その薄明りの中に、物言わぬ命を、たしかに見た。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)


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