「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・08・16

2013-08-16 14:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「五歳で漱石をそらんじる」より。

「毎日の新聞の字について親に訊ねれば、機嫌よくみんな教えてくれた。菊池寛の『真珠夫人』の字を訊いたりしようものなら、真っ赤になって怒った父も、新聞は正義だと思っていたのだろう。どんな字だって読んでくれたし、その意味や用例まで教えてくれた。あのころの新聞で面白かったのは、一面に出てくる国名や地名、都市名の漢字表記だった。独逸や仏蘭西はどんな子供だって読めた。西班牙(スペイン)に埃及(エジプト)、葡萄牙(ポルトガル)に丁抹(デンマーク)、土耳古(トルコ)に西蔵(チベット)に白耳義(ベルギー)、波蘭(ポーランド)、洪牙利(ハンガリー)、希臘(ギリシャ)……。都市なら、伯林(ベルリン)、倫敦(ロンドン)、紐育(ニューヨーク)。華府(ワシントン)、桑港(サンフランシスコ)……。私はこれが面白くて、小さな手帳で辞書を作ったのを憶えている。中でも維納(ウィーン)という字が好きだった。そのころ街に貼ってあった外国映画のポスターに、〈維納〉という字があったのである。それはディートリッヒの『間諜X27』という映画で、ポスターの左上に、殺(そ)いだような頬に柳のような眉、不吉な宝石みたいな目にやわらかなブロンドの髪、小さな頭に羽をあしらった銀の帽子をかぶった冷たい女の横顔が描いてあった。こんな綺麗な女の人がいる維納という町へ、私は行ってみたいと激しく思った。だから私にとっては、いまでもヴィリ・フォルストの名画は『たそがれの維納』であり、メッテルニヒが暗躍したのは〈維納会議〉でなければならないのだ。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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