「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・08・27

2013-08-27 06:45:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「春峰の富岳図」より。

「小学生のころ、住んでいた家に風呂がなくて、毎日近くの銭湯へ行っていたことがある。戦後ようやく一、二年、いまのようにお湯の浄化装置などないから、早い時間に行かないと、どぶ水のようになってしまう。格別きれい好きだった覚えもないが、そのころ私は、お湯が開いてすぐの四時ごろに行くのがいつの間にか習慣になっていた。そんな時間に入りにくる子供はまずいない。たいていは暇で長湯の老人たちである。私はそんな連中といっしょに頭に手拭いをのせ、毎日そればかり唸っている禿の老人の『壺坂霊験記』を聴きながら、のんびりとお湯に浸っているのが嫌いではなかった。さてそろそろ上がろうかと、湯槽(ゆぶね)の縁(ふち)に頭をのせたまま目を開くと、見慣れた富士山のペンキ絵が眼前いっぱいに広がって見える。あのころの風呂屋ならどこにでもあった美保の松原越しの霊峰富士の図である。それにしても、いやに精密で実写的な絵だった。砂の一粒一粒、松の一葉一葉まで描きこんであるように私には見えた。その絵の中に、一ヶ所、なんとも気になるものがあった。よく見ると絵の右端あたり、背のさして高くない松の根本に痩せた老人が一人、旅支度の足を投げ出して、縞模様の風呂敷に包んだ大きな荷物に凭れているのである。長旅の途中、あまり景色がいいので一服という風情なのだろうが、不思議なのはこの老人、絵の左上、肝腎の富士を見ていないのである。それならどこを見ているかと言うと、どこも見ていないので困ってしまう。ぼんやり、ただ中空に目をやっているのである。見様によってそう見えるというのではない。精密なだけに、確かに何も見ていないのがわかる。玲瓏富士を前にして、富士を見ていない、あんな面妖な絵を、私は今日まで見たことがない。」

「作者の名前は春峰(しゅんぽう)、絵の左下に達者な署名と、花押らしいものまで、もっともらしく書いてあった。」

「恐らく、若いころ絵を志し、何かに躓いて落魄し、ほんの戦後の短い間だけ、焦土に建ちはじめた風呂屋の壁に描く場を与えられたのだろう。その後、筆を折ったか野垂れ死にしたか知らないが、私は春峰の富岳図を老人たちといっしょに首までお湯に浸かりながら、湯煙の向うに毎日眺めていた。あれから五十年近く経って、いま考えるのだが、あれが私が人生の不思議を見たはじめではなかったろうか。あるいは、人生の不思議とは、あのペンキの絵の中の老人の、何も見ていない目に尽きるのではなかろうか。目覚めの早くなったこのごろ、白みはじめた窓の障子に、あの老人の姿がぼんやり浮かんで見えることがある。老人は中空からゆっくりと私の方へ目を移し、唇の端をちょっと歪めて皮肉に笑ってみせる。そして、白い暁の光の中に溶けこむように消えて行く。私には、そんな風に思えてならない。」


(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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